この論文は、「法と民主主義」の2010年2・3月合併号に掲載したものです。
◎内閣法制局の憲法九条解釈のなし崩し的解体が狙い
―内閣法制局長官の国会答弁を禁止する国会法改正問題―
鳩山連立政権の与党、民主、社民、国民新党の三党は、「政治主導」の名の下に自民党政権ですらやらなかった「立憲主義」の破壊につながりかねない国会法改正案の今国会提出を準備している。国会法第69条第2項を改正し、内閣総理大臣の法制指南役である内閣法制局長官を政府特別補佐人から除こうとしている。同改正案を事実上主導する民主党の小沢一郎幹事長の狙いは、政府部内の憲法の最高有権解釈権者として振舞ってきた内閣法制局長官を国会審議の答弁者から除外することで、内閣法制局が事実上担ってきた「憲法第9条解釈をなし崩し的に解体させることだ」(国会関係者)との見方が広がっている。
内閣法制局の憲法9条解釈は約半世紀の国会論戦を経て構築され、国民の大半から支持されている。国民から選ばれた国会議員が内閣を組織し、憲法解釈についても内閣が最終的な責任を負うことになるのだから、内閣法制局の憲法9条解釈についても変更できるのは当然だ、と考えているのなら、これまでの会議録に残された国会論議は全く意味を失い、議会制民主主義は「独善的民主主義」に堕して行く。民主党など三党連立政権が実現しようとしている国会法改正は国会審議を活性化するどころか、法案審議の形骸化と議会制民主主義の否定につながりかねない危ういものだ。
▼ 内閣法制局長官は意見聴取会へ
民主党などがまとめた「国会審議の活性化のための国会法等の一部改正」(骨子案)によると、政治家同士による国会審議を活性化し、政治主導の政策決定のプロセスを分かりやすくするために①国会法第62条第2項を一部改正し、「政府特別補佐人」から内閣法制局長官を除く②衆議院規則第45条の3、参議院規則第42条の3を一部改正し、政府参考人制度を廃止する③委員会が、審査又は調査のため、参考人[行政機関の職員(内閣法制局長官を含む)、学識経験者、利害関係者等]から意見を聴取しようとするときは、意見聴取会を開き、これを行うこと――というものだ。
民主党は具体的な運用策について①大臣、副大臣、大臣政務官の政務三役が各委員会での法案審議の答弁者になる②行政運営の実情、法令の運用状況、官僚自身の不祥事などの追及は意見聴取会を開き、行政公務員を呼び、実施する③内閣法制局長官の憲法解釈についても意見聴取会で聞くことができる④意見聴取会の開催については理事会で協議し、決める――と説明する。
これに対して、社民党は「政策決定の過程については政務三役との間の議論だけでは深まらない。委員会とは別個に意見聴取会を開いて
ここで行政府の職員から聞く、という方法は技術的に難しく、使い勝手が悪い」「少数会派は理事会のメンバーになれない。意見聴取会の開催を希望しても訴える方途がない。委員一人でも開催要求できると衆参両院の議院規則に書いてほしい」「内閣法制局長官の答弁を禁止することで、これまで内閣法制局が違憲であると解釈してきたもの(自衛隊の集団的自衛権行使や、国連安保理決議がある場合の自衛隊の武力行使など)について、時の政権の意向次第で憲法解釈を容易に変更できる状態をつくりだしかねない」などの懸念を表明。
民主党側は①午前中は委員会で政務三役に対する法案審議を行い、午後は意見聴取会で行政公務員から意見を聞く、というやり方がある②少数会派も理事会のオブザーバーとして出席し、意見聴取会の開催を要求できるような方法を考えたい③内閣法制局の機能を弱めようとは考えていない。内閣法制局の憲法解釈を変えるために内閣法制局長官を政府特別補佐人から除外するものではない。内閣法制局は内閣の一機関であり、内閣から独立性の高い人事院総裁などとは明らかに性格を異にするから除外する――と述べ、理解を求めている。
▼小沢民主党幹事長の邪な気持ち
しかし、民主党主導の国会改革が「国会審議の活性化」につながる、と素直に受け止める人は永田町や霞が関には少ない。それは国会法改正推進論者の小沢一郎・民主党幹事長の邪な気持ちが透けて見えてくるからだ。
国会法69条の2は「内閣は、国会において内閣総理大臣その他の国務大臣を補佐するため、両議院の議長の承認を得て、人事院総裁、内閣法制局長官、公正取引委員会委員長及び公害等調整委員会委員長を政府特別補佐人として議院の会議又は委員会に出席させることができる」と規定している。つまり、政府の権能として内閣法制局長官を特別補佐人として出席させ、答弁させることができるとしている。
内閣総理大臣には憲法やその他の法律解釈でうまく説明できないことがあることから、内閣側の権利として内閣法制局長官を政府特別補佐人として69条2項に規定したのであり、政権、与党になった民主党がこの権能を放棄するのは一般常識に反する行為であり、民主党の主張は論理的な筋道が立たない。
鳩山政権が内閣法制局長官の予算委員会出席を必要としない、と判断したら、委員長に通告すれば良い、だけの話だ。
政府が人事院総裁や内閣法制局長官、公正取引委員会委員長らを政府特別補佐人として議院の会議又は委員会に出席させることができる、としたのは、例えば人事院は独立性が強く、しかも専門性の強い役所であり、 内閣の閣僚にはこうした問題について答弁できる人がいないから、人事院総裁の説明で満足してほしい、あるいは憲法問題や民法や商法などの法律問題についても閣僚に対して極めて専門的、特殊な質問をぶつけられても正確で十分な説明ができないから内閣法制局長官の説明で満足してほしい、ということで政府特別補佐人制度は出来上がっている。
政府特別補佐人から内閣法制局長官を排除して、内閣総理大臣と閣僚の答弁で政府としての責任を果たすことができるか。法律的に議論することは、口で言うほど簡単ではない。例えば、在日外国人に地方参政権を付与する問題でも、地方参政権を認めるが、国政参政権は認められない、というのは合理的差別と言えるのかという問題がある。法律的にギリギリ攻められたとき、内閣総理大臣や関係閣僚だけで対応できるのか。困るのは内閣であって野党ではない。内閣法制局長官が首相に耳打ちして、あるいは首相の代わりに答弁して初めて審議を軌道に乗せることができる。内閣の法律顧問がいない状況で法律問題に関する追及をしのげる政治家は恐らく一人もいないだろう。
「そんなことが分からないのか。分からないで済ませることはできない」と言って質問者が審議をストップさせたら、政権与党も審議を強行することはできないだろう。質問内容はすべて事前に書面で出せと、言えば書面審議となり、国会論戦とは言えなくなる。
こうした混乱を見越した上でのことかどうか分からない。が、小沢氏が燃やす国会法改正への執念は相当強い。それは、これまで憲法9条解釈をめぐる国会論議の中で事実上の主役を演じてきた内閣法制局長官の出番を失わせることで、憲法9条解釈を民主党主導の内閣が行い、内閣法制局の憲法9条解釈では「派遣することはできない」としてきた「小沢氏の持論である国連決議に基づく多国籍軍への自衛隊の派遣を実現させたいからだ」との見方が永田町では一般的だ。
小沢氏がこうした思いに駆られる背景を推量する材料として的外れとは言えない質疑が1997年10月13日の衆院予算委で橋本龍太郎首相との間で行われている。当時、自由党党首の小沢氏は日米防衛協力のための指針(ガイドライン)が見直され、同年9月23日の日米安全保障協議委員会でまとめられた新ガイドラインに盛り込まれた合意事項の中で「米軍の武力行使と一体化しない自衛隊の後方支援」について質問。これに対する橋本首相の答弁と、それを補足した大森政輔・内閣法制局長官とのやりとりは次のようなものだ。
橋本首相が「新たなガイドラインの策定に際し、日本の周辺事態というものを議論していきます中におきまして、戦闘と、あるいは戦闘地域と一体化をしない後方支援のあり方はあり得るのかあり得ないのかという議論をいたしまして、あり得ると、そしてそういう場合においての協力のあり方というものも論議をいたしましたと、私は正確に申し上げたつもりでありました」と答弁したのをとらえて小沢氏は「旧来の(憲法9条)解釈は変わったのですね」と次のように追及。
小沢氏「今の答弁は、新しいガイドラインの協議の経過を通じながら、言葉は別といたしまして、そういった一体化のものとそれ以外の範囲の後方支援があるというふうに総理がお話しなさったので、それは単に、先ほど言ったように、条約でもなければ何でもないそのガイドラインの中でやったんだからということでは済まされない大事な問題点だと私は思うのです。
内閣として政府としてそういう見解である、橋本総理がそうだと言えばそうなんですから、私はそれならばそれで理解いたしますが、それは旧来の解釈とは変わった、拡大したといいますか、変更ではないでしょうかということを申し上げているのです」
▼政府の憲法解釈は変わっていない
この後、松永光委員長の指名を受けて答弁に立った大森内閣法制局長官は「政府の憲法解釈は全く変わっていない」と次のように説明。
「我が国としては、最高法規である憲法に反しない範囲内におきまして、憲法九十八条第二項に従い国連憲章上の責務を果たしていくということになるわけでございますが、ただ、もとより、集団的安全保障に係る措置のうち、憲法第九条によって禁じられている武力の行使または武力による威嚇に当たるような行為については、我が国としてこれを行うことは許されないということは、つとに見解を申し述べてきたとおりでございます。
そこで、次に、一体化論との関係でございますが、一体化論と申しますのは、要するに、他国の軍隊に対する補給、輸送あるいは医療等、それ自体はみずから武力を行わない行動につきまして、それが憲法九条との関係で許されない行為に当たるのかどうかということに関する理論でございます。これは、要するに、他国軍隊による武力の行使等と一体となるような行動としてこれを行うかどうかということによって判断すべきである。これは、いわゆる湾岸危機、湾岸戦争のときにも政府は一貫して当時の法制局長官等から説明いたしたところでございまして、その後も何ら見解に相違はございません。そこで、この一体化の理論と申しますのは、要するに、仮にみずからは武力行使を行わなくとも、他者が行う武力の行使等への関与の密接性から、我が国も武力の行使との評価を受ける場合があり得る、そういう場合に関する法的評価に関する法理の一適用でございます。今回のガイドラインとの関係でございますが、要するに、周辺事態において実施される米軍に対する後方支援と申しますのは、戦闘地域と一線を画する場所において、我が国が米軍のために、補給、輸送、整備、医療、警備、通信、その他、それ自体としては武力の行使に該当しない行動を行うというものでございますので、基本的には米軍の戦闘行動に対して一体化は生じないというふうに考えているわけでございます」
小沢氏「今、法制局長官もおっしゃいましたが、武力の行使と一体となる行為、かつては、そのほとんどのものがそれに含まれるということで、許されないということになりました。今は、新ガイドラインの協議の経過を通じてかどうか知りませんけれども、先ほどの答弁では、一体とはならないそのほかの範疇の後方支援というのが存在するんだということ。まさに、湾岸のときに総理の個人的意見が政府に入れられなかったわけですけれども、今日、内閣総理大臣としての発言、そして法制局長官としての発言、それはまさに旧来の政府解釈を変えた、そういうことではないでしょうかと申し上げているのです」
大森内閣法制局長官「ただいまのお尋ねは、湾岸戦争のときと、最近のいわゆるガイドラインの検討に際してと、一体化論に関する見解が変更されたのではないかというお尋ねであろうと思いますが、私どもの基本的な考え方は何ら変わっておらないということでございます」
小沢氏「憲法の範囲内というのは一体どこまでなんだということ自体がまさに問題なんですよ。みんな憲法の範囲内でやるんですよ、範囲外でできっこないんですよ。ただ、あなたの思う憲法の範囲内と私が判断する範囲内が違うというだけなんですよ。そして今、お役所としてはちょっと僣越だと思うのですが、それは、何ら政府は変わっておりません、こういう話ですね。だが、それはちょっと僣越でありましてね」
小沢氏は自衛隊の活用策をめぐり橋本首相からせっかく“前向き”な答弁を引き出したと思ったのに、大森内閣法制局長官から否定され、メンツがつぶされたと思ったのだろう。その後、自由党は内閣法制局廃止法案を国会に提出。同法案は審議未了、廃案となっている。
内閣法制局長官は憲法9条解釈に関する政府部内の最高有権解釈権者として振舞っているが、その法的根拠は内閣法制局設置法にある。私が「戦後政治にゆれた憲法九条」を書くに当たり、高辻正己・元内閣法制局長官に内閣法制局の仕事について取材したとき、高辻氏は次のように答えた。
「内閣法制局の職掌は、大きく分けて二つある。その一つは、『閣議に附される法律案、政令案及び条約案を審査し、これに意見を附し、及び所要の修正を加えて閣議に上申すること』(内閣法制局設置法第3条第1号)であり、他の一つは『法律問題に関し内閣並びに内閣総理大臣及び各省大臣に対し意見を述べること』(同法第3条第3号)である。
そのいずれについても、内閣法制局は内閣をはじめ内閣総理大臣や各省大臣を直接の相手方とする機能を営む内閣の幕僚機関であって、その使命は、行政権の属する内閣なり、その統括下にある各省庁が行政権を行使するに当たって、法律的過誤をおかすことなく、その施策を円満に遂行することができるようにするという、その一点にある。この一点について内閣法制局は、内閣の指揮監督権に服することはあり得ない。内閣が『法律的な過誤をおかす』ということについて最も意を用いなければならない点は、行政権を憲法その他、法の支配に置き、その行使が『法による統治』を全うして行われるようにすることである」
内閣法制局設置法第3条第3号に規定された「意見具申権」は、法的な権限規定ではない。しかし、井出嘉憲・東大名誉教授は「内閣法制局の意見が退けられ、他の意見が採用されることはない。つまり意見には法的拘束力の上位にある政治的拘束力がある。また憲法解釈についても、内閣法制局の見解が行政府の有権的解釈とする、ということが前提でこの仕組みが成立している」と説く。(「戦後政治にゆれた憲法九条」第三版の32頁)
内閣法制局は内閣提出の法律案や条約案の「下審査」の段階から作成に深く関与し、担当の参事官は法律問題について積極的に意見を述べている。「下審査」について、「立法学講義」(大森政輔、鎌田薫編)の中で、山本庸幸・内閣法制局第一部長の「内閣立法の企画立案」は次のように説明する。
「内閣法制局の審査は各省庁の大臣の閣議請議後に行うのが建前であるが、それではいたずらに時日を要したり、あるいは原案の変更が容易に予想されるので実際的ではない。そこで、事前に内閣法制局が予備的な審査を行い、それがおよそ固まったところで各省庁の大臣による閣議請議がなされ、本番となる実際の閣議請議後の審査は形式的に近い形で済ませるという慣行が成立している」
それ故、通常「審査」と言われるものは、いわゆる「下審査」又は「予備審査」を言うとしている。
各省庁の担当課長が内閣法制局に対して法律案や条約案の「下審査」を要請したとき、これらの課長が憲法上、または他の関連法律との関係で問題となりそうな個所について内閣法制局参事官の法解釈を求め、それを政府の有権解釈とすることについて他の省庁も「了」として初めて閣議請議案になるが、閣議請議案には内閣法制局長官が印を押さないと閣議に附すことはできない、という厳格な決まりがある。
内閣法制局の法律上の意見の開陳は、国会議員から提出された質問主意書に対する答弁書作成などのほか、かつては政府委員として、現在は政府特別補佐人として内閣法制局長官が国会の審議の中で、法律問題に関し意見を述べるときも、内閣法制局設置法第3条第3号に規定された「事務の延長線上のもの」(大森政輔・元内閣法制局長官の著書「二〇世紀末期の霞ヶ関・永田町」)として行われてきている。
つまり内閣法制局は国民に対する権限は持っていないが、政府部内で法律問題の意見具申権や憲法の最高有権解釈権者としての役割を果たすことで、事実上の官庁として機能しているのが実態だ。
自民、社会の二大政党が表向きイデオロギーで対決をする55年体制下で、護憲・革新を自認する社会党は内閣法制局の憲法9条解釈を「解釈改憲」と批判、内閣法制局長官を政府の御用法律学者呼ばわりしていた。(例えば、昭和42年3月28日の衆院予算委で社会党の猪俣浩三氏)
猪俣氏は同委で佐藤栄作首相と論戦を挑んだ際、「私は、法制局長官からの答弁はなるべく差し控えていただきたい。いまここで憲法論争をいわゆる専門的にやろうというのじゃない。総理大臣の心がまえを聞いている。だから、あなたがその所信を述べていただきたい」などとけん制したが、自衛権の本質や自衛力の限界、自衛戦争や侵略戦争の違いなどに論議が及ぶと、高辻正己・内閣法制局長官が「非常に専門的なことでございますので、まず私から答弁させていただきたいと思います」と言って、政府の憲法9条をめぐる有権解釈を述べるのが普通の光景だった。
▼法治国家の法解釈は国家機関が
高辻氏と論議を戦わせた猪俣氏は佐藤首相に対して、政府の自衛隊合憲論に関する公法学者や法曹界のアンケート調査結果では8割を超える人が「自衛隊は憲法違反」だと見ている、として見解を求めた。
これに対して、佐藤首相は「私は、いまの実情をよく知りません。知りませんが、私は、法の解釈というものは、やはり日本では法治国家のもとに一つの権威のある判定の方法がございます。その方法によってきまるのでございまして、ただいまこういう説が、一部で調べると非常にパーセンテージが高い、だからこの説に従え、こういうわけにはいかない。やはり法治国家では、こういう問題をきめるそれぞれの機関がございます。それによって意見をきめるべきだ、かように思います」と述べている。
佐藤首相は行政府の長として、政府部内では憲法の最高有権解釈権者である内閣法制局の見解に従うことが法治国家として当然だ、と考えていた。吉田茂首相を原点とする自民党の保守本流勢力は、内閣法制局と最高裁判所との間で阿吽の呼吸のようにして行われてきた、憲法9条をめぐる高度な政治問題に関する憲法解釈は内閣法制局に委ね、それ以外の人権問題や経済問題などをめぐる憲法解釈は最高裁が最高有権解釈権者として振舞う、という分業体制を支持し、それを守ってきたように思える。(この点については「戦後政治にゆれた憲法九条」第三版の第七章「統治行為論の実質を担う――内閣法制局の仕事の核心」を参照してほしい)
自民党の保守本流は内閣法制局による自衛隊合憲論と最高裁判所による日米安保条約に関する「統治行為論」により、米国の核抑止力と軽武装による専守防衛という安全保障の形を守ってきたが、法治国家としての体系を整えてきた内閣法制局に対する信頼がその基礎にあった。吉田茂首相が法制局への信頼感を強めたのは、憲法制定国会における憲法担当の金森徳次郎国務大臣(元法制局長官)の見事な答弁とそれを支えた佐藤達夫・法制局第一部長の大活躍だと推量される。金森大臣は新憲法に関する問題点について、宮沢俊義東大教授、高柳賢三東大教授ら並みいる論客と渡り合い、答弁回数は800回を超えたといわれるが、佐藤達夫氏によれば、ほとんど答弁資料を見ることなく、法律用語を的確に使いながら格調高い言葉で答弁している。
吉田茂首相の金森氏に対する信頼感は相当なもので、吉田内閣は憲法制定国会での金森氏の功労に報いるため、同氏を初代の国立国会図書館長に任命し、給与についても国務大臣と同等とすることを国立国会図書館法第4条第2号で規定した。
“吉田学校”優等生による内閣法制局に対する信頼関係は佐藤首相と高辻正己氏、田中角栄首相と吉国一郎氏、最近では橋本龍太郎首相と大森政輔氏へとつながっている。内閣法制局長官は政府部内における“憲法の番人”として振舞まっているが、その地位は制度的には保障されていない。内閣法制局長官は首相の法制指南役として予算委などで首相になり代わって答弁することで、政府の有権解釈権者とみなされてきたが、意見聴取会で意見を求められ、答弁しても、それは単なる長官の見解に過ぎない、との評価に変わる可能性が高い。
例えば、集団的自衛権に関する憲法解釈をめぐる問題が起こった時、首相が予算委員会などで、「私は集団的自衛権の中に一部容認できるものがあると考える」と言えば、質問者は当然、意見聴取会でこれに関する内閣法制局長官の見解を求めるのが普通だ。内閣法制局長官が「憲法九条が認めているのは個別的自衛権の行使だけであり、集団的自衛権の行使は容認されない」という従来からの解釈態度を変えないとき、事態はどうなるのか。
質問者は委員会で首相に対して、「首相と内閣法制局長官の見解は異なる。内閣の見解は一体何か」と追及することが予想されるが、首相は「私の見解が内閣の見解だ」言った時、国の内外は騒然となるだろう。 このような首相の見解について、首相自身が法的な観点から完璧に理論武装して国会を乗り切れるとは思わないが、内閣法制局長官は首相の見解と異なる内閣法制局の見解を引っ込めることもできないことから辞表を提出する事態に発展するだろう。内閣法制局は人事院や会計検査院のように法的に政府からの独立が保障された官庁でないことから、憲法9条の有権解釈権者として振舞えるのも政府部内で皆がそうみなすことを前提とした制度に過ぎない。それ故、“独裁者”のような政治リーダーから「内閣法制局も単なる官僚組織である。内閣の方針に従わないなら長官は辞表を書け」と言われれば、内閣法制局は防御の方法がない。戦後の統治システムの中で大きな役割を演じている内閣法制局も弱点を抱えている。国会法改正問題と言えば、国会に直接かかわる人たちの問題ように聞こえるが、国民の平和や安全に及ぶときもあることを認識すべきだ。
著者略歴
中村 明(なかむら・あきら)
1945年9月生まれ。東京都立小山台高校、一橋大学社会学部卒業。1970年4月、共同通信社に入り、政治部。宇都宮支局長を経て、編集委員兼論説委員。2002年9月退職。著書に「戦後政治にゆれた憲法九条」(1996年、「第2版」2001年、)「象徴天皇制は誰がつくったか」(2003年)(いずれも中央経済社)「技癢の民」(2007年)「戦後政治にゆれた憲法九条第3版」(2009年)(いずれも西海出版社)。
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◎内閣法制局の憲法九条解釈のなし崩し的解体が狙い
―内閣法制局長官の国会答弁を禁止する国会法改正問題―
鳩山連立政権の与党、民主、社民、国民新党の三党は、「政治主導」の名の下に自民党政権ですらやらなかった「立憲主義」の破壊につながりかねない国会法改正案の今国会提出を準備している。国会法第69条第2項を改正し、内閣総理大臣の法制指南役である内閣法制局長官を政府特別補佐人から除こうとしている。同改正案を事実上主導する民主党の小沢一郎幹事長の狙いは、政府部内の憲法の最高有権解釈権者として振舞ってきた内閣法制局長官を国会審議の答弁者から除外することで、内閣法制局が事実上担ってきた「憲法第9条解釈をなし崩し的に解体させることだ」(国会関係者)との見方が広がっている。
内閣法制局の憲法9条解釈は約半世紀の国会論戦を経て構築され、国民の大半から支持されている。国民から選ばれた国会議員が内閣を組織し、憲法解釈についても内閣が最終的な責任を負うことになるのだから、内閣法制局の憲法9条解釈についても変更できるのは当然だ、と考えているのなら、これまでの会議録に残された国会論議は全く意味を失い、議会制民主主義は「独善的民主主義」に堕して行く。民主党など三党連立政権が実現しようとしている国会法改正は国会審議を活性化するどころか、法案審議の形骸化と議会制民主主義の否定につながりかねない危ういものだ。
▼ 内閣法制局長官は意見聴取会へ
民主党などがまとめた「国会審議の活性化のための国会法等の一部改正」(骨子案)によると、政治家同士による国会審議を活性化し、政治主導の政策決定のプロセスを分かりやすくするために①国会法第62条第2項を一部改正し、「政府特別補佐人」から内閣法制局長官を除く②衆議院規則第45条の3、参議院規則第42条の3を一部改正し、政府参考人制度を廃止する③委員会が、審査又は調査のため、参考人[行政機関の職員(内閣法制局長官を含む)、学識経験者、利害関係者等]から意見を聴取しようとするときは、意見聴取会を開き、これを行うこと――というものだ。
民主党は具体的な運用策について①大臣、副大臣、大臣政務官の政務三役が各委員会での法案審議の答弁者になる②行政運営の実情、法令の運用状況、官僚自身の不祥事などの追及は意見聴取会を開き、行政公務員を呼び、実施する③内閣法制局長官の憲法解釈についても意見聴取会で聞くことができる④意見聴取会の開催については理事会で協議し、決める――と説明する。
これに対して、社民党は「政策決定の過程については政務三役との間の議論だけでは深まらない。委員会とは別個に意見聴取会を開いて
ここで行政府の職員から聞く、という方法は技術的に難しく、使い勝手が悪い」「少数会派は理事会のメンバーになれない。意見聴取会の開催を希望しても訴える方途がない。委員一人でも開催要求できると衆参両院の議院規則に書いてほしい」「内閣法制局長官の答弁を禁止することで、これまで内閣法制局が違憲であると解釈してきたもの(自衛隊の集団的自衛権行使や、国連安保理決議がある場合の自衛隊の武力行使など)について、時の政権の意向次第で憲法解釈を容易に変更できる状態をつくりだしかねない」などの懸念を表明。
民主党側は①午前中は委員会で政務三役に対する法案審議を行い、午後は意見聴取会で行政公務員から意見を聞く、というやり方がある②少数会派も理事会のオブザーバーとして出席し、意見聴取会の開催を要求できるような方法を考えたい③内閣法制局の機能を弱めようとは考えていない。内閣法制局の憲法解釈を変えるために内閣法制局長官を政府特別補佐人から除外するものではない。内閣法制局は内閣の一機関であり、内閣から独立性の高い人事院総裁などとは明らかに性格を異にするから除外する――と述べ、理解を求めている。
▼小沢民主党幹事長の邪な気持ち
しかし、民主党主導の国会改革が「国会審議の活性化」につながる、と素直に受け止める人は永田町や霞が関には少ない。それは国会法改正推進論者の小沢一郎・民主党幹事長の邪な気持ちが透けて見えてくるからだ。
国会法69条の2は「内閣は、国会において内閣総理大臣その他の国務大臣を補佐するため、両議院の議長の承認を得て、人事院総裁、内閣法制局長官、公正取引委員会委員長及び公害等調整委員会委員長を政府特別補佐人として議院の会議又は委員会に出席させることができる」と規定している。つまり、政府の権能として内閣法制局長官を特別補佐人として出席させ、答弁させることができるとしている。
内閣総理大臣には憲法やその他の法律解釈でうまく説明できないことがあることから、内閣側の権利として内閣法制局長官を政府特別補佐人として69条2項に規定したのであり、政権、与党になった民主党がこの権能を放棄するのは一般常識に反する行為であり、民主党の主張は論理的な筋道が立たない。
鳩山政権が内閣法制局長官の予算委員会出席を必要としない、と判断したら、委員長に通告すれば良い、だけの話だ。
政府が人事院総裁や内閣法制局長官、公正取引委員会委員長らを政府特別補佐人として議院の会議又は委員会に出席させることができる、としたのは、例えば人事院は独立性が強く、しかも専門性の強い役所であり、 内閣の閣僚にはこうした問題について答弁できる人がいないから、人事院総裁の説明で満足してほしい、あるいは憲法問題や民法や商法などの法律問題についても閣僚に対して極めて専門的、特殊な質問をぶつけられても正確で十分な説明ができないから内閣法制局長官の説明で満足してほしい、ということで政府特別補佐人制度は出来上がっている。
政府特別補佐人から内閣法制局長官を排除して、内閣総理大臣と閣僚の答弁で政府としての責任を果たすことができるか。法律的に議論することは、口で言うほど簡単ではない。例えば、在日外国人に地方参政権を付与する問題でも、地方参政権を認めるが、国政参政権は認められない、というのは合理的差別と言えるのかという問題がある。法律的にギリギリ攻められたとき、内閣総理大臣や関係閣僚だけで対応できるのか。困るのは内閣であって野党ではない。内閣法制局長官が首相に耳打ちして、あるいは首相の代わりに答弁して初めて審議を軌道に乗せることができる。内閣の法律顧問がいない状況で法律問題に関する追及をしのげる政治家は恐らく一人もいないだろう。
「そんなことが分からないのか。分からないで済ませることはできない」と言って質問者が審議をストップさせたら、政権与党も審議を強行することはできないだろう。質問内容はすべて事前に書面で出せと、言えば書面審議となり、国会論戦とは言えなくなる。
こうした混乱を見越した上でのことかどうか分からない。が、小沢氏が燃やす国会法改正への執念は相当強い。それは、これまで憲法9条解釈をめぐる国会論議の中で事実上の主役を演じてきた内閣法制局長官の出番を失わせることで、憲法9条解釈を民主党主導の内閣が行い、内閣法制局の憲法9条解釈では「派遣することはできない」としてきた「小沢氏の持論である国連決議に基づく多国籍軍への自衛隊の派遣を実現させたいからだ」との見方が永田町では一般的だ。
小沢氏がこうした思いに駆られる背景を推量する材料として的外れとは言えない質疑が1997年10月13日の衆院予算委で橋本龍太郎首相との間で行われている。当時、自由党党首の小沢氏は日米防衛協力のための指針(ガイドライン)が見直され、同年9月23日の日米安全保障協議委員会でまとめられた新ガイドラインに盛り込まれた合意事項の中で「米軍の武力行使と一体化しない自衛隊の後方支援」について質問。これに対する橋本首相の答弁と、それを補足した大森政輔・内閣法制局長官とのやりとりは次のようなものだ。
橋本首相が「新たなガイドラインの策定に際し、日本の周辺事態というものを議論していきます中におきまして、戦闘と、あるいは戦闘地域と一体化をしない後方支援のあり方はあり得るのかあり得ないのかという議論をいたしまして、あり得ると、そしてそういう場合においての協力のあり方というものも論議をいたしましたと、私は正確に申し上げたつもりでありました」と答弁したのをとらえて小沢氏は「旧来の(憲法9条)解釈は変わったのですね」と次のように追及。
小沢氏「今の答弁は、新しいガイドラインの協議の経過を通じながら、言葉は別といたしまして、そういった一体化のものとそれ以外の範囲の後方支援があるというふうに総理がお話しなさったので、それは単に、先ほど言ったように、条約でもなければ何でもないそのガイドラインの中でやったんだからということでは済まされない大事な問題点だと私は思うのです。
内閣として政府としてそういう見解である、橋本総理がそうだと言えばそうなんですから、私はそれならばそれで理解いたしますが、それは旧来の解釈とは変わった、拡大したといいますか、変更ではないでしょうかということを申し上げているのです」
▼政府の憲法解釈は変わっていない
この後、松永光委員長の指名を受けて答弁に立った大森内閣法制局長官は「政府の憲法解釈は全く変わっていない」と次のように説明。
「我が国としては、最高法規である憲法に反しない範囲内におきまして、憲法九十八条第二項に従い国連憲章上の責務を果たしていくということになるわけでございますが、ただ、もとより、集団的安全保障に係る措置のうち、憲法第九条によって禁じられている武力の行使または武力による威嚇に当たるような行為については、我が国としてこれを行うことは許されないということは、つとに見解を申し述べてきたとおりでございます。
そこで、次に、一体化論との関係でございますが、一体化論と申しますのは、要するに、他国の軍隊に対する補給、輸送あるいは医療等、それ自体はみずから武力を行わない行動につきまして、それが憲法九条との関係で許されない行為に当たるのかどうかということに関する理論でございます。これは、要するに、他国軍隊による武力の行使等と一体となるような行動としてこれを行うかどうかということによって判断すべきである。これは、いわゆる湾岸危機、湾岸戦争のときにも政府は一貫して当時の法制局長官等から説明いたしたところでございまして、その後も何ら見解に相違はございません。そこで、この一体化の理論と申しますのは、要するに、仮にみずからは武力行使を行わなくとも、他者が行う武力の行使等への関与の密接性から、我が国も武力の行使との評価を受ける場合があり得る、そういう場合に関する法的評価に関する法理の一適用でございます。今回のガイドラインとの関係でございますが、要するに、周辺事態において実施される米軍に対する後方支援と申しますのは、戦闘地域と一線を画する場所において、我が国が米軍のために、補給、輸送、整備、医療、警備、通信、その他、それ自体としては武力の行使に該当しない行動を行うというものでございますので、基本的には米軍の戦闘行動に対して一体化は生じないというふうに考えているわけでございます」
小沢氏「今、法制局長官もおっしゃいましたが、武力の行使と一体となる行為、かつては、そのほとんどのものがそれに含まれるということで、許されないということになりました。今は、新ガイドラインの協議の経過を通じてかどうか知りませんけれども、先ほどの答弁では、一体とはならないそのほかの範疇の後方支援というのが存在するんだということ。まさに、湾岸のときに総理の個人的意見が政府に入れられなかったわけですけれども、今日、内閣総理大臣としての発言、そして法制局長官としての発言、それはまさに旧来の政府解釈を変えた、そういうことではないでしょうかと申し上げているのです」
大森内閣法制局長官「ただいまのお尋ねは、湾岸戦争のときと、最近のいわゆるガイドラインの検討に際してと、一体化論に関する見解が変更されたのではないかというお尋ねであろうと思いますが、私どもの基本的な考え方は何ら変わっておらないということでございます」
小沢氏「憲法の範囲内というのは一体どこまでなんだということ自体がまさに問題なんですよ。みんな憲法の範囲内でやるんですよ、範囲外でできっこないんですよ。ただ、あなたの思う憲法の範囲内と私が判断する範囲内が違うというだけなんですよ。そして今、お役所としてはちょっと僣越だと思うのですが、それは、何ら政府は変わっておりません、こういう話ですね。だが、それはちょっと僣越でありましてね」
小沢氏は自衛隊の活用策をめぐり橋本首相からせっかく“前向き”な答弁を引き出したと思ったのに、大森内閣法制局長官から否定され、メンツがつぶされたと思ったのだろう。その後、自由党は内閣法制局廃止法案を国会に提出。同法案は審議未了、廃案となっている。
内閣法制局長官は憲法9条解釈に関する政府部内の最高有権解釈権者として振舞っているが、その法的根拠は内閣法制局設置法にある。私が「戦後政治にゆれた憲法九条」を書くに当たり、高辻正己・元内閣法制局長官に内閣法制局の仕事について取材したとき、高辻氏は次のように答えた。
「内閣法制局の職掌は、大きく分けて二つある。その一つは、『閣議に附される法律案、政令案及び条約案を審査し、これに意見を附し、及び所要の修正を加えて閣議に上申すること』(内閣法制局設置法第3条第1号)であり、他の一つは『法律問題に関し内閣並びに内閣総理大臣及び各省大臣に対し意見を述べること』(同法第3条第3号)である。
そのいずれについても、内閣法制局は内閣をはじめ内閣総理大臣や各省大臣を直接の相手方とする機能を営む内閣の幕僚機関であって、その使命は、行政権の属する内閣なり、その統括下にある各省庁が行政権を行使するに当たって、法律的過誤をおかすことなく、その施策を円満に遂行することができるようにするという、その一点にある。この一点について内閣法制局は、内閣の指揮監督権に服することはあり得ない。内閣が『法律的な過誤をおかす』ということについて最も意を用いなければならない点は、行政権を憲法その他、法の支配に置き、その行使が『法による統治』を全うして行われるようにすることである」
内閣法制局設置法第3条第3号に規定された「意見具申権」は、法的な権限規定ではない。しかし、井出嘉憲・東大名誉教授は「内閣法制局の意見が退けられ、他の意見が採用されることはない。つまり意見には法的拘束力の上位にある政治的拘束力がある。また憲法解釈についても、内閣法制局の見解が行政府の有権的解釈とする、ということが前提でこの仕組みが成立している」と説く。(「戦後政治にゆれた憲法九条」第三版の32頁)
内閣法制局は内閣提出の法律案や条約案の「下審査」の段階から作成に深く関与し、担当の参事官は法律問題について積極的に意見を述べている。「下審査」について、「立法学講義」(大森政輔、鎌田薫編)の中で、山本庸幸・内閣法制局第一部長の「内閣立法の企画立案」は次のように説明する。
「内閣法制局の審査は各省庁の大臣の閣議請議後に行うのが建前であるが、それではいたずらに時日を要したり、あるいは原案の変更が容易に予想されるので実際的ではない。そこで、事前に内閣法制局が予備的な審査を行い、それがおよそ固まったところで各省庁の大臣による閣議請議がなされ、本番となる実際の閣議請議後の審査は形式的に近い形で済ませるという慣行が成立している」
それ故、通常「審査」と言われるものは、いわゆる「下審査」又は「予備審査」を言うとしている。
各省庁の担当課長が内閣法制局に対して法律案や条約案の「下審査」を要請したとき、これらの課長が憲法上、または他の関連法律との関係で問題となりそうな個所について内閣法制局参事官の法解釈を求め、それを政府の有権解釈とすることについて他の省庁も「了」として初めて閣議請議案になるが、閣議請議案には内閣法制局長官が印を押さないと閣議に附すことはできない、という厳格な決まりがある。
内閣法制局の法律上の意見の開陳は、国会議員から提出された質問主意書に対する答弁書作成などのほか、かつては政府委員として、現在は政府特別補佐人として内閣法制局長官が国会の審議の中で、法律問題に関し意見を述べるときも、内閣法制局設置法第3条第3号に規定された「事務の延長線上のもの」(大森政輔・元内閣法制局長官の著書「二〇世紀末期の霞ヶ関・永田町」)として行われてきている。
つまり内閣法制局は国民に対する権限は持っていないが、政府部内で法律問題の意見具申権や憲法の最高有権解釈権者としての役割を果たすことで、事実上の官庁として機能しているのが実態だ。
自民、社会の二大政党が表向きイデオロギーで対決をする55年体制下で、護憲・革新を自認する社会党は内閣法制局の憲法9条解釈を「解釈改憲」と批判、内閣法制局長官を政府の御用法律学者呼ばわりしていた。(例えば、昭和42年3月28日の衆院予算委で社会党の猪俣浩三氏)
猪俣氏は同委で佐藤栄作首相と論戦を挑んだ際、「私は、法制局長官からの答弁はなるべく差し控えていただきたい。いまここで憲法論争をいわゆる専門的にやろうというのじゃない。総理大臣の心がまえを聞いている。だから、あなたがその所信を述べていただきたい」などとけん制したが、自衛権の本質や自衛力の限界、自衛戦争や侵略戦争の違いなどに論議が及ぶと、高辻正己・内閣法制局長官が「非常に専門的なことでございますので、まず私から答弁させていただきたいと思います」と言って、政府の憲法9条をめぐる有権解釈を述べるのが普通の光景だった。
▼法治国家の法解釈は国家機関が
高辻氏と論議を戦わせた猪俣氏は佐藤首相に対して、政府の自衛隊合憲論に関する公法学者や法曹界のアンケート調査結果では8割を超える人が「自衛隊は憲法違反」だと見ている、として見解を求めた。
これに対して、佐藤首相は「私は、いまの実情をよく知りません。知りませんが、私は、法の解釈というものは、やはり日本では法治国家のもとに一つの権威のある判定の方法がございます。その方法によってきまるのでございまして、ただいまこういう説が、一部で調べると非常にパーセンテージが高い、だからこの説に従え、こういうわけにはいかない。やはり法治国家では、こういう問題をきめるそれぞれの機関がございます。それによって意見をきめるべきだ、かように思います」と述べている。
佐藤首相は行政府の長として、政府部内では憲法の最高有権解釈権者である内閣法制局の見解に従うことが法治国家として当然だ、と考えていた。吉田茂首相を原点とする自民党の保守本流勢力は、内閣法制局と最高裁判所との間で阿吽の呼吸のようにして行われてきた、憲法9条をめぐる高度な政治問題に関する憲法解釈は内閣法制局に委ね、それ以外の人権問題や経済問題などをめぐる憲法解釈は最高裁が最高有権解釈権者として振舞う、という分業体制を支持し、それを守ってきたように思える。(この点については「戦後政治にゆれた憲法九条」第三版の第七章「統治行為論の実質を担う――内閣法制局の仕事の核心」を参照してほしい)
自民党の保守本流は内閣法制局による自衛隊合憲論と最高裁判所による日米安保条約に関する「統治行為論」により、米国の核抑止力と軽武装による専守防衛という安全保障の形を守ってきたが、法治国家としての体系を整えてきた内閣法制局に対する信頼がその基礎にあった。吉田茂首相が法制局への信頼感を強めたのは、憲法制定国会における憲法担当の金森徳次郎国務大臣(元法制局長官)の見事な答弁とそれを支えた佐藤達夫・法制局第一部長の大活躍だと推量される。金森大臣は新憲法に関する問題点について、宮沢俊義東大教授、高柳賢三東大教授ら並みいる論客と渡り合い、答弁回数は800回を超えたといわれるが、佐藤達夫氏によれば、ほとんど答弁資料を見ることなく、法律用語を的確に使いながら格調高い言葉で答弁している。
吉田茂首相の金森氏に対する信頼感は相当なもので、吉田内閣は憲法制定国会での金森氏の功労に報いるため、同氏を初代の国立国会図書館長に任命し、給与についても国務大臣と同等とすることを国立国会図書館法第4条第2号で規定した。
“吉田学校”優等生による内閣法制局に対する信頼関係は佐藤首相と高辻正己氏、田中角栄首相と吉国一郎氏、最近では橋本龍太郎首相と大森政輔氏へとつながっている。内閣法制局長官は政府部内における“憲法の番人”として振舞まっているが、その地位は制度的には保障されていない。内閣法制局長官は首相の法制指南役として予算委などで首相になり代わって答弁することで、政府の有権解釈権者とみなされてきたが、意見聴取会で意見を求められ、答弁しても、それは単なる長官の見解に過ぎない、との評価に変わる可能性が高い。
例えば、集団的自衛権に関する憲法解釈をめぐる問題が起こった時、首相が予算委員会などで、「私は集団的自衛権の中に一部容認できるものがあると考える」と言えば、質問者は当然、意見聴取会でこれに関する内閣法制局長官の見解を求めるのが普通だ。内閣法制局長官が「憲法九条が認めているのは個別的自衛権の行使だけであり、集団的自衛権の行使は容認されない」という従来からの解釈態度を変えないとき、事態はどうなるのか。
質問者は委員会で首相に対して、「首相と内閣法制局長官の見解は異なる。内閣の見解は一体何か」と追及することが予想されるが、首相は「私の見解が内閣の見解だ」言った時、国の内外は騒然となるだろう。 このような首相の見解について、首相自身が法的な観点から完璧に理論武装して国会を乗り切れるとは思わないが、内閣法制局長官は首相の見解と異なる内閣法制局の見解を引っ込めることもできないことから辞表を提出する事態に発展するだろう。内閣法制局は人事院や会計検査院のように法的に政府からの独立が保障された官庁でないことから、憲法9条の有権解釈権者として振舞えるのも政府部内で皆がそうみなすことを前提とした制度に過ぎない。それ故、“独裁者”のような政治リーダーから「内閣法制局も単なる官僚組織である。内閣の方針に従わないなら長官は辞表を書け」と言われれば、内閣法制局は防御の方法がない。戦後の統治システムの中で大きな役割を演じている内閣法制局も弱点を抱えている。国会法改正問題と言えば、国会に直接かかわる人たちの問題ように聞こえるが、国民の平和や安全に及ぶときもあることを認識すべきだ。
著者略歴
中村 明(なかむら・あきら)
1945年9月生まれ。東京都立小山台高校、一橋大学社会学部卒業。1970年4月、共同通信社に入り、政治部。宇都宮支局長を経て、編集委員兼論説委員。2002年9月退職。著書に「戦後政治にゆれた憲法九条」(1996年、「第2版」2001年、)「象徴天皇制は誰がつくったか」(2003年)(いずれも中央経済社)「技癢の民」(2007年)「戦後政治にゆれた憲法九条第3版」(2009年)(いずれも西海出版社)。
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