全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

日々の神の御言葉「征服の働きの内幕(4)」抜粋204

2020-10-31 22:51:32 | 日々の神の御言葉

 

日々の神の御言葉「征服の働きの内幕(4)」抜粋204

    あなたは受肉の神を認め、言葉の肉における出現を認めると言うが、神の背後でなんらかの事柄、神の要求に反することを行い、心の中では神を恐れていない。これが神を認めるということか。あなたは神が言うことは認めるが、自分ができることを実行せず、神の道にも従わない。これが神を認めるということか。あなたは神を認めはするが、あなたの考え方は神に対して慎重であるだけでしかなく、畏敬では決してない。あなたが神の働きを見て認め、それが神であることを知っていても、あなたが生ぬるいままで、まったく変化しないのなら、あなたはまだ征服されていない人である。すでに征服された人は、自分ができることをすべてしなければいけない。また、たとえさらに高い真理に入ることができず、そのような真理が自分の手には届かないものであっても、心の中でそこに到達したいと願うのである。人が受け入れられるものに限度があるから、実践できることに束縛や制限があるのである。しかし、少なくともできることはすべてしなければならず、これが達成できるなら、それは征服の働きゆえに成し遂げられた成果である。仮にあなたが、「あの人は人間には語れないほどの多くの言葉を発することができることからして、あの人が神でないのなら、いったい誰が神なのか」と言ったなら、このような考えはあなたが神を認めていることにはならない。もし神を認めるなら、実際の行いでそれを示さなければいけない。たとえば教会の指導者であっても、義を実践せず、金や資産をむやみにほしがり、いつも密かに教会の資金を着服しているなら、これは神が存在することを認めていることになるだろうか。神は全能であり、畏敬の対象であるべき存在である。神が存在することをほんとうに認めているのなら、どうして恐れずにいられようか。そのような卑劣な行為ができるなら、あなたはほんとうに神を認めているのか。あなたが信じているのは神か。あなたが信じているのは漠然とした神である。だから、あなたは恐れないのである。ほんとうに神を認め、知っている人はみな神を恐れ、神に逆らうことや自分の良心に反する行為は何であれ恐れて行うことはできない。彼らは特に神の心意に反すると自分で知っていることを行うことを恐れる。これだけが神の存在を認めていることであるとみなされる。あなたの両親が、あなたが神を信じるのをやめさせようとしたら、あなたはどうすべきか。信仰をもたない夫があなたによくしてくれるとき、あなたはどのように神を愛すべきか。また、兄弟姉妹があなたを嫌悪するとき、どのように神を愛すべきか。もし神を認めるのなら、そのような場合にもあなたは適切に行動し、現実を生きる。もし具体的に行動することができず、神の存在を認めると言うだけなら、口先だけの人間である。神を信じていると言い、神を認めはするが、いったいどのように神を認めるのか。どのように神を信じているのか。神を恐れているのか。神を敬い畏れているのか。心の奥底で神を愛しているのか。苦悩し、頼る者が誰もいないとき、あなたは神を愛すべきだと感じるが、事が過ぎればすっかり忘れてしまう。それは神を愛していることでも、信じていることでもない。究極的に、神は人間が何を成し遂げることを望んでいるのか。自分自身の重要さに感心したり、自分は新しい物事を素早く覚え理解できると感じたり、他人を支配したり、他人を見下したり、人を外見で判断したり、正直な人をいじめたり、教会の金をむやみに欲しがったりするといった状態をわたしは述べてきたが、これらの堕落した性質のすべてがあなたから一部でも取り除かれて初めて、あなたが征服されたことが明らかにされる。 『言葉は肉において現れる』より引用


日々の神の御言葉「征服の働きの内幕(4)」抜粋203

2020-10-30 18:21:40 | 日々の神の御言葉

日々の神の御言葉「征服の働きの内幕(4)」抜粋203

    完全にされるとは何を意味するのか。征服されるとは何を意味するのか。人が征服されるには、どういう条件を満たさなければならないのか。また、完全にされるには、どういう条件を満たさなければならないのか。征服することと完全にすることは、いずれも人間が本来の姿を取り戻し、堕落したサタン的性質とサタンの影響から解放されるように人間を完全にするのが目的である。この征服は人間への働きの過程の初期に行われる。確かにそれは、その働きの第一段階である。完全にするのは第二段階であり、それは終結の働きである。人間はみな征服される過程を経なければならない。そうでなければ、神を知るすべはなく、神がいることに気づくことはない。つまり、人が神を認めることは不可能になる。そして、もし神を認めることができないのなら、人が神に完全にされることも不可能となる。なぜなら、完全にされるための条件を人が満たさないからである。神を認めさえもしないのなら、どうして神を知ることができようか。また、どうして神を追い求めることができようか。神への証しを立てることができないし、まして、神を満足させるような信仰をもつことなどできない。だから、誰でも完全にされたい人にとって、第一段階は征服の働きを経ることでなければならない。これがまず第一条件である。しかし、征服することも完全にすることも人間に働きかけ人間を変えるためであり、それぞれが人間を経営する(救う)働きの一部である。この二つの段階は、人を完全にするために必要であり、どちらもおろそかにすることはできない。確かに「征服される」というのはあまりよい響きではないが、実際のところ、人を征服する過程とは人を変える過程である。ひとたび征服されても、あなたの堕落した性質は完全には取り除かれないかもしれないが、あなたはそれを知ったことになる。征服の働きを通して、あなたは自分の低劣な人間性と、さらには自らの不服従もかなり知るようになっている。これらを捨てることも変えることも征服の働きの短期間にはできないが、あなたはそれを知るようになり、このことがあなたを完全にするための基礎を築く。このように、征服することと完全にすることとはどちらも人間を変え、人間の堕落したサタン的性質を取り除くために行われ、その結果、人間は自身を神に完全に捧げられるようにする。征服されるということは、人間の性質を変えることにおける第一段階でしかなく、また、人間が完全に神に身を捧げることにおける第一段階でもあり、そのため完全にされる段階より低い。征服された人のいのちの性質は、完全にされた人のものよりもずっと変化が少ない。征服されることと完全にされることとは、概念的に互いに異なっている。なぜならふたつは違う段階の働きであって、人に異なった水準を要求するからである。征服において人は低い水準を要求され、完全にする段階では水準は高くなる。完全にされた人は義なる人、聖められ純粋にされた人であり、人間を経営する働きの結晶化、あるいは完成品である。この人は完全な人間ではないが、意味のある人生を生きることを求める。一方、征服された人は神が存在することを言葉で認めるだけである。彼らは神が受肉し、言葉が肉において現れ、神が裁きと刑罰の働きを行うために地上に来たことを認める。また、神の裁きと刑罰、神の鞭と鍛錬はすべて人間にとって有益であることも認める。彼らは最近になって人間のような姿を持ち始めたばかりである。人生について何らかの識見はあるが、それはまだ彼らには漠然としている。言い換えると、彼らは人間性をもち始めたばかりなのである。これらが征服されることの成果である。人が完全への道に踏み出すと、その古い性質が変わることが可能になる。さらに、いのちは成長を続け、人は徐々に真理の中へ深く入っていく。彼らはこの世と真理を追い求めないすべての人を嫌悪することができる。彼らはとりわけ自分自身を嫌悪するが、ただそれだけではなく、明らかに自分自身を知っている。彼らには真理によって生きる意欲があり、真理を追い求めることを目標とする。自分の脳が生み出した考えの中で生きるつもりはなく、人間の独善性、傲慢、うぬぼれに深い嫌悪感を持つ。彼らは品格を強く意識して話し、識別力と知恵でもってものごとに対処し、神に忠実で従順である。もし刑罰と裁きとを経験することがあっても、受動的になったり弱くなったりしないどころか、神による刑罰と裁きに感謝する。彼らは神の刑罰と裁きなしではやっていけず、それらは彼らを守ると信じている。彼らは平和と喜びからなる飢えを満たすためにパンを求めるような信仰を追い求めない。一時的な肉の快楽を追いかけることもない。これが完全にされた人に起こることである。人は征服された後、神がいることを認めるが、神の存在を認識するときに人に現れるものは限られている。言葉が肉において現れるということは、実際には何を意味するのか。受肉とは何を意味するのか。受肉した神は何をしたのか。神の働きの目標と意義とは何か。神の働きと肉における神の業をこれほど多く体験した後、あなたは何を獲得したのか。これらのことをすべて理解して初めて、あなたは征服される。神がいることを認めると言うだけで捨て去るべきものを捨てず、捨てるべき肉の快楽を捨てず、その代わりにこれまでと同様に肉の快楽を切望し続け、兄弟姉妹に対する偏見を捨て去ることができず、多くの簡単な実践を行うにおいて一切の代償を払わないならば、それはあなたがまだ征服されていないことの証拠である。この場合、たとえあなたが多くのことを理解していても、それはすべて何の役にも立たない。征服された人とは、ある程度最初の変化を達成し、入り始めた人である。神の裁きと刑罰を体験することによって、人は神についてと真理について認識し始める。さらに深く具体的な真理の現実性に完全に入ることはできないかもしれないが、実際の生活において多くの初歩的な真理を実行することは可能である。例えば、肉の快楽や個人的な地位に関与することなどである。このすべてのことが、征服の過程において人の内で達成される成果である。性質の変化は征服された人にも見られる。例えば、人の服装、身だしなみ、生き方などもすべて変わることがありえる。神への信仰についての見方が変わり、追求する目標を明瞭に理解し、願望はさらに高まる。征服の働きのあいだ、いのちの性質にも対応する変化が起こる。変化はあるが、浅く、初歩的で、完全にされた人に見られるような性質の変化と追求の目的に比べると、はるかに劣っている。もし征服される過程において、ある人の性質がまったく変わらず、真理もまったく自分のものとすることがないなら、この人はゴミであり全然役に立たない。征服されていない人を完全にすることはできない。征服されることのみを求める人は、たとえ征服の働きのあいだに性質にある程度それ相応の変化が見られたとしても、充分に完全にされることはできない。その人は最初に獲得した真理も失うことになる。征服された人と完全にされた人に起こる性質変化の度合いには非常に大きな差がある。しかし、征服されることは変化の第一歩であり、それは基盤である。この最初の変化が欠けているということは、その人が実際には神をまったく知らない証拠である。なぜなら、その認識は裁きから来るからで、そのような裁きは征服の働きの主要な部分だからである。したがって、完全にされた人はみな最初に征服されなければならない。そうでなければ、その人が完全にされることはない。 『言葉は肉において現れる』より引用


日々の神の御言葉「モアブの子孫を救うことの意義」抜粋186

2020-10-29 17:43:45 | 日々の神の御言葉

日々の神の御言葉「モアブの子孫を救うことの意義」抜粋186

     地上に来た時、神はこの世のものではなく、この世を楽しむために肉となったのではない。働きが神の性質を明らかにし、最も意義のあるものとなるのは、神が生まれた場所である。それが聖なる地であれ穢れた地であれ、神がどこで働こうと神は聖い。この世界のあらゆるものは神に創られた。ただ全てがサタンに堕落させられてしまったのである。しかしながら、万物は依然として神のものであり、全ては神の掌中にある。神が穢れた土地に来てそこで働くのは、神の聖さを現すためである。神は自分の働きのためにそうする。つまり、この穢れた地の民を救うために神はひどい辱めを耐え忍び、このような働きを行なうのである。それは証しを立てるためであり、全人類のためである。このような働きが人に示すのは神の義であり、それは神の至高性をさらによく示すことができる。神の偉大さと正義は、他者が蔑むような賤しい人の集団を救うことにおいて表明される。穢れた土地に生まれることは、決して神が賤しいことを証明するのではない。それは専ら神の偉大さと人類への真の愛が万物に見えるようにするのである。神がこのように行えば行なうほど、それは神の人間への純粋な愛、完璧な愛をさらに現わす。神は聖く義である。ちょうどイエスが恵みの時代に罪人たちと暮らしたのと同様に、神は穢れた土地に生まれ、汚れにまみれた人たちと暮らしているが、神の働きは隅々まで全人類の生存のために行われるのではないのか。それは全て、人類が大いなる救いを得られるようにそうなっているのではないのか。二千年前、神は何年間も罪人たちと暮らした。それは贖いのためであった。今日、神は穢れて賤しい人たちの集団と暮らしている。それは救いのためである。神の働きは全てあなたがた人間のためではないのか。もし人間を救うためでなかったとしたら、何ゆえに神は飼葉おけで生まれた後、罪人たちと何年間も暮らし、共に苦しんだのか。そして、人間を救うためでなかったとしたら、なぜ神は再び肉に戻り、悪魔が集まるこの地に生まれ、サタンに深く堕落させられている人たちと暮らすのか。神は忠実ではないのか。神の働きのどの部分が人類のためでないというのか。どの部分があなたがたの運命のためでないのか。神は聖い。これは変わることがない。神は穢れた地に来たが、穢れに汚されることはない。このこと全てが意味するのは、神の人類への愛は極端なほど無私であり、神が耐える苦難と屈辱は極めて大きいということに尽きる。あなたがた全員のため、そしてあなたがたの運命のために、神が受ける辱めがどれほど大きいかをあなたがたは知らないのか。偉人や裕福な権力者の息子を救うのではなく、神は賤しく他者から見下されている人たちを救うことを重視している。このことは全て神の聖さではないのか。このことは全て神の義ではないのか。全人類の生存のために、神は穢れた地に生まれ、あらゆる屈辱を受けることを選ぶ。神はとても現実的であり、虚偽の働きを一切行わない。各段階の働きは、このように実際的に行われるのではないのか。人は皆、神を中傷して神は罪人と共に食卓に着くと言ったり、神を嘲笑して神は穢れた息子たちと暮らすと言ったり、最も賤しい人たちと暮らすと言ったりするが、神はなおも無私無欲に自らを捧げ、依然として人類から拒まれる。神が耐え忍ぶ苦難は、あなたがたの苦難よりも大きくはないのか。神の行なう働きは、あなたがたが払った代価を上回らないのか。あなたがたは穢れた地に生まれたが、神の聖さを得た。あなたがたは悪魔が集う地に生まれたが、大いなる守りを受けた。あなたがたにどのような選択肢があるというのか。何の不満があるというのか。神が耐え忍んだ苦難は、あなたがたが耐えた苦難よりも大きくないのか。神は地上に来たが、人間の世の楽しみを享受したことはない。神はそのようなものを忌み嫌う。神が地上に来たのは人間から物質的なもてなしを受けるためでもなければ、人間の食べ物や衣類や装身具を楽しむためでもない。神はそのようなことには全く関心がない。神が地上に来たのは人間のために苦しむためであり、この世の幸運を楽しむためではない。神は苦難を受け、働き、神の経営(救いの)計画を完了するために来たのである。神は好ましい場所を選ぶことも、大使館や豪華なホテルに住むことも選択せず、仕えてくれる召使いも抱えていない。あなたがたが見たことから、神が来たのは働きを行なうためか、楽しむためかが分からないのか。あなたがたは目が見えないのか。神はあなたがたにどれほど与えてきたのか。もし神が快適な場所に生まれていたならば、神は栄光を得ることができるだろうか。神は働きを行えるだろうか。神がそうすることに何か意義があるだろうか。人類を完全に征服することができるだろうか。人を穢れた地から救うことができるだろうか。人間の観念にしたがって、人は尋ねる。「神が聖なる方なら、なぜ私たちのこの穢れた場所に生まれたのですか。あなたは私たち穢れた人間を憎み忌み嫌っています。あなたは私たちの抵抗と反逆を忌み嫌います。それならなぜ私たちと暮らすのですか。あなたは至高の神です。どこでも生まれることができたはずなのに、なぜこの穢れた地に生まれなければならなかったのですか。あなたは日々私たちを罰し、裁き、私たちがモアブの子孫であることを確かに知っています。ではなぜそれでも私たちのもとで暮らすのですか。なぜモアブの子孫の家庭に生まれたのですか。なぜそうしたのですか」。あなたがたのこのような考えにはすっかり理知が欠けている。このような働きでなければ人に神の偉大さや謙遜、隠秘性を知らしめることができない。神は働きのために何であろうと犠牲にすることをいとわず、働きのためにあらゆる苦難を耐え忍んできた。神は人類のために行動し、それだけでなく、あらゆる創造物が神の支配に服従するように、サタンを征服するために行動する。これのみが有意義で価値のある働きである。 『言葉は肉において現れる』より引用

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日々の神の御言葉「モアブの子孫を救うことの意義」抜粋185

2020-10-28 08:30:37 | 日々の神の御言葉

日々の神の御言葉「モアブの子孫を救うことの意義」抜粋185

   今モアブの子孫に働きを行なうことは、最も暗い所へ落ちた者を救うことである。モアブの子孫は呪われたが、神は彼らから栄光を得ることをいとわなかった。なぜならモアブの子孫は皆、当初は心に神のいない者だったからである。心に神のいない者を神に従い神を愛する者にすることだけが真の征服であり、そのような働きの成果が最も価値があり、最も説得力がある。それだけが栄光を得ることであり、それが終わりの日に神が獲得したい栄光である。地位が低いものの、その人たちが今そのような偉大な救いを得られることは、まさに神に高く揚げられることである。この働きは極めて意義深く、神は裁きを通してこの人たちを獲得する。神の意図は彼らを罰することではなく、救うことである。もしも終わりの日に、神が依然としてイスラエルで征服の働きを行なっていたならば、それは無価値である。たとえその働きに成果があったとしても、少しの価値も大きな意義もなく、神は全ての栄光を得られないであろう。神は、あなたがた最も暗い所に落ち、最も遅れている人たちに働きを行なっているのである。この人たちは神が存在することを認めず、神が存在することを未だに知らずにいる。このような被造物は、神のことを忘れてしまうほどサタンに堕落させられている。彼らはサタンに盲目にされ、天に神が存在することを全く知らない。あなたがたは皆、心の中で偶像とサタンを崇拝している。あなたがたは最も賤しく、最も遅れた人間ではないのか。あなたがたは最も賤しい肉であり、個人的な自由などなく、また苦難している。また、あなたがたはこの社会において最低の地位にあり、信仰の自由さえない。ここにあなたがたに働きを行なう意義がある。今日モアブの子孫であるあなたがたに働きを行なうことは、故意にあなたがたを辱めるためではなく、働きの意義を明らかにするためである。それはあなたがたにとっては、大いに高く揚げられることである。理知と識見を備えている者ならば、次のように言うだろう。「わたしはモアブの子孫の一人で、今このように神に大いに高められたり、このような大きな祝福を受けたりするに値しない。わたしのあらゆる言動において、またわたしの地位と価値に基づけば、わたしは絶対そのような大きな祝福を神から受けるに値しない。イスラエル人には神への大きな愛があり、彼らが享受する恵みは神が授けるものだが、彼らの地位はわたしたちよりも遥かに高い。アブラハムはヤーウェにとても献身的であり、ペテロはイエスにとても献身的であった。彼らの献身は、わたしたちの献身の百倍であった。わたしたちの行動に基づけば、わたしたちは神の恵みを享受するに全く値しない」。中国のこの人たちの奉仕は、神の前にさし出すことなど到底できない。それは全く混乱している。今それほど神の恵みを享受しているのは、まさしく神に高く揚げられているのである。いつあなたがたが神の働きを求めたのか。いつ神のために命を犠牲にしたのか。いつ家族や両親、子をためらうことなく捨てたのか。大きな代価を払った者は一人もいない。聖霊に連れ出されていなかったならば、あなたがたのうち何人が全てを犠牲にできていたであろうか。あなたがたが今日まで従ってきたのは、ただ強制され、強要されたからである。あなたがたの献身はどこにあるのか。服従はどこにあるのか。あなたがたの行動に基づくと、あなたがたは遥か以前に滅ぼされ、一人残らず一掃されていたはずである。どのような資格があって、これほど大きな祝福を享受できるというのか。あなたがたにはほんの少しもそんな価値はない。あなたがたのうち誰が自分の道を作り出したのか。あなたがたのうち誰が自力で真理の道を見つけたのか。あなたがたは皆、怠惰で貪欲で、楽をしたがる恥知らずである。あなたがたは自分が偉大だと考えているのか。何か自慢すべきことがあるのか。たとえモアブの子孫であることを無視しても、あなたがたの本性や出生地は最高のものなのか。モアブの子孫であることを無視しても、あなたがたの子孫は皆、あらゆる点でモアブの子孫なのではないのか。事実の真相を変えることができるのか。今あなたがたの本性を暴露することは、事実の真相を不正確に伝えることになるのか。自分の卑屈さと生活と人格を見てみなさい。あなたがたは自分が人類の最低層で最も賤しいことを知らないのか。何か自慢すべきことがあるのか。社会におけるあなたがたの地位を見てみなさい。最低の地位にいるのではないのか。あなたがたは、わたしが失言したとでも思っているのか。アブラハムはイサクを捧げた。あなたがたは何を捧げたのか。ヨブは全てを捧げた。あなたがたは何を捧げたのか。幾人もの人が、真理の道を追求するために生命を捧げ、首を差し出し、血を流してきた。あなたがたはそのような代価を払ったのか。比べると、あなたがたにはそのような大きな恵みを享受する資格は全くない。あなたがたがモアブの子孫であると今日言うことは、あなたがたを中傷することになるのか。自分を過大評価してはならない。あなたが自慢できることは何もないのである。このような大きな救いと豊かな恵みが、無償であなたがたに与えられている。あなたがたは何も犠牲にしていないのに、恵みをただで享受する。恥ずかしくないのか。この真の道は、あなたがたが自分で求めて見つけたものなのか。あなたがたがこの道を受け入れるようにしたのは聖霊ではないのか。あなたがたに追い求める心があったことはなく、ましてや真理を追求し思慕する心があったこともない。あなたがたはただ座ってくつろぎながら楽しんでいるだけである。何の努力もせずに真理を得た。何の権利があって不平を言うのか。自分には最大の価値があるとでも思っているのか。命を犠牲にした者や、血を流した者に比べて、あなたがたは何に不満があるというのか。あなたがたを今滅ぼすのは、正しく当然のことである。あなたがたには服従し従うこと以外に選択の余地はない。あなたがたは全く何にも値しない。あなたがたのうちのほとんどが呼び出されたが、状況に強いられていなかったならば、あるいは呼ばれていなかったならば、あなたがたには出てくる気など毛頭なかったはずである。誰が自分からそのように物事を断念するのか。誰が自分から肉の快楽を捨て去るのか。あなたがたは皆、貪欲に安逸をむさぼり、贅沢な暮らしを求める人である。あなたがたは、これほど大きな祝福を受けたが、その上何か言うことがあるのか。どんな不満があるというのか。あなたがたは天の最大の祝福と恵みを享受することを許され、地上でこれまでに行われたことのない働きが今あなたがたに明らかにされている。これは祝福ではないのか。あなたがたは神に抵抗し反逆したので、今はこのように刑罰を受けている。この刑罰のおかげで、あなたがたは神の憐れみと愛を知り、そして何よりも神の義と聖さを知った。この刑罰と人類の穢れゆえに、あなたがたは神の大いなる力を見て、神の聖さと偉大さを知った。これは最も希有な真理ではないのか。意義ある人生ではないのか。神が行なう働きは意味で満ち溢れている。したがって、あなたがたの地位が低ければ低いほど、あなたがたが神に高められていることと、神が今日あなたがたに行なう働きには大いなる価値があることがそれだけ一層明らかに証明される。それはまさしく、ほかでは得られない計り知れない価値のある宝である。全時代を通してこれほど大きな救いを享受した者は一人もいない。あなたがたの地位の低さが、神の救いの偉大さを示しており、神が人間に忠実であること、すなわち、神は救うのであり、滅ぼすのではないということを示している。 『言葉は肉において現れる』より引用


日々の神の御言葉「受肉の奥義(4)」抜粋170

2020-10-27 19:44:08 | 日々の神の御言葉

日々の神の御言葉「受肉の奥義(4)」抜粋170

    神の性質のすべては六千年にわたる経営計画を通じて表わされてきた。それは恵みの時代、もしくは律法の時代においてのみ表わされたのではなく、ましてや終わりの日のこの時期にだけ表わされるのでもない。終わりの日になされる働きは、裁き、怒り、刑罰を表わす。終わりの日になされる働きが、律法の時代の働きや、恵みの時代の働きに取って代わることはできない。しかし、これら三段階は互いに繋がって一つの実体を成し、いずれも一つの神の働きである。当然、この働きの遂行は別々の時代に分割されている。終わりの日になされる働きはすべてに終わりをもたらし、律法の時代になされた働きは始まりの働きであり、恵みの時代になされた働きは贖いの働きだった。この六千年にわたる経営計画全体の働きのビジョンについては、誰も識見や理解を得ることはできない。それらのビジョンは神秘的なままである。終わりの日においては、神の国の時代を始めるべく言葉の働きだけがなされるものの、それはすべての時代を表わすものではない。終わりの日は終わりの日以上のものではなく、神の国の時代以上のものでもない。また恵みの時代や律法の時代を表わすものでもない。終わりの日には六千年にわたる経営計画のすべての働きがあなたがたに表わされる、というだけのことである。それは奥義のヴェールを取り除くことである。このような奥義について、人がそのヴェールを取り除くことはできない。人が聖書についていかに深く理解していても、その理解が言葉以上のものになることはない。人は聖書の本質を理解していないからである。人は聖書を読むとき、何らかの真理を理解したり、いくつかの言葉を説明したり、有名な聖句や章を細かく調べ上げたりするかもしれないが、それらの言葉に含まれている意味を取り出すことはできないだろう。なぜなら、人が見ているのはどれも死んだ言葉であり、ヤーウェやイエスの働きの場面ではなく、人にはそのような働きの奥義を解明する術がないからである。よって、六千年にわたる経営計画の奥義は最も偉大な奥義であり、最も深く隠されていて、人にはまったく理解できないものである。神自身が人に説明して明かさない限り、誰も神の旨を直接把握することはできない。さもなければ、それらは永遠に人間にとって謎のままで、封印された奥義であり続けるだろう。宗教界の人たちはさておき、あなたがたも今日まだ伝えられていなかったなら、把握することはできなかっただろう。この六千年の働きは、預言者たちによるすべての預言よりも神秘に満ちている。これは天地創造から現在に至る中で最大の奥義であり、歴代の預言者の誰も理解できたことがない。なぜなら、この奥義は最後の時代においてのみ解明され、それまでに明らかにされたことがないからである。あなたがたがこの奥義を把握し、完全に受け取ることができるならば、宗教の人々も残らずこの奥義によって征服されるだろう。この奥義だけが最も偉大なビジョンであり、人間はそれを理解したいと強く渇望するが、それはまた人間にとって極めて不明瞭なものである。恵みの時代、イエスの行なった働きは何か、ヤーウェの行なった働きは何かをあなたがたは知らなかった。人々は、ヤーウェが律法を定めたのはなぜか、律法を守るよう大衆に命じたのはなぜか、神殿を建てなければならないのはなぜかを理解せず、ましてやイスラエル人がエジプトから荒れ野に連れ出され、その後カナンへと導かれたのはなぜかも理解しなかった。この日に至るまで、これらのことが明らかにされることはなかったのである。 『言葉は肉において現れる』より引用


日々の神の御言葉「受肉の奥義(1)」抜粋169

2020-10-26 19:17:45 | 日々の神の御言葉

 

日々の神の御言葉「受肉の奥義(1)」抜粋169

 「なぜ時代の到来は神自身によって告げられなければならないのか。被造物が神の代わりになることはできないのか」と不思議に思う人がいるかもしれない。新しい時代の到来を告げるという明白な目的のために神が肉となることを、あなたがたはみな知っている。そしてもちろん、神が新しい時代の到来を告げるとき、同時に前の時代を終わらせることもあなたがたは知っている。神は初めであり終わりである。神の働きを始動させるのは神自身なのだから、前の時代を終わらせるのも神自身でなければならない。それは、神がサタンを打ち負かし、世界を征服する証拠である。神自身が人々のもとで働くたび、それは新しい戦いの始まりとなる。新しい働きの始まりがなければ、当然古い働きの終わりもない。そして古い働きの終わりがなければ、サタンとの戦いがまだ終結していないことを証明している。神自身が来て人のあいだで新しい働きを実行して初めて、人は完全にサタンの支配から自由になり、新しい生活、新しい始まりを得ることができる。そうでなければ、人は永遠に古い時代に生き、永遠にサタンの古い影響下で生きることになる。それぞれの時代が神によって導かれることで、人間の一部は自由になり、それによって人間は新しい時代に向けて神の働きとともに前進する。神の勝利とは、神に従うすべての人の勝利である。もし被造物である人類が時代を終えることを任されたなら、人間の視点からだろうと、サタンの視点からだろうと、それは神に反抗する行ない、あるいは神を裏切る行ないに過ぎず、神に対する従順さの行ないではないのであって、そのような人間の働きはサタンの道具にされてしまうだろう。神自身によって始められた時代の中、人が神に服従し、付き従うのでなければ、サタンを完全に納得させることはできない。それが被造物の本分だからである。ゆえに言っておくが、あなたがたに必要なのは付き従って服従することだけで、それ以上のことは求められていない。これが、各自が自分の本分を守り、それぞれの役目を果たすことの意味である。神は自身の働きを行ない、人が神に代わってそうすることを必要としておらず、被造物の働きに神が参加することもない。人は自分自身の本分を尽くするのであり、神の働きに参加することはない。これだけが本当の服従であり、サタンが敗北した証拠である。新しい時代の到来を告げたあと、神自身が自ら人類のあいだで働くために到来することはない。そうして初めて、人は自分の本分を尽くし、被造物としての使命を果たすべく、新しい時代へと正式に足を踏み入れるのである。これが、神が働きを行なう原則であって、誰も背くことはできない。このように働くことだけが賢明で道理にかなっている。神の働きは神自身によってなされる。神の働きを始動させるのは神であり、それを終わらせるのも神である。働きを計画し、経営するのも神であり、それ以上に、働きを結実させるのも神である。聖書に、「わたしは初めであり、終わりである。蒔く者であり、刈る者である」と書かれている通りである。神の経営の働きに関連することはすべて神自身によって行なわれる。神は六千年にわたる経営計画の支配者で、誰も神の代わりにその働きを行なうことはできず、神の働きを終わらせられる者もいない。なぜなら、すべてをその手に掌握しているのは神だからである。世界を創造した神は、全世界が神の光の中に生きるよう導き、全時代を終わらせ、それにより自身の計画をすべて成就させるだろう。 『言葉は肉において現れる』より引用


日々の神の御言葉「受肉の奥義(4)」抜粋116

2020-10-25 17:37:43 | 日々の神の御言葉

日々の神の御言葉「受肉の奥義(4)」抜粋116  

    神が人を救うとき、霊の手段を通したり、霊として直接行なわない。というのは、神の霊は人が触れることも見ることもできず、人が近づくこともできないからである。もし神が霊として直接人を救おうとするなら、人は神の救いを受け入れることはできないであろう。そして、もし神が造られた人の外形をまとわないなら、人はこの救いを受け入れることはできないであろう。というのは、ちょうど誰もヤーウェの雲の近くに行くことができなかったように、人は決して神に接近することができないからである。被造物である人となることによってのみ、すなわち、言葉を神がまとう肉体に入れることによってのみ、神は従ってくるすべての人たちに直接言葉を働かせることができる。その時初めて、人は自分自身で神の言葉を聞き、言葉を見、言葉を受け取り、これによって、完全に救われることができる。もし神が肉とならなければ、肉なる人はそのような偉大な救いを受けることもできないし、誰一人救われることもないであろう。もし神の霊が人の間で直接働いたなら、人は神と係わることができないので、サタンによって打ち負かされるか、連れ去られ囚われるであろう。  最初の受肉はイエスの肉体を通して人を罪から贖うためであった。つまり、イエスは十字架から人を救ったが、堕落したサタン的な性質は依然として人に留まっていた。二番目の受肉はもはや罪のためのいけにえとしての役割ではなく、罪から贖われた人たちを完全に救うことであった。それにより、赦されたものが罪から解放され、完全に清められ、性質が変えられ、それによりサタンの暗闇の影響を打ち破り、神の玉座の前に戻ってくるためである。このようにしてのみ、人は完全に清められる。神は律法の時代が終ってから、恵みの時代に救いの働きを開始した。神が人間の不従順に対する裁きと刑罰の働きを終えて人類を全く清める終わりの日が来てはじめて、神は救いの働きを終え、安息に入る。よって、三段階の働きの中で、神は二度のみ人の間で働きを実行するために人となった。それは働きの三段階のうち一段階だけが、人を生活において導く働きであり、他の二段階は救いの働きだからである。神が人となる場合のみ、神は人と共に生き、世の中の苦しみを経験し、普通の肉体で生きることができるのである。このようにしてのみ、神はその被造物である人に必要な実践的言葉を与えることができる。人が神から完全な救いを受けるのは、受肉した神ゆえであり、人が直接天に捧げる祈りによるのではない。というのは、人は肉的であり、人は神の霊を見ることができず、ましてや神に近づくことなどできないからである。人が交わることができるのは神の受肉した肉体でしかなく、人はその人を通してのみ、すべての言葉とすべての真理を理解し、完全なる救いを受けることができる。第二の受肉は人の罪を取り除き、人を清めるには十分である。よって、第二の受肉は肉体での神の働きのすべてに終止符を打ち、神の受肉の意義を完成する。その後は、神の肉体での働きは完全に終わりとなる。第二の受肉の後、神はその働きのために人となることは二度とない。神の経営(救い)全体が終わっているからである。終わりの日に、神の受肉は神の選ばれた民を全て自身のものとし、終わりの日の人たちはすべて、それぞれの種類に応じて区分されている。神はもはや救いの働きをすることも、どのような働きを行なうためにも肉に戻ることはない。 『言葉は肉において現れる』より引用


日々の神の御言葉「キリストの初めの言葉:第百二十章」抜粋97

2020-10-24 17:00:39 | 日々の神の御言葉

日々の神の御言葉「キリストの初めの言葉:第百二十章」抜粋97

    シオンよ!歓呼せよ!シオンよ!大声で歌え!わたしは勝ち誇って戻ってきた。わたしは勝利して帰って来た。すべての民よ、急いで整列せよ。すべての被造物よ、動きを止めなさい、わたしの本体が全宇宙に向き合い、世界の東に現れるからだ。ひざまずいて崇めようとしない者などあるだろうか。わたしを真の神と呼ばない者などあるだろうか。畏敬の念を持って見上げない者などあるだろうか。讃美しない者などあるだろうか。歓呼しない者などあるだろうか。わたしの民はわたしの声を聞き、わたしの子らはわたしの国で生き残るのだ。山々も川もすべてのものが止むことなく歓呼し、休むことなく飛び跳ねる。今や誰一人退こうとする者はなく、立ち上がって抵抗しようとする者もいない。これはわたしの素晴らしき業であり、そしてそれ以上に、わたしの偉大な力なのだ。わたしはすべてのものに心からわたしを崇めさせ、そしてさらに、すべてのものにわたしを称賛させる。これはわたしの六千年にわたる経営(救いの)計画の究極の目的であり、わたしが定めたことなのだ。一人の人間も、一つの物体も、一つの出来事も、あえて立ち上がって抵抗したり反逆したりすることはない。わたしの民は皆わたしの山(すなわちわたしが後に創造する世界)に流れ着き、わたしの前で服従する。わたしには威厳と裁きがあり、わたしが権威を宿しているからだ。(これはわたしが体に宿っているときのことである。わたしは肉においても権威を持つが、肉の中では時間と空間の制限を超越できないため、完全な栄光を得たとは言えない。わたしは長子たちを肉において獲得するが、それでも栄光を得たとは言えないのだ。シオンに戻り、外観を変えたとき初めて、わたしは権威を備え、すなわち栄光を得たと言えるのだ。)わたしに難しいことは何もない。わたしの口から出る言葉によってあらゆるものが破壊され、わたしの口から出る言葉によってあらゆるものが実現し完全にされる。それがわたしの偉大な力であり、わたしの権威である。わたしは力と権威に満ち溢れているため、わたしを妨げようとする者は誰もいない。わたしはすでにすべてのものに勝利し、すべての反逆の子らに打ち勝った。わたしは長子たちを自分と一緒にシオンに連れ戻す。わたしは一人でシオンに戻るのではない。そのためすべての者がわたしの長子たちを見て、わたしへの畏敬の念を抱くようになる。それこそが長子たちを得ることの目的であり、それが創世の時からのわたしの計画なのだ。

   すべての準備ができたとき、それはわたしがシオンに戻る日となり、その日はすべての人々によって祝われることになる。わたしがシオンに戻ると、地上のすべては静まりかえり、地上のすべてが安らぐ。わたしがシオンに戻ると、すべてのものは本来の姿を取り戻す。それからわたしはシオンで働きを開始し、悪人を罰し、善人に報い、わたしの義を実践し、わたしの裁きを実行する。わたしは言葉を使ってすべてを成し遂げ、あらゆる人とあらゆるものにわたしの刑罰の手を体験させる。そしてあらゆる人々に、わたしの栄光のすべて、知恵のすべて、豊かさのすべてを見せる。わたしの中にはすべてが完成されているため、立ち上がって批判する者は誰もいない。そしてここで、あらゆる人にわたしの名誉のすべてを見せ、わたしの勝利のすべてを味わわせよう。わたしの中にはあらゆるものが現れるからだ。ここからわたしの偉大な力と権威を見ることができる。誰もあえてわたしを憤慨させようとはせず、誰もわたしを妨げようとはしない。わたしの中ではすべてのことが明らかにされる。誰があえて何かを隠そうとするだろうか。わたしはそのような者には決して憐みを示さない。そのような惨めな者はわたしの厳しい罰を受け、そのような屑はわたしの目の前から追放されなければならない。わたしは鉄つえをもって彼らを支配し、わたしの権威を用いて彼らを裁く。一切の哀れみをかけることも、彼らの気持ちを考えることもない。なぜならわたしは神自身であり、感情を持たず、威厳に満ち、侵すことのできない者だからだ。すべての者がこのことを理解し、目にしなければならない。そうでないと、「原因や理由もなく」わたしに打ち倒され、滅ぼされることになる。わたしの鉄のつえはわたしに背くすべての者を打ち倒すからだ。わたしは彼らがわたしの行政命令を知っていようがいまいが気にはしない。それはわたしにはまったく重要ではない。わたしの本体は誰の背きも許さないからだ。このため、わたしは獅子だと言われているのだ。わたしが触れる者は誰でも、わたしに打ち倒される。そのため、今ではわたしを憐れみと慈しみの神と呼ぶことは冒涜だと言われているのだ。本質的に、わたしは子羊ではなく、獅子である。誰もあえてわたしに背くことはなく、わたしに背く者は誰であれ、わたしがただちに容赦なく死をもって罰する。このことはわたしの性質を示すのに十分である。そのため終わりの時代には、大多数の人々が身を引くはずであり、それは人間にとっては耐え難いことだが、わたしは安らいで満足しており、これを困難な仕事だとはまったく思っていない。これがわたしの性質である。 『言葉は肉において現れる』より引用

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日々の神の御言葉「征服の働きの内幕(4)」抜粋92

2020-10-23 19:39:42 | 日々の神の御言葉

日々の神の御言葉「征服の働きの内幕(4)」抜粋92

    あなたがたに行われる征服の働きはもっとも意義深い。ある見方では、この働きの目的は一つの集団を完全にすることである。つまり、この人たちを完全にすることであり、彼らは完全にされた最初の一群、言わば初穂として勝利者の集団となる。別の見方では、それは被造物に神の愛を享受させ、神の完全で最も偉大な救いを受けさせ、人間が憐れみと慈愛を享受するだけではなく、さらに重要なことに、刑罰と裁きをも享受させることなのである。創世の時から今日に至るまで、神がその働きで行ったことはすべて愛であり、人間への憎しみは欠片ほどもない。あなたの見た刑罰と裁きでさえ愛であり、それはさらに真実で現実的な愛であり、人を人生の正しい道へと導く愛である。また別の見方では、これはサタンの前で証しすることである。そしてもうひとつの見方では、それは将来の福音の働きを広めるための基礎を築くことである。神が行ったすべての働きは、人を人生の正しい道へと導くことがその目的であり、それにより人間として正常な生き方ができるようにする。なぜなら人間はどのように人生を歩むべきか知らないからである。この導きがなければ、虚しい人生しか送れない。あなたの人生は価値のない無意味なものになり、正常な人間でいることなどまったくできない。これが人間を征服することの最も深い意義である。あなたがたはみなモアブの子孫である。あなたがたに征服の働きが行われることは、大きな救いである。あなたがたはみな罪と放蕩の場所で生きており、あなたがたはみな淫らで罪深い。今日、あなたがたは神を見ることができるだけではなく、もっと重要なことに、刑罰と裁きを受け、真に深い救い、つまり、神の最大の愛を受けた。することすべてにおいて、神はあなたがたに真に愛情深く接している。神に悪意はまったくない。神があなたがたを裁くのは、あなたがたの罪ゆえであり、それはあなたがたが自省し、このすばらしい救いを受けられるようにするためである。これはみな人間を完全にすることを目的として行われる。始めから終わりまで、神は人間を救うために全力を尽くしており、神が自らの手で創造した人間を完全に破壊したいという願望はない。今、神は働くためにあなたがたのもとに来ており、このような救いはもっと偉大ではないのか。もし神があなたがたを憎んでいるのなら、あなたがたを直接導くためにそれ程大きな働きをするだろうか。なぜ神がそのように苦しむ必要があるのか。神はあなたがたを憎んでいないし、あなたがたに何の悪意ももっていない。あなたがたは神の愛が最も真実な愛であることを知らなければいけない。神が裁きを通して人を救わなければならないのは、唯一人が不服従だからである。そうでなければ、人を救うのは不可能であろう。あなたがたはいかに生きるべきかを知らず、いかに生きるべきかに気づいてもいないため、また、あなたがたはこの淫らで罪深い地に住み、あなたがた自身が淫らで汚れた悪魔であるため、神はあなたがたがいっそう堕落してゆくままにしておくことに耐えられず、また、あなたがたが現在のようにこのような汚れた地で生活し、サタンの思うままに踏みつけられるのは見るにしのびず、あなたがたがハデスに落ちてゆくままにしておくことには耐えられないのである。神はただこの集団の人たちを獲得し、あなたがたを完全に救いたいと願っている。これがあなたがたに征服の働きを行う主要目的である。ただ救いのためである。もしあなたに為されていることはすべて愛と救いであるということがわからないのなら、これが単なる方式の一つ、人間を苦しめる方法の一つであり、信用できないものであると考えるのなら、あなたは自分の世界に戻り苦痛と苦難を受けた方がいいであろう。もし自らこの流れの中に身を置き、この裁きとこの大いなる救いを楽しみ、人間世界のどこにも見いだせないこの祝福のすべてとこの愛を享受したいなら、善であれ。この流れの中に留まり、完全にされるように征服の働きを受け入れなさい。今、あなたは神の裁きのために苦痛と鍛錬を少々体験しているかもしれないが、この苦痛には価値と意味がある。人間は神の刑罰と裁きにより鍛錬され、容赦のない暴露を受け、その目的は罪ゆえに人を罰し人の肉体を罰することであるが、このどれも肉を罪に定めて滅ぼすことを意図してはいない。言葉による厳しい暴露はすべてあなたを正しい道に導くためである。あなたがたはこの働きの多くを直接に体験しており、明らかにそれはあなたがたを悪の道へとは導かなかった。それはすべてあなたに正常な人間性を実際に生きさせるためであり、これはみなあなたがたの正常な人間性をもって達成できる。神の働きの一つひとつの段階はあなたの必要にもとづいて、あなたの弱点と実際の背丈に沿っており、荷えないような重荷は一つとしてあなたがたの上には置かれていない。今日あなたにはこのことが明らかではなく、まるでわたしがあなたに厳し過ぎるように感じている。わたしが毎日あなたを罰し、裁き、責めるのは、わたしがあなたを憎んでいるからだと確かにあなたはいつも思っている。しかし、あなたが受けて苦しむのは刑罰と裁きだが、これは実際はすべてあなたへの愛であり、最も偉大な保護である。もしこの働きの深い意味が把握できないのなら、あなたが経験を続けることは不可能である。この救いはあなたに慰めをもたらすべきである。我に返るのを拒んではならない。ここまで来たのだから、この征服の働きの意義はあなたにはっきりわかるはずである。このことについて、もはやあれこれと考えを抱いてはならない。 『言葉は肉において現れる』より引用


日々の神の御言葉「キリストの初めの言葉:第七十章」抜粋58

2020-10-22 22:41:28 | 日々の神の御言葉

日々の神の御言葉「キリストの初めの言葉:第七十章」抜粋58

    わたしの奥義が明らかになり、公けに現れ、もはや隠されていないのは、完全にわたしの恵みと憐れみによる。さらに、わたしの言葉が人に現れ、もはや覆い隠されていないのも、わたしの恵みと憐れみによる。心からわたしのために尽くし、わたしに身を捧げるすべての者をわたしは愛する。わたしから生まれていながらわたしを知らず、わたしに反抗さえするすべての者をわたしは憎む。心からわたしのためにある者をわたしは誰一人捨て去ることなく、それどころかその祝福を二倍にする。恩知らずでわたしの思いやりを無にする者には二倍の懲罰を与え、容易に赦しはしない。わたしの国には何の不正も欺瞞もなく、世俗性もない。つまり、死臭は存在しない。かわりにすべては清廉かつ義であり、すべては純粋で開放されており、何一つ隠されず覆われてもいない。すべてが新鮮で、すべてが喜びであり、すべてが高揚である。それでもまだ死人の臭いを漂わせる者は誰であれわたしの国に残ることはできず、わたしの鉄の杖に支配される。太古の昔から今日に至るまでの、すべての終わりなき奥義があなたがた、終わりの日にわたしのものとされる人の集団に完全に明らかにされている。祝福されていると感じるのではないか。すべてが公けに明らかにされる日は、また、あなたがたがわたしの統治に加わる日である。王として真に統治する人の集団は、わたしの予定と選択にかかっており、そこに人の意志は一切関わらない。これにあえて参加する勇気があるならば、わたしの手による一撃を受けなければならず、そのような者はわたしの激しい火にさらされる。これはわたしの義と威厳のもう一つの側面である。わたしはすべてを支配しており、完全な権威をふるう知恵のある神であり、誰に対しても情け深くないと言った。わたしはまったく非情であり、私情は一切持ち合わせない。わたしは誰であろうとも(どれほど口が上手でも容赦しない)わたしの義と清廉と威厳をもって扱い、同時にわたしの業の不思議と、わたしの業が意味するものがすべての者にさらによく見えるようにする。わたしは悪霊を一つずつ、それらが犯したあらゆる行いゆえに懲罰し、それぞれを奈落の底へ投げ落とした。わたしはこの働きを時が始まる前に終え、それらから地位を奪い、業を行う場所を奪った。わたしの選民、つまりわたしが予定し選択した者の誰一人として悪霊に取りつかれることはなく、常に聖くある。わたしが予定し選択していない者はサタンに引き渡し、これ以上留まることは許さない。わたしの行政命令にはあらゆる面で、わたしの義と威厳が関わっている。わたしはサタンの働きを受けている者を誰一人として見逃さず、その体ごと冥府へ投げ落とす。わたしはサタンを憎むからである。サタンを決して簡単に許しはしないどころか、徹底的に打ち破り、その業を行う機会を一切与えない。サタンがある程度まで堕落させた者(すなわち災いを被ることになる者)は、わたしの手による賢明な采配のもとにある。これをサタンの凶悪さの結果として起こったことだと考えてはならない。わたしは全宇宙と万物を支配する全能神であることを知りなさい。わたしに解決できない問題はなく、まして成し遂げられないことや、発せられない言葉などない。人間はわたしの助言者であるかのように振る舞ってはならない。わたしの手に打ち倒され、冥府に落とされないよう注意しなさい。あなたに言う。今日わたしと積極的に協力している者がもっとも賢いのであり、彼らは損失を免れ、裁きの痛みを逃れる。これはすべてわたしの采配であり、わたしが予定していることである。軽率な発言をせず、自分を偉大だと思って大げさに語ってはいけない。これらはすべてわたしの予定によるのではないのか。わたしの助言者気取りのあなたがたは、恥知らずである。あなたがたは自分の霊的背丈を知らないが、それはなんと哀れなまでに小さいことか。それでもそれを大したことではないと考えており、おのれを知らない。あなたがたは幾度となくわたしの言葉を無視し、わたしの血のにじむような努力を無駄にして、その言葉がわたしの恵みと憐れみの表明であることに少しも気づかなかった。そのかわりに、何度となく自分の利口さを見せつけようとする。このことを覚えているか。自分をとても賢いと思っている人が受けるべき刑罰は何か。あなたがたはわたしの言葉に無関心で不実で、言葉を心に刻みもせず、わたしを自分のさまざまな行為の言い訳にする。悪人たちよ! いつになったら、わたしの心を十分に思いやれるようになるのか。あなたがたはわたしの心など気にも留めないのだから、「悪人」と呼ぶのはひどい扱いではない。ぴったりの呼び名である。今日わたしはあなたがたに、かつて隠されていたものを一つ一つ見せている。赤い大きな竜は奈落の底に落とされ、完全に打ち倒される。生かしておいても何の役にも立たないからである。すなわちキリストに奉仕することができないということである。これ以降、赤いものは存在しなくなる。それらは徐々に無に帰さなければならない。わたしは言うとおりに行う。これはわたしの働きの完結である。人間の観念を捨てなさい。わたしは言ったことをすべて行なった。利口になろうとする者は誰でも、自らに破滅と侮蔑をもたらしているだけであり、生きたいとは思っていない。そのため、わたしはその願いを叶え、そのような人を断じて残しておかない。それ以後は、人々は優秀度を増すが、わたしと積極的に協力しない者はみな一掃されて無に帰すことになる。わたしが認めた者を、わたしは完全にし、誰一人として投げ捨てない。わたしの言うことに矛盾はない。わたしと積極的に協力しない者はさらなる刑罰を受けるが、最終的には間違いなく彼らも救う。しかしそのときには、彼らのいのちの程度は大きく変わっている。そのような人になりたいか。立ち上がってわたしに協力しなさい。わたしは心からわたしのために尽くす者を決して粗末には扱わない。わたしに本気で自分自身を捧げる者には、わたしの祝福をすべて授ける。あなた自身を完全にわたしに捧げなさい。食べるもの、着るもの、そして未来はすべてわたしの手の中にある。わたしはすべてを正しく計らうので、あなたは終わりのない喜びを得られ、それは決して尽きることがない。それはわたしが、「心からわたしに尽くす者よ、わたしは必ずあなたを大いに祝福する」と言ったからである。あらゆる祝福が、わたしのために心から尽くす一人ひとりに与えられる。 『言葉は肉において現れる』より