私は、女子学生の就職難を尻目に、首尾よく泥船に乗った。しかし、その時点で私は社会性も身についていなければ、学問は中途半端、女権論を胸に秘めたトンデモナイ女だった。学際的学問の国際関係論の出なので、リーガルマインドも無ければ、経済理論を振りかざすほどの知識もなかった。傍から見れば、使い者にならない女だったのだ。私自身も、海外で活躍するつもりが異なる分野に入って、苦難の道を踏み出したのである。
面接のとき。「国際に興味ある人がなぜ厚生省を選んだのですか」「経済発展論をずっとやってましたので、南北格差が私のテーマ。経済格差に対し所得再配分が厚生省の仕事ですから、類似と思って」「?」。「あなたは、将来結婚したら、仕事はどうしますか」「私は結婚しません」「!」。その後私の結婚式に出たこの時の面接官が「あれは嘘だったんだね」とスピーチした。
採用されてから11人のキャリア組は研修旅行に出た。10人の男性はバスの中で、みな私の隣に座るのを嫌がった。しかし、子供の時から男の子に嫌われるのは慣れていたから「ここには当たり前の男しかいない」とだけ思った。群馬県の某学園での宿泊研修。翌朝、私財を投げ打って重症心身障碍児の施設をつくった女性の理事長が職員を集めて朝礼をした。驚いた。新興宗教の儀式だった。
私は、研修が終わっての報告文にこのことを書いた。「社会福祉法人は市町村に準ずるものとして作られた。宗教をベースにした福祉は好ましくない。福祉は、特別の哲学で行うものではなく、経済社会で必要とされるものとして考えるべきである」。我々の研修旅行を率いた面倒見の良い先輩が後の宮城県知事浅野史郎で、「研修報告で一番面白かったのは大泉の文だった」と褒めてくれた。褒められることの少ない私だったから、浅野さんには一生感謝している。
また、医薬品会社での研修で、さまざまの薬の説明があった後、私は、「なぜ薬の箱に値段が書いていないのですか」と質問。「それは・・・」と説明者は言い淀んだ。薬価が90パーセンタイルのところで決められることや、医師と医薬品会社の癒着など何も知らない私の愚問だったが、それに回答できないのも変だと思った。中医協の駆け引きで薬価が決められると知ったのはずいぶん後のことだ。
研修が終わると、私は、年金局に配属になった。1972年、翌年の年金大改正を控えた大変な部署だった。私は、全く訳が分からずに仕事をしていた。年金法など読んだって附則は多いし、何のことやらさっぱりわからない。解説書も見当たらない。社会保険庁出身の職員に訊きながら、毎日、頭を痛めていた。国会質問は、毎晩何十問と出る。私の役割はコピーを取ることくらいだが、当時は、青焼きで、何回かコピーを取ると紙が破れ、書き直しをしなければならなかった。
つらい一年だった。周囲の目も「有資格(キャリア)の女性にしては出来が悪い」と見ていたはずだ。そんなとき、年上の人が時折飲みに誘ってくれた。新宿にあるコクテイルという店だ。初心者向けのジンフィズなどを飲みながら、だんだん酒が好きになっていった。そういえば、我が家系は大酒飲みである。ただ、初めての出張で、岡山県に行って酒を勧められるままに飲みすぎてぶっ倒れたのを課長に咎められ、日本酒だけは飲まないようにしようと決め、今日まで守っている。洋酒、ビール、最近ではワイン党だ。
官僚になろうと思ったわけではない、法律を勉強したわけでもない、厚生行政に興味をもったわけでもない、そんな私がここに身を置くのは間違いだ。私は次第にそう思うようになっていた。初志貫徹で大学院に入り、再度学者を目指すべきか。悩みを抱えつつの最中、2年めに社会局老人福祉課に異動した。福祉の仕事は年金大改正の仕事よりもゆったりしていたので、継続する気力が戻った。しかも、この課で出会った森幹郎老人福祉専門官は私の行政マン人生の指南役になった。
森さんは名古屋大学を出て、若き日の十年近くを結核の療養で天井ばかりを見て暮らした。治癒してから厚生省に入った。1950年の総理の諮問機関である社会保障制度審議会は、ゆりかごから墓場までの英国ベバリッジの考えをベースに社会保険方式を中心とした仕組みを社会保障制度の基本と決めた。しかし、森さんは私費で北欧に出かけ、北欧の福祉を学び、その方法論を導入することを一公務員としてやって来た。今日、厚労省の福祉が英国よりも北欧を倣ったのはひとえに森さんの功績があるからだ。
私は、国際的な仕事を求めつつも、同時に、森さんのように、厚生行政の中でテーマを見つけて徹底した行政をやりたいと思うようになった。森さんは公務員時代に既に全国的に有名になっていて、たくさんの本を著していた。「専門を持ち、本を書く」ことのできる行政マンを目指すのは、学者になろうとした私の気持に合ったものだった。