PTSD(心的外傷)患者の日常とは、どういうものだろうか?
彼の前には、道を阻むような障害物は、きれいに取り除かれている。
なぜなら、一度ならず壁にぶち当たって、挫けて傷ついた己を護るために、自宅の一室に籠もっているからです。
無論、日常という時間を生きている。この状況は、トンネルに喩えられるはずです。
彼の目には、出口の明かりが見えている。しかし、その出口に意味が見出せずにいます。
出口が見えているのに、無意味な朝がはじまり、無意味な昼を過ごし、無意味な夜を迎えて、無意味な一日を仕舞う。
そうしてまた、無意味な朝が訪れる。・・・
薄闇の中で、「こもり」の均一の時間が流れている。けだし、それだけの生である。
私は今、自分がPTSD患者の一人であることを自覚している。
この想いを、宮崎勤被告にぶっけてみることにする。
日本型コンプレックスは、「美しい娘の・王」への複合的感情を意味すると考えています。
彼神は、娘であることにより愛されますが、一方で、王であるために畏怖感情に襲われます。
この日本人固有の神の持つ不幸は、具体的なイメージに結びつく証拠がひとつとして残されていないことです。
ただ、コンプレックスとして日本人の意識下で生き続けておりますから、その存在を仮定することができるのです。
王としての恐怖の念を取り除けば、彼神は竹取物語のかぐや姫のように、ラブリーな少女として物語の世界に登場してきます。
現代ならば、アイドル顔にして巨乳の美少女が日本型コンプレックスを持つ男たちの処女崇拝の対象になることでしょう。
最近では、3年前に起きた長崎小6女児殺害事件の加害女児生徒がロリコン男たちの間で、処女崇拝の対象になりました。
>佐世保市の小六女児同級生殺害事件の加害女児(11)は昨年末ごろから、自分のホームページ(HP)に「衝動」を吐き出すようになった。同級生を激しくののしる言葉、暴力的な自作小説…。前後してクラスでの言動も荒れ始めた。「(HPの)掲示板に嫌なことを書かれたから」。女児は、殺害の動機をそう語った。
>事件後、ネット上の掲示板に、加害女児や被害者と称する顔写真や氏名、自宅の写真など個人情報がはんらんした。昨年長崎市で起きた男児誘拐殺害事件後も、加害少年と称する画像がネット上を飛び交った。今回は加害女児を「かわいい」「悪くない」と崇拝する「ファンサイト」まで出現。ネット社会の「病理」は深化している。
2004年7月4日長崎新聞掲載
ソース:http://www.nagasaki-np.co.jp/press/syou6/kikaku3/04.html
「殺害」によって恐怖の記号が女児に付与された時、もうひとつの記号を求めて彼らは熱狂的になりました。「美少女」であるかどうかです。
この評判がネットでうわさされると、待望の・ぼくらの願望を叶えてくれる・恐怖の「娘王」の誕生と色めきたったわけです。
彼神への願望と恐怖という、根源的なアンビバレンツの感情は、正比例の関係ではなく、逆比例だと考えています。
つまり、娘を母神に置き換えると、その分、恐怖の念が薄められ、反対に、娘を幼女神にすると、恐怖心が強まるのです。
この考えをさらに推し進めれば、生まれたばかりの女の赤ちゃん神は、度し難いほどの恐怖の威光を放っていたことがいえると思います。
私たちはなぜ生まれたばかりの赤ちゃんを大切に育てるのでしょうか?
この問いに対する現代的な説明は、すべて蛇足です。
なぜなら、彼が神としてこの世に生まれてきたからです。
そのくせ、なぜ彼赤ちゃん殺しが絶えないのでしょうか。
これも、彼が神だったからです。
ミヤサキの連続幼女殺人事件を解明する鍵が、このコンプレックスに隠されていると思っています。
彼の前には、道を阻むような障害物は、きれいに取り除かれている。
なぜなら、一度ならず壁にぶち当たって、挫けて傷ついた己を護るために、自宅の一室に籠もっているからです。
無論、日常という時間を生きている。この状況は、トンネルに喩えられるはずです。
彼の目には、出口の明かりが見えている。しかし、その出口に意味が見出せずにいます。
出口が見えているのに、無意味な朝がはじまり、無意味な昼を過ごし、無意味な夜を迎えて、無意味な一日を仕舞う。
そうしてまた、無意味な朝が訪れる。・・・
薄闇の中で、「こもり」の均一の時間が流れている。けだし、それだけの生である。
私は今、自分がPTSD患者の一人であることを自覚している。
この想いを、宮崎勤被告にぶっけてみることにする。
日本型コンプレックスは、「美しい娘の・王」への複合的感情を意味すると考えています。
彼神は、娘であることにより愛されますが、一方で、王であるために畏怖感情に襲われます。
この日本人固有の神の持つ不幸は、具体的なイメージに結びつく証拠がひとつとして残されていないことです。
ただ、コンプレックスとして日本人の意識下で生き続けておりますから、その存在を仮定することができるのです。
王としての恐怖の念を取り除けば、彼神は竹取物語のかぐや姫のように、ラブリーな少女として物語の世界に登場してきます。
現代ならば、アイドル顔にして巨乳の美少女が日本型コンプレックスを持つ男たちの処女崇拝の対象になることでしょう。
最近では、3年前に起きた長崎小6女児殺害事件の加害女児生徒がロリコン男たちの間で、処女崇拝の対象になりました。
>佐世保市の小六女児同級生殺害事件の加害女児(11)は昨年末ごろから、自分のホームページ(HP)に「衝動」を吐き出すようになった。同級生を激しくののしる言葉、暴力的な自作小説…。前後してクラスでの言動も荒れ始めた。「(HPの)掲示板に嫌なことを書かれたから」。女児は、殺害の動機をそう語った。
>事件後、ネット上の掲示板に、加害女児や被害者と称する顔写真や氏名、自宅の写真など個人情報がはんらんした。昨年長崎市で起きた男児誘拐殺害事件後も、加害少年と称する画像がネット上を飛び交った。今回は加害女児を「かわいい」「悪くない」と崇拝する「ファンサイト」まで出現。ネット社会の「病理」は深化している。
2004年7月4日長崎新聞掲載
ソース:http://www.nagasaki-np.co.jp/press/syou6/kikaku3/04.html
「殺害」によって恐怖の記号が女児に付与された時、もうひとつの記号を求めて彼らは熱狂的になりました。「美少女」であるかどうかです。
この評判がネットでうわさされると、待望の・ぼくらの願望を叶えてくれる・恐怖の「娘王」の誕生と色めきたったわけです。
彼神への願望と恐怖という、根源的なアンビバレンツの感情は、正比例の関係ではなく、逆比例だと考えています。
つまり、娘を母神に置き換えると、その分、恐怖の念が薄められ、反対に、娘を幼女神にすると、恐怖心が強まるのです。
この考えをさらに推し進めれば、生まれたばかりの女の赤ちゃん神は、度し難いほどの恐怖の威光を放っていたことがいえると思います。
私たちはなぜ生まれたばかりの赤ちゃんを大切に育てるのでしょうか?
この問いに対する現代的な説明は、すべて蛇足です。
なぜなら、彼が神としてこの世に生まれてきたからです。
そのくせ、なぜ彼赤ちゃん殺しが絶えないのでしょうか。
これも、彼が神だったからです。
ミヤサキの連続幼女殺人事件を解明する鍵が、このコンプレックスに隠されていると思っています。