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大泉ひろこ特別連載

大泉ひろこ特別連載です。

読者の皆様

2014-10-25 14:45:22 | 社会問題

 「老人大陸の平和」は、32回をもって終了します。ご高覧を感謝申し上げます。1970年代、アメリカで多くのアジア人と出会ったのをきっかけに、日本とアジアとの関係を考えてきましたが、今後は、交流やビジネスの行動を起こしていくべきと思います。将来、同じテーマで臨場感のある現地報告を綴ることが我が夢です。

 次のテーマは、現政権が推進する「女性活躍政策」です。政策に携わる者として、あるいは個人として、半世紀近く関わってきたテーマですが、政策者である自分と個人としての自分の間には矛盾があり、葛藤してきたテーマです。そのために、公人としては、できるだけ避けたいテーマでありました。

 今、日本の針路を考えるとき、生産年齢人口が減少する中で、経済社会が女性をどう扱うかは国の盛衰を決定します。このテーマを堂々と議論し、日本の発展に資する必要があります。近々、連載を始めますので、今回もどうぞご高覧くださいますよう、お願い申し上げます。

                                               大泉ひろこ

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老人大陸の平和(32)終わりに

2014-10-24 10:18:55 | 社会問題

 連載の冒頭、筆者は、アジア人としてのアイデンティティを探索する我がライフワークについて語った。きっかけは、70年代のアメリカ留学で、多くのアジア人と戸惑いをもって付き合っていたからである。敗戦国日本に生まれ、アメリカへの強い憧憬とプラグマティズムに惹かれて、人事院長期在外研究員の機会を得、アメリカに渡った。そこで出会ったのは、アメリカに「勝った」ベトナム人、かつて日本が殖民地化した台湾人や韓国人、理解不能なインド人やイラン人であり、アジアをどう理解するかは必須の課題となった。

 帰国して6年後、厚生省からユニセフのインド事務所に出向する機会を掴んだ。ガンジス川を越えればアジアではないの諺に反して、アジア的な価値をインドで学んだ。3年余の滞在で、自分の持つ文化がアジア大陸に起源するものであることを確信し、大きな家族、集団主義、アニミズム、集団内外の序列、人付き合いのルール、食文化の豊かさなど定住農業に起因するであろう社会に親近感を覚えた。間違いなく、日本人であることはアジア人であると断言できるようになった。

 その後、職業的には、WHOのアジア地域会議などでアジアに足を運ぶこともあったが、圧倒的には、アメリカとEC(現在のEU)に赴くことが多かった。しかし、たまにアジアに行く機会があれば、アジア料理が楽しみでならなかった。アジア料理は酒なしでもうまい。これに対して、欧州料理は、酒のつまみのようなところがあり、野菜が少なく、スパイスが少なく、辛さがない。白人は酒の消化酵素を百パーセント持っているが、モンゴロイド系アジア人は半数にとどまる。このことと料理の発達は関係なしとは言えない。

 アジア料理は大好きだが、アジア人は欧米人に比べて面倒だ。欧米人のようにイエス・ノーがはっきりしていないからである。情緒的で、集団になると、やたらに騒がしい。欧米人は個人主義だから、余程親しくならない限り相手に入り込んでこないが、アジア人は自分と他人との間に境がない。だから、時にうんざりすることもある。

 政治から民事に至るまで、議論し、合意し、選択し、契約するなどの方法はみな欧米人が作り上げたものだから、アジア人が「遅れている」と感ずるのも無理はない。当の日本も、「決断が遅い」「稟議制の禍がある」と欧米社会から言われ続けている。

 アジア人は、欧米のように、民主主義を至上とし、自国を開発発展させ、さらには福祉国家を作り上げるであろうか。アジアに入るかどうかは別として、欧米と一線を画すイスラム国は、欧米の民主主義も市場原理も受け付けない。独自の世界観で対抗している。アジアもまた開発独裁の手法で発展を遂げてきた国が多いことから、必ずしも欧米の歴史をなぞるとは思えない。

 1991年、ソ連の崩壊とともに共産主義の実験は失敗したと言われた。アメリカ一極独裁の世界秩序が喧伝された。しかし、今、アメリカが力を弱め、もう一つの共産国だった中国が国際社会に躍り出ている。21世紀は、これまでの歴史学を塗り替える世紀なのかもしれない。

 その中で、一つ確実なのは、アジアの繁栄も長くは続かないと言うことだ。国別に差はあれ、少子高齢化が着々と進んでいる。一人っ子政策を採ってきた中国は言うに及ばず、インドを除き多くの国において、生産年齢人口の割合が減り、高齢者の社会的扶養が国家的課題となっているのである。日本は、世界一の少子高齢社会を構成し、ここ20年は、高齢者対策で政府は明け暮れた。残念ながら、少子化対策の方は一向に効果を上げていないが。

 民主主義国であると否とに関わらず、福祉国家を目指すかどうかに関わらず、アジアに共通のこの問題をアジア全体で対処する仕組みが歓迎されよう。高齢者のための財政制度と社会サービスの普及、社会サービスの専門家とワーカーの養成を日本が負うべきと筆者は何度も主張してきた。

 日本がなぜその責任を負うか。社会サービス先進国であるとともに、日本もアジアの国だからである。筆者一個人についてみても、父は中国に戦争で4年半もいた。母は台湾で生まれ育った。二人とも生前は、一方でアジアへの親しみと他方で戦争がもたらした害悪との複雑な心境を語っていた。父母の世代は戦争という悲劇が支配したが、日本はアジアの一角のアジアの国であり続けた。我々子孫は、別の意味でアジア人としての生き方を確立すべきであろう。

 戦争について贖罪を否定する動きが昨今あるが、真実を明らかにし贖罪すべきはしなければならぬ。日本がアジアと関わることは「宿命」だ。その大きなきっかけがアジアの少子高齢社会への広域的取り組みであると信ずる。

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老人大陸の平和(31)開発援助とインド

2014-10-18 17:38:06 | 社会問題

 1983年、厚生省からユニセフ・インド事務所に出向するにあたって、筆者は世界銀行の報告書をめくっていた。そこには、「インドは発展可能性のない国」として描かれていたのである。当時、世界銀行は、国際開発援助機関として、自由主義的構造改革を掲げながらその存在を大きくしていく過程にあった。現在では、世界銀行とIMFが思想的にも体制的にも国際開発援助のリーダー機関となっていることは周知の事実である。世界銀行がグローバリゼーションの先鋒を務め、実質的にアメリカの政策遂行の役割を果たしている。

 しかし、当時の筆者の頭の中は、60年代・70年代の国連を中心とした南北問題への対応、ベーシックヒューマンニーズを満たす援助という発想に基づいていた。特に、大学では、経済発展論のゼミを3学期にわたって取り、インドの食糧増産のための緑の革命や、今や古典としてお蔵入りされたロストウの経済発展説、ハロッドの投資モデルなどに心を奪われていたのである。

 ユニセフはWHOとともに、国連機関の中では最も現地主義であり、実践重視の機関である。開発援助のプログラムも現地機関に任され、現地の政府とともに有効な援助とは何かを具体化していくのが役割であった。それに対して、世界銀行は、ニューヨークを拠点にし、学術的で、現地には調査団を派遣したり、第二世銀と呼ばれるIDAの情報をもとに理論化するのが仕事であった。

 筆者は、大学を卒業して厚生省に入り、中央官庁に通い続けていては社会との接点を失うと思い続けていた。国会の下請け宜しく、制度化するための作業を繰り返しているうち、仕事そのものが生きた人間のためでなく、抽象的な社会像を前提とした理論の遊びに思えてきたのである。

 当時、女性事務官は、地方出向の機会を与えられていなかった(そんな時代もあったのだ)。同期の男性が地方出向する時期に、筆者も同様な「現実社会との接点」を持つ体験をすべきと考えた。そこで、ユニセフに自ら志望し、国際公務員派遣法によって出向させてもらうことになったのである。そのとき、筆者は、一番現地に近い体験を要望し、幸いにも、大学時代に緑の革命を学んだインドの職を得たのである。

 そんな事情から、世界銀行がインドを突き放して書いているのを鵜呑みにはしなかった。何か現場でできることがあるだろう、と希望を以て赴任したのである。当時、ユニセフ・インドでは、GOBIーFFという政策目標を持っていた。子供の成長記録、哺水療法、母乳促進、予防接種、家族計画の英語の頭文字を略語化したものである。

 特に予防接種は、ポリオの蔓延を防ぐために大きな力を入れていた。ユニセフがいかに現地密着の活動をしているかを例で示したい。ポリオワクチン接種の必要人数を確かめる方法は、このようにする。あるに行って、出発点で1ルピー札を見て、冒頭の数字が奇数3なら右に行き、3番目の家の子供の数を把握する。次の桁の数字が偶数6ならば左に行き、6番目の家の子供の数を把握する。これを繰り返して、無作為抽出の数字を得て、全体のワクチンの必要数を把握するのだ。

 こうして把握してワクチンを打っても、冷蔵施設などが整わず、ワクチンが腐敗して効果を上げずに、接種児にポリオ罹患が出たりもした。だが、少しでも数字が改善すれば喜びになった。現地主義の仕事の醍醐味はそこにある。この仕事はインド政府(主には地方の郡政府)と一緒に行い、長年の経験で、ユニセフは現地の情報の蓄積が大きい。

 これに対して、在インド日本大使館が行っている援助は、金額の大きい円借款(有償協力の融資)が多く、当時から、DAC(先進援助国)の批判を浴びていた。筆者に言わせれば、ODA(政府開発援助)はもともと政治的意図があるのは当然であり、無償援助だけでは援助額に限りがあり、批判は必ずしも当たらないと思っていた。しかし、その一方、政府同士のトップで事業が決定されるため、地域の実情に必ずしも合わないと思われることが多かった。

 インドでは、近年、ニューデリーの地下鉄が日本の援助で作られ、インド人に感謝されている。近い将来にはデリーとムンバイを結ぶ開発計画に日本は乗り出そうとしている。しかし、日本のアジア中心主義や円借款の手法を、世界銀行などは歓迎せず、21世紀になってからは貧困撲滅を最大の課題と世界中が認識する中で、アフリカや無償援助へと日本も向かわざるをえなくなってきている。

 世界銀行とIMFは、アジア経済危機の時、アジアに「ワシントンコンセンサス」と言われる市場原理主義に移行する条件を示して、経済復興に貢献しようとした。しかし、アジアでは、マレーシアを始めとして、世銀とアメリカの推し進めるグローバリゼーションを決して快く思ってはいない。日本はと言うと、アメリカの政策に抗うことが難しい。

 国際政治の中での開発援助だから、日本が独自性を持とうとしても難しいかもしれない。しかし、ユニセフに奉職した経験からすると、日本は、世界銀行に似て、現地主義ではないので、現地の実情に合った援助ができていない。筆者は日本の援助の在り方を否定的に見る。筆者がインド在住のころに、日本が援助した医療機械などが壊れても、現地には修理の技術がなく、宝の持ち腐れになっているケースを数多く見た。

 日本は、現地主義で第一線の膨大な情報を得ているユニセフなどを利用する必要があろう。国連機関は、援助を政治の道具にするのではなく、援助内容の専門性で社会の発展に寄与しようとするのが主眼である。筆者は、インドという遠い国で日本の政府開発援助の在り方を見て、もっと現地主義を重視したほうが、国際政治上も得策であると考え、日本政府に帰って、生涯を日本の国益を上げる方法にかけようと思い至った。ユニセフで一生勤めたいと思った時期もあったが、筆者が日本に帰ることを決めた理由である。

 社会保障をライフワークとしつつも、筆者がアジアの発展をもう一つのライフワークとしているのは、インドでの体験による。政治に足を踏み出したのは、むしろ後者の、日本の国益を海外に向かって守りたいと思うからである。

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老人大陸の平和(30)日本人・アジア人

2014-10-14 11:00:46 | 社会問題

 我々人類ホモ・サピエンスは、アフリカに起源し、6~7万年前に世界に散在したというのが定説になっている。したがって、筆者が子供のころ学校で教わった北京原人やネアンデルタール人が先祖であるとの説は否定された。 ただし、現存人類の遺伝子の4%程度はネアンデルタール人のものだそうだ。ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの二つの人類は交配可能で、共存した時期があったとされる。

 それにしても、同じ祖先のホモ・サピエンスが五大陸に散らばり、数万年の間に、顔つきも体型も異なってきたのは面白い。日本人の中でも縄文系(たとえば沖縄出身)と渡来系(たとえば関西出身)は違いがみられるし、アジア人は、大きく分ければ、中国に代表されるモンゴロイド系とインドに代表されるアーリア系に分かれる。

 我々が日本人のアイデンティティを持つのは、日本語を話す国民というだけで十分だ。公用語が日本語なのは日本しかないし、日本では、他の言語は話されない。終戦後、敗戦国となった日本は、自嘲気味に、日本人の醜さを喜んで表わした。目が細く、鼻が低く、足が短く、女は大根足で、背が低い。これは、美形のモデルを戦勝国の白人にしたからである。終戦後の漫画本はヒロインが皆、目はパッチリ、髪はカール、鼻が高くて足長になった。雑誌のモデルもCMの登場人物も積極的に白人が使われ、今もその傾向は続いている。

 平安絵巻や喜多川歌麿に出てくる瓜実顔に、切れ長の目、おちょぼ口は、現代では美人ではなくなった。1969年、アルゼンチン大使の河崎さんが書いた本に「日本人はアフリカのホッテントットの次に醜い人種だ」の表現があって、社会問題になった。外務大臣の怒りに触れて、彼は職を失うことになる。しかし、敗戦を機に、日本的なものを否定する風潮の中で出てきた表現であって、社会には同じようなことがあふれていた。

 筆者を含む終戦後生まれの世代は、アメリカに憧れ、アメリカ的なもので自分をいっぱいにしようとした。ディズニーやローンレンジャーに心を奪われ、名犬ラッシーのようなホームドラマに出てくる豊かさを手に入れることを若き日の目標にした。そして、それらは、日本の高度経済成長期を経て、現実に自分のものとなったのである。政府の住宅政策は、大量の3LDK団地を生み出し、物理的にも日本中がアメリカ流の核家族中心の文化になり、祖父母時代の日本的なものは急速に失われていったのである。

 筆者が厚生省からアメリカの大学院に派遣されたのは、1975年、ベトナム戦争が終結した直後であった。子供時代から思い描いた世界一豊かなアメリカでの日々を欣喜雀躍して過ごすうちに、同時に大きな疑問がわいてきた。筆者がアメリカで自動車免許を取るときに助けてくれたのは台湾人の留学生だった。当時、台湾人が親日的であることを知らず、「日本人が中国人を苦しめてごめんなさい」と言ったら、彼はきょとんとしていた。

 タイ人の友人は親しくなると毎日のようにやってきた。タイは日本と同じく、欧州に殖民地化されず、第二次世界大戦も日本と同じく三国連盟側にいたし、立憲君主国としての共通点もある。にもかかわらず、1970年代当時、日本が東南アジアで展開していた「日本経済帝国主義」を快く思っていないことをよく口にした。アメリカで筆者は多くのアジア人留学生と知り合う機会を持つようになったが、アジアの歴史観を持っていない自分に気付いた。そう言えば・・・筆者の受けた教育は、民主主義を始めアメリカ的なものに偏っていたと感じるようになったのである。

 白人の教授から「あなたはオリエンタル(東洋人)」と言われたり、フィリピン人の友人から「同じアジア人同士、助け合いましょう」と言われると、なにか合点のいかないものがあった。筆者は、日本人としてのアイデンティティを持っていたが、アジア人としてのアイデンティティを持っていなかったからである。アジアの他の留学生と連帯感を持つことはなかった。

 アジアのことを何も知らない・・・その認識がそれからの筆者の人生を決定づけた。日本人として日本に貢献する意思と同様に、アジア人としてアジアにすべきことはないのか、と思い続けた。アジアとは何かの答えはそう簡単には出ないと思い、公共政策学の修士論文を書く余りの時間に中国語の課程を履修することから始めた。日本の大学では、第二外国語のドイツ語を履修したが、社会科学を学ぶための選択だった。しかし、あまりにも欧米化した日本の教育制度のために、近隣諸国への無知に至った自分を立て直したかった。

 アジアへの貢献という志を持ち続け、1983年には、厚生省から国連児童基金(ユニセフ)インド事務所に出向する機会を掴んだ。三年あまり、アジアの貧困と闘う仕事をしながら、アジアの国には個人主義はなく、家族集団の果たす役割が強いことを知った。当然に、教育や医療の仕事を進めるには、この文化の上に立って実行していくのが効果的である。

 アジアは、局地紛争が絶えず、また、中国、ベトナム、北朝鮮の共産圏を有する。欧米の歴史観によれば、アジアは民主主義が成熟していない、近代化の途上にあると解される。1997年のアジア経済危機以降は、IMF主導の市場原理がアジアの発展の道具として使われたが、後発新興地域のアジアが必ずしも欧米の歴史プロセスを辿るとは限らない。アジアの中で福祉国家と呼べるのは日本だけであろうが、今後ともアジアが福祉国家化するとは限らない。だが、アジアに共通の人口高齢化が着実に進んでいる中で、アジア特有の家族集団を前提とした社会サービス(医療、教育、福祉)産業が必要不可欠になっている。

 最も人口が多く、最も速いスピードで少子高齢化の進むアジアで社会サービス産業を発展させていくには、国々が平和でなければならない。社会サービスのシステムもマーケットも平和を前提として成り立つ。戦費や貧困撲滅のため優先的に財政があるとすれば、社会サービスは成り立たない。日本というアジアの先進国に生まれ育った人間がアジアに貢献できるとしたら、平和と社会サービスの分野にある。戦後の平和があって社会サービスを発展させた日本は、この分野でのアジアへの貢献を通して、日本であること、アジアの国であること、という新たな二つのアイデンティティを得るであろう。

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老人大陸の平和(29)優しいネパール人

2014-10-13 09:44:28 | 社会問題

 2010年、ユニセフ勤務で3年余を過ごしたインドを去って24年ぶりにインドを訪れた。空港は近代化し、ニューデリーには地下鉄もできた。かつては、プレミア、アンバッサダーという、よくエンコする国産車だらけだった街の中心部は、輸入車であふれていた。若い女性はサリーよりもジーパンを身に着けていた。いかにも、インドの経済発展を語る光景である。

 しかし、一歩路地に入れば、そこは、24年前と何ら変わらぬ風景が見られた。レプラなのか、足を引きずって物乞いをする人、野生の牛が堂々と街中を闊歩し、所構わず糞尿を撒き散らす。人、人、人、その多さも変わらず、三輪駆動のスクーター・タクシーも健在だった。

 かつての住まいに行ってみれば、そこはほとんど変わらぬ状態で「私を待っていた」。当時のユニセフの同僚や友人に会いに行った後、かつての住まいを前にして、誰に会いたかったかと言えば、仕えてくれた家事労働者(現地ではサーバント)だ。我が家には、コック、給仕、子守、門番が常勤で、庭師もいた。常勤者は、母屋の裏手にあるサーバントクウォーターに住んでいた。

 我が家の家事労働者は全員ネパール人であった。3年余の間、勤め上げた人達である。これは、実は珍しい。家事労働者はだいたい短い期間で、メンサーブ(奥さん)と折り合いが悪くなり、職場を転々とすることが多いからだ。筆者がユニセフで働いていたため、日中メンサーブはいないし、彼らは好きなように仕事をした。また、筆者の小さな息子と遊び、可愛がってくれた。

 読み書きができない彼等とは、インドを去ってから連絡の取りようがなく、会いたくても会うことはできなかった。コックのビム・チェンは、「自分の年齢はわからない。お母さんが教えてくれなかった」と言った。年に1,2回休暇をとってネパールに帰ったが、そこはネパール第二の市ポカラからバスで何日も揺られ、さらにそのあと数時間歩いてたどり着く所なのだそうだ。インドからのお土産をリュックに一杯入れて旅立つ、おそらくは40歳くらいのビムの小さな後姿を見ると、「この人に幸あれ」といつも祈ったものだ。

 インドには彼のようなネパール人の出稼ぎが多い。ネパールは人口3千万で、国内総生産はインドの1%程度。ほとんどが農業で、エベレストの観光産業があるくらいだ。経済はインドに依存していて、インドの景気が悪くなればたちまちネパールに打撃を与えるようになっていた。

 インドとネパールの国力の差が影響しているのか、ネパール人はインド人が嫌いだ。彼らは、インド人より、おとなしく、やさしく、インド人にいじめられることも多い。見かけは、ビムのようなモンゴロイド系もいるが、多くはアーリア系でインド人と変わりなく、ヒンズー教徒が多く、言語もヒンズー語に近いので、苦なくして覚えられると言う。しかし、彼らの会話には、「インド人らしいね」という言葉が飛び出し、強引なインド人のやり方には批判的だった。

 日本はネパールと友好関係にある。開発援助の対象としても力を入れてきた。しかし、この優しい人々とインド人との違いはなかなか見いだせまい。日本にあるインド料理店の中にはネパール人がやっている場合も多く、あたかも、欧米で日本料理と名乗っているが中国人や韓国人がやっている場合に似ている。南アジアは圧倒的にインドが大国であり、その周辺の国々は、インドプラスその他多勢とみられている。南インドの国内総生産の8割はインドが占め、人口は16億中13億がインドだ。

 筆者がインド在住の1985年、南アジア地域協力連合(SAARC)ができ、インド、パキスタン、バングラデシュ、ネパール、スリランカ、ブータン、モルジブが参加した。のちにアフガニスタンを加えて現在8か国が参加しているが、ASEANのような政治的経済的結束は見られない。早く言えば、成果を挙げているとは言い難い。インド・パキスタンがカシミールを巡って「戦争状態」であるのに加え、インドひとりが突出している構造では、地域協力は難しいだろう。

 また、インドは、周辺のいずれの国とも仲が悪い。インパ関係は言うまでもないが、国境紛争を起こした中国とも悪いし、インド人移民タミールナドゥをめぐってスリランカとも悪かった。中国も、近年、海洋国家をめざして、南シナ海に乗り出し、ベトナムやフィリピンと軋轢を起こしているのを見ると、「大国」の近隣に対する傍若無人は本質的なのかもしれない。

 ヒマラヤ山脈にある国々は、戦後になっても長らく、王政を保っていた国が多い。現在ではGDPよりも幸福度が大切とするブータンだけが王国を維持しているが、ネパールが王政を廃止したのは2008年のことである。ネパールは筆者がインド在住のころ、既にマオイスト(毛沢東主義者)と呼ばれる共産党が勢力を伸ばし、王政廃止を目指していたが、当時のビレントラ国王は立憲君主制を認める方向であった。

 1990年代には内戦が始まったが、2001年、世界を震撼させる出来事が起きた。ビレンドラ国王一家が王宮で全員銃殺され、発砲したとされる皇太子も自殺したと伝えられた。しかし、国王の弟ギャネンドラが王位につき、事件は封殺されたものの、弟の陰謀説が強く疑われた。結局、不人気のギャネンドラ王は王政に引き戻そうとしたものの、2008年、ついに、王制廃止に追い込まれ、ネパールは連邦民主共和制になった。

 王宮での虐殺事件は、おとなしいネパール人の性格からは考えられない出来事であった。ネパールは共和制になったが、国の発展はこれからである。特に、インド以上に問題なのが貧困層が多いことだ。3千万人のうち7割が貧困ライン以下と言われる。

 インドでの幸せな生活を支えてくれたビム達の国ネパールの発展を願わないではいられない。ビムは、明らかに、中国・チベット系のモンゴロイドであったが、ヒマラヤ山脈地帯には、我々と顔を同じくする人々を多く見つける。アッサム州もそうだ。中国側からやってきた人は床屋さんや美容師が多く、デリーなど大都市にも移り住んでいた。顔が似ているせいもあろうが、ヒマラヤに住む人々の幸せをなぜか祈ってしまうのだ。

 

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