地蔵盆のお下がりの一部(お寿司)
味噌汁(豆腐、若布、ネギ)
かぼちゃの煮物
=うっかり者の主張=
今日は、地蔵盆。(以前書いた物ですが、良ければ是非リンク先を読んでやって下さい。)
幼い頃、大好きだったお祭り。
私はすっかり大人になってしまった。
お下がりのお菓子を求めて街を歩いたのは遠い昔。
今は、お世話になっているお礼も含め、お地蔵様へのお供えを託すだけ。
そして、お供えしたお宅から頂く お下がりのお寿司などを味わうだけになっている。
話によると、お参りした子は誰でもお下がりが貰えるように、どなたからのお供えも拒む事はないそうだ。
たった数千円のお供えだが、駄菓子なら何個かは買えるかな?
ほんの何人かの子達だが、その時だけでも喜んでくれるかな?
いつの日か、大人達に見守られて育ったと感じてくれるかな?
今日の私は、そんな願いと自己満足と「お下がりのお寿司」を胸に抱きながら、家への道を歩いていた。
夕暮れの町を歩けば、提灯の灯ったお地蔵様の祠に出会う。
お鈴や鐘の音とともに聞こえてくるのは、ご詠歌。
ご詠歌は、祈りの言葉だと言われている。
日本古来の賛美歌である。
私の好きな風景。
地蔵菩薩 は救われない衆生、幼くして散った子供や水子の魂を救って旅を続けているそうだ。
生まれなかった子供、亡くなってしまった子供、育っていく子供・・・。
その全てが救われるように、との祈りが支えるお祭り。
私にとっては、できる限り続いて欲しいお祭り。
その地蔵盆が廃れつつある。
お下がりのお菓子を求めて町を走り回る子供の中には、自転車に乗った姿を見かける。
私もお菓子欲しさに、自転車で行こうとして、親にひどく叱られた記憶がある。
「自転車の子だけ早くたくさん回れるなんて、ずるい!私も乗って行きたい!」
「お菓子を貰いに行くんじゃないのよ、お参りに行くんだから、ダメ。」
地蔵盆は、スーパーの特売セールではない。
今ならわかるが、幼い私は母の言葉に納得できなかった。
かといって母には逆らえず、しぶしぶ浴衣を着て歩いて回ったものだ。
だから彼等の気持ちはわかる。
私がお供えするお宅を筆頭に、どのお地蔵様もお参りした子供を区別しない。
たとえ見知らぬ子供でも、お参りしてくれたらお下がりを渡している。
自転車で回っている子供にも、苦笑いしながら渡している。
中には、親が運転する車で回っている人もいるらしい。
流石にそういう人に渡す時は、複雑な気持ちになると聞いた。
車で来ても飛行機で来ても、お接待する方々はお下がりを渡すだろう。
地蔵菩薩のお祭りすると言う事は、そういうことだと思う。
ところで今日、私は困惑する光景に出くわした。
私がご詠歌を聞きながら幸せな気分で歩いていると、前方の路肩に二台のワンボックスカーが停まった。
それぞれの車から、引率の母親と思しき女性一人と、五、六人の子供が降りてきた。
子供たちはお地蔵様めがけて走り出し、お参りもそこそこにお下がりを受け取る。
女達は子供らを急かして乗車させ、自分も慌ただしく乗り込んだ。
そして二台の車は 連れ立って走り去った。
私の幸せな気分は困惑へと変わる。
あの人たちは、噂に聞く、お菓子欲しさに 車で回っている 一団なのだろうか?
そうではなく、なにか急ぎの用がある人たちなのだろうか?
もし噂どおりなら・・・
感謝も祈りも忘れ、目先の欲に眩んだ親の姿から、子供は何を学ぶのだろう?
このお祭りには、地蔵菩薩を敷地に祀り、お世話して下さるお宅が必要だ。
日々、水やお花をお供えする方々あればこそ成立つものだ。
その方々の労を思えば、年に一度のお供えは、気休めにしかならないだろう。
それが証拠に、近年、お接待が出来なくなり、お地蔵様を納めてしまう所が増えている。
今の私に出来るのは「お下がりの足しにでもなれば」とお供えを託し続ける事だけ。
納めると言うお地蔵様を、引き取ることなど出来ない。
それが、歯がゆい。。。。
【追記】
もしこの記事を読まれた方の中に、「市内でも地蔵盆の風習の無い所からお参りしているけれど 何か心苦しい」と思われる方がおいでなら、よくお参りするどこかのお地蔵様に、お志として いくばくかのお供えを差し上げる…というのは如何でしょうか? 事情を話してお供えを続ければ、もしかしたら、貴方のお子様の名前の入った提灯が上がるかもしれませんよ?
お地蔵様・・・全ての子供が 健やかに育ちますよう、お守りください。
(-人-
味噌汁(豆腐、若布、ネギ)
かぼちゃの煮物
=うっかり者の主張=
今日は、地蔵盆。(以前書いた物ですが、良ければ是非リンク先を読んでやって下さい。)
幼い頃、大好きだったお祭り。
私はすっかり大人になってしまった。
お下がりのお菓子を求めて街を歩いたのは遠い昔。
今は、お世話になっているお礼も含め、お地蔵様へのお供えを託すだけ。
そして、お供えしたお宅から頂く お下がりのお寿司などを味わうだけになっている。
話によると、お参りした子は誰でもお下がりが貰えるように、どなたからのお供えも拒む事はないそうだ。
たった数千円のお供えだが、駄菓子なら何個かは買えるかな?
ほんの何人かの子達だが、その時だけでも喜んでくれるかな?
いつの日か、大人達に見守られて育ったと感じてくれるかな?
今日の私は、そんな願いと自己満足と「お下がりのお寿司」を胸に抱きながら、家への道を歩いていた。
夕暮れの町を歩けば、提灯の灯ったお地蔵様の祠に出会う。
お鈴や鐘の音とともに聞こえてくるのは、ご詠歌。
ご詠歌は、祈りの言葉だと言われている。
日本古来の賛美歌である。
私の好きな風景。
地蔵菩薩 は救われない衆生、幼くして散った子供や水子の魂を救って旅を続けているそうだ。
生まれなかった子供、亡くなってしまった子供、育っていく子供・・・。
その全てが救われるように、との祈りが支えるお祭り。
私にとっては、できる限り続いて欲しいお祭り。
その地蔵盆が廃れつつある。
お下がりのお菓子を求めて町を走り回る子供の中には、自転車に乗った姿を見かける。
私もお菓子欲しさに、自転車で行こうとして、親にひどく叱られた記憶がある。
「自転車の子だけ早くたくさん回れるなんて、ずるい!私も乗って行きたい!」
「お菓子を貰いに行くんじゃないのよ、お参りに行くんだから、ダメ。」
地蔵盆は、スーパーの特売セールではない。
今ならわかるが、幼い私は母の言葉に納得できなかった。
かといって母には逆らえず、しぶしぶ浴衣を着て歩いて回ったものだ。
だから彼等の気持ちはわかる。
私がお供えするお宅を筆頭に、どのお地蔵様もお参りした子供を区別しない。
たとえ見知らぬ子供でも、お参りしてくれたらお下がりを渡している。
自転車で回っている子供にも、苦笑いしながら渡している。
中には、親が運転する車で回っている人もいるらしい。
流石にそういう人に渡す時は、複雑な気持ちになると聞いた。
車で来ても飛行機で来ても、お接待する方々はお下がりを渡すだろう。
地蔵菩薩のお祭りすると言う事は、そういうことだと思う。
ところで今日、私は困惑する光景に出くわした。
私がご詠歌を聞きながら幸せな気分で歩いていると、前方の路肩に二台のワンボックスカーが停まった。
それぞれの車から、引率の母親と思しき女性一人と、五、六人の子供が降りてきた。
子供たちはお地蔵様めがけて走り出し、お参りもそこそこにお下がりを受け取る。
女達は子供らを急かして乗車させ、自分も慌ただしく乗り込んだ。
そして二台の車は 連れ立って走り去った。
私の幸せな気分は困惑へと変わる。
あの人たちは、噂に聞く、お菓子欲しさに 車で回っている 一団なのだろうか?
そうではなく、なにか急ぎの用がある人たちなのだろうか?
もし噂どおりなら・・・
感謝も祈りも忘れ、目先の欲に眩んだ親の姿から、子供は何を学ぶのだろう?
このお祭りには、地蔵菩薩を敷地に祀り、お世話して下さるお宅が必要だ。
日々、水やお花をお供えする方々あればこそ成立つものだ。
その方々の労を思えば、年に一度のお供えは、気休めにしかならないだろう。
それが証拠に、近年、お接待が出来なくなり、お地蔵様を納めてしまう所が増えている。
今の私に出来るのは「お下がりの足しにでもなれば」とお供えを託し続ける事だけ。
納めると言うお地蔵様を、引き取ることなど出来ない。
それが、歯がゆい。。。。
【追記】
もしこの記事を読まれた方の中に、「市内でも地蔵盆の風習の無い所からお参りしているけれど 何か心苦しい」と思われる方がおいでなら、よくお参りするどこかのお地蔵様に、お志として いくばくかのお供えを差し上げる…というのは如何でしょうか? 事情を話してお供えを続ければ、もしかしたら、貴方のお子様の名前の入った提灯が上がるかもしれませんよ?
お地蔵様・・・全ての子供が 健やかに育ちますよう、お守りください。
(-人-
たぶん、宗派も貧富の差も越えた次元だから
この風習は残ってきたのでしょう。
だから、親がどんないい加減な気持ちでも、子供の
笑顔はみな一緒ということで・・・・ね。
複雑な気持ちは洗い流しましょう
いろんな人がいるのは仕方ないので、めげずに、自分にできることを続けるしかないですよね。