ヘルンの趣味日記

好きなもののことを書いていきます。

芸術家

2018年02月20日 | 日記



鈴木基一と酒井抱一の展示を出光美術館でみたことがあります。

酒井抱一の絵はあまりよくわからない。
なんとなく洒脱とか遊びの雰囲気があります。
鈴木基一の絵はなにか違う感じがします。

基一の展示された作品にはどれも芸術への強い意志と情熱があるようにみえました。
まあ、勝手にこちらでそう思っただけですが、そんなことを素人に思わせるような絵だったのです。

いろいろなものを犠牲にしても絵をかきたいという意欲が絵にあるように感じます。

芥川の小説のように、芸術のために娘を犠牲にするような変に深刻な話は好きではありません。
画家が幸せになる話の方が好きです。
ただ、芸術を目指す人はつよい情熱をもっているように思います。


「バジル氏の優雅な生活」というマンガがあります。
かなり昔のマンガですが大好きで何度も読んでいます。

19世紀末のイギリスが舞台で
貴族のバジル氏とその友人たちの話です。

友人の一人に画家がいます。
画家には、美しい妻がいて大変仲がいい。

でも奥さんが主人公のバジル氏にふと本音をいいます。
「夫は私が死んでも生きていけるけれど、絵がかけなくなったら死んでしまうでしょう」
「だから結婚をときどき後悔する」

画家は彼女をとても愛していますが、それでも彼の一番強い情熱は絵を描くことに向いていて、
描きたくなると、妻になにもいわずに主人公の屋敷にやってきて滞在して絵を描き続けたりします。
奥さんが心配しているだろうと思って連絡します。
そのときの彼女の言葉です。

バジル氏は彼女に「彼はあなたをとても愛していますよ」といいます。

それも本当のことなのです。

だから画家が完成させた絵をみたバジル氏は「幸福な絵」だと評します。
愛する家族がいて芸術に打ち込む、幸せな画家なのです。
彼の妻は少しの寂しさをかかえつつ理解します。

とても好きな話です。

画家が芸術と引き替えに幸せを失う話は多いですが
不幸にならなくても絵はかけるのではと思います。
それでも、程度はあっても大事なことを犠牲にしているんじゃないかとも思います。


基一の人生は知りませんが、彼の中で一番の情熱は絵を描くことだったのではないかと彼の作品をみて思いました。


風姿花伝

2018年02月08日 | 日記


能はテレビでちらっと見るくらいで一度も舞台を見たことがないし、よくわかりません。

でもこれは高校の授業でほんの一部ですが読んで面白いなあと思いました。
能がわからなくてもなんとなく面白い。

その時は芸術論のようなものだと記憶しました。
後で岩波文庫を買って読みました。
するとかなり印象が違いました。
芸術論ではなくマニュアルっぽい感じです。

役者をどうやって指導するか。
少年時代。
青年時代。
ベテランになって。
老年。
それぞれの時期についての指導書のようだと感じました。

ちらちらと作者の芸術への考えが見えるのですが、全体的には指導書の印象です。

かなり現実的で、実際的なことが書いてあります。

まことの花というのも、考えていたのと違いました。
若いころではなく年をとってからの美しさが本物。というようなことかと勘違いしていました。

実は、年をとった役者は若い役者に劣る。と断言しています。
ただ、中には稀に、優れた人が年老いて若いころの良さが色々なくなっても、何かの花が残ることがある。
ということだそうです。
間違っていたらすみません。


これを読んで「あ、これは彼のことだ」と思ったのはプロ野球のイチローです。

ピッチャーを悩ませた速い足。
ライトからダイレクトに3塁ランナーを殺した強肩とコントロール。
安打製造器といわれたバッティング。

年と共に以前の輝きはなくなりました。
特に足が。
彼はただの内野ゴロを内野安打にしてしまうような奇跡的な脚力を誇り
他の打者から「足で安打を稼ぐな、バッティングで稼げ」と批判されたそうです。
その輝きはなくなっています。
バッティングも以前にはみられない打ち取られ方があります。
それでもときどき思い出したように光るプレーがあって、これが花が残るということだろうかと思います。

彼は世阿弥のようなタイプの天才にみえます。
才能と引き換えにしたように人柄はいくらか難がある、というのも似ているようです。
そのかわりに、才能を発揮している分野のために精進を惜しまないという点も。


風姿花伝には
ところどころ、はっとするような美しい表現があって、能の天才は文章も芸術品にできるのかと感心します。



市民ケーン

2018年02月02日 | 映画


とても有名な映画ですが、それほど印象的ではありません。
新聞記者が探偵役になり、インタビューと回想シーンで主人公の人生が語られるという手法は当時たぶん斬新だったと思います。
でも、そうしたアイディアはまねされてしまい、その場合、真似した後発品のほうが出来がよくなったりします。
なんとなくみたような手法だと思えてしまいました。
だから、残念だけど、リアルタイムでみなかったからよくわからないタイプの映画です。
アイディアというのは真似できるのだなあと。
一方、センスは盗めません。
真似をしてもセンスのあるなしははっきりしてしまうので。
だからエイゼンシュテインの映画には公開何十年の後でも独自の個性を感じて心を惹かれたのだと思います。

ラストの解釈は薄っぺらいとか批判もあったみたいです。
でもそれより
最期のセリフを記者が追い求めるということ。これがわかりません。
記者が会社の経費を使って追い続けるほどの動機があるかなあ。と。
なぜローズバッドという言葉の意味を知りたがったのか。

意味の分かる言葉でそれが遺産についてのこと、あるいは事業の行方についてのこと、後継者について、ならば重視されるでしょう。
しかし、うとうとしていた患者がちょっと漏らした意味不明な言葉に大きな意味があるって思い込むかな・・と不思議でした。
彼の生涯を解釈するカギになるということらしいですが、意識がはっきりしない状態で昔のことを思い出していてふっと出た言葉じゃないでしょうか。
病人がよくわからない言葉をいったってそれを大騒ぎして真相を追い求めて記者が聞き込みをするって普通あるかなあと疑問です。

仕事で経費を使ってやるからにはデスクの了解があったのでしょうが、どんな根拠でこれが通ったのかが謎です。
記者がそれほどに追い求めるほどの動機。
この動機が苦しいです。精神分析がどうのより、動機の側が苦しいように思います。


個人的な解釈では
最後の言葉が意味不明なのは意識が混濁しているからでしょう。
自分の子どもの頃のことをなんとなく思い出して口をついて出たというだけで、ただの勘違いでしたという解釈が結構自然じゃないでしょうか。

カメラワークとか演出とか、いろいろすごいところがあるらしいですが、あまり覚えていません。
暗い映像で探偵役の新聞記者の顔がよくわからなかったのが一番印象に残りました。


ちょっと気になったのは
経済人が文化事業に乗り出す場合の成功と失敗です。
ケーンは失敗したのですが、それは彼自身の美意識や感性の問題かもしれません。
人柄が原因ではないように思えます。
思いつく成功例は以前もかいたのですが宝塚をつくった小林一三氏です。
彼のように、ひとつの街と文化を創造するような気迫と美意識のある事業家は珍しいのでしょう。

あと、ジョゼフ・コットンの演じる友人と主人公はけんか別れしてしまいますが、これも仕事が関係したせいで、ケーンの人柄に起因していないように思えます。
優秀な2人がいつまでも対等に付き合うのは仕事上では難しいのかもしれない。

個人的な印象ですが
この作品はなにもかも主人公の人柄の欠点に原因を求めすぎているかもしれません。
彼がビジネスマンであることを考慮すると、どうしようもない面もあるんじゃないかと思ってしまいます。








ブログの停滞

2018年02月01日 | ブログについて

なんとなく更新していませんでした。

年末忙しかったのですが更新できないほどではなくて精神的なことです。
ブログで書きたいなあーと思う余裕がなかったのです。


で、一度書かなくなると何をどう書いていいのかわからなくなりました。

ブログってそういうものなのかも。
好きなブログがいきなり更新がなくなったりするのはこういうことか・・・

このままフェードアウトしないために、ちょっとしたことでも書いていこうかと思います。