スイスと言う国を皆さんはご存知でしょう。
ですが、多くの人のスイスのイメージは牧畜、氷河、登山、湖、んでもってアルプスの少女ハイジでしょう(笑)。
まあ、それは置いといて、欧州で通貨やサッカーの中継なんかを見るとスイスがヘルヴェティと書かれていることがあります。
歴史上始めてスイスの人々が歴史に出てきたときに彼等はガリア人のヘルヴェティ族として今のスイス付近に住んでいた人々として登場します。
彼等はゲルマン人に押し出され、フランスの方向に移住しようとしたのです。
そこで、困ったフランスのガリア人や当時の北イタリアにいた古代ローマ人が共和制ローマに庇護を求めます。
これが歴史上名高い、カエサル(ジュリアス・シーザー)のガリア遠征のきっかけになります。
そこは、個人的な肉体には劣っていても鉄の規律と、ロジスティック徹底重視のローマ軍の組織としての戦闘力におそらく歴史上最高の名将の一人に確実に入るであろうカエサルが率いていますから、ヘルヴェティ族の40万もの大軍も5万程度のローマ軍に散々に負け、スイスに戻ることを余儀なくされます。
それ以来、スイスの国民はカエサルの同盟者として、その後も2千年以上スイスに住み続けることになりました。
急峻なアルプスの山々にもかかわらず、スイスは交通の要所でそれはスイスがヨーロッパの中心にあたり、ドイツからイタリアに行く際に必ず通る峠、フランスからローマに向かうとき、逆にローマからフランスに向かうとき、必ず通らなくてはならない峠がそこにあったからなのです。シーザー、ナポレオンが通ったサンベルナルディーノ、シンプロン峠、そしてゴットハルト峠、これらの峠は、時代を超えて重要であったことでしょう。
また、この地理的な要請から産業、軍事に大きな影響があります。
スイスの産業の代表的なものには、チューリッヒの金融、バーゼルの薬品、ジュラの時計、ザンクトガレンの刺繍などこれらの特徴は農業でもなく、重工業とも言えない、頭脳とわずかな原材料でできるということであります。それは逆に言えば原材料が手に入りにくく、また大きなものでは輸送コストが高く付きすぎてなりたたないということを意味しています。
そのために付加価値の高いものに重点が向かったと言えましょう。
また、観光業にしても意外に浅い歴史でスイスが観光で豊かになっていくのはせいぜいこの百五十年のことです。
いち早く産業革命に成功し、現代的な観光業のスタートを切った19世紀英国の登山家達から始まり、環境保護と自然科学の普及により観光地として受け入れられることで始めて山がちな国土が活かされている事に意義があります。
また、スイスは永世中立の平和な国という印象がありますが、軍事面でもスイスは国民皆兵の国で、成人男子は全て家に自動小銃を持ち、いつでも使えるようにしていなければならないという義務をおっており、同時に弾丸を缶詰に詰めることで犯罪に使用しにくいようにするなどの配慮がされた国です。
また、スイスには地図に載っていない空港や山々の峰の中に軍事基地があり、兵隊が常駐しています。永世中立とはそういう不断の努力の賜物なのです。
このことから古くからスイスの兵隊は勇猛で有名で今でもローマ法王庁はスイス人の傭兵が警備していることで有名ですね。
このスイスが永世中立を貫くにあたって大変な時代がありました。
そう、第二次世界大戦です。
スイスはハーグ条約に基づきナチス・ドイツとも連合国ともムッソリーニのイタリアとも国交を維持し、貿易をしていたのです。
同時にユダヤ系の多くの人々がスイス目指して逃げて来ていました。
が、政治的にはナチスとは一線を画し、アンリ・ギザンの元でスイスはナチスに対して戦争をも辞さない姿勢で、永世中立を守り通しました。
アンリ・ギザンはフランス系のスイス人でフランス、ドイツに留学していた時代もありましたが、軍に入り大佐として1939年の第二次世界大戦を迎え、ギザンが軍の最高司令官を選出されます。
(スイスでは、非常時のみ将官が存在し、平時は大佐までです)
ギザンは万が一にドイツ軍あるいは連合国軍がスイスに侵攻してきた場合には山間部を走る国境の交通網を全面的に破壊し、平野部を放棄してアルプス山脈に最高43万人の民兵が動員し立てこもり徹底抗戦する計画を立案しました。
が、1940年に入るとイタリアがドイツ側に参戦しフランスが降伏し(オーストリアがドイツに併合されている)ため、スイスの国境の全てが枢軸陣営と接する事になりました。その上、スイス人でも多数派であるドイツ系住民の中にはドイツ側への参戦を求める声が高まり、スイス人の中にはナチスと通じるものも、連合国と通じるものもいました。
この時、ギザンは主だった軍の幹部・将校を建国伝説ゆかりの地であるリュトリに集めて演説を行い(リュトリ演説)体制を引き締めます。
同時にスイス国民は非常食を蓄え、空襲に備えて防空壕を準備し、万が一に備え耕作可能なすべての土地を耕しじゃがいもの栽培に力を入れました。
ドイツ側もイタリアとの連絡ルート確保のためにスイス占領計画を立案したものの、スイス側の防衛体制を打ち破るだけの戦略を見出す事は出来ずに実際の発動までには至りませんでした。
やがて、ドイツが第二次世界大戦に敗れ降伏したときにギザンはあっさりと退役し、引退していきました。
ですが、多くの人のスイスのイメージは牧畜、氷河、登山、湖、んでもってアルプスの少女ハイジでしょう(笑)。
まあ、それは置いといて、欧州で通貨やサッカーの中継なんかを見るとスイスがヘルヴェティと書かれていることがあります。
歴史上始めてスイスの人々が歴史に出てきたときに彼等はガリア人のヘルヴェティ族として今のスイス付近に住んでいた人々として登場します。
彼等はゲルマン人に押し出され、フランスの方向に移住しようとしたのです。
そこで、困ったフランスのガリア人や当時の北イタリアにいた古代ローマ人が共和制ローマに庇護を求めます。
これが歴史上名高い、カエサル(ジュリアス・シーザー)のガリア遠征のきっかけになります。
そこは、個人的な肉体には劣っていても鉄の規律と、ロジスティック徹底重視のローマ軍の組織としての戦闘力におそらく歴史上最高の名将の一人に確実に入るであろうカエサルが率いていますから、ヘルヴェティ族の40万もの大軍も5万程度のローマ軍に散々に負け、スイスに戻ることを余儀なくされます。
それ以来、スイスの国民はカエサルの同盟者として、その後も2千年以上スイスに住み続けることになりました。
急峻なアルプスの山々にもかかわらず、スイスは交通の要所でそれはスイスがヨーロッパの中心にあたり、ドイツからイタリアに行く際に必ず通る峠、フランスからローマに向かうとき、逆にローマからフランスに向かうとき、必ず通らなくてはならない峠がそこにあったからなのです。シーザー、ナポレオンが通ったサンベルナルディーノ、シンプロン峠、そしてゴットハルト峠、これらの峠は、時代を超えて重要であったことでしょう。
また、この地理的な要請から産業、軍事に大きな影響があります。
スイスの産業の代表的なものには、チューリッヒの金融、バーゼルの薬品、ジュラの時計、ザンクトガレンの刺繍などこれらの特徴は農業でもなく、重工業とも言えない、頭脳とわずかな原材料でできるということであります。それは逆に言えば原材料が手に入りにくく、また大きなものでは輸送コストが高く付きすぎてなりたたないということを意味しています。
そのために付加価値の高いものに重点が向かったと言えましょう。
また、観光業にしても意外に浅い歴史でスイスが観光で豊かになっていくのはせいぜいこの百五十年のことです。
いち早く産業革命に成功し、現代的な観光業のスタートを切った19世紀英国の登山家達から始まり、環境保護と自然科学の普及により観光地として受け入れられることで始めて山がちな国土が活かされている事に意義があります。
また、スイスは永世中立の平和な国という印象がありますが、軍事面でもスイスは国民皆兵の国で、成人男子は全て家に自動小銃を持ち、いつでも使えるようにしていなければならないという義務をおっており、同時に弾丸を缶詰に詰めることで犯罪に使用しにくいようにするなどの配慮がされた国です。
また、スイスには地図に載っていない空港や山々の峰の中に軍事基地があり、兵隊が常駐しています。永世中立とはそういう不断の努力の賜物なのです。
このことから古くからスイスの兵隊は勇猛で有名で今でもローマ法王庁はスイス人の傭兵が警備していることで有名ですね。
このスイスが永世中立を貫くにあたって大変な時代がありました。
そう、第二次世界大戦です。
スイスはハーグ条約に基づきナチス・ドイツとも連合国ともムッソリーニのイタリアとも国交を維持し、貿易をしていたのです。
同時にユダヤ系の多くの人々がスイス目指して逃げて来ていました。
が、政治的にはナチスとは一線を画し、アンリ・ギザンの元でスイスはナチスに対して戦争をも辞さない姿勢で、永世中立を守り通しました。
アンリ・ギザンはフランス系のスイス人でフランス、ドイツに留学していた時代もありましたが、軍に入り大佐として1939年の第二次世界大戦を迎え、ギザンが軍の最高司令官を選出されます。
(スイスでは、非常時のみ将官が存在し、平時は大佐までです)
ギザンは万が一にドイツ軍あるいは連合国軍がスイスに侵攻してきた場合には山間部を走る国境の交通網を全面的に破壊し、平野部を放棄してアルプス山脈に最高43万人の民兵が動員し立てこもり徹底抗戦する計画を立案しました。
が、1940年に入るとイタリアがドイツ側に参戦しフランスが降伏し(オーストリアがドイツに併合されている)ため、スイスの国境の全てが枢軸陣営と接する事になりました。その上、スイス人でも多数派であるドイツ系住民の中にはドイツ側への参戦を求める声が高まり、スイス人の中にはナチスと通じるものも、連合国と通じるものもいました。
この時、ギザンは主だった軍の幹部・将校を建国伝説ゆかりの地であるリュトリに集めて演説を行い(リュトリ演説)体制を引き締めます。
同時にスイス国民は非常食を蓄え、空襲に備えて防空壕を準備し、万が一に備え耕作可能なすべての土地を耕しじゃがいもの栽培に力を入れました。
ドイツ側もイタリアとの連絡ルート確保のためにスイス占領計画を立案したものの、スイス側の防衛体制を打ち破るだけの戦略を見出す事は出来ずに実際の発動までには至りませんでした。
やがて、ドイツが第二次世界大戦に敗れ降伏したときにギザンはあっさりと退役し、引退していきました。