シスターみみっくのなんだかわからない堂

日常のよしなしごとをつづります。正教会のお祈り、読んだ本、ハマリものなどなど。

正教勝利の主日

2007-02-25 23:30:12 | 正教会及び宗教全般
正教勝利の主日でぐぐったら、昔自分が2ちゃんねるに書いたのが見つかった。
この時も斜里巡回だったんだなあ(つっこみはそこかい

正教勝利の主日という名称は、イコン論争にけりがつき、教会にイコンが復帰したのが843年の大斎第一主日だったことに由来する。
歴史的な意味合いもさることながら、聖像論争に正教が勝利したのは、大多数の信者が真実のために、捕囚と拷問とそして死さえもいとわないという覚悟をしたからであり、我々が修道的な意味において致命者にならおうと努力すべきことを大斎の課題として教える、という精神的な意味合いもあって、この記憶日は大斎第一主日に固定された。

その前にイコン(聖像画)についてなんだけど、イコンは偶像ちゃいますのん?と言う疑問は昔からあって、皇帝が禁止令を出したのが730年のこと。
この聖像禁止令は当時のキリスト教界にものすごい論争を巻き起こした。
論点はふたつ。

イコンは偶像か?
神は描いてもいいのか?

前者については、イコンは、それ自体を拝むわけではなくてあくまで「イコンに表されているものを思い起こす」ためのものであり、敬意ははらわれるけれども崇拝の対象ではない、という考え。
家族や彼氏の写真に置き換えて考えると分かりやすいかと思う(ウィキペディアにも『恋人の写真』とか書いてあってワロタ)。
後者については、もちろん神・父は誰も見たことがないので描けないけれども、神・子であるキリストは人となって、つまり誰にでも見えるような姿でこの世におられた。
だから当然描写の対象となりうる、というわけ。
また聖伝には、エデッサのアブガル王が主の肖像を欲しがった時にキリストが顔を拭った布を送ったところ、その布にはくっきりと主の御顔が、という話が残っており、こりゃあおんみずからいいって言ってんじゃん、というわけで。(ヴェロニカの布の話もあるよね)

ともかく787年の第二ニケヤ公会議において上記の教義が認められ、これで晴れてイコンは日の目を…と思ったら、815年に再び聖像禁止令がorz
しかし先の運動よりも盛り上がることはなかったらしく(もう公会議では認められてるしね)843年の大斎第一主日にめでたく復帰の運びとなった。

ところで今日の福音箇所はヨハネの1:43~51、ピリポとナタナエルを弟子にするとこなんだけど、どちてこの箇所なんだろう?

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5 コメント

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イコノクラスム (ニコライ)
2007-02-26 05:50:07
僕が常々疑問に思うのは、高校の教科書なんかにこれがイスラム教の影響だと書いてあること。このころのイスラム教はまだ神学がちゃんとしてないし、オマー・シャリフが出した偶像禁止令ていうのはイコンの事どはなく、この頃はあっちこっちにカーバみたいな隕石を祭る神殿が残っていたらしい。ビザンツの皇帝が何か一言、言及したからと言ってそれが全てではなく、やはりキリスト教の内部から出た問題なのではないでしょうか。間違ってたらごめんなさい。
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聖像破壊運動 (伊望)
2007-02-26 12:23:15
ニコライさんのおっしゃるとおり、聖像論争はキリスト教内の問題です。

実のところビザンツ史学者からは聖像破壊におけるイスラームの影響はそれ程評価されていません。

論争があれ程複雑・長期化したのは、単純な偶像崇拝云々が問題ではなくて、キリスト論論争そのものだったからです。

また『イコン反対派=皇帝、イコン賛成派=修道士』のような単純な区分けがされがちですが、実際はそんな単純なものではありませんでした。
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イコノクラスムについて (シスターみみっく)
2007-02-26 17:56:14
ニコライ兄、伊望兄、ご意見ご教示ありがとうございます。
やっぱし一度きちんとする必要があったということですよね、キリスト教の中で。
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偶像 (井上)
2007-02-27 08:44:46
私は絵も聖像も何もないメノナイトの信徒ですが

イコンは好きだなあ。

聖像も全然いい。

形あるものだけが偶像とは限らないし。

特定の聖書解釈や理念など、

姿形のないものを偶像化する危険に比べれば

全然害ないと思います。

カトリックの幼稚園児が

プレセビオの前で喋るのを聞いて、

聖像には教材の役割もあると思いました。

子供のうちからキリストに親しむための。
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そうですね (シスターみみっく)
2007-02-27 21:19:06
>井上姉
祭日や聖書のエピソードの描かれたイコンって情報てんこ盛りで面白いですよ。
様々な情報を一枚のイコンにするために、普通じゃありえない状態になっていることもよくあります(同一人物が二人描かれていたり)。

ルーマニアの世界遺産だったかのテレビで、修道女が子供たちに、教会の壁に描かれた聖書の場面を説明するシーンがありました。
こうやって聖書に、ひいては神に親しんでいくんだなあ、と。
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