-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

背中炙り峠以外の畑沢村集落内の古道ルート

2015-03-06 10:02:15 | 歴史

 これまで背中炙り越えの古道については、何度か投稿してきました。中でも峠付近の古道のルートについては、素人なりに苦労しながら頑張って調べましたので、それなりの成果を上げることができました。しかし、背中炙り峠に入る前の畑沢村集落内での古道ルートについては、現地形での確認が困難なことと「ヘヤミ」な性格が災いして、全く進みませんでした。ところが、畑沢で先輩たちと雑談をしているうちに、少しの糸口が見えてきました。加えて、以前読んだ本をもう一度読み返したところ、さらに形が見えてきました。そこで、「畑沢のまとめ」に書き加えている所ですが、少しでも早く閲覧していただきたく、今回、いつものように恥をかくことも恐れずに投稿いたします。以下を御覧ください。

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下畑沢と中畑沢の古道ルート
 尾花沢市史編纂委員会発行「村差出明細帳」には、正徳四年(西暦1714年)に延沢領畑沢村名主の九右衛門らが、時の代官の秋山彦太夫に宛てた「正徳四年 畑沢村高反別村差出明細帳」があります。これには、次のような記述があります。


  ……
一、往還道筋ハ、堂か沢と申所ゟせなかあふり峠迠作り申候、御巡検之御通り之時分ハ、大山ニ御座候間、隣郷ゟ人足かり申候而、峠ゟ一之渡戸と申所を作リ申候
  ……


――現代語訳――


一、行き来する道は、堂が沢と言う所から背中炙り峠まで作りました。巡検が来られる時は、大山(現在の鶴岡市の大山地区)におられる間に近隣の村から人足を借りて、峠から一の渡戸という所までを作りました。

 

 昔、畑沢は堂が沢から始まるという認識だったようです。今ですと、松母の林を抜けると畑沢というイメージです。松母と堂が沢の間に住宅が建てられたのは、昭和になってからのようですので、昔は荒町の集落を出ると堂が沢まで何もなく、堂が沢の近くまで荒町が続いていたということだったようです。確かに、荒町の火葬場が松母の墓地を過ぎて、しばらく畑沢側に進んでから東側にあったような話を聞いたことがあります。暗くなってから学校からの帰り道では、怖い思いをして通りました。
 堂が沢から始まった畑沢の中を通る古道は、現在の県道と同じとの見方がありますが、別のルートの可能性をおっしゃる方もいます。そのルートを追ってみます。それは、堂が沢から岡田沢、山楯、荒屋敷を通る山沿いのルートです。昔の道は、山沿いにあるのが通例ですから、その可能性は十分にあると考えられます。堂が沢から岡田沢への山沿いの道は、今はありませんが、昔あったものがその後に不要となって消失した可能性があります。岡田沢から山楯、荒屋敷へ通じる道は、耕運機が一般的でなかった時代でも幅が2mほどあり、畔道にしては広過ぎるほどでした。江戸時代の街道としての基準である「七尺(約2.1m)」ともほぼ同じ幅です。ただし、岡田沢から山楯までの途中にある北の沢から荒屋敷までの道は、近年、自動車が通れる生活道として拡幅・舗装されましたので、昔の面影はありません。


 また、山楯のことについて、「南出羽の城」(保角里志著)に次のように書かれています。

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畑沢楯跡 下畑沢集落東の丘陵突端にあり、山楯や荒屋敷の地名があり、古瀬蔵人が楯主であったと伝えられる。楯跡には、階段状に曲輪があり、高所の主曲輪は畑地開発、先端の曲輪は住宅建設によって消失し、その間の二つの曲輪だけが残っている。縄張り図は、未作成である。なお、楯跡の前の道は、延沢と背炙峠を越えて楯岡・山形を結ぶ重要なルートであった。



 「山楯の前の道」とは、正に岡田沢から荒屋敷に向う道です。保角里志氏が、何を根拠にしてこのように断じているかは分かりませんが、現場の状況から見ても間違いないことのように思います。
 ところで、荒屋敷に住む大戸M氏によると、「下畑沢の地名が荒屋敷を中心にしたものになっている」とおっしゃっていました。そのことから古い道との関係を探ってみます。「西の沢」「東の沢」「北の沢」「南の沢」「向かい」の地名は荒屋敷からの方角です。荒屋敷が下畑沢の中心部であったことを伺わせるものです。確かに「向かい」の有路一族は、最上家の改易に伴う野辺沢家の領地没収後になってから畑沢に定着しました。その前には、「向かい」の集落は、なかったか又はほぼなかったとものと思われます。そうすると、当然、古道が荒屋敷を通っていたことは十分に考えられると思います。ただし、その後に変わったことも十分にありうることです。さて、荒屋敷に古道があったとしたら、そこから中畑沢へつながるには、千鳥川を渡らなければなりません。どの位置に橋があったのかは、難しい問題です。水田の改良工事が行われる前には、荒屋敷から旧分校の方へ進む畦道がありました。道幅は2mよりはずっと狭かったのですが、その近くに石仏「馬頭観世音」がありますので、一つの有力なルートと考えられます。
 さらに荒屋敷から中畑沢を通る昔の道は、ほぼ現在の県道と重なっていますが、古瀬K氏によると、昔の道は微妙に県道から左右に外れて山際に沿った形で曲がっていたそうで、その場所の一部が「作業場跡」「炭貯蔵庫跡」だそうです。それよりも南の中畑沢における古道のルートは、現在の県道と一致しているとも言われています。ところが例えば、江戸時代に関嶺(寒嶺)和尚が幼い頃に住んでいた場所は、稲荷神社への登り口ではなくて、もっと東側で千鳥川にほど近い場所だったという伝説もあります。そうだとすると、荒屋敷方面から続くルートが現道よりも東側にもあったのかもしれません。


 
下畑沢・中畑沢内の古道推定ルート(赤い線)


 
 上畑沢になると、そのような言い伝えもありませんし、昔の道型もないので、現道に沿ったルートのままなのでしょう。特に上畑沢の延命地蔵堂には、街道沿いに見られる沢山の石仏がありますので、街道がここを通っていたのは、間違いないことと思います。巳待供養塔が街道を挟んで延命地蔵堂の向かい側にありましたので、昔の街道が現道の位置とまったく同じであろうと思います。

 


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