大泉ひろこ特別連載

大泉ひろこ特別連載です。

ウーマンリブ敗れたり(11)行政マンの専門性

2016-11-30 08:07:46 | 社会問題

 私は、女子学生の就職難を尻目に、首尾よく泥船に乗った。しかし、その時点で私は社会性も身についていなければ、学問は中途半端、女権論を胸に秘めたトンデモナイ女だった。学際的学問の国際関係論の出なので、リーガルマインドも無ければ、経済理論を振りかざすほどの知識もなかった。傍から見れば、使い者にならない女だったのだ。私自身も、海外で活躍するつもりが異なる分野に入って、苦難の道を踏み出したのである。

 面接のとき。「国際に興味ある人がなぜ厚生省を選んだのですか」「経済発展論をずっとやってましたので、南北格差が私のテーマ。経済格差に対し所得再配分が厚生省の仕事ですから、類似と思って」「?」。「あなたは、将来結婚したら、仕事はどうしますか」「私は結婚しません」「!」。その後私の結婚式に出たこの時の面接官が「あれは嘘だったんだね」とスピーチした。

 採用されてから11人のキャリア組は研修旅行に出た。10人の男性はバスの中で、みな私の隣に座るのを嫌がった。しかし、子供の時から男の子に嫌われるのは慣れていたから「ここには当たり前の男しかいない」とだけ思った。群馬県の某学園での宿泊研修。翌朝、私財を投げ打って重症心身障碍児の施設をつくった女性の理事長が職員を集めて朝礼をした。驚いた。新興宗教の儀式だった。

 私は、研修が終わっての報告文にこのことを書いた。「社会福祉法人は市町村に準ずるものとして作られた。宗教をベースにした福祉は好ましくない。福祉は、特別の哲学で行うものではなく、経済社会で必要とされるものとして考えるべきである」。我々の研修旅行を率いた面倒見の良い先輩が後の宮城県知事浅野史郎で、「研修報告で一番面白かったのは大泉の文だった」と褒めてくれた。褒められることの少ない私だったから、浅野さんには一生感謝している。

 また、医薬品会社での研修で、さまざまの薬の説明があった後、私は、「なぜ薬の箱に値段が書いていないのですか」と質問。「それは・・・」と説明者は言い淀んだ。薬価が90パーセンタイルのところで決められることや、医師と医薬品会社の癒着など何も知らない私の愚問だったが、それに回答できないのも変だと思った。中医協の駆け引きで薬価が決められると知ったのはずいぶん後のことだ。

 研修が終わると、私は、年金局に配属になった。1972年、翌年の年金大改正を控えた大変な部署だった。私は、全く訳が分からずに仕事をしていた。年金法など読んだって附則は多いし、何のことやらさっぱりわからない。解説書も見当たらない。社会保険庁出身の職員に訊きながら、毎日、頭を痛めていた。国会質問は、毎晩何十問と出る。私の役割はコピーを取ることくらいだが、当時は、青焼きで、何回かコピーを取ると紙が破れ、書き直しをしなければならなかった。

 つらい一年だった。周囲の目も「有資格(キャリア)の女性にしては出来が悪い」と見ていたはずだ。そんなとき、年上の人が時折飲みに誘ってくれた。新宿にあるコクテイルという店だ。初心者向けのジンフィズなどを飲みながら、だんだん酒が好きになっていった。そういえば、我が家系は大酒飲みである。ただ、初めての出張で、岡山県に行って酒を勧められるままに飲みすぎてぶっ倒れたのを課長に咎められ、日本酒だけは飲まないようにしようと決め、今日まで守っている。洋酒、ビール、最近ではワイン党だ。

 官僚になろうと思ったわけではない、法律を勉強したわけでもない、厚生行政に興味をもったわけでもない、そんな私がここに身を置くのは間違いだ。私は次第にそう思うようになっていた。初志貫徹で大学院に入り、再度学者を目指すべきか。悩みを抱えつつの最中、2年めに社会局老人福祉課に異動した。福祉の仕事は年金大改正の仕事よりもゆったりしていたので、継続する気力が戻った。しかも、この課で出会った森幹郎老人福祉専門官は私の行政マン人生の指南役になった。

 森さんは名古屋大学を出て、若き日の十年近くを結核の療養で天井ばかりを見て暮らした。治癒してから厚生省に入った。1950年の総理の諮問機関である社会保障制度審議会は、ゆりかごから墓場までの英国ベバリッジの考えをベースに社会保険方式を中心とした仕組みを社会保障制度の基本と決めた。しかし、森さんは私費で北欧に出かけ、北欧の福祉を学び、その方法論を導入することを一公務員としてやって来た。今日、厚労省の福祉が英国よりも北欧を倣ったのはひとえに森さんの功績があるからだ。

 私は、国際的な仕事を求めつつも、同時に、森さんのように、厚生行政の中でテーマを見つけて徹底した行政をやりたいと思うようになった。森さんは公務員時代に既に全国的に有名になっていて、たくさんの本を著していた。「専門を持ち、本を書く」ことのできる行政マンを目指すのは、学者になろうとした私の気持に合ったものだった。

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ウーマンリブ敗れたり(10)人生の選択

2016-11-29 08:09:30 | 社会問題

 1968年入学の東大文3ドイツ語クラス(L III 6B)。今年、ほぼ半世紀ぶりにクラス会を開き、女性はよく覚えていたのに、男性は思い出が少ない。当時、東大に入学する女性は100人位。大学教授の息女が多く、一般家庭では、「学歴は嫁入りの邪魔になる」との考えが強かった。現在では、受験勉強は真面目な女性の方が得意になっているのを考えると、社会の価値観の変貌は凄まじい。

 国立大学では2年間、第二外国語を修めなければならないが、なぜドイツ語を選んだかについて、夫々異なる。多くは、戦後の社会科学も自然科学も、圧倒的にアメリカが進んでいる認識の上で、日本は明治以来、独法、独医学などドイツの学問を中心に取り入れてきた経緯を重視したのである。級友の星野由美子さんは「ドイツリートを唄いたかったから」というのもあったし、級友長谷川ゆり子さんは、「マルクスを読むため」と言い切った。

 長谷川ゆり子さんは、入学して3か月後に始まった全学ストを推進した全共闘運動の中心人物になった。ヘルメットをかぶり、バケツに石ころを集めている姿をよく見かけた。「主体性よ、主体性」。彼女は言った。「主体的に体制を変えるの。黙って行動を起こさなかったら、体制にうずもれて生きることになる」。私には理解できなかった。この体制のどこが悪いのだろう。彼女は、高校生の時、男の子にふられた話をしながら泣いた。それが原因で左翼活動に走るのだろうか、私には理解できなかった。

 6月、全学ストに入って1年間授業がなく、全共闘や民青主催の討論会に出ると、口角泡を吹き飛ばす議論が行われているものの、私にはさっぱり分からなかった。私は、幼いと言えば幼かった。紛争の最中、中根千枝さんをめざすために、文化人類学や社会学の本を読み漁ったが、これまた、さっぱり面白くなかった。こんなに分からないことづくめで、私は人生をどうしよう・・・

 私は、社会学の大学院生が開いたマックスウェーバーの読書会に参加した。マックスウェーバーをドイツ語で読む自主ゼミだ。そのメンバーの一人が後の都知事舛添要一だった。彼は一学年上だったが、よく本屋で会うと、英語であれ、フランス語であれ、ドイツ語であれ、多くの本を買っていた。実際に彼は語学の天才で、その読むスピードの速さや読み込みの深さに私は驚いた。彼は、学者志望と言う。私はたじろいだ。学者志望とは、これだけ才能を持っていなければならないのか。

 討論会で有効な議論ができず、明らかに読書量は不十分で、何よりも学問に情熱が湧かない。一体私は、なぜ学者志望などと偉ぶったのだろう。無理だ。周囲を眺めると、東大の女子学生はその希少価値で、すぐにボーフレンドができたが、私にはそういうことは起こらなかった。相変わらず孤独で手持無沙汰の私の頭の中は、「学者でなければ、何をめざせばよいのか」が堂々めぐりしていた。

 一つの本が私を救った。ボーボワールの「第二の性」である。級友土井典子さんが高校時代に読んで感動したと聞いて、遅ればせながら読んだ。ああ。どの本も夢中にならなかったのに、この本は「もしかしたら、私自身が書いたのかもしれない」と思われるほど私の感情に沿って書かれていた。幾度も読んだ。「劣等の性では生きないぞ」。

 劣等の性では生きないということは、男女平等の職業を手に入れるということだ。しかし、医者とか弁護士とか教師とか男女平等が約された職業を決めずに、曖昧に学者になろうとした甘い考えでは、男女平等の職に就けるはずもない。研究者は、特に、そのころ女性には過酷な職業選択であった。東大の女性が大学院に入って、パーマネントの就職がないまま、一生を過ごしているケースは嫌というほど聞いた。学者の道に耐えるだけの、学問に惹かれた私ではなかった。

 大学が正常化し、2年生の終わりの進学振り分けの時に、私は、教養学部国際関係論分科を選んだ。世の中に出るには有利な学科だったからである。幸い、勉強得意の私は、教養課程の成績はトップクラスで、競争の激しい国際関係論に進んだ。だが、衛藤瀋吉教授率いる国際関係論は、つまらなかった。同時に、先輩女性の話では、確かに国際関係論卒は就職はいいが、男性だけのことで、女性の就職は狭き門だという。男性は3年生の時に就職内定をいくつも取り、銀行や商社や新聞社や外交官やらに進んだ。その反面、どこにも行き処のない女性の先輩を見た。東大出の女性は生意気なのでお茶くみに使えないと、民間企業は全て拒否していた。

 「結局・・」女性の先輩が言った。「国家公務員試験か都庁の試験しかないのよね」。当時、女性に門戸を開いていた官庁は、労働省、厚生省、通産省、文部省、公取くらいで、労働省を除けば数年に一度の採用だった。地方公共団体では唯一都庁だけだった。官僚になるつもりなら東大法学部を目指したであろう、私は官僚に良いイメージは持っていなかった。

 就職内定を取らず、通産省をめざす級友寺田範雄君に「国家公務員上級試験てどんなものなの」と聞いて事情が分かった。法律は国際法と憲法しか勉強しない教養学部卒が有利なのは経済職で受けることだ。東大経済学部は今だにマルクス経済学中心で、近経に弱い。教養学部では、計量経済学の第一人者内田忠夫先生が近経を教えているから、試験問題は分かり易い。私は、経済理論はまともに勉強していなかったが、経済発展論のゼミをずっととり続けていたので、経済職ならいけそうだと思った。

 寺田範雄君は、この三冊を読めば試験は受かると教えてくれた。試験まで3か月しかなかったが、寺田君の言うとおりにして、私は、辛うじて合格。寺田君は通産省に、私は厚生省に入った。

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ウーマンリブ敗れたり(9)女権論の芽生え

2016-11-28 08:08:29 | 社会問題

 練馬区立上石神井中学校から都立西高に入ったのは私と男子2人。男子2人は生徒の行状を評価する内申書がAだったが、私だけB。私は、遅刻がきわめて多く、学級委員もやっていなかった。集団を無視して、一人で勉強していた。当時、高校に進学しない生徒もいて、勉強好きな私の姿が気に入らなかったのか、「おい、お前、掃除当番サボるなよ」と嫌味を言われたり、「勉強だけしている奴なんて最低」とわざわざ告げてくる女子もいた。

 そうなのか、自分は誰も害していないと思うのに、自分の存在だけで嫌われることがあるのだと知った。癌で入院していた叔父の見舞いに行ったとき、叔父は、言った。「ようこ(姉)は美人だが、博子はみったくねえな」。みったくないは、仙台弁で醜いの意味だ。私の顔色を見て悪いと思ったのか、「でも、博子には才能があるからな」。その才能とは、母が私の書いた小説をこっそり叔父に見せていたことだと、後から知った。

 私は、小説家の夢をあっさりやめ、将来は、ぼんやりと「中根千枝さんみたいな学者」を描き始めていた。しかし、学問好きなのではなく、単に勉強好きなだけで、学問で何を極めたいかもわからなかった。後年、研究者になった息子に、「お母さんは学問の本質に迫らなかった。勉強の練習効果だけ」と批判されたのは当たっている。

 しかし、私とて人の子、人から「醜い」などと言われては、ならば、自分の得意なところで生きようと思うのは当たり前である。その上、私は家庭科の授業が大嫌いだった。手先が不器用で、裁縫はひとつも完成せず、料理はしょっぱくてまずいものが仕上がった。ぎすぎす痩せた中学校の家庭科の教師からは「あんたは馬鹿ですね」と言われた。「あんたこそ馬鹿」私は心で言い返した。「女の生き方はこれしかないと思っているのか」。

 都立西高に通い始めて気付いたのは、私の住む練馬区は学力が低く、同じ学区内の杉並区や中野区の中学からは、何十人の単位で都立西高に合格していた事実である。だから、彼らは群れをなしておしゃべりしたり、課外活動をしたり、集団の中心になって楽しい高校生活を送っていた。私はと言えば、相変わらず、集団とは関係なく、一人で勉強していた。当時、西高は毎年東大に130人前後の合格者を出していたので、定期試験で50番以内を確保すれば現役合格間違いなしと言われていた。私は、概ね現役合格組に入っていた。

 高校時代も思い出がない。文芸部に入って一回だけ短編を書いたが、すぐにやめた。遅刻を常習しながら、英語の授業だけ力を入れ、地域の図書館に通って勉強した。家庭では、両親の争い、姉弟との争いで勉強する環境にないと思い、図書館通い詰めの寂しい生徒だった。男子校だったから、女子はクラスに10人弱、取り立てて親しくなった人もいなかった。随分後になって知ったのは、都立西高卒の女性の多くは離婚しているということだ。意識の高い女子の集まりだったことは事実だ。

 高校生で男女交際をしていた人も相当いたが、私は、全く関係なく過ごした。小学校でも中学校でも好意を抱いた男の子はいたけれども、単に彼等が可愛い顔をしているからで、後年に及んで男性観の貧しさは、ひとえに青春時代に実践をしなかったことからくるらしい。それよりも、又しても私は、家庭科の教師とぶつかった。お茶の水出の先生は、「あなた方が家庭に入った時に困らないように・・」と授業の冒頭で言ったのを私は許せないと思った。全国トップの進学校に入学してきた女生徒に対して失礼ではないか、と憤慨した。自由な校則で知られる西高だったから、私は、家庭科の授業を最大限さぼり、授業に出ても英語の本を読んでいた。

 家庭人とならない、学者になる、英語を使って海外で活躍する、というくらいの将来の夢はできてきたが、何の学者になるかは定まらなかった。とりあえず、東大文3を受験するかと思った。母は「法学部に行きなさい」と言ったが、父は「俺の親父は技官で出世が遅れたので、俺には法科に行けと口酸っぱく言った。でも、法科はつまらなかった。俺は歴史学者になりたかったんだ。そう言えば親父も、その父から地主の息子は農学部しか許さぬと強制された。博子は好きな道を自分で選びなさい」。

 私は、大学に入ってからのことだが、最終的に国際関係論を選んだ。国際関係論は国際政治学の一部であるが、第一次世界大戦中、イギリスで「いかにしたら戦争の起こらない社会を作れるか」の観点から創設された学問で、第二次世界大戦後はアメリカで発展した。GHQが、「日本が戦争に負けたのは地域研究を怠ったからであり、地域を政治、経済、社会、自然、文化など学際的に学ぶ学問が必要である。学部に分かれてタコツボ的な学問だけでは実践力がない。東大にアメリカ式の教養学部を創設し、地域研究をやらせよう」と決めた。私が大学に入学するころ、国際関係論は東大にしかなかった。1980年代になって、どこの大学も国際関係論を創設するようになり、今や恥ずかしいほど当たり前のミーハー学科になった。

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ウーマンリブ敗れたり(8)寂しい十代の希望

2016-11-27 08:31:02 | 社会問題

 練馬区立上石神井小学校で高学年を過ごした私のそのころの記憶はノッペラボーのようなもので、心躍る思い出は何一つない。学校では、勉強も友達づきあいも好い加減だった。家庭では、相変わらず父母の口論が続き、つまらぬことで姉弟喧嘩はよくしていた。私は漫画家になろうとせっせと漫画を描いていたが、いつもストーリーに行き詰って、何度も最初から書き直しては捨てた。「きっと漫画家は向かないだろう」。しかし、将来の夢を他に持つことはなかった。

 5年生の時、6年生の卒業式で「送辞」を読む役割を果たしたので、それなりの評価はされていたのかもしれないが、姉は学芸大附属中学に進んだのに、私は入学試験に落第した。家庭では、早速私のあだ名は「ラクダ」になった。区立上石神井中学校に進んだ私は、自分は価値のない人間だと思うようになっていた。

 ただ、私は小学校入学時は前から2番のチビだったはずが、6年生から中学2年にかけて勢いよく背が伸び、162センチになった。当時は、女の子の160センチ台は高かった。同時にスタイルがよくなって、体操の時間に「かっこいい」と人生初めて容姿で褒められるようになった。そのころ、私は漫画家志望を卒業し、小説家をめざして暇あれば小説を書いていたが、いかんせん、今度もまたストーリーに躓き、「人生体験のない、ノッペラボーのような日々から小説は生まれない」と認識するようになった。折しも、母が私の小説を持ち出し、ガンで入院中の叔父に密かに見せていたことを知り、恥ずかしくて泣いて、筆を折ることにした。

 中学に入って私を悩ませたのは、Yさん(この人の名前は書かないことにする)という、美人で背が高く、学年で一番の成績を取っていた女の子だった。なぜか私の傍に来て「あなたは原始人みたいね」と執拗に囁いた。今で言えば「いじめ」なのだろうが、私は反論できなかった。一年生のある時、彼女は私の下敷きに所狭しと原始人の文字をいっぱい書いた。私は、ホームルームの時間に、意を決して、手を挙げて言った。「みなさん、こんなことをする人がいるんです。人の物にいたずら書きをしていいんですか」。Yさんは、真っ青になった。まさかおとなしい私がクラス全員の前で発言するとは思いもよらなかったらしい。

 彼女は洗い場に行って下敷きを洗い、私に返した。そして、二度と原始人の言葉を私に言うことはなかった。いや、それ以上に、自他ともに認める優等生の自分が「犯人」にされた恥ずかしさからか、だんだんその輝きを失うようになった。私は、二年生の二学期、彼女を抜いて、学年で一番の成績になった。その時から私は、この地位は絶対に奪われないぞと決心をした。

 私は、1965年、当時東大進学率が都立日比谷高校に次いで二位の都立西高校に入学した。都心から東京の郊外に移り住んだ中産階級の子弟たちの集まりで、伝統的な日比谷高校に比べ、過剰に生徒を受験に駆り立てず、むしろ生徒の自由を大事にする学校だった。都立高で唯一、服装自由の高校でもあった。1967年、東京都の小尾乕雄教育長は受験勉強是正のため学校群制度を導入し、その後、都立高校の名門は没落していくことになる。都立西の先生の多くは学校群導入と同時に、大学の先生に転出した。それほど教員のレベルの高い高校であった。

 その頃、受験戦争という言葉は作られたものの、団塊世代の4年制大学進学率は20%台で、予備校なども少なかった。私自身も塾などに通ったことはない。当時、塾とは勉強についていけない子供のための存在だったのだ。だから、今のように受験技術を学ぶ必要はなく、普通に勉強していればよかった。東京と地方の差はあったかもしれない、しかし、理数科目に差はなく、英語の先生のレベルの差だけだったと思う。

 都立西の教育で今も感謝しているのは、英語の授業である。教科書ではなく、文学作品をそのまま読ませた。ラフカディオ・ハーン、オスカー・ワイルド、ジョージ・オーウェル、そして難解なトーマス・ハーディーやバートランド・ラッセルまで、原文を読むことが教育だった。一ページ毎に単語はすべて辞書で引かねば読めないくらい難しかったが、生涯身についた教育であった。五高・東大文学部卒の石井学先生は恩人だ。先生も学校群制度に反対して、共立女子大学に転出してしまった。

 十代は、集団から離れ、ひとり勉強する孤独な生活になった。級友が色気づいて男女交際を始めたり、映画やテレビ番組に夢中になったりしているのを、私には関係ないと目もくれずに過ごした。その中で、中根千枝さんが、1962年、初の女性東大助教授になったことと、1966年、ボーボワールがサルトルとともに来日したことは、少なからず私の人生に影響を与えた。

 開発途上国で実績を積みながら研究者として上り詰める中根千枝さんに憧れ、ボーボワールがサルトルと「契約結婚」をしている事実には心を奪われた。おぼろげながら、中根さんのように生きたい、また、結婚するなら、一生の相手ではなく、契約結婚くらいがいい、そう思うようになった。寂しい十代のかすかな希望であった。

 

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ウーマンリブ敗れたり(7)異なる価値観

2016-11-26 15:15:25 | 社会問題

 東京は概ね山手線の西側の山の手と、東側の下町に分かれる。山の手は丘陵地だが、勤め人の住宅地であり、下町は商売の街であった。高見順の「如何なる星の下に」が映画化された時、貧乏物語を見て、山の手の映画館では人が笑い、下町では人が泣いたと言う。かつて東大で社会学を教わった松島教授の話である。山の手は相対的に教育と所得が高く、外からやって来た人々の街、下町は江戸っ子を自認する人情の街という違いがあった。

 その山の手の人々は、終戦後までは借家に住んでいた。戦前は借家が当たり前で、新宿や渋谷と言えども都心から見ればまだ田舎だった。戦前、官吏だった祖父母が麹町から新宿近くの初台に越してきた。新宿区制が敷かれたのは1947年、新宿は戦後の発展は目覚ましく、今に続くまで東京の中で乗降客が一日350万とダントツのトップである。

 新宿へは京王線で一駅、渋谷へはバスの便で、週末はよく一家で外食をした。1950年代のことだから、現在のファミレス外食の元祖と言える都会の生活だった。もっとも、新宿なら三平食堂、渋谷なら渋谷食堂と、大衆食堂に決まっていて、食べるものはいつもお子様ランチだった。小学校に上がって渋谷区の歴史を習ったとき、「渋谷区で有名なものは何でしょう」との先生の質問にほとんどの子供が「渋谷食堂」と答えたのは、多くの家族が同じ行動をしていた証拠である。

 新宿西口のガード下には、たくさんの乞食、アコーディオンを弾く傷痍軍人がいた。渋谷の高架線下は靴磨きが多かった。その光景が私の人生の原風景だ。私は「うさぎ追いし」で始まる故郷の歌に違和感を覚えてきた。私の心の原風景に山も川も緑もないからだ。まるで外国の歌なのだ。私が、後にインドに赴任した時、人の熱気であふれる猥雑なインドの街に溶け込めたのは、幼児体験からくるものだ。私は、行き交う人々の真っただ中にあって、誰と語るのでもないが、その集団の一部をなす自分に安心感を覚える。本当は何も語らぬ大衆の中で孤独であるはずだが、そこは私の居場所であるとの安堵感に浸れる。

 大学生の時、級友の女性と富士山を見に行ったが、私はすぐに退屈し、3日間山を見ていたいと言う友人と別れて、半日で新宿に還ってきた。新宿で、喫茶店の二階から交差点を行き交う人々の大量の集団を見たとき、私は、落ち着きを得た。富士山は、私には威圧的で、友好的存在ではなかった。哀しいかな、大衆の中にあることを好み、人間社会の科学を志し、他方で、自然に親しむことなく、会話を交わさない大衆を客観的に観察するだけの、私の寂しい人生を象徴する出来事だった。

 1959年、慣れ親しんだ都会の生活を離れ、我が家は練馬区上石神井に引っ越すことになった。練馬区や世田谷区は当時、まだ畑が広がり、開発が遅れていた。都市ガスも上下水道もなく、キャベツ畑や練馬大根の畑の中に、都会から引っ越してきた新築の家が点々と立つような風景であった。そればかりではない、女の子のスカート丈が長く、当時新宿付近ではテレビはほぼ全家庭にあったが、練馬区では持っている家庭の方が少なかった。東京の中でも、地域格差が大きい時代だったのである。

 私は、練馬区上石神井に、1975年アメリカに行くまでの16年、さらにアメリカから帰って結婚するまでの4年を過ごした。勉強し、人生を作りあげていく若き日々であるが、なぜか練馬区での地域的な思い出は少ない。学校集団、仕事集団の中の自分しか思い出せない。それも、いつも集団に身を置きながらも、決して集団の中枢になく、孤独に過ごす自分であり続けた。

 1959年4月、4年生で転校する。練馬区立上石神井小学校。その2学期の学級委員の選挙の時に、私に1票だけ入った。圧倒的多数の票は岩田さんという「美人」の女の子で、彼女が学級委員になった。休み時間に、永井啓一君という極めて頭の良い男の子が私に近づいてきて、こう言った。「僕は君に入れたんだ。僕は頭のいい女の子が好きだからね」。

 ふ~ん。私は相変わらず、男の子からブタなどとなじられていたが、異なる価値観を持つ人間がこの世に一人でもいることを知ったのだ。永井君は、4年生の時だけ一緒で、中学は進学校に行ったため、存在を忘れていた。しかし、都立西高で再会し、東大も現役で一緒に入学した。

 私自身も、いつも集団の「正会員」になれない自分という体験を重ねつつ、いつしか異なる価値観を持ち始めていた。周囲の俗物集団に嫌気がさしてきたのである。笑い、さんざめき、意地悪をし、悪口を言う、そんな当たり前の日常が疎ましくなったのは、人生の早い時期に訪れた。

 

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