ヘルンの趣味日記

好きなもののことを書いていきます。

鳥のランナー

2017年10月17日 | 映画


鳥を見るのがとても好きです。

鳥たちに魅かれる理由ですが
高い場所が苦手なので鳥が飛行することではありません。
飛行することではなくて、飛行するためにあるその形態に魅力があります。
考えてみると、大学の授業で、鳥が一番効率のよい移動をすると聞いたこととか、そんなことから鳥の美しいフォルムに興味をもったみたいです。

子どもの頃に読んだ童話ですが、鳥が輝く黄金への執着のために飛べなくなり、欲を捨ててはじめて飛び立てる話がありました。
説教じみた話で、あまり共感できませんでした。
鳥たちは特に考えずに飛んでいるので、彼らにとっては誰の話ですかという感じでしょう。
でも、意識的ではなくても結果的に鳥が飛ぶことのために捨てたものはあります。
軽くなって飛行するためにその形態は色々捨てています。
獲得した飛行より、飛ぶために捨ててしまった結果のその姿に魅力があるように感じます。
飛ぶために、無駄なものをすっきりと捨てた潔い美しさです。
一言でいえば、機能美でしょう。

何かを得るために捨てたものの大きさに、獲得したもの以上に感銘をうけることもあります。
アスリートが大会で優勝したり、記録を打ち立てたりするのは感動的です。
獲得したものが輝かしいからです。
でも、そのために犠牲にしたものの大きさに驚いて、それほどほしかったものなのかと、初めてその意義に気づくこともあります。
捨て去ったものが重ければ重いほど、それを捨ててもいいほど獲得したかったのか、と感心します。

鳥にとっては、迷うこともない、生まれ持った形質でしょうが、人間の場合は何かを獲得しようとして、捨てることを迷ったり、苦しんだりするかもしれません。

前に取り上げた映画「炎のランナー」で、主人公のエリック・リデルは逆に自分の信仰を守るために大きな栄光を得るチャンスを捨てようとします。
彼は安息日に走らないという信念を曲げず、予選が安息日に行われる100メートル走に出ません。
しかし、友人が別の種目を譲ってくれてそこで世界新を出して金メダルをとります。
その栄光のシーンはとても感動的です。
泣きそうになるくらいです。
それが感動的であればあるほど、彼がこれを犠牲にしても信仰を優先させたことに気づきます(友人の厚意は想定外でしたから)。

彼も鳥のように単純です。
信仰を曲げることはできないと決めています。
種目変更の400メートル走で、彼は鳥のように無心に走ります。
この場面での彼の走る目的は「神の栄光をしめす」ことです。
それまでは、ランナーとして、オリンピックで優勝したい、栄光を勝ち取りたい、そうした気持ちがもちろんありました。
だから100メートル競技を捨てるときに苦しみます。
それをすべて乗り越えて、彼の目的はかえってすっきり整理されます。
いきなりの種目変更で、勝てるかどうか、難しい。
競技に出場できるだけで本望というように他のランナーに試合前に握手を求めます。
これは彼の宣教師の仕事の延長のようです。

かつて不景気に苦しむ炭鉱労働者の前で
「今、失業して苦しいみなさんに頑張れというのは簡単ではありません。
苦しい時に走りぬく力はどこからくるか、自分の内部からです」
と語ります。
そのセリフが走るシーンにかぶります。
彼は100メートル走にあわせた選手で、途中苦しくなってくるはずですが、苦しいところも全力で走ります。
そして勝利します。
鳥が飛ぶように走って、鳥がはばたくように晴れやかにゴールを切ります。
鳥のように不要なものを捨て去り、目的をただ一つに絞ったものの強さでしょうか。


迷いのないシンプルなタイプの主人公にはそれほど共感ができないことが多いのですが、印象的だったのは、鳥のようなランナーだからかもしれません。

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