育英奨学金

2014-12-19 12:55:58 | 魂と心の成長

今年も育英会の奨学金の返還の時期が来た。

卒業して、何年になるだろう…私は両親から大学に出してもらうことは期待できないのに、3年先のことを考えもせず、普通高校に進んでしまった。学校は進学率100%で就職の道はなかった。進学せざるを得えなかった。実家は私学の高校生を二人抱えて期待できず、それで自力で夜学に行った。夜学は5年制なので、ストレートに卒業しても5年かかった。フルタイム勤務で働きながらだったので、常時時間に追われた。

3年目で休学して、2年間アメリカに渡った。2年、これで遅れたので、卒業はさらに遅れて、トータル7年かかった。小学校より長く、学校にいたことになる(笑)。帰国したら、学内に知っている人は、ほとんどいなくなっていた。教務課の人が、おかえりと言ってくれた。渡米は自力だった。

帰国後、教官に外国人の先生を選んだので、授業は英語での討論だし、卒論も手を抜けなかった。語学学部は出席率に厳しい。生活のための仕事にそんなに精を出せなかった。そんな調子だったから、卒業した時も帰国時と同じくすってんてんだった。卒業したタイミングも悪く、就職氷河期。

就職氷河期で、就職率は先輩たちで25%だった。同級生で、まともな就職ができた人は、外務省の一人と教職についた一人くらいだ。一般企業に行って、まともに就職できた人はいない。みな大学院に逃げ込むか、地元に帰って親元に身を寄せていた。どっちの選択肢もない同級生の一人は、バイトで入ったマツダの工場にそのまま勤め続けた。その後彼の訃報を聞かされた。自殺してしまったのだ。他の同級生は、何年もバイトでファーストフードの店長を務めたが、正社員には登用されず、失意のうちに親元に帰った。農家を継いだのだと思う。私も院をしきりに勧められた。が、卒論しながら、バイト生活は大変すぎて、これを続けるのは無理だと思った。学内には先輩がいっぱいいて、教授ポストは糞づまりだった。子供を3人抱えた助手がコマで教えていたが、妻の収入がないと生活が成り立たないと言っていた。

卒業時25歳だったので、一般社会では新人とは言えず、勤め先探しは難航した。たまたまバイトしていた先の人が目を掛けてくれて、なんとかひねりこませてもらった形だ。だから、入社直後から即戦力扱いだった。派遣社員のスキル採用だった。その頃、小・中・高と同じ学校の地元の大親友が、初出張で遊びに来てくれた。一緒に青春18切符する仲の人だ。一ツ橋を出て、製造業の営業部に入った。私と製造業で同じだが、私は開発部で向こうは営業にいた。

当時、派遣は今のように”ちょっと高級なバイト”というくらいの”誰でもできる雑用をコストダウンするために派遣に置き換える”常套手段のではなく、プロでないとできない仕事の外注、という位置づけだった。第二新卒という言葉はまだない。派遣で行く人には、最低でも2年間の該当実務の実務経験とマイクロソフト製品が、よどみなく使えるという、まぁ常識的なITスキルを求められたが、それさえできない人が既存社員の中には大勢いた。語学では、私は通訳経験があったけれど、単発なので経験値には換算されず、パソコンも同じだった。しかし、入ってみれば、私がワードやエクセルの使い方を教える側で、教わる側にいることはなかった。アクセスはゼロからデータベースを起こした。キーボードはブラインドタッチだった。中学生から学級新聞をワープロで作っているのだもの、当然か。家に帰るのは10時が普通だった。

仕事を初めて1年目、26歳の頃、弟が24歳で亡くなった。弟には彼女が3人もいたらしくてびっくりした。帰ったら、実家に弟の靴が150足もあって、それにも驚いた。私はまだ長屋に住んでいた。トイレは共同で風呂なし。

弟が死んでから、しばらくして、妹が自殺未遂でICUに入った。それで妹を大阪に引き取ることになった。妹は短大を出て、地元で親元に住み、親が就職斡旋した会社でOLをしていたが、妻子ある人を好きになり、捨てられたのだった。私は長屋から抜け出して、恋人と二人で、やっとトイレとお風呂がある、普通のマンションに入って、まだいくらも立っていないところだった。当時はまだ、よく友達が遊びに来てくれる家だった。大学の友達と週に一回クラブに通ったりしたけれど、アメ村のすごく安いところだ。一杯1000円くらい(笑)妹はすぐ元気になった。そして元気に宮古島に旅立っていった。

子供の頃、自分ができることが弟や妹にもできると思ってはいけない、と言われた。それはただ年長さんだからだ。

6歳の頃、両親が離婚した時、弟は4歳で母親が仕事のために出かけようとすると泣き叫んで嫌がった。この年齢の子供には普通だ。それで私が抱っこしている役目になった。妹も弟も母恋しくすごく泣いた。妹は母親と間違えて私の膝に攀じ登りたがった。でも私も6歳なのだった。

母が帰宅して、お茶を入れてあげると喜ぶので、自然に夕食を作り始めた。8歳の頃だ。でも、子供のことだから、味噌汁と卵焼き、ごはん、くらいのことだ。買い物にいく時間が母親にないので、私が買い物に行く。八百屋さんが重いだろうと言って、みかんやさつまいもは配達してくれるときがあった。弟は6歳、妹はまだ4歳だった。その習慣は私が15歳になるまで続いた。自宅に帰ると家事優先で、受験勉強をする時間は取れなかったので、自宅に帰らず友人の家で夜は勉強して、朝は6時からパン屋でバイトしていた。バイトは禁止の学校だったが、気にしている場合ではなかった。

24歳。私はアメリカでありとあらゆる手段で四苦八苦していた。同じ年齢で母は一人目の子供を産んだ。妹はICUに入っていた。

28歳の時、私は研究所所属になった。個人事業主契約だった。母は3人目の子供を産んだ。妹は宮古島に移住した。都会は体質に合わないのだそうだ。その後、海外に渡った。

祖母は45歳で、”おばあちゃん”になった。母は当時24歳で初産だ。私は40歳を超えたが、子供は授からなかった。今後授かることはないのではないだろうか?

母が人生のパートナーを失った28歳はまだ子供だ。そんな年齢で3人の子供を抱え、30歳の飲んだくれの亭主を持っていては、どうしてよいか分からなかったに違いないと思う。祖母は、その時50歳で老いを目前にし、女ひとり生きていく決断をするのは、壮絶だっただろうと思う。一方で、若年30歳の若者が、3人の子供と妻を捨てて、自分の夢を追っても、仕方がないのかもしれないし、まともな仕事がない地方で仕事が続かないと言っても仕方ないのかもしれない。それで生まれてしまった子供は一体どうしたらよかったのだろう?弟も妹も私も。そして母も。

育英会の奨学金の封筒は、いつも私にこうしたことを思い出させる。あと何年あるかな・・・

山をめぐる自立は、人生の自立や役割分担ととても似ている。

充分、能力が備わった人に役割が巡ってくるのではないのかもしれない。いつも背伸びをしなくてはならない人といつも誰かが面倒を見てくれる人がいるものだ。

そして、たいていがその事には長い時間、気付かれないものだ。相手の立場に立つことがないと気が付かない。

 


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