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横断者のぶろぐ

ただの横断者。横断歩道を渡る際、片手を挙げるぼく。横断を試みては、へまばかり。ンで、最近はおウチで大人しい。

宮崎勤論Ⅴ■殺害場所は、放生の場所

2008-03-02 08:23:36 | Weblog
一 「放生」ということ

 宮崎勤関係の本は、書店に立ち寄ったとき、棚に置いてあれば、金に困っていても買って目を通しています。
 その中で、特に記憶に残っているのは、佐木隆三の著書『宮崎勤裁判・上巻』と橋本一哉の著書『塗り潰されたシナリオ』の二冊。
 読み比べてみて、明らかに異なると思ったのは、宮崎被告の幼女への性欲の有無です。
 佐木の場合は、「(幼女の)性器を見ても性欲は起きなかった」という被告の証言を受けて、「どこの星の住民?」といった感じで、驚き呆れているのに対し、橋本の方は、「幼女への性欲はあった」としています。
 詳しいことは、著書に目を通せば確認が取れると思いますが、メンドーなのでこのまま突っ走ります(メンドー無用?)。

 マニアックな性欲の持ち主は、「性欲は弱い」という通説が流布しています。
 この流れで「生まれつき性欲がない」というのも一説と思っていたところに、「性欲はあった」と正反対の説が提示されたわけです。
 宮崎被告は幼女殺害の前は、テニスルックの女の子のスカートの下を狙って写真撮影を繰り返していました。
 盗撮の常習犯ですから、被害者の幼女を言葉巧みにマイカーに乗車させることに成功したときは、仲良しになることよりも性器を見られることに心を躍らせたとしても何の不思議もありません。

 雄犬は、この点は、正直です。雌犬を見ると、血がたぎるといわんばかりに、カギ型の赤いち○ぽをちゃらちゃらさせます。鼻を陰部に押し当てて、においを嗅ぎ、次には、マウンティングの姿勢をとって、挿入を試みます。
 これが雄犬の、真っ正直の「放生」です。

 人間の場合は、「放生」は夫婦や恋人同士の合意の上で営まれます。無論、例外もありますが、女性の側は受身に回ります。男に自分の体を投げ出して、「放生」させますが、羞恥心が強すぎると、女性の側は「放生」を抑え込みます。
 「放生」を強く望んでいたとしても、男のテクニック次第では、いわゆる「欲求不満」を事後に残します。
 通説は、30分以上のプレイによって女性は「放生(エクスタシー)」を体験とありますから、あの手この手を使ってでも、がんばる必要があります。
 仮に、これゆえの離婚話や別れ話が起き、もつれて裁判沙汰になったときは、淡白な男の側の敗訴はやむをえないと思っています。

 頻度に関しては、アメリカでは毎日が当たり前と聞いています。日本では、週刊誌みたいな週イチとか、月刊誌みたいな月イチとかいわれています。
 中には、セックスレスです、と白状する女性の方も少なからずおりまして、これを聞くと鼻血が出そうになります。

 断るまでもなく、セックス=放生ではありません。
 男はなんといっても単純な生き物ですから、「セックス=射精=放生」と考える向きがあります。
 女性の場合は、「セックス」そのものよりも「放生」への期待が大きいと私は思っています。

 熊本には放生会の日にだんじり祭があって、熊本の夏を花火のように彩っています。ボシタボシタと囃しながら、飾り馬を先頭にして山車をひりずり回します。
 ボシタという囃し言葉には、滅ぼしたとボボしたというふたつの意味があると熊本の知人から教えてもらったことがあります。
 「滅ぼした」の意味は加藤清正の朝鮮征伐にダイレクトに関係します。彼の民族にとっては屈辱的な体験を髣髴(ほうふつ)させる関係から、直に使用禁止になりました。
 祭りの太鼓のリズムは身体の中心を鼓舞するようなところがあり、女性は腰をくねくねといわば骸骨の踊りを演じたくなるようです。
 良家の娘は祭りの日の夜間は外出禁止で、禁を破るとお嫁にいけなくなるよと脅されたという話を聞いたことがあります。

 放生とは、生を放つことですが、広辞苑の「捕まえていた生物をにがしはなつこと」という字釈は回りくどいと思います。「今日は放生祭だね」と女性に声をかければ、「エッチしたいけど、どお?」という意味は難なく伝わると思います。
 普段は鎖に縛られている飼い犬を休みの日の朝に山に放つことが、ペットの放生なのではありません。飼い主自らの象徴的な放生に他ならないことを犬を飼うことで初めて知りました。
 ペットとは、いわば外付きの毛むくじゃらの性器なのです。本当は告白のルソーみたいに亀出しでもやりたいと思っているのですが、愛犬で代用ということを。

 この代用については、こういう例があります。
 その男は、ずけずけと庭に入ってきて、私が飼っている雌犬にペットの雄犬を襲わせたことがあります。避妊手術をやっていますから、その心配はいらないわけですが、それにしても飼い主のなんともひどい、にやけた顔を見て、怒鳴りたくなったことがあります。
 書くまでもなく、これは明らかに代償的な「放生」行為です。
時々ニュ-スとして報じられるのが放し飼いの犬による咬まれたという事件です。これも飼い主自らの「放生」的な行為と理解できると思います。 


 ですが、「放生」の転義としての、「人間の中に棲む生物とは何か」という点については、明示するのは難しいと思っています。
 この点については、識者からはニーチェのいう「祝祭の中心」としての「生」を意味するとか、フロイトの言う「リビドー」とか、いろいろな答えが提出されてもおかしくはありません。
 私自身は「ファジー(あいまい性)」を温存すべきだと思っています。

 鳥羽口に立ったばかりという事情もありますが、シリーズを終えるまで、結論は保留します。


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