現政権の「戦後レジームの見直し」は、アメリカに与えられた憲法の見直しを主軸として、「戦争放棄の平和主義」を「積極平和主義(キナ臭い)」に、「与えられた民主主義」を「本来の日本道徳」に変えることが目的である。その意味では、岸、中曽根、小泉に継ぐイデオロギー的政治を目指し、政治理念は明快である。イデオロギーを背後に押しやって、徹底的にアメリカを受け入れた吉田、安保を封じ込め経済オンリーで活躍した池田、長期の平和と繁栄を見守った佐藤、地方発展を掲げた田中は、今日の日本の経済と国際社会における地位を築いた。
人々は、イデオロギーよりも経済社会が栄え安定する方を歓迎する。それは、戦後の歴史を見れば明らかである。海外でも同様、経済政策を成功させたクリントンの方が悪の枢軸を叩くことに躍起となったブッシュ・ジュニアよりも余程アメリカ社会を安定させた。イデオロギー政治は国の安定が危ぶまれるときに使われる。大躍進政策で大量の餓死者を出した毛沢東が、文化大革命というイデオロギー運動で権力闘争を行ったのは有名な話だ。中国は今も、西域の不穏や国内経済格差を抱え、対外的に強硬イデオロギーを使って人々の関心を外に向けようとしている。イデオロギー政治の危うさは、よく知っておく必要があろう。
前置きが長くなったが、地方自治というイデオロギーも、アメリカから、民主主義と同様に「与えられた」ものである。しかし、これについては、現政権は目標を持たない。地方分権推進法、三位一体改革、地域主権など2000年代に入って地方自治改革は行われてきたが、必ずしも、一般分かりするものではなく、画期的と思われるような内容でもない。90年代に流行った改革派知事も消え、大阪都構想も頓挫し、現在は地方の英雄がいない。米軍基地や原発再稼働を巡って国と対峙する場合でも、どこまでできるかが課題だ。しかも、首長選挙は、政党の後押しを受け、「国に従うか否か」を争点としている。真の地方自治はどこににあるのか。
日本の民主主義は、欧米の民主主義から個人主義を引いたような形で、それなりに定着していると筆者は考える。しかし、地方自治は、明治憲法下の中央集権を払拭できていない。地方政府があって中央の連邦政府ができたのではなく、中央政府の支所として地方政府ができたという感覚が自治体にも、住民にもある。その原因となったのが、明治以来、そして戦後はさらに、地方出身で教育を受けた人が東京に行きっぱなしになったからである。欧米では、都市生活を好まず、遠い田園地帯から都心に通い、また、生まれ育った地方都市で職に就く者が多い。なぜ日本はこうも東京一極集中してしまったのか、地方に教育を受けた者の職がないのか、改めて反省する必要があろう。
地方に、職場と居住性をもたらさねば、いつまで経っても、地方自治の真髄は現れない。明治以来の都会流入を逆流させる流れを作らねばならない。そのために、少子高齢社会政策がある。都会よりも地方の方が子育てしやすい環境なのは言うまでもないし、中高年で定年のない農業に従事したい人もいよう。教育機関や文化施設で惹きつけ、Uターン人口を増やすことは夢ではあるまい。ヨーロッパやアメリカの地方都市の美しさを思うとき、シャッター通りや荒れ地だらけの日本でも変わることができると確信する。
少子高齢社会政策を使って地方Uターン現象を巻き起こすことができれば、それこそ日本の起死回生である。現政権にも、地方自治のイデオロギー改革を一考するよう注文をつけたい。