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横断者のぶろぐ

ただの横断者。横断歩道を渡る際、片手を挙げるぼく。横断を試みては、へまばかり。ンで、最近はおウチで大人しい。

宮崎勤論Ⅳ■美しい娘の・王

2008-02-28 05:15:44 | Weblog
 PTSD(心的外傷)患者の日常とは、どういうものだろうか?

 彼の前には、道を阻むような障害物は、きれいに取り除かれている。
 なぜなら、一度ならず壁にぶち当たって、挫けて傷ついた己を護るために、自宅の一室に籠もっているからです。

 無論、日常という時間を生きている。この状況は、トンネルに喩えられるはずです。
 彼の目には、出口の明かりが見えている。しかし、その出口に意味が見出せずにいます。
 出口が見えているのに、無意味な朝がはじまり、無意味な昼を過ごし、無意味な夜を迎えて、無意味な一日を仕舞う。
 そうしてまた、無意味な朝が訪れる。・・・
 薄闇の中で、「こもり」の均一の時間が流れている。けだし、それだけの生である。

 私は今、自分がPTSD患者の一人であることを自覚している。
 この想いを、宮崎勤被告にぶっけてみることにする。


 日本型コンプレックスは、「美しい娘の・王」への複合的感情を意味すると考えています。
 彼神は、娘であることにより愛されますが、一方で、王であるために畏怖感情に襲われます。
 この日本人固有の神の持つ不幸は、具体的なイメージに結びつく証拠がひとつとして残されていないことです。
 ただ、コンプレックスとして日本人の意識下で生き続けておりますから、その存在を仮定することができるのです。

 王としての恐怖の念を取り除けば、彼神は竹取物語のかぐや姫のように、ラブリーな少女として物語の世界に登場してきます。
 現代ならば、アイドル顔にして巨乳の美少女が日本型コンプレックスを持つ男たちの処女崇拝の対象になることでしょう。
 最近では、3年前に起きた長崎小6女児殺害事件の加害女児生徒がロリコン男たちの間で、処女崇拝の対象になりました。

>佐世保市の小六女児同級生殺害事件の加害女児(11)は昨年末ごろから、自分のホームページ(HP)に「衝動」を吐き出すようになった。同級生を激しくののしる言葉、暴力的な自作小説…。前後してクラスでの言動も荒れ始めた。「(HPの)掲示板に嫌なことを書かれたから」。女児は、殺害の動機をそう語った。

>事件後、ネット上の掲示板に、加害女児や被害者と称する顔写真や氏名、自宅の写真など個人情報がはんらんした。昨年長崎市で起きた男児誘拐殺害事件後も、加害少年と称する画像がネット上を飛び交った。今回は加害女児を「かわいい」「悪くない」と崇拝する「ファンサイト」まで出現。ネット社会の「病理」は深化している。
2004年7月4日長崎新聞掲載
ソース:http://www.nagasaki-np.co.jp/press/syou6/kikaku3/04.html

「殺害」によって恐怖の記号が女児に付与された時、もうひとつの記号を求めて彼らは熱狂的になりました。「美少女」であるかどうかです。
 この評判がネットでうわさされると、待望の・ぼくらの願望を叶えてくれる・恐怖の「娘王」の誕生と色めきたったわけです。

 彼神への願望と恐怖という、根源的なアンビバレンツの感情は、正比例の関係ではなく、逆比例だと考えています。
 つまり、娘を母神に置き換えると、その分、恐怖の念が薄められ、反対に、娘を幼女神にすると、恐怖心が強まるのです。
 この考えをさらに推し進めれば、生まれたばかりの女の赤ちゃん神は、度し難いほどの恐怖の威光を放っていたことがいえると思います。

 私たちはなぜ生まれたばかりの赤ちゃんを大切に育てるのでしょうか?

 この問いに対する現代的な説明は、すべて蛇足です。
 なぜなら、彼が神としてこの世に生まれてきたからです。

 そのくせ、なぜ彼赤ちゃん殺しが絶えないのでしょうか。
 これも、彼が神だったからです。


 ミヤサキの連続幼女殺人事件を解明する鍵が、このコンプレックスに隠されていると思っています。

宮崎勤論Ⅲ■勤の経歴

2008-02-27 05:19:27 | Weblog
昭和37年8月21日 東京都五日市町(現在、あきる野市)の地元新聞会社経営の父親の長男として出生
生まれつき両手の掌が上に向けることが出来ず、いわゆる「頂戴ポーズ」が出来なかった。このため宮は幼稚園でのお遊戯が「死ぬほど辛かった」と供述している。
中学生のころ テレビ番組をビデオ録画して収集する趣味を持つ。
昭和53年4月 明大付属中野高校に入学
学友は、宮の記憶が殆ど無く「目立たないくて暗い人間」という声が多かった。

昭和56年4月 東京工芸大学(短期部)の画像技術科に入学
この頃、宮はパズルに熱中し専門誌にパズルの回答を頻繁に応募していた。が、異性に関しては宮は手の不自由さからコンプレックスを抱き、興味を持っていない様子だったという
1982年秋 カメラやビデオカメラを持ち歩くようになり、テニスルックの若い女性のバンチラ撮影を始める(裁)
1982年(S57)末 子守であった住み込み人がいなくなった。奇妙な風邪薬の大量服用も見られた。(ウィクペディリア)
昭和58年3月 短大を卒業

同年4月 父親の紹介で東京都小平市の竹内印刷会社に就職
同年夏 幼女の裸体や性器を写し始める。
被告人の居室から押収した女児の裸体写真は、84年(S59年)もしくは85年(S60年)の夏に撮影。
昭和61年 3年後に同社退社。

昭和63年5月 宮が唯一心の拠り所にしていた祖父が脳溢血で死亡。
万引きは、祖父の死後にはじまる?(宮崎裁判)
昭和63年8月22日 今野真理ちゃん殺害。この日は、被告の誕生日の翌日にあたります。
昭和63年10月3日 埼玉県飯能市の吉沢正美ちゃんが行方不明。
昭和63年12月9日 埼玉県川越市で、難波絵梨香ちゃんが行方不明。
昭和64年2月6日(月) 埼玉県入間市の今野真理ちゃん宅の玄関ドアの前に、骨などの入ったダンボールが置かれる。
昭和64年2月10日(火) 東京都中央区にある朝日新聞東京本社に、「犯行声明」が郵送される。差出人は、「所沢市 今田勇子」。
平成元年3月11日 同都同区の朝日新聞東京本社に、「告白文」が郵送される。差出人は、今田勇子。
平成元年5月21日 東雲団地の小学校で、女児のパンチラ撮影。
平成元年6月6日 東京都江東区の野本綾子ちゃんが行方不明。11日午前11時ごろ、飯能市の宮沢湖霊園の公衆トイレ脇で、バラバラ死体の胴体部分が発見される。
平成元年7月23日午後5時頃 東京都八王子市で印刷業・宮勤(当時27歳)は小学校1年生の女子(当時6歳)に「写真を撮らせてね」と近づき数枚撮影した後、車に連れ込み郊外の山林で全裸にしてビデオ撮影しようとしたところを、後をつけて来た女子の父親に取り押さえられて警察に引き渡された。(『事件史探索』)
同年同月24日 父親が五日市警察署に「息子が丸一日経っても帰宅しない」と電話。警察は、「八王子署に留置中だが大した事件ではない」と、答える。
平成2年3月30日(金) 宮崎勤に対する殺人等被告事件の初公判が開かれる。


 作成途中で、書き換えるつもりでいますが、メーンは、HP『事件史探求』様よりコピー。

■画像は、例の著書です(省略)。
 著書の佐木は、巻の末尾に、次のような考えをしたためています。

>わたしたちは、人間のマイナスの営みとしての犯罪から、せめて教訓を引き出さねばならない。何が宮崎勤をして凶行に走らせたのか、それを解明するのが裁判なのだ。・・・

 それを見て、何を寝ぼけたことを抜かしているんだ、この男は、と思っちゃうわけです。
 そもそも裁判とは、容疑者の違反した行為に対して刑法にある条文と照合して、罪名を着せるなど、国家が「正義を行使」する名分上の行為で、実際には、司法関係者が行っています。 この意味で彼らは、国家の認める法的代理人です。
 ところで、彼らの行為のどこに、「解明」という二文字が書き込まれているというのですか。

 私が特に残念に思うのは、お上が「解明」するものと信じていることです。
 作家のみならず、日本国民の多くが、水戸黄門のような「お上」がやるものと思っており、シモの人間のやることに対して、はなから無視していることです。


 ・・・私のやっていることは、防犯上役に立つプラグマチツクな解明作業かというと、そうではなく、犯罪行動のヒトゲノム的解析?を目標に掲げています。
 書くまでもなく、力不足を痛感チュ~!!

宮崎勤論Ⅱ■山林の意味と「子午線」

2008-02-26 05:33:16 | Weblog
 リスクを冒してでも、今野真理ちゃん(当時4歳)を被告の思い出の詰まった場所に連れて行ったのは、それ以上の意味があったからだと考えられます。

 「山林=異界」と書きますと、唐突の印象を与えてしまいそうで気になってくるのですが、第三者にとっての目の前にある「山林」とは、木々が欝蒼と生い茂った・ただの山林でしかありません。
 しかし、化け物が棲んでいたジャングルとして、映画などで、二度目に見る時は、最初に見たときとは、違ったジャングルとして見ているはずです。

 なぜ違うかと言いますと、そのジャングルが映像効果によって「怖い」という意味を付与されたからです。
 映像効果によって、それまでの退屈なイメージでしかなかったジャングルが「魔物が棲む異界」と転換されてしまうのです。

 宮崎被告にとって近くの山林は、おっかないという意味は多少は残っていたでしょうが、やはり、幼児の楽しい思い出の詰まった「楽しい異界」であったと、いえるのではないでしょうか。

 大好きだった祖父の亡き後、世間的な常識で頭の中がふやけていた父親や母親や妹や親戚との関係は被告を苛立たせたはず。
 個室は彼らとの関係をシャットアウトできるひとつの密室だったでしょうが、それとは別に、山林は解放的な、(森林浴を兼ねた?)癒される別空間ではなかったのではないですか。

 当時の被告は、家業手伝いの身分ですから、仕事に倦むと、職場を抜け出して何度となく近くの山林に潜り込んでは、山の斜面に寝転がって、「現実逃避(あるいは、幼児退行)」の幼児時代の甘い思い出に浸ったのではないですか。

 そういう意味のほかに、「山林」には、次に挙げるような二つの意味があったと見ています。

  一、「南」という方向性の持つ、「暖かい」というイメージに表される「保護」や「安全」の意味。
  二、四歳という真理ちゃんとの、象徴的な関係(幼児退行)。

 陰陽五行でいう「南」は、「父親」を意味しますが、被告が実感していたのは「南の暖かい国」でしょうから、「母」のイメージではなかったかと思っています。
 上の地図にある、記号EとF(省略)は、栃木の殺人鬼小平義雄の二箇所の殺害現場を示しています。
 栃木は内陸ですから、冬は特別に寒い土地柄でしょう。「南の暖かい国」というイメージ願望は格別に強いのではないでしょうか。

 小平は栃木の日光の出身ですが、殺害現場は栃木県内と東京都内の二箇所に絞れます。 調べてみると、上の地図(省略)のように、子午線が引けます。
 これを私は「殺域」と読んでいますが、小平と宮崎の二人はいずれも生地よりも南側の場所を選んで殺した点で共通しています。

 宮崎が近くの山林のどこで殺害したかは特定できませんが、自宅の「真南」ではないかと推理。
 もしこれが事実ではないにしても、「殺域」の存在が証明できれば、犯人の住処がしぼりやすくなり、早期逮捕につながるのではないですか。

 例外としては、愛知県岡崎市で起きたホームレス花岡美代子さん(69)殺害事件があります。
 この事件の首謀者である木村寛邦容疑者は、実家(同県幡豆町)と殺害現場は、「真北」の関係にあります。確かに、「真南」ではないですが、子午線は「健在?」しています。

宮崎勤論Ⅰ■PとMの問題

2008-02-25 04:20:04 | Weblog
 小平義雄と宮崎勤の二人は、連続殺人を犯した点で共通していますが、さらなる共通点として、それまで好きな対象(成人女性と幼女)と遊んでいた(play=P)のに、ある日を境に、好きな対象を続けざまに殺しています(murdar=M)。
 これを「PとMの問題」として、問題提起します。

 なぜ問題提起するのか、という問いに答えるよりも前に、何が問題なのかを先に明らかにする必要があります。

 問題を簡潔にしますと、PとMは連続するのかしないかの問題です。

Ⅰ 仮に、連続するという考え方に立ちますと、女遊びに興じている男たちは皆、後に殺人鬼に化ける可能性を秘めているということになり、防犯上、女遊びする男たちは全員取り締まるべきという考え方が導かれることになります。
Ⅱ 反対に、連続しないという考えに立ちますと、連続しないものがなぜ連続するのかと、ジレンマを抱えることになります。

 Ⅰの考え方が論外とするならば、残るⅡの考え方を採用するしかなく、これには、今述べましたように、深刻なジレンマを抱えています。

 これまでの私たちは、このジレンマの問題を抱えたまま、連続殺人事件ついて論評するという過ちをそれと知らずに犯してきたわけです。
 と、書きますと、「過ち」とするのは、いかがなものか、と反論する声が聞こえてきますが、その前に「ジレンマの問題」が見えていましたか、と質問を浴びせます。

 ジレンマを抱える「PとMの問題」こそ心理学上の「特異点」ではないか、と私は考えました。
 これには、軽々しく取り扱うことができない大問題という意味も含んでいます。

 「特異点」という言葉は、本来は数学用語ですが、前に書いたように、まるで判っておりません。天文用語としてなら、なんとか。
 つまり、この宇宙がビッグバン理論モデルとして仮定できるならば、その始りを極小の点としてとらえ、それをビックバン理論モデルの「特異点」と呼んでいます。
 一方で、始りがあるのならば、終りもあることになりますから、宇宙の始りと終りの「接点」が仮定できるのに、それが説明できないために、ビッグバン理論モデルの欠点と取り沙汰されています。
 下は、十年ほど前の古い文献ですが、解説のわかりやすさを買って引用しました。

>宇宙はどのようにして生まれ、宇宙の未来はどうなるのか?「ビッグバン宇宙モデル」に従えば、われわれの宇宙は100数十億年前にビッグバンという原初の爆発によって誕生した。空間はビッグバンを起こした無限小の点(特異点)から広がり、時間もこのときに始まった。だが、この宇宙モデルはその瞬間よりも前の状態については何も語ることができない。そして、それについて問うこと自体が無意味だという。しかし、そのような答えで誰もが満足するわけではない。宇宙に始まりがあるならそれ以前を、宇宙に終りがあるのならその後を考えたいのが人間である。(96/11発行「科学十大理論」学研より引用)

 見られますように、私たちは連続殺人鬼についてもビッグバン理論モデルの考え方に立って、彼殺人鬼を観察していたのではないでしょうか?

 と言いますのは、明らかなことは、彼は殺人鬼としてこの世に誕生したのではないことです。 ある日を境に、突然に、殺人鬼としての道を歩き始めているわけです。
 その道の始めを「動機」とし、始りを説明できれば、いわば「わかった」と処理してきたのではないでしょうか。

 当然、この処理の仕方には、人は動機を持つだけで、次々と人を殺せるのかという疑問を投げかけます。

 では、反対に、これといった動機が見当たらないからと言って、私までもがコリン・ウィルソンのように「動機なき快楽殺人」として処理したがっているとは、思わないでください。

 とにかく、「MとPの問題」として、問題提起します。