なだれ込み研究所の一日

物語作家を目指すもの書きが、ふとしたことから変な事務所で働くことに!
日々なだれ込んでくる人や仕事、モノやコト観察記。

浜野語録「やったらええ」

2007-02-25 23:36:57 | スローライフ

2月24日、掛川ライフスタイルデザインカレッジ2月公開フォーラムが美感ホールにて行われた。受講生だけでなく、市内外から一般の方の参加も多くあった。当日の朝、事務所に電話があり、「著作を読んでいてファンだったが、講演が掛川であることを新聞で知った」と、静岡からかけつけてくれた参加者もいた。
浜野安宏氏 トーク&ディスカッション『ニュー・ライフスタイルの創造+まちづくりに重要提言あり!』。語録を作成したのでご堪能下さい。

地球はどのみち滅びると言われている。では、どうせ滅びるからと享楽の道を行くか、それとも滅びるのはわかっていても一時間でも先に延ばす努力をするか。私はナチュラリストだから後者を選ぶ。

どこに行っても同じものしか売っていない郊外型のショッピングセンターが嫌いだ。安心安全とパッケージがしてあるが、昨今の世を騒がせている事件を見れば、それが決して安心安全でないことはよくわかる。日々、企業のトップが黒っぽい背広とネクタイをして頭を下げ続けている。あれは嘘つきの服だ。嘘つきの売場だ。
昔は正直な売場だった。流通の基本は「浜野さんの作ったものを田中さんが買う」という手渡しの商売だった。
「浜野さんが作ったものだから安心」
「田中さんが買ってくれるから一所懸命作ろう」
そうした関係は、今、朝市や地産地消に受け継がれている。パック詰めされているものよりも、よほど安心だ。
こうした嘘つきの売場が主流になっているのは消費者が悪い。手渡してくれる売場を大事にしないからだ。
火だるまの列車から飛び降りる勇気がない。回転している列車に乗っていた方が楽だから。
列車から飛び降りなくてはだめだ。それがひいてはまちのため、日本のため、世界のため、地球のためになる。

コンセプトは明確なビジョンに裏付けられたものでなければ説得力を持たない。ビジョンは肉体と精神の包括的な活動の中から、ごく自然にわき出てくるものだ。ビジョンはネイチャーが与えてくれる。私がやろうとしていることは、ネイチャーから授かったビジョンに基づいて創ったコンセプトの実践普及である。

ブランドには神話、レジェンド(伝説)が必要だ。体験に裏付けられたストーリーが必要だ。釣り狂っている私にとって、心臓が止まるような歓びの体験。そこから「FoxFire (フォックスファイヤー)」が生まれた。

私自身、一番自慢に思える過去の仕事は、30年前に提案したバリ島におけるリゾート開発である。バリ島の開発コンペで、私は木より大きな建物を建てないプランを提案した。私は建築家ではないから、建物を隠すのも仕事だ。低層の建築にしたのはもちろん自然との調和もあったが、もっと重要な理由があった。
バリ島にはヒンズーバリズムともいうべき宗教的精神があった。それは、15世紀にジャワ本島から迫害を逃れてきたバリ人が、芸術家、僧侶、学者といった文化人ばかりを祖先に持つ人種であることから生まれている。冠婚葬祭や儀式には踊りや音楽など様々な芸術がつきもので、それらはバリ人の日常でもある。
高層建築にすると何がいけないか。高層建築を建てたら絵描きやダンサーはメイドやベルボーイになってしまう。踊りや音楽はホテルの中庭だけのものになり、これでは文化ではなく芸人の世界になってしまう。低層建築は作業効率がよくない。開発を制限したから、文化が日常のままでいられた。

日本では、ストリートに価値のある建物や店ができはじめると、そのあいだあいだの土地を金持ちが買いあさり、土地を買えない値段にして、買い逃げてしまう。まちを育てたいのに、いいまちになるひまがない。若い人がおもしろい街をつくるひまがない。

莫大なエネルギーを使い、遠くまで仲間を連れて行き、フライフィッシングすることのジレンマは感じる。しかし、そこで体験したからこそ、仲間たちが地球や地域のための仕事をしてくれることも事実。一人の男の旅が地域を救ったこともある。しかし、そうは言ってもそれは言い訳かもしれなく、単純な罪ほろぼしで何かしようとしているのかもしれない。いつも反省しながら、謙虚に生きているつもりだ。

自分の意志で遊ぶことが「遊ぶ」であり、心が遊んでしまうことが「游ぶ」なのだと、意図的に使い分けている。私はどこにいても遊んでしまう。今、こうして講演していても、観客の顔を見て、一人ひとりどんな顔をしているか楽しんでいる。働いていても、まちを歩いていても、遊んでしまう。遊びがわかるか、わからないかはとても大事。遊び人でなければ自然は守れない。遊び人でなけれは自然は見えない。

遊漁権を持っていても、遊漁料だけでは食べていからない。ではなぜ持っているか。いずれダムが出来たとき権利を持っていた方が得だから。魚を愛していないから、魚を釣る自分を愛していないから、川を愛していないから、平気でダムに権利を売ってしまう。それが日本の悲劇だ。

釣りにつられてやってきたが、掛川は案外川から遠い。それでも、まちのほどほどのよさにやって来てしまう。掛川は「楽(らく)」な感じがする。人の笑顔もいい。ほどほどに楽で、ほどほどに楽しい。これはとても大事なことだ。嫌にならない。なじんでしまったのかもしれないが、ほどほどの良さを求める人のために、観光と合わせてそのほどほどの良さを商品化したらいい。やったらええ。

これからは、好きなところに移住、定住していく時代になる。旅行、験住(ためしに住む)、移住、定住というように好きな場所を探す時代。
日本は豊かだというけれど、本当に豊かだろうか。本当の豊かさを提供してあげよう。
国のブレーンになろうと思った時期もあったが、オレの言うことは反対が多いだろうなと考え、こうして動くブレーンになった。「オレ」と「私」を使い分けるのは意図的。「オレ」と言った方がカッコいいときは「オレ」と言う。
「その土地がオレを呼んでいる」

そう、浜野さんはトラベリングウィズダム(旅する知恵)なのだ。