LiC通信

本の紹介を中心に、その時期に感じたこと思ったことを書いています。

「そ・わ・か」の法則 人生を輝かせる実践方程式

2007年08月31日 | 不思議な世界

世の中には理由はわからないけど、こうするとこうなる、

 

ということがまだまだ沢山あります。

 

それを解明するものが「学問、研究」といわれる分野なのでしょう。

 

「そ・わ・か」これは般若心経の最後の部分に「ぼじそわか」というくだりがあります。

 

「そわか」とは「事が成る」「事が成就せり」という意味だそうです。

 

実生活での「そ・わ・か」は

 

そ=掃除、わ=わらい、か=感謝だそうです。

 

トイレ掃除をすると、お金が入ってくるそうです。本当でしょうか?

 

ここでいうトイレ掃除とは、自分が使ったトイレはきれいにしておく、

 

使った後はきれいにして出るということです。

 

自宅のトイレならいざ知らず、公共のトイレのマナーの悪さに驚くことが多いですよね。

 

もともと汚れているからついつい、なのでしょうか?

 

とにかくトイレをきれいにしておくとお金や、仕事が回ってくるそうです。

 

なぜだかわかりません。でもこれを何人もの人が経験されているそうです。

 

ただまわって来るのと貯まることとは別です。

 

笑いが健康に良いということは、随分科学的にも証明されてきました。

 

皆さんも異論は無いと思います。

 

感謝の言葉「ありがとう」は

 

「あるがままを全部認めること、受け容れること」だそうです。

 

また「ありがとう」とは「有難う」とも書きます。

 

つまり「難があるときに使う言葉」ということも言われています。

 

いやなことがあったりすると、人は暗い気持ちになり、

 

其の気持ちが何時までも尾を引きます。

 

そんな時に「有難う」といって其の災いから縁を切るためにも使うと良いそうです。

 

今起きていることを全て受け容れて「ありがとう」と言う。

 

なかなかいやなことがおきている時に「ありがとう」とは言えないですよね。

 

でも「ありがとう」この言葉にはとても大きな力があるそうです。

 

言葉でなく気持ちじゃないのと思います。

 

でも心がこもっていない「ありがとう」でも力があるそうです。

 

そして「ありがとう」を言い続けて臨界点を超えたときにとても不思議なことが起きるそうです。

 

科学万能時代。

 

科学で解明されていないことはなかなか受け容れてもらえない世の中です。

 

でも少し考えてみてください。

 

科学も人が考え出した一つの学問に過ぎません。

 

そして其の学問に当てはまるものもまだまだ一部分に過ぎないのではないでしょうか?

 

昔人々が不思議と思ったことも、どんどん解明されてきています。

 

今の時点では解明されていなくてもいずれは全て解明されるかもしれません。

 

解明されなくてもそこに事実はあるはずです。

 

それが事実かどうか自分で確かめることが一番でしょう。

 

先ずは行動を!

 

「そ・わ・か」の法則


神との対話

2007年08月29日 | ノンフィクション

前回、「神との対話2」をご紹介した。

 

内容があまりに強烈だったので1巻も3巻も読みたくなった。

 

私は小学生のころから日曜学校に通っていた。

 

 家族には誰一人キリスト教の信者はいない。

 

何故1人で教会に通っていたのかいくら考えてもわからない。

 

そして、日曜学校でどんなことをしていたのかも思い出せない。

 

高校は親の勧めでカソリックの女子高に通うことになる。

 

しかし私はプロテスタントの教会に通い始め、洗礼まで受けてしまう。

 

この頃の私は、厭世的というか、何をしてもたのしくなく、

 

丁度この本の著者が神に不平を述べた様に、

 

私も日曜学校に通っては、神父様に質問をしていた。

 

でもそのときの答えは、最後には「神のみぞ知る」を聞かされた。、

 

その答えに「これは詭弁ではないか?」と思い始め、

 

何時しか教会に距離を置き始めた。

 

それから大学、結婚、就職、子育て、など平凡な人生を送る中でも、

 

いつも「この世の中ってどうなっているのだろう、

 

私は何のために生きているのだろう、という疑問は付きまとった。

 

その答えを探す為に、沢山の本も読んだ、講演会にも行った、

 

そして神社や仏閣もお参りした、霊能者と呼ばれる何人かの人にもお会いした。

 

しかし、なかなか胸にすとんと落ちる答えは無かった。

 

だが、この本にであって、そのもやもやした思いが一気に払拭された。

 

それと同時に、自分が考えていたことでよかったんだ、という確信を得た。

 

そして、今まで経験してきたことは、全て必要があり無駄なことは何も無かった。

 

そう2年前の入院も。

 

そうなるべくしてなったということがわかった。

 

その経験があるからこそ、今この本に出会い、

 

まるで絡まった糸をほぐすように、今までの疑問が解けた。

 

肩の荷が軽くなった。もう何も心配も不安もいらない。

 

なんと言う感動だろうか。大いなる存在を信じて生きて行きたい。

 

そして、いよいよ3巻目、宇宙について書かれているそうだ。

 

いまからワクワクする。

 

この感動をあなたにも!

 

神との対話―宇宙をみつける自分をみつける (サンマーク文庫―エヴァ・シリーズ)


神との対話2

2007年08月25日 | ノンフィクション

ある日アメリカ人のニール・ナルド・ウォルシュが自分の人生に様々な悩みを抱え苦しんでいた。

 

「どうして私の人生はうまくいかないのか」と怒りこめた手紙を神に書いた。

 

そして、ペンを置こうとしたときに、不思議なことにペンが自然に動き出した。

 

このようにして「神との対話」が始まった。これから3年間も続く。

 

全く信じられないような話だ。

 

中身は、教育について、セックスについて、政治について、経済について多岐に及ぶ。

 

10年前に書かれたとは思えないほど今の時代に当てはまる。

 

今の世の中がどうなっていて、その中で人はどうなっていて、

 

あらゆる矛盾は何処から生まれ、

 

それを解決するにはどうしたらよいか、ということまで話が及ぶ。それも具体的に。

 

この本は私たちが今まで抱いてきた疑問についてほとんど取り上げて答えてくれている。

 

「叩けよ、すれば開かれん。」そのものである。

 

私たちの世界は神から見ればとても原始的なレベルらしい。

 

之を書かせている存在が「神」であるということを除けば、実際、社会学、教育学、経済学や、政治学などが語られるような感じだ。

 

ふと読み進めていくうちに若い頃読んだマルクスの「共産党宣言」やエンゲルスの「空想から科学へ」を思い出させた。

 

 

対話の進み方がとてもユニークだ。たまには冗談も出てくる。

 

神様ってこうゆう存在だったの?と変な親近感を覚える

 

その中でもとても興味深い話があった。

 

宗教は神とは無関係だと。

 

偶像崇拝は、人間が「神」の存在を利用して、

 

あらゆる掟や罰則を、さも神が定めた様に人々に教え、

 

支配する側の人たちに都合よく使われてきたものだ。

 

決して神の意志では無いと。

 

罰が当たるとか、地獄に落とされるとかというものは全て人が作り出したこと。

 

この「神」に由る宗教否定がこの本の信憑性を高めている。

 

では、この本を書かせた意図は何処にあるのか?

 

今世の中は混迷を極めている。

 

多くの人々が、このままだと自分たちはどうなって行くのだろう?

 

そして決してこのままでよいと思っているわけではない。

 

しかし、人々はどうしてよいかわからない。

 

そこで、神がこのアメリカ人男性を使って語らせている。

 

それは人の意識の問題である。

 

今直面している様々な不幸を解決するには人の意識の変化が必要であると。

 

人の集合意識の変化が、世界を動かすと。

 

あまりにも個人的になりすぎた意識を今変えるべきだと。

 

なぜなら人の意識が今を創り出しこれからも創造していくのだから。

 

人のすることを「神」が判断したり、決め付けたり、ましてや罰したりしない。

 

真実を見て、ありのままの自分を見つめて行動しなさいと。

 

世界が平和である為には自分は何が出来るのか?

 

人を犠牲にしてまで手に入れたを幸せ、そんな幸せはありえない。

 

今、まさに時は究極の時に来ていると。

 

神との対話〈2〉宇宙を生きる 自分を生きる


危ないミクシィ 大流行!SNSの闇

2007年08月22日 | ルポ

こうしてブログを初めて2年が過ぎた。

 

初めは知り合いだけのアクセスが、いつの間にか知らない人まで広がった。

 

それがネットのすぐれたところでもあり怖いところでもある。

 

真面目なコメントや、感想はありがたいが、

 

アクセス数の増加に伴って全く関係のないトラックバックが多くなった。

 

ほとんどがアダルト系だ。

  

最近ミクシィというサイトへのご招待をいただいた。

 

紹介者がないと入れないというサイトである。

 

何だかとても特別扱いされたような気分になる。

 

しかし、どうもその実態がよくわからない。

 

そんなときにこの本に出会った。

 

最終ページに出版社のポリシーが書かれてある。

 

1.同時代の最も暑いテーマをいち早く取り上げます。

 

2.既成概念を疑います。

 

3.タブーに挑戦します。

 

いかにも正義の味方というイメージ。勿論中身は批判である。

 

ミクシィ(SNS)は2004年のスタートからわずか2年半で570万という会員数を得る。

 

ヤフーに継ぐ地位に躍り出た。

 

2006年9月14日に株式上場。

 

買い注文が殺到し、時価総額は2200億円を上回った。

 

しかし、それから1ヶ月足らずでミクシィに激震が襲う。

 

「ファイル共用ソフトのウイルスに感染した某会員の個人情報が流失し、その恋人の

全裸画像がミクシィ内で暴露されるという事件が起こった。既存会員の招待がなけ

れば参加する音が出来ない会員制、実名での利用を推奨していたミクシィの『安全

神話』が崩れた瞬間だった。」

 

ネットとは全世界に同時に開かれたものであり、何処でもだれでもアクセスできる。

 

平等に情報を入手でき、交換できる。

 

そこにあえて、シークレットな空間を設けているのはどういうことなのだろうか?

 

何か作為的な魂胆があるのでは?

 

疑問を抱かずには居られない。

 

ミクシィにはまり、

過剰に信頼し、軽い気持ちで悩みを相談して、心をずたずたにされた人、

 

タレントやモデルの情報交換がいつの間にか創価学会の集まりに、

 

知り合った女性にストーカー行為をされて転職、別居を余儀なくされた人・・・。

 

紹介が無いとは入れないからと思った安心感が逆に、

 

安心して無防備に自分の情報をさらけ出させ、

 

自分の知らない間にそれを何かに利用されているとしたら・・・と思うとぞっとする。

 

ともかく「絶対安心」などということは無いに等しい。

 

ネット上で、顔の見えない情報交換にはやはり最新の注意が必要だ。

 

ネットについて精通している人にはすこし週刊誌ねたの様な感が拭い去れない。

 

しかし私のようなネットについて詳しくない人には参加する前に一読を!

 

危ないミクシィ―大流行!SNSの闇 (Yosensha Paperbacks 23)


しぐさの民俗学 呪術的世界と心性

2007年08月20日 | 社会科学

「あのこのしぐさがかわいい」という言葉で

 

表情や動きのかわいい子どもが想像できる。

 

最近は「しぐさ」という言葉自体をあまり聞かなくなったし、使わなくなった。

 

この本でとりあげる「しぐさ」は呪術的な意味を帯びたものを取り上げている。

 

第6章に「エンガチョ」とある。

 

しぐさも言葉と同じようにその地方によって少しずつ違いが見られる。

 

この「エンガチョ」は子どもの間でよくつかわれる。

 

道端の動物の排泄物を誤って踏んだ時、

 

そばにいた子どもたちは「エンガチョ、エンガチョ」を連発して

 

自分とは関係ないことを強調する。つまり縁を切るのだ。

 

その時、言葉だけでなく動作が伴う。

 

「エンガチョのしぐさ」も10種類にもおよぶ。

 

私の育った北大阪では、「エンガチョ」とは言わず

 

「ギッチョ」といって両手の人差し指のうえに中指を絡ませる。

 

「ギッチョ、ギッチョ」とよくはやし立てたものだった。

 

そうされて中には泣き出す子どももいた。

 

だれに教えられたのかもわからないが、

 

いつの間にかそんな風習が身についていた。

 

霊柩車に出会ったらどうする?

 

霊柩車が自分を追い越してきたら不幸が起きるが、

 

向かってきた霊柩車に願い事をすると叶うと、私は教わった。

 

この本によると、霊柩車にであったり、お葬式の前を通る時は親指を隠すとある。

 

これは邪悪なものの類が指先、

 

特に親指の指先から侵入すると考えられてきた結果のようだ。

 

「くしゃみ」は自然現象化と思っていたが、

 

実はくしゃみ一つにも呪文が関係している。

 

又、息を吸うしぐさや吹くしぐさにもいろいろのいわれがあるようだ。

 

どのしぐさも、最初は忌み嫌うことから身を守る方法として、

 

また嫌悪の表現の仕方として自然に生まれて広がったものだろう。

 

そのうちにそのもの自体に歴史的背景や、

 

意味が盛込まれもっともらしい風習や習慣となっていったようだ。

 

しかしどの地域にも同じような風習やしぐさがあるということに驚く。

 

百匹目の猿現象ではないが、

 

やはり同じ知能の人間が考えることは、形や動きに多少の違いはあっても、

 

感情や心理的には同じような反応を起こすということではないだろうか。

 

そう思ってひとの行動を観察すると意外な発見が出来そうだ。

 

しぐさの民俗学―呪術的世界と心性


吉永小百合 街ものがたり

2007年08月15日 | エッセイ

吉永小百合。永遠のマドンナ。そんな言葉がぴったりです。

 

それは容姿だけのものではありません。

 

彼女の人生観、生き方もが多くの人々に共感を与えるからでしょう。

 

原爆の「詩」の朗読を始めてもう20年。

 

「これは人のためでなく、自分のためにしているのです。」

 

それを聞いて育った子どもたちが命の尊さや、大切さを吉永小百合の言葉、声で原爆の詩を聞くことによって何かを感じ取りました。

 

そしてその子どもたちもまた、彼女のように「詩」の朗読を始めたり、命を守る仕事に就いたりしました。

 

とても大きなことです。

 

今日は終戦記念日。あの悲惨な戦争が終わってもう62年もたちました。

 

しかし、まだその戦争の傷跡が癒えないで苦しんでいる人が沢山います。

 

それなのに又私たちの国はあの悲惨な戦争へ国を導こうとしているように見えます。

 

吉永小百合は旅行が大好きです。

 

11歳で子役でデビューしてから、自由になる時間や、場所が制限され、ストレスで声が出なくなったこともあったようです。

 

そんな時旅をすることによって気分をリフレッシュさせてきたようです。

 

1人で知らない街を訪ね、遺跡をめぐり、その土地の歴史を振り返ります。

 

又映画の舞台になった場所を訪れその思い出に浸ります。

 

自然の中で大きな空や雲、小川のせせらぎを聞いているだけで心が洗われるようです。

 

この本は1999年に出版されました。

 

当時旅での失敗談やエピソードを交えて訪れた街の様子をおしゃべりするラジオ番組がありました。それを本にしたものです。

 

様々な街の風景が、吉永小百合という人を通じて映し出されてきます。

 

いつでも何処でも行きたい時に好きな場所を旅することが出来る。

 

これは平和でなくてはできないことです。

 

平和であることの素晴らしさ、大切さを再確認しました。

 

吉永小百合 街ものがたり


右翼と左翼はどうちがう?

2007年08月08日 | 社会科学

右翼・左翼、いずれも言葉はよく耳にするが、果たして中身をどれほど知っているのだろうか?

 

著者も19歳の時にこれらの言葉を耳にするが、

 

右翼は「黒塗りの車に乗って叫んでいる怖いお兄さん」、

 

左翼は「自分が生まれる前にデモとかで火炎瓶を投げたりヘルメットをかぶっていた人たち」ぐらいの認識しかなかった。

 

その彼女が21歳でいきなり右翼団体に入会する。

 

その後愛国パンクバンド「維新赤誠塾」を結成、ボーカルをつとめる。

 

その時、たまり場となっていたところは右翼の人も左翼の人も集まっていた。

 

やがてバンドにも左翼の人がメンバーとして加わってくる。

 

次第に左翼の考え方にも触れて行く。

 

そんな彼女の経験を元にこの本は書かれた。

 

右翼も左翼も究極的な目的は同じ、世界の平和、人類の幸せを目指している。

 

なのにどうしてみんな仲良く話し合えないのか、という疑問を彼女にもたせた。

 

それはお互いがお互いを良く知らないからではないだろうかとも彼女は思い始める。

 

安保の問題、憲法の問題、天皇制の問題、アメリカの問題など、それぞれの問題に対する見解がちがう。

 

それは10人いれば10の考え方があるように、人の数だけ考え方がある。

 

それは仕方の無いことなのかもしれない。

 

それを超越して、話し合あって一致点で協力し合うしかないのかもしれない。

 

しかし、一致点での協力関係も団体同士、政党同士ではなかなかうまくまとまらない。

 

お互いの利害関係が絡んでくるからだろう。

 

この本を読んでみて、純粋に物事を考えている人たちは、

 

「現状のままではいけない、何とかしなくては!」という結論に達し、

 

方法として極端な道を選んでいるようにも見える。

 

これは純粋な考え方故の表現なのかもしれない。

 

この本に彼女は6人の左右の人を紹介している。

 

どの人の話にもうなずく点が多かったようだ。

 

右翼と左翼どちらが正しいという結論はまだ出ていない。出せないようだ。

 

しかしみんな信念を持って、ポリシーをもって真剣に生きている姿は素晴らしいと感じた。

 

今の世のなか矛盾だらけである。

 

生きていくうえで何も考えなくても、これらの矛盾に目を向けなくても生きていけるかもしれない。

 

しかし、知らないことが自分たちを幸せから遠ざけている大きな要因だとしたら如何だろうか。

 

世の中を支配するものにとって、支配される側の「無知」ほどやりやすいものは無い。

 

何も知らずに自分は幸せだと生きていくか、

 

それとも、少しいろんなことに目を向けて疑問を持つことが大事なことかもしれない。

 

「無知は罪である。」

 

右翼と左翼はどうちがう? (14歳の世渡り術)