■ SABO
最近、地学や地質学をテーマに読んでいるので、砂防、SABOという言葉が
津波、Tsunamiと同じく日本語の発音のまま英語である、ということを知りました。
世界の中で、日本の何が先進的か?ということを考えた場合、土木建築業、すなわち
Civil Engineering、シビルエンジニアリング、というのは非常に大きな分野で
あるのではないか?という気がします。
何しろ、世界的に見て、日本は隆起も沈降も現在進行形、侵食と堆積も現在進行形。
そういう面では、地殻形成のもっとも活発な地域です。大きな大陸に形成された、
世界遺産になるような大規模なジオサイトは見た目は凄くても活発に活動していません。
ミニチュア規模で、地球の形成過程が凝縮されている、とも言えます。
■ 偽善エコ
私はこれまで、エコ関連本はわりに読んできました。結果、短絡的に人々の善意に
訴えるような、短絡的なエコ思想には懐疑的です。例えば・・・
割り箸 → 割り箸そのものが不用品の再利用
エコバッグ → エコバックそのものが不用品の再利用 &エコバック商法の経済規模のほうが買い物袋コストより大きい
ペットボトル → ペットボトル利用頻度を減らさないと意味がない
エコカー → 初回購入者のみに限定でエコ 買い換えてたらエコじゃない
過剰な分別 → 分別した後、全部一緒に燃やしている自治体9割
基本的には、自然の循環系から外れたものはどうやったってエコにはなれないのです。
インドでは、素焼きのコップが使い捨てだったと以前先輩から聞きました。
素焼きはすぐに土に帰る。永遠にリサイクル可能です。使い捨てこそがエコなワケです。
偽善エコは、西洋からの受け売りです。
例えば、私も大好きなスターバックス。コーヒーを売るのに再生紙を使うのは結構ですが、
そもそもスタバが無かったら、かなりの量の使い捨て紙カップが減る、という点には
目をつむっています(汗)
そもそもスタバが無かったら、コーヒー栽培のために犠牲にされた、熱帯雨林は減る、
ということにも目をつむっています(汗)
しかし、スタバが無かったら、別のスタバのような企業が登場するに過ぎません。
これをまとめると・・・”存在しないことが一番いい。けれども、他より”マシ”とでもいうような存在”
”いて欲しい存在ではなく、もっと悪いものよりマシだから・・・・”というような超消極的な理由で存在が許される
・・・これが結局、人類の縮図、というようなことになってしまっています。 これはものすごく西洋的だなと思います。
■ 度を越していること
生態系の破壊は、結局のところ、人間の度を越した行いの報いです。ただ自然から
与えられる分のコーヒーを飲んでいれば問題なかったのです。でも、世界中で皆が
同じものを飲み始めて環境破壊が始まった。
例えば、里山から薪を採るのは、里山保全になっていた。ところが、人口が増え・・・
皆が生きている木まで伐り出し、山を丸裸にした → 非エコ
今度は伐ってはいけない禁止し、まったく放置することにした → 非エコ
”度”というのは程度の問題なので、基本的には全員が同じ方向へ突っ走る、そこがまず
このエコロジー問題で、人類が何をやっても上手く行かない、という理由です。
■ 自然はデリケートなのか、たくましいのか?
地質学の本を読んでいると、日本では隆起が現在進行形のため、山崩れは
自然現象の一つとして起こります。
ひとつの山崩れを見ても、それが人間が引き起こしたものなのか?自然の隆起による
ものなのか?それが不明瞭なのです。
例えば、縞枯れ現象しかり。緩慢な死と言える現象が見られるという事実があるものの、
それがいつかは自然に起こるだろう自然の崩壊の速度を速めている、それだけなのかも
しれません。人間をもが自然の一部だと過程するならば、人間が作り出した酸性雨をも、
自然の変化の一部とはいえないのでしょうか?
昨日は、近くの山で散策しましたが、日本の自然は、放置すると”はびこる”自然。
道路もメンテナンスが無いとちょっとのことで廃道寸前の有様になります。
放置されたプールなどを見ると自然の侵食力の凄さを改めて思い知らされます。
はびこるというとネガティブな響きですが、”繁殖力が強い”、”繁栄力がある”と
いうことなのです。
こんなにも自然はたくましく回復力が旺盛なのに、自然が壊されている・・・という指摘が
ある・・・。これをどう考えたらいいのでしょうか・・・。
■ 浅知恵?
日本では、自然の隆起と沈降、侵食と堆積が絶妙なバランスで均衡し、それが日本の
生活様式、日本らしいあり方を決めてきました。水田は人工の水がめ、棚田は人工の
地すべり防止機構、里山は人間によって手入れされてきました。
しかし、災害防止のため治水技術が高まった結果、本来堆積するべき平野部には、かつての
洪水で運ばれてきた土砂がもはや運ばれず、土地はやせ、地盤は沈み、海抜ゼロメートル以下の
土地が増えています。川から平野へ堆積できない結果、沿岸の河口部で海の底に堆積せざるを
得ず、結果、富栄養化や堆積作用で生態系を傷つけてしまったり・・・
考えてみると、”想定外だけどトーゼンな結果”が基本的には、次の問題を作ってしまっています。
そこのところでどうしたもんかと頭を抱えているのが現代の人の姿なんですね。
ダムを作ってコレで安心、と思っていたのに、堆積して使い物にならなくなってしまい、
また別のダムが要る・・・アレ、どうしよう??というような、延々と続くいたちごっこ。
うーん、これは、ある意味、”安物買いの銭失い”と似ています。ダムが一番安くつくから
やってきた・・・けれども、結局は、全然安くつかない。それはずっと未来永劫に渡って
”自然な自然の流れに逆らいつづけるコスト”が、かかるからです。
この流れがちょうど真逆だったのが伝統的な日本のあり方だったようですが、そうしてきた
理由はそれが一番安くつく、ラクだったから・・・うまいことできた仕組みだったんですよね。
そういう意味で自然へ回帰しよう、という声もありますが、現実的にはかつての水田の上には
既に人が住んでおり・・・取り戻しようが無い。これは水田に限らず、日本の地形全般に
言えることのようです。
戻れない以上、次はどうすべきか?
現代的な高度な先進技術が、これまで逆らってきたわけですから、逆らわないのがいい
のはわかっているわけです。
”自然な自然の流れ”にどうすれば、人間の先進技術がマッチするのか?
マス(画一的)でないだろう、というのは、エコの基本課題が”やりすぎ”にあることから、
おそらく、答えが出ているような気がします。
もしかして、日本はこうした分野で、世界の実験場とも言える活発な土壌浸食を持っている
国ですから、活路があるのかもしれませんよね。
■ デイビッド・スズキ
『いのちの中にある地球』を読んでいたら、昨日はNHKで著者の深夜番組でやっていました。
著者デイビッド・スズキさんは日系カナダ人の大学教授で環境問題に尽力した人です。
カナダでは先住民族の生活様式を守るため、伐採されかかっている森を自然保護区にする戦いでした。
これはとても外国的な環境保護の戦いですね。 非常に政治的で、”先住民族” vs ”企業”という
”利権闘争”の世界です。
海外では要するに ”金儲け(経済)” と ”自然”が対立しています。
これは完全に経済学で解決できる問題です。なぜかというと、現在の経済学は、
”外部性”と言って、自然が提供するサービスをGDPなどの経済指標に入れません。
例えば
・森が二酸化炭素を吸収してくれるサービス
・森が土砂災害を防いでくれるサービス
・森や海洋が気候(気温)を調整しているサービス
・昆虫による受粉サービス
・きれいな空気、水、土、
などの”生態系サービス”を単に勘定に入れるのを忘れちゃっているのです・・・
一方で、例えばネガティブなものは勘定に入ります。
・交通事故で誰かが死んだら、保険がおりた → GDP向上
・空気が汚れて空気清浄機を買った →GDP向上
・猛暑でエアコンが売れた →GDP向上
・蜂がいなくなったので、機械を導入した → GDP向上
・・・エトセトラエトセトラ・・・
こうした”金に換算されない価値”はこれからどんどん換算されていくのではないか?
という気がします。
というのも、企業活動というミクロな部分で、会計学では、従来カネに換算されて
いなかったものすべてを換算する方向にシフトしているからです。 また排出権取引
などもその外部性を内部化する取り組みのひとつでしょう。
わたしはコレは西洋的な解決なのだ、と思います。あくまで人間の知性で解決するのです。
また、環境保護運動では、”カネ” vs ”自然” という対立構図に違和感を覚える多数の
市民が政治を動かし、保護区の獲得に結びつきました。
これも西洋的な解決法だと思います。あくまで”力の対決”です。
根本的な視野狭窄についてはあまり省みられることはありません。
■ 人間が絶滅したら、地球はよくなる?
一方で思うのが、”アリが絶滅したら生態系は崩壊の危機にさらされるのに、人類が
絶滅したら、地球の環境問題は解決する”といわれていることです・・・・。
アリより役に立っていない人間様・・・(汗)
ところが、日本では人間様はちゃんと生態系の維持に役に立っていたのです。
おそらく、大陸の先住民族だって同じです。生態系を織り成す、主人公の一人だった。
わたしが思うのは、日本人というのは、現代の先進国の人間、人種の中で
唯一、先住民であり、先進国である、という断絶の無い歴史をもった人たちなのでは
ないか?ということです。
アメリカ、カナダ、オーストラリアのいわゆる”白人系人種”の人たちには、日本の
里山のような、かつては生態系の一部だった、という自然と共生してきた歴史遺産が
ありません。 彼らにあるのは略奪の歴史、そして、覚えているのは、略奪して勝利した歴史です。
失敗したことは一杯あるでしょうが、ポジティブシンキングなので都合の悪いことは忘れているのです(笑)
つまり西洋と反省、という精神は相容れません。
そして、そうした国々で、自然との共生という歴史体験という遺産を持っている先住民達は、
追い払われ、まずは権力闘争に勝たねば、話も聞いてもらえない、という、おとしめられた立場にいます。
なんという遠回りでしょう!
こう考えると、唯一日本人だけが自然と共生した過去の体験を引きづりつつ、ホンマに
これでええんかい・・?といぶかしく思いながらも、今は西洋に追いついて進歩あるのみ、
と自分に言い聞かせ、”とりあえず”西洋から学んでみた・・・けれども、やっぱり上手く行かないな、
と反省できる立場にあるのです。
自然破壊は所詮、西洋からの”借り物”、要らなくなったらいつでも捨てれる!と豪語できる
人たちで、なおかつ、先進国の技術土壌を持つのは日本人だけ、とは思いませんか?
最近、地学や地質学をテーマに読んでいるので、砂防、SABOという言葉が
津波、Tsunamiと同じく日本語の発音のまま英語である、ということを知りました。
世界の中で、日本の何が先進的か?ということを考えた場合、土木建築業、すなわち
Civil Engineering、シビルエンジニアリング、というのは非常に大きな分野で
あるのではないか?という気がします。
何しろ、世界的に見て、日本は隆起も沈降も現在進行形、侵食と堆積も現在進行形。
そういう面では、地殻形成のもっとも活発な地域です。大きな大陸に形成された、
世界遺産になるような大規模なジオサイトは見た目は凄くても活発に活動していません。
ミニチュア規模で、地球の形成過程が凝縮されている、とも言えます。
■ 偽善エコ
私はこれまで、エコ関連本はわりに読んできました。結果、短絡的に人々の善意に
訴えるような、短絡的なエコ思想には懐疑的です。例えば・・・
割り箸 → 割り箸そのものが不用品の再利用
エコバッグ → エコバックそのものが不用品の再利用 &エコバック商法の経済規模のほうが買い物袋コストより大きい
ペットボトル → ペットボトル利用頻度を減らさないと意味がない
エコカー → 初回購入者のみに限定でエコ 買い換えてたらエコじゃない
過剰な分別 → 分別した後、全部一緒に燃やしている自治体9割
基本的には、自然の循環系から外れたものはどうやったってエコにはなれないのです。
インドでは、素焼きのコップが使い捨てだったと以前先輩から聞きました。
素焼きはすぐに土に帰る。永遠にリサイクル可能です。使い捨てこそがエコなワケです。
偽善エコは、西洋からの受け売りです。
例えば、私も大好きなスターバックス。コーヒーを売るのに再生紙を使うのは結構ですが、
そもそもスタバが無かったら、かなりの量の使い捨て紙カップが減る、という点には
目をつむっています(汗)
そもそもスタバが無かったら、コーヒー栽培のために犠牲にされた、熱帯雨林は減る、
ということにも目をつむっています(汗)
しかし、スタバが無かったら、別のスタバのような企業が登場するに過ぎません。
これをまとめると・・・”存在しないことが一番いい。けれども、他より”マシ”とでもいうような存在”
”いて欲しい存在ではなく、もっと悪いものよりマシだから・・・・”というような超消極的な理由で存在が許される
・・・これが結局、人類の縮図、というようなことになってしまっています。 これはものすごく西洋的だなと思います。
■ 度を越していること
生態系の破壊は、結局のところ、人間の度を越した行いの報いです。ただ自然から
与えられる分のコーヒーを飲んでいれば問題なかったのです。でも、世界中で皆が
同じものを飲み始めて環境破壊が始まった。
例えば、里山から薪を採るのは、里山保全になっていた。ところが、人口が増え・・・
皆が生きている木まで伐り出し、山を丸裸にした → 非エコ
今度は伐ってはいけない禁止し、まったく放置することにした → 非エコ
”度”というのは程度の問題なので、基本的には全員が同じ方向へ突っ走る、そこがまず
このエコロジー問題で、人類が何をやっても上手く行かない、という理由です。
■ 自然はデリケートなのか、たくましいのか?
地質学の本を読んでいると、日本では隆起が現在進行形のため、山崩れは
自然現象の一つとして起こります。
ひとつの山崩れを見ても、それが人間が引き起こしたものなのか?自然の隆起による
ものなのか?それが不明瞭なのです。
例えば、縞枯れ現象しかり。緩慢な死と言える現象が見られるという事実があるものの、
それがいつかは自然に起こるだろう自然の崩壊の速度を速めている、それだけなのかも
しれません。人間をもが自然の一部だと過程するならば、人間が作り出した酸性雨をも、
自然の変化の一部とはいえないのでしょうか?
昨日は、近くの山で散策しましたが、日本の自然は、放置すると”はびこる”自然。
道路もメンテナンスが無いとちょっとのことで廃道寸前の有様になります。
放置されたプールなどを見ると自然の侵食力の凄さを改めて思い知らされます。
はびこるというとネガティブな響きですが、”繁殖力が強い”、”繁栄力がある”と
いうことなのです。
こんなにも自然はたくましく回復力が旺盛なのに、自然が壊されている・・・という指摘が
ある・・・。これをどう考えたらいいのでしょうか・・・。
■ 浅知恵?
日本では、自然の隆起と沈降、侵食と堆積が絶妙なバランスで均衡し、それが日本の
生活様式、日本らしいあり方を決めてきました。水田は人工の水がめ、棚田は人工の
地すべり防止機構、里山は人間によって手入れされてきました。
しかし、災害防止のため治水技術が高まった結果、本来堆積するべき平野部には、かつての
洪水で運ばれてきた土砂がもはや運ばれず、土地はやせ、地盤は沈み、海抜ゼロメートル以下の
土地が増えています。川から平野へ堆積できない結果、沿岸の河口部で海の底に堆積せざるを
得ず、結果、富栄養化や堆積作用で生態系を傷つけてしまったり・・・
考えてみると、”想定外だけどトーゼンな結果”が基本的には、次の問題を作ってしまっています。
そこのところでどうしたもんかと頭を抱えているのが現代の人の姿なんですね。
ダムを作ってコレで安心、と思っていたのに、堆積して使い物にならなくなってしまい、
また別のダムが要る・・・アレ、どうしよう??というような、延々と続くいたちごっこ。
うーん、これは、ある意味、”安物買いの銭失い”と似ています。ダムが一番安くつくから
やってきた・・・けれども、結局は、全然安くつかない。それはずっと未来永劫に渡って
”自然な自然の流れに逆らいつづけるコスト”が、かかるからです。
この流れがちょうど真逆だったのが伝統的な日本のあり方だったようですが、そうしてきた
理由はそれが一番安くつく、ラクだったから・・・うまいことできた仕組みだったんですよね。
そういう意味で自然へ回帰しよう、という声もありますが、現実的にはかつての水田の上には
既に人が住んでおり・・・取り戻しようが無い。これは水田に限らず、日本の地形全般に
言えることのようです。
戻れない以上、次はどうすべきか?
現代的な高度な先進技術が、これまで逆らってきたわけですから、逆らわないのがいい
のはわかっているわけです。
”自然な自然の流れ”にどうすれば、人間の先進技術がマッチするのか?
マス(画一的)でないだろう、というのは、エコの基本課題が”やりすぎ”にあることから、
おそらく、答えが出ているような気がします。
もしかして、日本はこうした分野で、世界の実験場とも言える活発な土壌浸食を持っている
国ですから、活路があるのかもしれませんよね。
■ デイビッド・スズキ
『いのちの中にある地球』を読んでいたら、昨日はNHKで著者の深夜番組でやっていました。
著者デイビッド・スズキさんは日系カナダ人の大学教授で環境問題に尽力した人です。
カナダでは先住民族の生活様式を守るため、伐採されかかっている森を自然保護区にする戦いでした。
これはとても外国的な環境保護の戦いですね。 非常に政治的で、”先住民族” vs ”企業”という
”利権闘争”の世界です。
海外では要するに ”金儲け(経済)” と ”自然”が対立しています。
これは完全に経済学で解決できる問題です。なぜかというと、現在の経済学は、
”外部性”と言って、自然が提供するサービスをGDPなどの経済指標に入れません。
例えば
・森が二酸化炭素を吸収してくれるサービス
・森が土砂災害を防いでくれるサービス
・森や海洋が気候(気温)を調整しているサービス
・昆虫による受粉サービス
・きれいな空気、水、土、
などの”生態系サービス”を単に勘定に入れるのを忘れちゃっているのです・・・
一方で、例えばネガティブなものは勘定に入ります。
・交通事故で誰かが死んだら、保険がおりた → GDP向上
・空気が汚れて空気清浄機を買った →GDP向上
・猛暑でエアコンが売れた →GDP向上
・蜂がいなくなったので、機械を導入した → GDP向上
・・・エトセトラエトセトラ・・・
こうした”金に換算されない価値”はこれからどんどん換算されていくのではないか?
という気がします。
というのも、企業活動というミクロな部分で、会計学では、従来カネに換算されて
いなかったものすべてを換算する方向にシフトしているからです。 また排出権取引
などもその外部性を内部化する取り組みのひとつでしょう。
わたしはコレは西洋的な解決なのだ、と思います。あくまで人間の知性で解決するのです。
また、環境保護運動では、”カネ” vs ”自然” という対立構図に違和感を覚える多数の
市民が政治を動かし、保護区の獲得に結びつきました。
これも西洋的な解決法だと思います。あくまで”力の対決”です。
根本的な視野狭窄についてはあまり省みられることはありません。
■ 人間が絶滅したら、地球はよくなる?
一方で思うのが、”アリが絶滅したら生態系は崩壊の危機にさらされるのに、人類が
絶滅したら、地球の環境問題は解決する”といわれていることです・・・・。
アリより役に立っていない人間様・・・(汗)
ところが、日本では人間様はちゃんと生態系の維持に役に立っていたのです。
おそらく、大陸の先住民族だって同じです。生態系を織り成す、主人公の一人だった。
わたしが思うのは、日本人というのは、現代の先進国の人間、人種の中で
唯一、先住民であり、先進国である、という断絶の無い歴史をもった人たちなのでは
ないか?ということです。
アメリカ、カナダ、オーストラリアのいわゆる”白人系人種”の人たちには、日本の
里山のような、かつては生態系の一部だった、という自然と共生してきた歴史遺産が
ありません。 彼らにあるのは略奪の歴史、そして、覚えているのは、略奪して勝利した歴史です。
失敗したことは一杯あるでしょうが、ポジティブシンキングなので都合の悪いことは忘れているのです(笑)
つまり西洋と反省、という精神は相容れません。
そして、そうした国々で、自然との共生という歴史体験という遺産を持っている先住民達は、
追い払われ、まずは権力闘争に勝たねば、話も聞いてもらえない、という、おとしめられた立場にいます。
なんという遠回りでしょう!
こう考えると、唯一日本人だけが自然と共生した過去の体験を引きづりつつ、ホンマに
これでええんかい・・?といぶかしく思いながらも、今は西洋に追いついて進歩あるのみ、
と自分に言い聞かせ、”とりあえず”西洋から学んでみた・・・けれども、やっぱり上手く行かないな、
と反省できる立場にあるのです。
自然破壊は所詮、西洋からの”借り物”、要らなくなったらいつでも捨てれる!と豪語できる
人たちで、なおかつ、先進国の技術土壌を持つのは日本人だけ、とは思いませんか?