今日の福音箇所はルカ15:11~32、
タイトルまんま「放蕩息子のたとえ」のところ。
親っていうのは子供がどんなに逆らおうとも愛し受け入れてくれるもんなんだなあと。
そして神様も。
アルプスの少女ハイジにも、このたとえが使われてるんだよね。
文庫で読んだらそうだった。
アニメでハイジがフランクフルトで、羊飼いと夕焼けみたいな絵を見つけて「山が燃えてる!!」って山のこと思い出して涙を流すところがあるけど、あれ、原作だと放蕩息子のたとえが描かれた絵本だったりする。
まだその時は字が読めないんだけど、クララのおばあさまが内容を優しく教えてくれて、そのうち神様のことや祈ることの大切さも教えてくれるんだよね。
で、山に帰る時にその本貰って帰って、アルムおんじに無邪気に説明するわけだ。
おんじは本当かどうかはともかくとかくの噂がある人で、口さがない隣人達から逃れて長いこと山に住み、教会にも行ってない。
ハイジからその絵本を読んでもらっても、自分がもう絶望しちゃってるもんだから、いや、きっと遠く遠く離れてしまったら受け入れてもらえないよ、もう戻れないんだよとしか言わない。
でもハイジがものすごく純真な信仰で、フランクフルトでの出来事も絡めてそんなことはないと言い張るので、おんじはその心にうたれ、その晩、夜にひとりで、あの放蕩息子のように「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」とつぶやき涙を流す。
そして日曜日に晴れ着を着こんでハイジと教会に行き、村人たちと和解する、てなわけで。
ロビンソン・クルーソーもそうだよね。
児童向けのしか読んでないと、単に無人島に漂着した冒険物語みたいだけど、けっこう内面的。日記形式だからね。
フライデーをキリスト教に改宗させようとしてカテキズムを教えてる時の珍問答とか、むしろ今となってはそっちの方が面白かったりするw
タイトルまんま「放蕩息子のたとえ」のところ。
親っていうのは子供がどんなに逆らおうとも愛し受け入れてくれるもんなんだなあと。
そして神様も。
アルプスの少女ハイジにも、このたとえが使われてるんだよね。
文庫で読んだらそうだった。
アニメでハイジがフランクフルトで、羊飼いと夕焼けみたいな絵を見つけて「山が燃えてる!!」って山のこと思い出して涙を流すところがあるけど、あれ、原作だと放蕩息子のたとえが描かれた絵本だったりする。
まだその時は字が読めないんだけど、クララのおばあさまが内容を優しく教えてくれて、そのうち神様のことや祈ることの大切さも教えてくれるんだよね。
で、山に帰る時にその本貰って帰って、アルムおんじに無邪気に説明するわけだ。
おんじは本当かどうかはともかくとかくの噂がある人で、口さがない隣人達から逃れて長いこと山に住み、教会にも行ってない。
ハイジからその絵本を読んでもらっても、自分がもう絶望しちゃってるもんだから、いや、きっと遠く遠く離れてしまったら受け入れてもらえないよ、もう戻れないんだよとしか言わない。
でもハイジがものすごく純真な信仰で、フランクフルトでの出来事も絡めてそんなことはないと言い張るので、おんじはその心にうたれ、その晩、夜にひとりで、あの放蕩息子のように「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」とつぶやき涙を流す。
そして日曜日に晴れ着を着こんでハイジと教会に行き、村人たちと和解する、てなわけで。
ロビンソン・クルーソーもそうだよね。
児童向けのしか読んでないと、単に無人島に漂着した冒険物語みたいだけど、けっこう内面的。日記形式だからね。
フライデーをキリスト教に改宗させようとしてカテキズムを教えてる時の珍問答とか、むしろ今となってはそっちの方が面白かったりするw
導きがあったんでしょうねきっと。
詳しいことはよくわからないのですが、さすがに女帝は無いんじゃないでしょうかね…