全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

聖霊の働きと悪霊の働きの識別

2020-12-24 17:53:45 | 書籍

 関連する神の言葉

 神は同じ働きを繰り返しはしない。現実的でない働きは行なわない。神は人間に過分な要求をしない。また、神は人間の理知の外にある働きは行なわない。神が為す働きはみな、人間の正常な理知の範囲内で行われ、本来の人間の理知の外には及ばない。また、神の働きは人間の正常な必要に沿ったものである。もしそれが聖霊による働きであるなら、人間はずっと正常になり、その人間性はさらに正常になる。人々は堕落した自分のサタン的性質、および人間の本質についての認識を増し、また真理への渇望も更に大きくなる。これはつまり、人間のいのちがどんどん成長し、人間の堕落した性質においては、より一層の変化が可能となる。これら全てが神が人間のいのちになるということの意味である。もし、ある道が、人間の本質であるこれらのものを明らかにすることができないのなら、また人間の性質を変えることができないのなら、さらにまた、人間を神の前へ導き、神についての真の理解を与えることができないのなら、あるいは、人間性をさらに卑しめ、その理知をますます異常なものにするのなら、その道は真の道ではあり得ず、悪霊の仕業、あるいは、古い道なのだ。要するに、それは聖霊が現在為している働きではないということだ。『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より引用

 何が神から来て何がサタンから来るのかを理解しなくてはならない。神から来るものはあなたに一層明瞭なビジョンを与え、ますます神に近づかせてくれる。あなたは兄弟姉妹と心からの愛を分かち合い、神の重荷に配慮できるようになり、決して弱まることのない神を愛する心を持つようになる。目の前には歩むべき道がある。サタンから来るものは、あなたのビジョンを消え去らせ、それまで持っていたものもすべて失わせる。あなたは神から離れ、兄弟姉妹に対する愛も失せ、憎しみの心を持つようになる。絶望して、もはや教会生活を望まなくなり、神を愛する心も失せる。それがサタンの働きであり、同時に邪悪な霊の働きがもたらす結末なのだ。『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第二十二章」より引用

 聖霊の働きは積極的な導きと肯定的な啓きの一種である。それは人々が受け身でいることを許さず、彼らに慰めをもたらし、信仰と決意を与え、彼らが神によって完全にされることを追求できるようにする。聖霊が働きを行なえば、人々は積極的に入ることができる。受け身でもなく、強制されることもなく、自分が主導権を握って行動するのである。聖霊が働きを行なうとき、人々は進んで従い、喜んで謙虚になる。内なる痛みや脆さがあっても、協力しようと決意し、喜んで苦しみ、従うことができる。そして人間の意志や人の考えによって汚されておらず、人間的な欲望や動機に汚されていないのは間違いない。人々が聖霊の働きを経験するとき、彼らの内面は特に聖い。聖霊の働きを有する人たちは神への愛、兄弟姉妹への愛を生きており、神を喜ばせることを喜びとし、神の嫌うことを嫌う。聖霊の働きに触れた人は正常な人間性をもち、常に真理を追い求め、人間性を自分のものにしている。聖霊が人々の中で働くとき、彼らの状態はますますよくなり、その人間性はより正常になる。そしてこうした人たちによる協力の中には愚かなものもあるかもしれないが、彼らの動機は正しいものであり、彼らの入りは肯定的で、邪魔しようと試みたりせず、彼らの中に悪意は一切存在しない。聖霊の働きは正常かつ現実的であり、聖霊は人の通常生活の規則にしたがってその人の中で働きを行ない、正常な人々の実際の追求に応じて彼らを啓き、そして導く。聖霊は人の中で働きを行なうとき、正常な人々の必要に応じて彼らを導き、そして啓く。聖霊は人々の必要に応じて彼らに糧を施し、彼らに欠けているものに応じて、また彼らの欠点に応じて肯定的に導いて啓く。聖霊の働きは人々を現実の生活において啓き、導くことである。実生活の中で神の言葉を経験して初めて、人は聖霊の働きを見ることができる。日常生活において前向きな状態であり、正常な霊的生活を送っていれば、その人には聖霊の働きがある。そうした状態の中では、神の言葉を飲み食いすると信仰を得、祈ると鼓舞され、何かに突き当たっても受け身にならず、何かが起きるとその中から、神が彼らに学ぶよう求めている教訓を理解できる。彼らは受け身でもなければ弱ってもおらず、たとえ現実の困難を抱えていても、神のすべての采配に自ら従おうとする。

 聖霊の働きによって成し遂げられる効果とは何か。あなたは愚かかもしれないし、識別力がないかもしれないが、聖霊が働きを行なえば、あなたの中に信仰が生まれ、どれほど神を愛しても愛しきれないといつも感じるようになる。前途にどれほど大きな困難があろうと、あなたは進んで協力するようになる。自分に何かが起こり、それが神に由来することなのか、それともサタンに由来することなのかはっきりわからないことがあっても、あなたは待つことができ、受け身にも怠惰にもならない。これが聖霊の正常な働きである。聖霊があなたの中で働きを行なう際、あなたはそれでも現実の困難にぶつかり、時には涙し、時には乗り越えられない問題が生じることもあるが、これらはすべて聖霊による普通の働きの一段階に過ぎない。たとえあなたがそうした困難を乗り越えられなくても、またその際に弱くなって不満で一杯だったとしても、後になれば絶対的な信仰をもって神を愛することができた。あなたが受け身だとしても、そのせいで正常に経験できないということはあり得ず、他の人が何と言おうと、あるいはどう攻撃しようとも、あなたは神を愛することができる。祈りの中では常に、自分はかつて神に借りがあったと感じ、そうしたことに再び出会うたび、神を満足させて肉を捨てようと決意する。この力は、聖霊の働きがあなたの中にあることを示している。それが聖霊の働きの正常な状態なのである。

 サタンに由来する働きとは何か。サタンに由来する働きの中で、人々の内なるビジョンは漠然としており、彼らは正常な人間性をもたず、彼らの行動の背後にある動機は間違っている。そして神を愛したいと願いはしても、心の中で絶えず咎められ、そうした咎めや思いが自分の中で常に干渉し、いのちの成長を制約するとともに、正常な状態で神の前に出られないようにする。つまり、人々の中にサタンの働きが存在するやいなや、その人の心は神の前で安らげないのである。そのような人は自分でもどうしたら良いかわからず、人々が集まっているのを見ると逃げたくなり、他の人が祈るときに目を閉じることができない。悪霊の働きは人と神との正常な関係を壊し、人々がそれまでもっていたビジョンや、以前のいのちの入りへの道を混乱させる。心の中で神に近くことが決してできず、妨害を引き起こし、足かせとなるようなことがいつも起こる。心は安らぎを見つけられず、神を愛する力が残らずなくなり、霊が沈んでいく。これらがサタンの働きの表われである。サタンの働きの表われは次のようなことである。堅く立って証しをすることができず、それがあなたを神の前で落ち度がある者、神への忠実さをまったくもたない者とさせる。サタンが干渉するとき、あなたは自分の中にある神への愛と忠実さを失い、神との正常な関係を奪われ、真理や自分を改善することを追い求めず、後戻りして受け身になり、自分を甘やかし、罪が広がるままにし、罪を憎まなくなる。さらに、サタンからの干渉はあなたをふしだらにし、神があなたの中で触れたものは消えてしまう。そしてあなたは、神への不満を漏らして神に反抗し、神を疑うようになる。さらに、あなたが神を捨てる危険すらある。そのすべてがサタンに由来するのである。『言葉は肉において現れる』の「聖霊の働きとサタンの働き」より引用

 神は、優しく、繊細で、愛に溢れ、思いやりのある方法で、また並外れて配慮された適切な方法で働きます。神の方法は、「神は私にこれをさせてくれるべきだ」とか、「神は私にそれをさせてくれるべきだ」のような強い感情をあなたに抱かせることはありません。神は物事が耐えがたくなるような強い考え方や強い感情をあなたに与えることは決してありません。そうではありませんか。たとえ神の裁きと刑罰の言葉を受け入れるときでさえ、あなたはどう感じますか。神の権威と力を感じるとき、あなたはどう感じますか。神は神聖で害することができないと感じますか。(はい。)そのようなときに、あなたは神から遠ざけられたと感じますか。神に対する恐怖を感じますか。感じません。そのかわりに、あなたは神に対する畏敬の念を感じます。人は神の働きのおかげで、これらすべてのことを感じるのではないですか。……

 ……神は人間に働きかけ、人間は神の態度と心の両方において大切にされています。一方、サタンは人間を大切にしますか。サタンは人間を大切にしません。サタンが考えるのは人間を傷つけることだけです。そうではありませんか。サタンが人間を傷つけることを考えているとき、サタンは喫緊の精神状態でそうしますか。(はい。)人間に対するサタンの業に関しては、サタンの悪意のある邪悪な本性を十分に言い表し、あなたがたがサタンの憎らしさを知ることができる二つの語句があります。サタンが人間に接近する際に、サタンは常に強制的に一人ひとりの人間を占有し、一人ひとりの人間に取り憑き、害を及ぼすところまで到達し、サタンの目的を果たし、無謀な野望を実現させようとします。「強制的に占有する」とはどういう意味ですか。それはあなたの同意の上で、それとも同意なしで起こりますか。あなたが知っていて、それとも知らないうち起こりますか。それはまったく知らないうちに起こります。あなたが意識していない状況において、おそらくサタンがまだ何も言っていないとき、おそらくまだ何も行なっておらず、何の前提も脈絡もないとき、サタンはあなたを取り囲んでそこにいるのです。サタンは利用する機会を探しており、次にあなたを強制的に占有し、あなたに取り憑き、あなたを完全に支配し危害を加えるという目的を果たします。これが、サタンの人類を手に入れるための神との戦いにおける典型的な意図と振る舞いです。『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 4」より引用

 中には聖霊が常に自分の中で働きを行なっていると言う者もいるが、それはあり得ない。聖霊が常に自分と共にあると言うのなら、それは現実的だろう。自分の思考や理知は常に正常だと言うのなら、それもまた現実的であり、聖霊がその者と共にあることを示すだろう。しかし、聖霊は常に自分の中で働きを行なっており、自分はどの瞬間にも神により啓かれ、聖霊によって感動し、常に新たな認識を得ていると言うのなら、それは決して正常ではなく、極めて超自然的なことである。そうした人々は、疑いの余地なく悪霊である! 神の霊が受肉した時でさえ、時には休息し、食事もする必要があるのだから、人間については言うまでもない。悪霊に取り憑かれた者は、肉の弱さがないように見える。そうした者はあらゆる物事を断念して捨て去ることが可能で、感情をもたず、苦しみに耐えることができ、肉体を超越しているかのようにまったく疲労を感じない。これは極めて超自然的なことではないか。悪霊の働きは超自然的であり、人間にそのようなことはできない。判断力のない者たちは、そうした人を見ると羨ましがり、神に対する彼らの信仰は極めて強く優れていて、彼らにはひとかけらの弱点も見えないと言う。実のところ、それはすべて悪霊の働きの表われなのだ。なぜなら正常な人間には必然的に人間の弱さというものがあり、それが聖霊の臨在を得ている者の正常な状態だからである。『言葉は肉において現れる』の「実践(4)」より引用

 説教と交わりの参考箇所

 聖霊の主な働きは啓きと照らしであり、人に神の御言葉を理解させ、それに入らせることです。すなわち、人が真理を理解し、真理に入るように導き、ありとあらゆる試練と環境の中で人を啓いて照らし、神の御心を理解させることです。もちろん、人を救いに導くという目的で、聖霊は様々な人や物事を通して、人を暴露し、刈り込み、鍛え、罰します。聖霊はすべてを支配し、ありとあらゆる状況を采配して人を変え、完全にします。神の救いの働きにおいて、聖霊の働きは多岐にわたりますが、それは例外なく救いに関わるものです。聖霊の働きは隠れており、表面的にはまったく超自然的に見えませんが、経験がある人は心の中ではっきりと理解しています。それに対し、悪霊の働きはとてつもなく浮世離れしており、目に見え、感じられ、とても異常です。悪霊の所業から、悪霊は自己顕示を特に好み、真理のかけらもなく、非常に邪悪であることがわかります。たとえ悪霊が人に何年働きかけても、人の堕落した性質は少しも変わりません。むしろますます正常でなくなり、正常な人の理知を失いさえします。これが悪霊の働きの結果です。サタンとありとあらゆる悪霊はこのようにして人を堕落させ、人を縛り、人を惑わすのです。ついには、人は幽霊となり、悪霊に惑わされた人はサタンに奪われ、呑み込まれます。聖霊の働きはすべて人類の救いに関わるものであり、聖霊の働きがあればあるほど、人は真理を理解できるようになり、ますます正常な人間性を有し、ますます人間らしくなります。最後には神の救いを得て、真理と完全な人間性をもつ人になります。聖霊の働きと悪霊の働きとの主な違いは次のとおりです。悪霊は人を堕落させ、人を縛り、結局は幽霊にすることしかできません。聖霊の働きは、堕落した人を救いにおいて清め、真理と完全な人間性を与えます。聖霊の働きは、サタンによって堕落して汚れた霊の部類に属した人を、真に聖い人にすることができます。単純に言えば、サタンによって堕落して悪魔となった人を人間に戻すのです。これが聖霊の働きと悪霊の働きの違いです。兄弟の交わりより引用

 さまざまな悪霊の働きと聖霊の働きの明確な違いは具体的に次の側面に現れます。聖霊は、真理を追い求め、良心と理知をもつ正直な人を選びます。聖霊が働きかけるのはこのような人です。悪霊は、狡猾で馬鹿げた人、真理への愛がない人、良心も理知もない人を選びます。悪霊が働きかけるのはこのような人です。聖霊の働きのために選ばれた人と、悪霊の働きのために選ばれた人を比べて分かるのは、神が聖く義であること、神に選ばれた者は真理を追い求め、良心と理知をもち、比較的正直で、正義を愛していることです。悪霊に選ばれた者は狡猾で、利己的で下劣で、真理への愛がなく、良心も理知もなく、真理を追い求めることもなく、真の人類ではありません。悪霊は負の物事しか選びません。そのことから分かるのは、悪霊が邪悪さと暗闇を愛し、真理を追い求める者からは避けるように離れ、歪んだ狡猾な者、不義なことに心を奪われた魅せられやすい者にはすぐに取り憑くということです。悪霊がその中で働こうと選んだ人は救いを得られず、神によって淘汰されます。いつ、そしてどのような背景において悪霊は働きかけるのでしょうか。悪霊は人が神から遠く離れ、神に反抗している時に働きかけます。悪霊の働きは人を惑わすことです。人が罪を犯す時、最も弱っている時、特に心にひどく苦しんでいる時、混乱して途方にくれている時、悪霊はそうした機に乗じて人を惑わし、堕落させ、人と神の間に不和の種をまきます。人が神の名を呼ぶ時、人の心が神の方に向く時、人が神を必要とする時、人が神の前で悔い改める時、あるいは人が真理を求める時、聖霊は彼らに働きかけ始めます。聖霊が働くのはすべて人を救うためであり、聖霊は人を救う機会を探していますが、それに対して悪霊は人を堕落させ、欺く好機を狙っています。悪霊は下劣で邪悪、陰険で悪意があります。悪霊のなすことはすべて、人を呑み込み、堕落させるためであり、聖霊のなすことはすべて愛のため、人の救いのためです。聖霊の働きの効果とは、人が清められ、堕落から救われ、自分自身とサタンのことが分かるようになり、サタンに逆らえるようになり、真理を追い求め、最終的には人間らしく生きられるようになることです。悪霊は人を堕落させ、汚し、束縛します。悪霊は人をますます深く罪に陥れ、人の暮らしにますます大きな痛みをもたらします。そのため、悪霊が人に働きかけると、人は一巻の終わりです。ついにはサタンに呑み込まれてしまいます。それが悪霊の働きによる結果です。聖霊の働きの効果とは、人が最後には救われ、本当のいのちを生きるようになり、完全に解放されて自由になり、神から祝福を受けることです。悪霊は人を暗闇にいざない、奈落の底へと連れていきます。聖霊は人を暗闇から連れ出し、光の方へ、そして自由へといざなうのです。聖霊の働きは人を啓いて導き、人に機会を与え、人が弱っていて過ちを犯している時、慰めをもたらします。聖霊により人は自分自身を知ることができ、真理を追い求めることができます。また、聖霊は人にこうせよと強要するのではなく、自分の進む道を自分自身で決めさせて、最終的には光へと導くのです。悪霊は人にこうせよと強要し、あれこれと命令します。悪霊の言うことはすべて偽りであり、人を惑わし、欺き、束縛します。悪霊は人に自由を与えず、選ばせることもなく、破滅への道に押しやり、ついにはますます罪へと深く陥れ、死へと導きます。『いのちに入ることに関する交わりと説教』より引用

 悪霊の働きの最も顕著な特徴は、それが超自然的であること、悪霊が話す言葉や人々に行うよう求めることは異常で、非論理的であり、正常な人性と人間関係における基本的道徳に反することさえあり、それらはただ人々を欺き、混乱させ、堕落させることのみを目的としているということです。悪霊が取り憑くと、大きな恐怖を感じる人もいれば、異常になる人もおり、また、放心状態に陥ったり、ものすごい不安に襲われて、じっと座っていられなくなる人もいます。いずれにせよ、悪霊が人間に取り憑くと、人は変わり、人間でも悪魔でもないものになり、正常な人性を失ってしまいます。これは悪霊の本質が邪悪で醜悪であることを証明するに十分であり、まさにそれはサタンの本質なのです。悪霊は人々に嫌悪感と軽蔑感を与え、絶対に人々の益になることも助けになることもありません。サタンとあらゆる種類の悪霊どもが唯一できることといえば、人々を堕落させ、害し、食い尽くすことだけです。

 悪霊が働いている者たち(悪魔に憑かれている人々)の主な兆候は次のとおりです。

 第一の特徴として、悪霊はこうしろ、ああしろと人々に命じたり、誰かに何かを告げたり、人々を誘導して偽りの預言をさせたりします。

 第二の特徴として、人々はしばしば祈りの中で誰にも理解することのできない、いわゆる「異言」を話すことがあり、話している本人ですらそれを理解できないのです。異言を話す者たちの中には、いわゆる「異言の解釈をする」ことができる人さえいます。

 第三の特徴として、非常に頻繁に啓示を受け、ある時はこのように、次の瞬間にはあのように、といった具合に悪霊によって振り回され、絶え間なく続く不安状態に陥る人がいます。

 第四の特徴として、悪霊が働いている人々は、急にこれをやりたい、あれをやりたいと、居ても立ってもおられなくなり、状況の良し悪しも考慮することなく、真夜中に外へとび出すことさえあり、その行動は極めて異常です。

 第五の特徴として、悪霊が働いている人々は、ものすごく傲慢で、理性に欠け、何を話しても人を見下すような態度をとり、他人に指図する立場でしかものを言うことができません。彼らは人々を途方にくれさせ、悪魔と同じように人々に物事を強制します。

 第六の特徴として、悪霊が働いている人々は、真理について交わることができず、ましてや神の働きに注意を払うことなどなく、神に対して反抗的な態度をとり、勝手気ままに行動し、あらゆる種類の暴挙を働いて教会の通常の秩序を乱します。

 第七の特徴として、悪霊が働いている人は、何の理由もなく自分を誰か他の者として押し通し、あるいは、自分は誰かに遣わされて来たのだから、自分の言うことに耳を傾けるべきだと主張します。彼がどこから来たのか、つきとめることのできる人はいません。

 第八の特徴として、悪霊が働いている人々は、たいてい正常な理性を持っておらず、どんな真理も理解することがありません。彼らは何かを受け取る能力を持ちあわせておらず、聖霊によって啓示を受けることもありません。また、誰の目にも明らかなのは、これらの人々は、何かを受けたとしても、余りにもでたらめで、正しいことが一切ないということです。

 第九の特徴として、悪霊が働いている人々は、働きの最中、他の人に講義することに特に重点を置きます。彼らはいつも乱暴にふるまい、常に妨害と混乱を引き起こします。彼らは何をやっても何を言っても、他の人たちを攻撃し、束縛し、堕落させることしかせず、人々の決意をくじいて否定的にならせ、再び立ち上がることができないようにします。彼らは正真正銘の悪魔であり、他の人に危害を加え、他人を弄び、食い尽くします。そして彼らは、事が自分の思い通りにいくと、ひそかに喜んでいるのです。これが悪霊の働きの主な目的です。

 第十の特徴として、悪霊が働いている人々は、極めて異常な生活をしています。彼らの目は人殺しのようにぎらつき、彼らが話す言葉は、あたかも悪魔が世界に舞い降りたかのように、非常に残酷です。このような人の生活にはまったく秩序がなく、彼らは非常に不安定で、飼い慣らされていない野獣のように気まぐれです。他の人々にとって、彼らは極めておぞましく、鼻持ちならないのです。まさしくこれが悪魔によって縛られた人間の特徴です。

 上に挙げた十の特徴は、悪霊の働きの主な表象です。これらの表象の一つでも顕れている人には、必ず悪霊が働いています。もっと正確に言えば、上記の悪霊の働きの表象を示している者は皆、それがどのような表象であれ、悪霊の働いている人々なのです。悪霊の働きのある人は、聖霊が働いている人、真理について交われる人をしばしば憎み、その人から遠ざかります。多くの場合、相手が優れているほど攻撃と断罪の対象にしたいと思います。相手が愚かなほど媚びへつらおうとし、特に接触しようと思います。悪霊は働くとき、常に真理を偽りと混同し、正を負、負を正と言います。これがまさに悪霊の所業です。『全能神教会における働きの手引き選集』より引用

 働きが明らかに超自然的である霊は悪霊であり、霊が人において行う超自然的な働きと発言はどれも悪霊の働きです。 悪霊の働き方はすべて異常で超自然的であり、主に次の六つの形で現れます。

 1. 人の発話を直接操る。その人自身が正常に語っているのではなく、悪霊が語っている明らかな証拠です。

 2. 悪霊が人に指示を出し、あれこれ命令しているのではないかという感覚。

 3. 部屋にいるとき、誰かが入って来るのがわかる。

 4. 他人には聞こえない声が自分に語りかけているのが頻繁に聞こえる。

 5. 他人が見聞きできないものを見聞きできる。

 6. 常に落ち着きがなく、独り言を言い、人と正常な会話ややり取りができない。

 悪霊が働いているすべての人には必然的にこれらの六つの兆候があります。そのような人は理知がなく、そわそわしており、他人と正常な付き合いができません。まるで理知が通用しないかのようで、どこか超然として現世離れしたところがあります。そのような人は悪霊に取り憑かれているか、悪霊が働きかけているのであり、悪霊の働きはすべて目に見え、超自然的です。これは悪霊の最も顕著な働きです。悪霊は取り憑いた相手をもてあそび、すっかり蝕みます。その人はゾンビのように理知を失います。このことは、悪霊が本質的に人を堕落させて呑みこむ悪しき霊である証拠です。悪霊の発言は容易に見極められます。それは悪霊の悪しき本質を見事に表しており、よどんだ水のようで、濁っており、臭いがひどく、死臭も発します。優れた素質の持ち主にとって、悪霊の言葉は空虚で面白みも啓発性もなく、うそと駄弁に過ぎず、混乱していて難解で、戯言だらけように感じられます。これは悪霊の戯言の最も顕著な特徴の一部です。高等な悪霊の中には、人を魅するために、神やキリストのふりをして語るものや、天使や有名人のふりをするものもいます。このような悪霊は神のある特定の御言葉や言い回し、語調を真似て語ることに長けており、真理を理解していない人はそのような高等な悪霊に騙されがちです。神の選民は、悪霊とは本質的に邪悪で厚かましく、たとえ高等な悪霊であっても、真理がまったく欠けていることを理解しなければなりません。悪霊は結局のところ、悪霊であり、悪霊の本質は邪悪であり、サタンと同類なのです。全能神教会における働きの手引き選集』より引用


救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た

2020-12-20 16:32:31 | 書籍

 数千年もの間、人は救い主の到来に立ち会えることを熱望してきた。何千年も救い主イエスを切望し、渇望してきた人々のもとにイエスが白い雲に乗って直接降りてくるのを見ることを望んできた。救い主が戻って来て人々と再会すること、すなわち、救い主イエスが何千年もの間離れていた人々のもとに戻ってくることを望んできた。そしてイエスがユダヤ人の間で行なった贖い働きをもう一度実行すること、人に対して憐れみ深く愛情にあふれていること、人の罪を赦し、人の罪を負い、人のすべての過ちさえ引き受け、人を罪から救うことを望んでいる。人々は救い主イエスが以前と同じであること、つまり愛すべき、心優しい、尊敬すべき救い主、人に対して決して激怒せず、決して人を非難しない救い主であることを望んでいる。この救い主は人の罪のすべてを赦し、引き受け、人のためにもう一度十字架上で死にさえする。イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われた人々はすべて、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って到着し、人々のもとに現れる日をずっと待ち焦がれている。もちろん、これは今日救い主イエスの名前を受け入れるすべての人々が共有する望みでもある。全世界のあらゆる場所で、救い主イエスの救済について知っている人々はすべて、イエス・キリストが突然到来し、「わたしは旅立った時とまったく同じようにやって来る」と地上で言った言葉を実現させることを心底切望している。磔刑と復活の後、イエスは白い雲に乗って天に戻り、いと高き者の右側に座したと人は信じている。イエスは同様に再び白い雲に乗って(この雲はイエスが天に戻るとき乗った雲を指している)何千年もの間イエスを待ち焦がれている人々のもとに降りて来るであろうこと、イエスはユダヤ人の姿をし、ユダヤ人の衣服を身に着けているであろうことを人は心に描いている。人の前に現れた後、イエスは食物を彼らに授け、生ける水を人々に向けてほとばしり出るように流し、恵みと愛に満ち、人々のあいだで生き生きと現実に暮らすだろう、等々。しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、彼に気づかないままである。人は虚しく彼を待つだけで、彼がすでに白い雲(彼の霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降臨し、今や終わりの日に彼が作る勝利者の一団のもとにいることに気づいていない。人はこのことを知らない。聖なる救い主イエスは人に対して慈しみと愛に満ちているが、どうして彼が腐敗と不純な霊が宿っている「神殿」で働くことができようか。人はイエスの到来をずっと待っているが、不義の者の肉を食べ、不義の者の血を飲み、不義の者の衣服を着る人々、イエスを信じるが彼を知らない人々、絶えず彼からだまし取る人々の前にどうしてイエスが現れることができようか。人は救い主イエスが愛と憐れみに満ちており、贖いに満ちた罪の捧げものであることしか知らない。しかし、イエスは同時に神自身であり、義、威厳、怒り、および裁きにあふれており、権威を所有し、尊厳に満ちていることはまったくわかっていない。そこで、たとえ人が贖い主の再来をしきりに切望し、天が人の祈りによって動かされたとしても、救い主イエスは、彼の存在は信じても、彼のことを知らない人々の前には現れない。

 「ヤーウェ」はわたしがイスラエルで働きを行なっている間に用いた名前であり、人を憐れみ、人を呪い、人の生活を導くことのできる、イスラエル人(神に選ばれた人々)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。「イエス」はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行ない、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。すなわち、ヤーウェだけがイスラエルの選ばれた人々の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神、イスラエルのすべての人々の神である。そこで現代、すべてのイスラエル人は、ユダヤの民は別として、ヤーウェを崇拝している。彼らは祭壇でヤーウェに捧げものをし、神殿で祭司の祭服を着て神に仕える。彼らが望むのは、ヤーウェの再現である。イエスだけが人類の贖い主である。イエスは罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代から来ており、恵みの時代の贖いの働きのために存在した。イエスの名前は恵みの時代の人々が生き返り、救われるために存在したのであり、全人類の贖いのための特別な名前である。そこで、イエスという名前は贖いの働きを表し、恵みの時代を意味する。ヤーウェの名前は律法の下に生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。「ヤーウェ」は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。「イエス」は恵みの時代を表し、恵みの時代に贖われたすべての人々の神の名前である。人が終わりの日に救い主イエスが到来することをまだ望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することをまだ期待するなら、六千年の経営計画全体は贖いの時代に停止し、それ以上進展することはできないだろう。そのうえ、終わりの日決して来ることはなく、時代にピリオドが打たれることはないだろう。救い主イエスは人類の贖いと救いのためだけにあるからである。わたしは恵みの時代のすべての罪人のためにイエスの名を名乗ったのであり、わたしが人類全体を終らせるのはこの名においてではない。ヤーウェ、イエス、メシアはすべてわたしの霊を表すが、これらの名前は単にわたしの経営計画の異なる時代を示すものであり、わたしの全体を表すものではない。地上の人々がわたしを呼ぶ名前のどれも、わたしの性質全体、わたしであるすべてを明確に示すことはできない。それらは単に異なる時代にわたしが呼ばれる異なる名前にすぎない。だから最後の時代――終わりの日の時代――が来た時、わたしの名前はまた変わるのである。わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれないが、力ある全能の神自身と呼ばれ、この名前の下でわたしは時代全体を終らせるだろう。わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつてわたしを救い主イエスとも呼んだ。わたしを愛し、尊敬したからである。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てから立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終わりの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを露わにする義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。

 終わりの日に救い主が到来する時、まだイエスと呼ばれていたら、そしてもう一度ユダヤで生まれ、そこで働きを行なったら、これはわたしがイスラエルの人々だけを造り、イスラエルの人々だけを贖い、異邦人とは関係がないことの証明になるだろう。これは「わたしは天と地、すべてのものを造った主である」というわたしの言葉と矛盾しないだろうか。わたしはユダヤを離れ、異邦人のもとで働きを行なう。なぜならわたしはイスラエルの人々の神というだけでなく、すべての創造物の神だからである。わたしは終わりの日には異邦人のもとに現れる。なぜならわたしはヤーウェ、つまりイスラエルの人々の神であるだけでなく、さらに、異邦人の中でわたしが選んだ者すべての創造主だからである。わたしはイスラエル、エジプト、レバノンを造っただけでなく、イスラエルの域を超えてすべての異邦人の国々も造った。そしてこのために、わたしはすべての創造物の主なのである。わたしは働きのための出発点としてイスラエルを使い、ユダヤとガリラヤを贖いの働きの拠点として用い、異邦人の国々を時代全体を終らせる起点として使うだけである。わたしはイスラエルで二段階の働き(律法の時代と恵みの時代の二段階の働き)を行ない、イスラエルの域を超えた国々の至る所でさらに二段階の働き(恵みの時代と神の国の時代)を行なってきた。異邦人の国々でわたしは征服の働きを行ない、時代を終らせる。もし人がいつまでもわたしをイエス・キリストと呼び、わたしが終わりの日に新しい時代を始め、新しい働きに着手していることを知らず、いつまでも取りつかれたように救い主イエスの到来を待つならば、わたしはこのような人々をわたしの存在を信じない人々と呼ぶだろう。彼らはわたしを知らない人々で、わたしへの信仰は偽りである。このような人々が救い主イエスの天からの再来に立ち会うことができるだろうか。彼らが待っているのはわたしの到来ではなくユダヤ人の王の到来である。彼らはこの不純な古い世界をわたしが絶滅させることを切望しているのではなく、その代わりにイエスの再来を望み、それにより罪から贖われることを願っている。彼らはイエスがこの汚れた、よこしまな地から全人類をもう一度贖うことを切望している。どうしてこのような人々が終わりの日にわたしの働きを完成させる人々になれるだろう。人の願望はわたしの望みを達成することも、わたしの働きを完成させることもできない。人はわたしが以前になした働きを賞賛し、大切にするだけで、わたしがいつも新しく、決して古くならない神自身であることにまったく気づかないからである。人はわたしがヤーウェでイエスであることを知っているだけで、わたしが最後に来る人類を終らせるものであることに少しも感づいていない。人が熱望し知っているすべては、自分の観念に関するものや、自分の目で見ることができるものに過ぎない。それはわたしの働きと一致しておらず、調和していない。わたしの働きが人の考えに従って行なわれるとしたら、いつ終わるだろう。いつ人類は安息に入るだろう。そしてわたしはどうしたら7日目の安息日に入ることができるだろう。わたしは、わたしの計画に従って、わたしの目的に従って働くのであり、人の意図に従っては働かない。


聖書映画「夢からの目覚め」抜粋シーン(1)神の幕屋は人々と共にある

2020-06-21 18:33:23 | 書籍

聖書映画「夢からの目覚め」抜粋シーン(1)神の御国は天にありますか、それとも地上にありますか

多くの主イエスの信者は皆、神様の御国へ引き上げられることを待ち望んでいます。しかし、神様の御国が実際どこにあるのかを知っているでしょうか。御国に引き上げられる「携挙」とは本当はどういう事なのでしょう?この動画、「夢からの目覚め」、は携挙の奥義を明らかにしれくれます![東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


聖書について(2)

2020-03-27 11:36:07 | 書籍

聖書は旧約・新約聖書とも呼ばれる。あなたたちは、「約」の意味を知っているだろうか。「旧約」の「約」とは、ヤーウェがエジプト人を殺してイスラエルの民をパロから救ったときの、ヤーウェとイスラエルの民との契約に由来する。もちろん、この契約の証しは鴨居につけた羊の血で、神はそれをもって人間と契約を結んだ。この契約は、二本の門柱と鴨居に羊の血のついた家の者はイスラエル人で、彼らは神の選ばれた民であり、ヤーウェは彼らを通り過ぎる(このとき、ヤーウェはエジプト人の初子たちと羊や牛の初子をみな殺そうとしていた)という内容であった。この契約には二重の意味がある。ヤーウェはエジプト人とその家畜を一切救わず、男の初子と羊と牛の初子をみな殺す。そこで、多くの預言書は、エジプト人がヤーウェの契約のために厳しい刑罰を受けることを預言していた。これが契約の第一層の意味である。ヤーウェはエジプト人の初子と家畜の初子をみな殺したが、イスラエルの民は、すべて見逃した。つまり、イスラエルの地に住む民はヤーウェの慈しむ者たちであり、みな助かるであろうということである。ヤーウェは彼らのために長期におよんで働こうと思い、羊の血で彼らと契約を結んだ。それ以後、ヤーウェはイスラエル人を殺すことなく、彼らは永遠に自分の選んだ民であると告げた。イスラエルの十二部族の間で、ヤーウェは律法の時代を通して働きを開始する。イスラエル人に律法を示し、彼らの中から預言者と士師を選び、彼らを神の働きの中心に置いた。ヤーウェは彼らと契約を結んだ。時代が変わらない限り、ヤーウェは選ばれた民の間でだけ働く。ヤーウェの契約は変えられないものだった。それは血で結ばれたからである。そして、神が選んだ民との間で結ばれたのである。より重要なことに、ヤーウェは時代全体を通じて働くために適切な範囲と対象を選んだ。そこで、人々は契約をとりわけ重要なものと見た。これが契約の第二層の意味である。契約締結前の創世記を例外として、旧約の他の書はみな、契約を結んだ後のイスラエル人の間での神の働きを記録している。もちろん、異邦人のことを述べている箇所もあるが、総体的に旧約はイスラエルにおける神の働きを記録している。ヤーウェのイスラエル人との契約のため、律法の時代に書かれた書は「旧約」と呼ばれている。これはヤーウェのイスラエル人との契約に因んで名付けられた。

新約は、イエスが十字架上で流した血と、イエスを信じる者たちとの間での契約に因んで名付けられた。イエスの契約はこうである。ただイエスを信じれば、イエスの流した血により罪を赦され、救われ、イエスをとおして生まれ変わり、もはや罪人ではない。神の恵みを受けるにはイエスを信じさえすればよい。そうすれば、死後、地獄の苦しみを受けることがない。恵みの時代に記された書はみな、この契約の後のものだ。そしてみな、働きと、そこで述べられた言葉を記録している。これらの書は主イエスの磔刑による救い、あるいは契約より先には進まない。これらは、すべて経験をした主における兄弟たちが記した書である。だから、これらの書も契約に因んで名付けられ、「新約」と呼ばれる。この二つの契約には、恵みの時代と律法の時代だけが含まれていて、終わりの時代には何のつながりもない。したがって、聖書は終わりの時代の今日の人々にとってそれほど役に立たない。せいぜい、臨時の参照用になるが、基本的にはほとんど無価値である。しかし、宗教関係者は、まだこれを最も貴重なものとしている。彼らは聖書を知らない。彼らは聖書を説明する方法を知っているだけで、基本的にそのなりたちを知らない。そうした人々の聖書への態度は、聖書に書かれていることはすべて正しい、そこには不正確なことや誤りはない、というものである。彼らは聖書は正しく、誤りはないと最初から決めているので、大いに興味をもって学び調べる。今日の働きの段階は、聖書で預言されていなかった。最も暗い場所における征服の働きについてはどこでも触れていなかった。これは最新の働きだからだ。働きの時代は異なるものだから、イエス自身でさえ、この段階の働きが終わりの日に行われるとは知らなかった──では、終わりの日の人々がこの段階の働きを聖書の中に見つけることなどできるであろうか。

聖書を解説する人のほとんどは、論理的推測をしているので、実際の背景を知らない。彼らは単に、多くのことを論理的に推測しているだけだ。何年ものあいだ、あえて聖書を細かく調べたり、聖書に「否」といったりする人は誰もいなかった。この本は「聖なる書」であり、人々は聖書を神のように崇めているからである。これが数千年も続いている。神は気にしないし、誰一人として聖書のなりたちを発見していない。わたしたちは、聖書を大切なものとするのは偶像崇拝だと言うが、そうした敬虔な信者たちは誰もそのように見ようとはしない。その人たちは「兄弟!そんなことを言うのではありません。それはひどい。どうして神を冒瀆できるのです」と言うであろう。次には辛そうな顔をして、「ああ、慈悲深いイエス、救いの主、この人の罪をお赦しください。あなたは人間を愛する主で、わたしたちはみな罪を犯しました。どうか、わたしたちを憐れんでください。アーメン」と言う。彼らの「敬虔」とはこのようなものである。彼らが真理を受け入れるのは容易なことではない。あなたの言うことに、彼らはひどく怯えるだろう。聖書が人間の考えや観念によって汚されているかもしれないとは、誰も考えようとしない。また、誰にもこの欠陥が見えない。聖書のある部分は個人の経験や認識であり、一部は聖霊の啓示であり、また、人間の知性や思考が混じってもいる。神はこうしたことに介入したことはないのだが、物事には限界がある。これらの事柄は通常の人間の考えを超えられない。もしそうなれば、神の働きに介入し、邪魔していることになる。通常の人間の考えを超えるものはサタンの働きである。それは本来人間のするべきことを奪うからである。それはサタンの働きで、サタンの指示によるもので、このような時、聖霊はあなたがそのように行動することを許さない。時に、兄弟姉妹が「これこれのやり方で働いていいのですか」と尋ねる。わたしは彼らの背丈を見て、「いいですよ」と言う。また、「もしわたしがこれこれの働き方をしたら、わたしの状態は正常でしょうか」と尋ねる人もいる。そこでわたしは「はい。それは正常です。ごく正常です」と言う。別の人は「こういうふうに働いていいですか」と言う。そこでわたしが「いけません」と言うと、「なぜあの人はよくて、わたしはいけないのですか」と尋ねてくる。そこで、わたしは「あなたがしていることは、サタンから来ているからです。それは混乱させます。あなたの動機は逸脱しています」と答える。また、働きが十分に進んでいないが、兄弟姉妹はそれに気づいていないときがある。わたしに、こういうふうに働いていいかと尋ねる人たちもいる。それを見て、その人たちの行動が将来の働きを妨げないものなら、わたしは、それでよい、と言う。聖霊の働きは人々にひとつの範囲を与える。人々は聖霊の願うことに厳格に従う必要はない。人々は普通の考え方と弱点を持っているし、身体的な必要もあり、現実的な問題を抱えており、頭の中には自分では基本的には抑制のできない考えもあるからである。わたしが人々に求めることにはみな、一定の限界がある。わたしの言葉が曖昧で、わたしがみなに、適当に行動するよう指示を出していると思っている人がいる。それは、わたしの要求には適切な範囲があることを理解していないからである。あなたたちの想像のとおりなら──もしわたしが同じ要求を例外なく全員にしていたなら、みな同じ背丈を達成することを要求するなら──それではうまくいかないであろう。これは不可能な要求というものだ。それに、これは人間の働きの原則であって、神の働きの原則ではない。神の働きは、人々の実際の状況に従って行われるのであって、人々の生まれながらの素質に基づいている。これはまた、福音を広める原則でもある。あなたは、自然に任せ、誰かに真理を明瞭に話すときのみ、ゆっくりと進まなければいけない。そうしてはじめて、人々は理解し、そうなってはじめて、聖書を脇に置くだろう。もし神がこの段階の働きをしなければ、誰が因習を打ち破れるのか。誰が新しい働きをできるのか。誰が聖書の外に新たな道を見いだせるのか。人々の伝統的な観念と封建的倫理とが甚だしいので、人々は自分ではこれらを捨て去る能力をもたず、そうする勇気もない。今日の人々が聖書にある死んだ言葉のいくつかに捕らえられていること、言葉に心を奪われていることは、言うまでもない。どうしてそんな人々が聖書を捨てようと思うであろうか。どうして聖書の外にある道を容易に受け入れることができるであろうか。つまり、あなたが聖書の内部事情と聖霊の働きの原則を明瞭に話して、すべての人々を完全に納得させることができなければ、である。これが最も必要なことだ。これは、宗教を信じているすべての人が聖書を尊重し神として崇拝しているから、神を聖書の内に閉じ込めようとしているから、さらには再び神を十字架につけなければ、そんな人々の目的は達成できないという事態だからである。


聖書について(4)

2020-03-24 10:39:20 | 書籍

多くの人は、聖書を理解することと解釈できることは、真の道を探すのと同じことだと信じている。しかし、実際、物事はそんなに単純だろうか。聖書の実際は誰も知らない。つまり、聖書は単なる神の働きについての歴史的記録であること、神の以前の二段階の働きについての証しであること、神の働きの目的については何も教えていないことである。聖書を読んだことのある人はみな、そこには律法の時代と恵みの時代の二つの段階での神の働きが記録されていることを知っている。旧約はイスラエルの歴史と創造から律法の時代の終わりまでのヤーウェの働きを記録している。新約では四福音書に、イエスの地上の働きと、パウロの働きを記録している。これらは歴史的記録ではないのか。過去の物事を今日に持ち込めば、それは歴史となり、どんなにそれが事実で真実であろうと、やはり歴史である。そして、歴史は現在について取り上げることはできない。神は歴史を振り返らないからである。だから、聖書だけを理解して、神が今日しようとしている働きを何も理解しないのなら、また、神を信じていても聖霊の働きを求めないのなら、あなたは神を求めるということがどういうことなのか、わかっていない。イスラエルの歴史を学ぶために、神の天地創造の歴史を研究するために聖書を読むのなら、あなたは神を信じていない。しかし、今日、あなたは神を信じていのちを求めているのだから、神の認識を求めているのだから、また、死んだ文字や教義を求めていないのだから、あるいは、歴史を理解しようとしているのではないのだから、あなたは今日の神の心を求めなければいけない。そして、聖霊の働きの方向を尋ね求めなければいけない。もしもあなたが考古学者なら、聖書を読んでもよいであろう。しかし、そうではない。あなたは神を信じる者の一人なのだから、神の現在の心を探し求めるのが一番だ。聖書を読めば、せいぜいイスラエルの歴史が少しだけ、またアブラハムやダビデ、モーセの生涯を学び、彼らがどのようにヤーウェを崇めたか、ヤーウェが自分に敵対する人々をどのように火で罰し、その時代の人々にどのように話したかといったことがわかるだろう。神が過去に行った働きのことだけがわかるだろう。聖書の記録は、初期のイスラエルの人々がいかに神を崇め、ヤーウェの導きの下で生きたかということに関連している。イスラエル人は神の選ばれた民であったので、旧約では、イスラエルのすべての人々のヤーウェへの忠誠や、ヤーウェに従う人々が神からどのように守られ祝福を受けたかがわかる。また、イスラエルで働いたとき、神は慈悲と憐れみに満ちていたが、また激しい炎ももっていたこと、イスラエルの民は卑しい者から強い者まですべてがヤーウェを崇め、そのためすべての民は神から幸いを受けたことを知ることができる。これが旧約に記録されているイスラエルの歴史である。

聖書は神のイスラエルでの働きの歴史記録であり、古代の預言者たちの数多くの預言と、ヤーウェが当時その働きについて述べたことの一部が記録されている。だから、人々はこの本を神聖なものとして尊ぶ(神は聖く、偉大であるから)。もちろん、これはみな、人々のヤーウェへの畏敬と神への尊崇から来ている。人々がこの本をこのように扱うのは、ひとえに神の被造物が自分たちの創造主を深く畏敬し、崇拝しているからであって、この本を天の書と呼ぶ者さえいる。実際のところ、これは人間の記録でしかないのだが。これはヤーウェが直接名付けたものではないし、ヤーウェが直接その作成を導いたものでもない。つまり、この本の著者は神ではなく、人間なのだ。聖書は、人間が敬ってつけた書名に過ぎない。この書名は、ヤーウェやイエスが話し合って決めたものではない。これは人間の考えでしかない。この本はヤーウェの著書ではないし、ましてイエスの著したものでもない。そうではなく、多くの古代の預言者、使徒、そして予知する者による記録を後の世代が一冊の古代書に編集したものであって、それは人々にとってとりわけ聖いものと映り、また、未来の世代によって解読されるのを待っている多くの計り知れない深遠な奥義を含んでいると、その人々は信じているだから、よけいに人々はこの本を天の書だと考えがちである。四福音書と黙示録の追加によって、この本への人々の態度は、他のどの本とも異なっていて、誰一人、この「天の書」を解明しようとしない。――それはあまりに「神聖」だからだ。

なぜ、聖書を読むとすぐに、実践の正しい道を聖書の中に見つけることができるのだろうか。なぜ人々には不可解であったものを幾分でもとらえることができるのか。今日、わたしはこのようにして聖書を分析しているが、これはわたしが聖書を憎んでいるからではないし、また、参考としての価値を否定するものでもない。わたしが聖書の本来の価値とそのなりたちを説明し、明確にしているのは、あなたが闇の中にとどまることのないようにである。人々は聖書について実に多くの解釈をしており、その多くは誤っているので、聖書をこのように読むのは、得るべきものを得ることを妨げるだけではなく、さらに重要なことに、わたしのしようとする働きの妨げとなる。これは未来の働きをひどく妨げ、有用さより欠点ばかりをもたらす。だから、わたしがあなたに教えていることは、単に聖書の本質とその内部事情である。わたしは聖書を読むなと言っているのではないし。また、聖書がまったく無価値だと告げて歩けとも言っていない。ただ、聖書に関して正しい知識と見方をもつべきだというのだ。あまり偏った見方をしないことだ。聖書は人間の書いた歴史書だが、これはまた、古代の聖人や預言者が神に仕えた原則とともに、近い時代の使徒たちが神に仕えた経験を記した文書でもある。これらはみな、そうした人々が実際に見て、知った事柄であり、この時代に真の道を求める人々に関する参考としては役立てることができる。だから、聖書を読めば、他の書物からは得られない多くのいのちの道について知ることができる。これらの道は、預言者や使徒たちがかつて経験した、聖霊の働きのいのちの道であり、その言葉の多くは貴く、人々の必要とするものを与えてくれる。だから、人々はみな聖書を読むことを好むのである。聖書にはまことに多くの事が隠されているから、人々の聖書の見方は偉大な宗教家の著作に対するものとは異なっている。聖書は古代と新しい時代にヤーウェやイエスに仕えた人々の経験と認識を集めた記録で、後の世代は、これにより多くの啓示、洞察、実践への道を学ぶことができた。聖書がどの偉大な宗教家たちの著作よりも高位にあるのは、彼らの著したものが聖書から引き出したものであり、彼らの経験はみな聖書から来ていて、いずれも聖書を解説しているからである。そこで、人々は偉大な宗教家の著書から糧を得られるが、彼らはまだ聖書を崇める。聖書がじつに偉大で深遠に思われるからだ。聖書はパウロ書簡やペテロの書簡といった、いのちの言葉の書の一部を収めているし、また、人々はこれらの書から必要なものや助けを得ることができるものの、これらの書は時代遅れで、過去の時代に属するものである。どれほど優れていても、一つの時代にだけ通用するもので、永遠ではない。神の働きは常に進展しており、ただパウロやペテロの時代にとどまることはできないし、いつまでもイエスが十字架につけられた恵みの時代にとどまることもできない。だから、これらの書は恵みの時代にのみふさわしいものであって、終わりの日の神の国の時代にはふさわしくない。これらは恵みの時代の信者の必要を満たすものであって、神の国の時代の聖徒のためのものではない。どんなにすぐれたものであっても、それらは過去のものなのだ。これはヤーウェの創造の働きやイスラエルでの働きも同様だ。働きがどんなに偉大なものであっても、それは過去のものであって、それが廃れる時が来ることは決まっていた。神の働きもまた同じである。偉大だが、終わる時が来る。いつまでも創造の働きにとどまることはできないし、十字架刑の時代にとどまっていることもできない。十字架刑の働きがいかに説得力があり、サタンを打ち負かすことにおいてどれほど効果的であっても、結局、働きは働きであり、時代もまた時代なのである。働きはいつまでも同じ基礎の上にとどまれない。また、時代がけっして変わらずにあるということはありえない。創造があったのだから、終わりの日がなければならない。これは必然だ。だから、今日、新約のいのちの言葉、つまり使徒たちの書簡とそれに四福音書は歴史的な書となり、古い年鑑となった。古い年鑑がどうして人々を新たな時代に導けるであろうか。年鑑がどれほど人々にいのちを与えることができたとしても、人々を十字架に導くことができたとしても、時代遅れなのではないか。価値がないのではないか。だから、盲目的にこれらの年鑑を信じるべきではないと言うのだ。ああしたものは古すぎて、あなたを新たな働きに至らせることができず、重荷になるだけだ。新たな働き、新たな進路に至らせることができないばかりか、古い宗教的な教会に入らせる。もしそうなると、神への信仰において退歩していることになるのではないか。

聖書に記されているのは、イスラエルにおける神の働きであり、そこにはイスラエルの選ばれた民によって行われたことも幾つか含まれている。一部の内容が含まれたり省略されたりしており、聖霊が認めることはなかったが、非難することもなかった。聖書は純粋にイスラエルの歴史であり、それはまた神の働きの歴史でもある。人々、物事、そしてその記録していることは、みな事実であり、それらには象徴的な意味は全くなかった。――もちろん、イザヤとダニエルと、その他の預言者たちやヨハネの幻の書を除いては。イスラエルの初期の人々は知識が豊富で教養があり、彼らの古代の知識や文化はきわめて進んだものであり、彼らの書いたものは今日の人々のものより高度であった。だから、彼らがこれらの書を著せたのは驚くにあたらない。ヤーウェは彼らの間で実に多くの働きをし、彼らは多くを見たのだから。ダビデはヤーウェのわざをその目で見、自らそれを味わい、多くのしるしと不思議を見た。そこで、ヤーウェのわざをたたえて、あの多くの詩歌を書いた。彼らがそうした書を著すことができたのは、その置かれた状況のためであり、彼らが神聖であったためではない。彼らがヤーウェをたたえたのは、ヤーウェを見たからである。もしあなたたちがヤーウェをまったく見たことがなく、神の存在を知らなければ、どうして神をたたえることができたであろうか。ヤーウェを見たことがなければ、神をたたえることも、崇めることも知らないままであろうし、まして神をたたえる歌を書くこともできないであろう。そして、たとえヤーウェのわざを何かでっち上げてくれと言われても、できないであろう。今日、あなたたちが神をたたえ、神を愛するのは、あなたたちが神を見て、神の働きを経験したからでもある。そして、もしもあなたたちの能力が向上したなら、あなたたちもまた、ダビデのように神をたたえる詩を書けるようになるのではないか。

聖書を理解し、歴史を理解するが、聖霊が今日何をしているかを理解しない──これは間違っている。あなたは歴史を学ぶことはよくできたし、実にすばらしい成果を上げた。しかし、聖霊が今日している働きについては、何も理解していない。これは愚かなことではないか。人々があなたに「神は今、何をしているのですか。あなたたちは今日、何に入るべきなのですか。あなたのいのちの探究はどうはかどっていますか。あなたは神の御心を理解しているのですか」と尋ねても、あなたには答えることができないであろう。それで、あなたは何を知っているのか。あなたは、わたしは肉に背を向け、自分を知らなければいけないことを知っているだけですと言うであろう。そして、もし相手が「他には何を知っているのですか」と尋ねたなら、あなたは、神のすべての計画に従うことを知っている、そして、聖書の歴史について少し知っている、それで全部だと答える。それが、この数年間神を信じてきて、学んだことのすべてなのだろうか。それがあなたが理解していることのすべてなら、あなたには実に多くのことが欠けている。だから、あなたたちの今日の背丈では、わたしがあなたたちに求めることを満たすことは基本的にできないし、また、あなたたちの識別力とあなたたちの理解している真理はあまりにわずかである。つまり、あなたたちの信仰はあまりに表面的なのだ。あなたたちは、もっと真理を身につけなければいけない。あなたたちにはもっと認識が必要だ。あなたたちはもっと多くを見なければいけない。そうしてはじめて、福音を広められる。これがあなたたちの成し遂げるべきことなのだから。


聖書について(3)

2020-03-22 16:21:35 | 書籍

聖書にあることがみな、神が直接語った言葉の記録だというわけではない。聖書はただ、神の働きのうちの前の二段階を文書で記録しているに過ぎない。そこには預言者たちの預言と、各時代で神に用いられた人々の経験と認識を記したものが含まれる。人間の経験には人間の意見や認識が紛れ込んでいるが、これは避けられないことである。聖書の多くの書には、人間の観念、人間の偏見、人間の愚かしい理解が含まれている。もちろん、ほとんどの言葉は聖霊による啓示と教えの結果で、それらは正しい理解である。しかし、真理をまったく正確に表現しているとは言えない。ある物事についての見方は、個人的な経験から得た認識に過ぎないか、聖霊による啓示である。預言者たちの預言は神が直接指示したものだ。イザヤ、ダニエル、エズラ、エレミヤ、そしてエゼキエルのような者たちによる預言は、聖霊が直接指示したものだ。これらの人々は預言者で、預言の霊を受けた。彼らはみな旧約の預言者であった。律法の時代、ヤーウェの霊感を受けたこれらの人々は、多くの預言を語った。それはヤーウェが直接指示したものであった。それでは、なぜヤーウェは彼らの内で働いたのだろうか。イスラエルの人々が神の選ばれた民だったからだ。預言者の働きは彼らの間で行わなければならなかったし、彼らはそうした啓示を受ける資格をもっていた。実際のところ、彼ら自身は神の啓示を理解していなかった。聖霊が彼らの口を通して言葉を述べたのは、未来の人々がそれらのことを理解し、それらがほんとうに神の霊、聖霊の働きであって、人間から出たものではないとわかるようにであり、聖霊の働きを確認させるためであった。恵みの時代には、イエス自身が彼らに代わってこの働きをすべて行った。だから、人々はもはや預言を語らなかった。では、イエスは預言者だったのだろうか。イエスは、もちろん、預言者だった。しかし、イエスはまた、使徒の働きもできた。イエスは預言を告げることも、全土の人々に教えを説くこともできた。しかし、イエスのした働きと、その身分は同じではない。イエスはすべての人間を贖うために、罪を贖うために来たのである。イエスは預言者、使徒であったが、それ以上にキリストであったのだ。預言者は預言を告げることができるが、だからといって、その人がキリストだとは言えない。当時、イエスは多くの預言を語ったので、イエスは預言者であったと言うことはできるが、預言者であったからキリストではないとは言えない。つまり、イエスは神自身を代表して一つの段階の働きを実行したのであり、その身分はイザヤとは違う。イエスは贖いの働きを完了するために来た。イエスはまた人間にいのちを与えた。また、神の霊が直接イエスに訪れた。イエスの行った働きには、神の霊の霊感やヤーウェからの指示はなかった。その代わりに霊が直接働いた──このことは、イエスが預言者と同じではなかったことの十分な証拠である。イエスの行った働きは贖いの働きで、それに次ぐのが預言を語ることであった。イエスは預言者、使徒、そしてそれ以上に贖い主であった。一方、預言者たちは、預言ができるだけで、他の働きをして神の霊を代表することはできなかった。イエスは、かつて人間がしたことのない働きをかなり行ない、人間の贖いの働きをしたので、イザヤのような人々とは違っていた。現在の流れを受け入れない人々がいるのは、これがその人たちの妨げとなっているからである。その人たちは言う。「旧約では多くの預言者もまた多くの言葉を語っています。では、なぜあの人たちは受肉した神ではなかったのですか。今日の神は言葉を語る──それで、あの人が受肉した神であると証明するのに十分なのですか。あなたは聖書を重視していないし、聖書の勉強もしない──では何を根拠にしてあの人が受肉した神だと言うのですか。あなたは、彼らは聖霊に導かれていて、あなたは、この段階の働きは神が自ら行う働きだと信じています。――でも、その根拠は何なのですか。あなたは今日の神の言葉に注意を集中し、まるで聖書を否定して、脇に置いてしまったかのようです。」それで、人々はあなたが異端の教えを信じており、邪教集団の一員だと言う。

もしあなたが終わりの日の神の働きを証ししたいのなら、聖書の内部事情、聖書の構成、そして聖書の本質を理解しなければいけない。今日、人々は聖書が神であり、神は聖書だと信じている。また、聖書の言葉のすべてだけが神の語った言葉であって、それはみな、神が語ったと信じている。神を信じている人々は、旧約と新約の六十六書はすべて人間が書いたものだけれど、これらはみな神から霊感を受けており、聖霊の告げたことを記録しているのだとさえ考えている。これは人の理解が誤っているのであって、事実に完全に沿ったものではない。実際、預言の書以外、旧約のほとんどは歴史的記録である。新約の書簡のいくつかは人々の経験に基づいたもので、またいくつかは聖霊の啓きによるものである。たとえば、パウロの書簡はひとりの人間の働きから生まれたもので、それはみな、聖霊の啓きを受けた結果であった。また、その書簡は教会のために書かれたもので、教会の兄弟姉妹への勧告と激励の言葉だった。聖霊の語った言葉ではなかったのである。パウロは聖霊の代わりに語ることはできなかった。また、彼は預言者でもなかったし、ましてヨハネが見たような幻を見てもいない。パウロの書簡はエペソ、フィラデルフィア、ガラテヤ、その他の教会に向けて書かれた。だから、新約のパウロの書簡はパウロが諸教会に向けて書いた手紙で、聖霊の霊感によるものではないし、また、聖霊が直接語ったものでもない。あれは単に、パウロが働きの間に諸教会に向けて書いた勧告と慰めと励ましの言葉である。また、当時のパウロの活動の大部分の記録でもある。あれは主における兄弟姉妹のために書かれたもので、当時のすべての教会の兄弟姉妹に、パウロの助言に従い、主イエスの教えを守らせるためのものだった。当時の教会であれ、未来のものであれ、パウロは自分の書いたものをみなが飲み食いしなければならないとは絶対に言わなかったし、また、自分の言葉がみな神から出たものだとも言わなかった。当時の教会の状況に合わせて、パウロは単に兄弟姉妹と心の交流をして、彼らを励まし、彼らの信仰を深めようとしていた。そして、彼は単に説教をしたり思い起こさせたりして、勧告していたのだ。彼の言葉は、彼自身の重荷に基づいて、言葉によって人々を支えたのだ。彼は当時の教会の使徒としての働きをした。彼は主イエスに用いられた働き手だった。そして、教会の責任を背負い、教会の働きを引き受け、兄弟姉妹の状況を知らなければならなかった。そのために、主においての兄弟姉妹すべてに手紙を書いたのだ。彼が人々に向けて言った信仰を養い、確信に満ちた言葉はみな正しかったが、それは聖霊の言葉を代弁していたのではないし、神を表わすこともできなかった。一人の人間の経験の記録や手紙を聖霊が諸教会に向けて語ったものとして扱うのは、ばかげた解釈であり、ひどい冒瀆である。パウロが諸教会に向けて書いた手紙については、特にそうである。彼の手紙は当時の各教会の事情や状況に基づいて兄弟姉妹に向けて、主における兄弟姉妹を励まし、主イエスの恵みを受けられるようにと書いたものなのだから。彼の手紙は、当時の兄弟姉妹を奮起させるためのものであった。これは彼自身の重荷であり、聖霊が彼に負わせたものだったといえる。結局のところ、彼は当時の教会を導いた使徒で、諸教会に手紙を書いて励ました。それが彼の責任であった。彼の身分は単に活動中の使徒であって、単に神に遣わされた使徒だった。彼は預言する者でも、予知する者でもなかった。彼にとっては自分の働きと兄弟姉妹のいのちが最も重要なものであった。それで、彼は聖霊を代弁することはできなかったのだ。彼の言葉は聖霊の言葉ではなかったし、まして、神の言葉であったとは到底言えない。パウロは神の被造物でしかなく、受肉した神では絶対になかったのだから。彼の身分はイエスの身分とは違っていた。イエスの言葉は聖霊の言葉で、神の言葉であった。イエスの身分はキリスト、神の子であったのだから。どうしてパウロがイエスと対等になれるのか。もし人々がパウロの書いたような手紙や言葉を見て、聖霊の言葉として神のように崇めるなら、それはあまりにも分別がないと言うことになるだろう。もっと厳しい言い方をすれば、これは冒瀆以外の何物でもないのではないか。どうして人間が神に代わって話せるのか。また、どうして人々は人間の手紙や語った言葉の記録をまるで聖なる書か天の書であるかのように、その前に額づくことができるのであろうか。神の言葉は人間が何気なく口にできるものなのか。どうして人間が神に代わって話せるのか。それで、どう思うのか──パウロが諸教会に宛てて書いた手紙には、彼自身の考えが混じっているのではないか。どうして人間の考えで汚れていないと言えるであろうか。彼は自分の個人的経験や人生の幅に基づいて諸教会に向けて手紙を書いた。たとえば、パウロはガラテヤの諸教会に向けて手紙を書いているが、そこには、ある意見が含まれている。そして、ペテロも別の手紙を書いているが、別の意見が見られる。どちらが聖霊から出たものなのか。誰一人確かなことを言えない。だから、彼らは二人とも教会のために重荷を負っていたが、二人の手紙は彼らの霊的背丈を、彼らの兄弟姉妹に向けた備えと支えを、諸教会への彼らの責任を象徴している。その手紙は人間の働きを表しているに過ぎない。すべてが聖霊から出ていたのではないのだ。もしもパウロの手紙は聖霊の言葉だというのなら、その人は愚かで、冒瀆を犯している。パウロ書簡と新約のその他の書簡は、もっと最近の宗教活動家の回顧録のようなものだ。それらはウォッチマン・ニーの著書やローレンスの経験その他と同じようなものだ。簡単に言えば、最近の宗教活動家の著作は新約には含まれていないが、そうした人物の本質は同じである。彼らは一定の期間、聖霊に用いられた人々であったが、直接神を代表することはできなかったのである。

新約のマタイの福音書は、イエスの系図を記録している。冒頭で、イエスはアブラハムの子孫、ダビデの子孫、ヨセフの子であったと述べている。次に、イエスは聖霊によってもうけられ、処女から生まれたと述べている。すると、イエスはヨセフの子でもアブラハムの子孫でもダビデの子孫でもないことになる。しかし、系図はイエスとヨセフのつながりを主張している。次に、系図はイエスが誕生した過程を記し始める。それによると、イエスは聖霊によってもうけられ、処女から生まれたのであり、ヨセフの子ではない。しかし、系図では、はっきりと、イエスがヨセフの子であると書いてあり、系図はイエスのために書かれているため、その記録は四十二世代に及ぶ。ヨセフの代になると、ヨセフがマリヤの夫であると手短に告げている。これらの記述は、イエスがアブラハムの子孫であることを証明するためのものである。これは矛盾ではないのか。系図は明らかにヨセフの祖先を列挙しており、それは確かにヨセフの系図なのだが、マタイは、それがイエスの系図だと主張している。これはイエスが聖霊によって生まれたことを否定するものではないのか。だから、マタイの系図は人間の考えではないのか。これはばかげている。このことから、この書がすべて聖霊から出たものではないことがわかる。おそらく、神には地上に系図がなければいけないと考えた人々がいて、その結果、イエスをアブラハムの四十二代目の子孫だとしたのではないであろうか。これはまことに愚かなことだ。地上に到着した後で、どうして神に系図があり得るのか。神に系図があると言うのなら、それは神を被造物と同列に置いているのではないか。神は地上の存在ではなく、創造の主であり、肉の体をもってはいても、本質においては、人間と同じではないのだ。どうして神をその被造物と同じものにできるのか。アブラハムは神の代理人ではない。彼はヤーウェの当時の働きの対象であり、単にヤーウェの認める忠実なしもべでしかなく、イスラエルの民の一人であった。どうして彼がイエスの祖先であり得ようか。

誰がイエスの系図を書いたのか。イエス自身が書いたのだろうか。イエスは自ら「わたしの系図を書きなさい」と言ったのだろうか。これはイエスが十字架につけられた後で、マタイが記録したものである。当時、イエスは弟子たちには理解のできない働きを数多く行ったが、何も説明していない。イエスが去った後、弟子たちはいたるところで説教と働きを始め、その段階の働きのために、彼らは手紙と福音の書を書き始めた。新約の福音の書はイエスが十字架につけられてから二十年から三十年後に書かれた。それ以前には、イスラエルの人々は旧約だけを読んでいた。つまり、恵みの時代の始めに、人々は旧約を読んだのである。新約は恵みの時代になって、はじめて現れる。イエスが働いていた間、新約は存在しなかった。イエスがよみがえり、昇天した後になって、人々はイエスの働きを記録した。そうしてはじめて、四福音書が生まれ、それに加えて、パウロとペテロの書簡、そして黙示録が生まれた。イエスが昇天して三百年以上過ぎた後で、後の世代が記録を集め、新約が生まれた。この働きが完了した後ではじめて新約が存在した。それ以前にはなかったのである。神がすべての働きを行った。使徒パウロも自分のすべての働きを行った。その後に、パウロとペテロの書簡が集められ、ヨハネがパトモス島で記録した最大の幻が、終わりの日の働きを預言していたため、最後に加えられた。これらはみな、後の世代の編集したものであって、今日の言葉とは別物である。今日記録されていることは、神の働きの段階に沿ったものである。人々が今日関わっているのは、神が自ら行った働きであり、神が自ら語った言葉である。あなたがた人間は介入する必要がない。霊から直接出る言葉は順を追って並べられており、人間の記録を編集したものとは異なっている。彼らが記録したものは、彼らの教養と人間としての能力の程度に従っていたと言える。彼らが記録したものは人間の経験であった。人々にはそれぞれ自分なりの記録の手段と認識があり、それぞれの記録は異なっていた。だから、聖書を神と崇めるなら、あなたは極めて無知で愚かだということになる。なぜ今日の神の働きを求めないのか。神の働きだけが人間を救うことができるのである。聖書は人間を救えない。彼らは聖書を数千年の間読むことが出来たが、それでもなお彼らのうちには少しの変化も見られない。そして聖書を崇めるのなら、けっして聖霊の働きを得ることはないであろう。イスラエルで神の行った二段階の働きは、いずれも聖書に記録されている。だから、これらの記録の中に見る名前はみなイスラエルのもので、出来事もすべてイスラエルにおけるものである。「イエス」という名前さえ、イスラエル人の名である。もしも今日聖書を読み続ければ、因習に従うことになるのではないか。新約聖書に記録されていることは、ユダヤの物事である。原文はギリシャ語とヘブライ語で書かれており、イエスの言葉とイエスが当時呼ばれた名はすべて人間の言語のものである。イエスが十字架につけられた時、イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言った。これはヘブライ語ではないのか。これは、単にイエスがユダヤで受肉したためであり、神がユダヤ人であるとの証明ではない。今日、神は中国で受肉した。だから、その語ることはみな、間違いなく中国語である。しかし、原文の言葉が違うのであるから、中国語訳の聖書とは比較できない。一方は人間が記録したヘブライ語を原典とし、他方は霊による直接の言葉から来ているのである。


聖書について(1)

2020-03-21 10:58:54 | 書籍

神への信仰において、どのように聖書に接するべきであろうか。これは原則的な問題だ。なぜわたしたちはこの問について話し合っているのだろうか。それは、将来あなたは福音を広め、神の国の時代の働きを広げることになるが、単に今日の神の働きについて話せるだけでは不十分だからである。神の働きを広げるためには、人々の古い宗教観念や古い信仰の方法を取り除き、人々を完全に確信させることがますます重要だ。そして、そこに至るには、聖書が関わってくる。長い間、人々の伝統的な信仰の方法は(世界の三大宗教の一つであるキリスト教においては)聖書を読むことであった。聖書から離れることは、主を信じることではない。聖書から離れるのは邪教、異端であり、他の本を読んでいても、そうした本の基礎は聖書の解説でなければならない。つまり、主を信じると言うのなら、聖書を読まなければならないのだ。聖書を飲み食いし、聖書の外では、聖書と関わりのない本を崇めてはいけない。そういうことをするのは、神への裏切りだ。聖書が存在するようになって以来、人々の主への信仰は聖書への信仰である。人々は主を信じるという代わりに、聖書を信じると言ったほうがいい。聖書を読み始めたと言うよりは、聖書を信じるようになったと言うほうがいい。そして、主の前に帰ったというよりは、聖書の前に帰ったと言うほうがいいだろう。このように、人々はまるで聖書が神であるかのように崇め、まるでそれが自分たちのいのちの源で、それを失うことはいのちを失うことであるかのようだ。人々は聖書を神と同じくらい高いものと見ているが、神より高いと思う人々さえいる。人々は、たとえ聖霊の働きがなくとも、たとえ神を感じられなくとも、生きていける──しかし、聖書を失くしたり、あるいは聖書の有名な章句を失くしたりすると、すぐに、まるでいのちを失ったかのようになる。そこで、人々は主を信じ始めるとすぐに聖書を読み始める。そして、聖書を暗記し、より多く聖書の暗記すればするほど、主を愛し、信仰が深いことの証拠になる。聖書を読み、それについて他の人々に話すことのできる人々はみな、よい兄弟姉妹だ。長年の間、人々の信仰と主への忠誠は、聖書をどれほど理解しているかによって測られてきた。たいていの人は、なぜ神を信じなければいけないのかをまったく理解していないし、どう神を信じるべきかを知らないのに、聖書の章句を解明するために闇雲に手がかりを探す以外には何もしない。人々は聖霊の働きの方向を追究したことはない。これまで、懸命に聖書を勉強し調べる以外のことをしてこなかった。聖書の外で聖霊の新たな働きを見出した者は誰もいないし、聖書から離れた者もいないし、聖書から離れる勇気をもつ者もいない。人々は長年の間聖書を研究し、まことに多くの解釈を編み出し、多くの労力を費やしている。彼らはまた、聖書について数多くの異なった意見をもち、それについて果てしなく議論しており、現在では二千以上の教派が形成されている。彼らはみな、特別な解釈を探しているか、より深遠な奥義を聖書の中に探している。彼らは探索し、ヤーウェのイスラエルでの働きの背景に、あるいはイエスのユダヤでの働きの背景にそれを見つけるか、それとも他の誰も知らないさらなる奥義を見つけることを望んでいる。人々の聖書への態度は偏執と信仰で、聖書の内部事情や本質について、完全に理解している人は誰もいない。だから、現在もなお人々は聖書に関して説明しようのない不思議さを感じ、ますます聖書に執着し、よりいっそう聖書を信じている。今日、誰もが終わりの日の働きについての預言を聖書に見出したがっている。その人たちは終わりの日に神がどのような働きをするのか、終わりの日についてどんな前兆があるのかを見つけたがっている。このように、その人たちの聖書信仰はますます熱を帯び、終わりの日に近づくほど、ますます聖書の預言、とりわけ終わりの日についての預言に盲目的な信頼をおく。そうした聖書への盲信、そうした聖書への信頼によって、その人たちは聖霊の働きを探そうという欲求をもたない。人々の観念では、聖書だけが聖霊の働きをもたらすのである。聖書の中だけに神の足跡を見いだせる。聖書の中だけに神の働きの奥義が隠されている。他の書物や人々ではなく、聖書だけが、神に関するすべてとその働きの全体を明らかにできる。聖書は天の働きを地にもたらす。そして、聖書は時代の始まりと終わりをもたらすことができる。こうした観念があるので、人々は聖霊の働きを探そうという意向をもたない。そこで、聖書が過去にどれほど人々の役に立ったかはともかく、神の現在の働きの妨げになっている。聖書がなければ、人々は別の場所に神の足跡を探せる。しかし、今日、神の足跡は聖書によって封じ込められている。だから、神の最新の働きを広げることは、二重に困難な、苦しいことになっている。これはみな、聖書の有名な章句のせいであり、聖書のさまざまな預言のせいである。聖書は人々の心の中で偶像となり、人々の頭脳の中の謎となった。人々は神が聖書とは別に働けることをどうしても信じられず、聖書の外でも神を見つけることができることが信じられなくなっている。まして、神が最後の働きのあいだに聖書を離れて新しく始められるなどとは信じられない。これは人々にとって考えられないことである。人々には信じられないし、想像することもできない。聖書は神の新たな働きを受け入れるための大きな障害になり、神がこの新たな働きを広めることを困難にしている。だから、聖書の内部事情を理解していないのなら、福音を成功裏に広めることはできないであろう。また、新たな働きについて証しすることもできないであろう。今日、あなたたちは聖書を読まないが、それでも聖書に関して極めて好意的だ。つまり、聖書はあなたたちの手にないかもしれないが、あなたたちの観念の多くが聖書に発している。あなたたちは聖書の由来、以前の二段階の神の働きの内部事情を理解していない。あなたたちは聖書を飲み食いしないが、聖書を理解しなければいけない。あなたたちは聖書について正しい認識をもたなければいけない。そして、そのようにしてはじめて、神の六千年に及ぶ経営(救いの)計画がどういうものなのかがわかるのだ。あなたたちはこうしたことを用いて人々を勝ち取り、この流れが真の道であり、今日あなたたちの歩む道が真理の道であり、それが聖霊に導かれており、人間が開いたものではないということを人々に認めさせるのである。

恵みの時代の前、人々は聖書を読んだが、当時は旧約しかなかった。新約はなかった。旧約聖書があったので、人々は聖書を読み始めた。ヤーウェの導きが終わると、モーセが創世記、出エジプト記、申命記などを著した。モーセは当時のヤーウェの働きを思い起こし、それを書き記した。聖書は歴史書だ。もちろん、ここには預言者の預言もいくつか載っている。そして、そうした預言は歴史などではまったくない。聖書はいくつかの部分からなっている。預言だけではなく、ヤーウェの働きだけでもなく、パウロの書簡だけでもない。聖書には幾つの部分があるかを知っていなければいけない。旧約には創世記と出エジプトなどが含まれ、そして、預言者たちが書いた預言書もある。最後に、旧約はマラキ書で終わる。旧約は、ヤーウェの導いた律法の時代を記録している。創世記からマラキ書まで、律法の時代の働きすべての総合的な記録だ。これはつまり、旧約は律法の時代にヤーウェに導かれた人々の経験の記録だということだ。旧約の律法の時代、大勢の預言者がヤーウェに起こされ、神の預言をした。彼らはさまざまな部族や民族に指示を与え、ヤーウェのする働きについて預言した。こうした起こされた人々はみな、ヤーウェからの預言の霊を与えられていた。彼らはヤーウェから幻を見せられ、その声を聞くことができたので、ヤーウェに啓示を受けて預言を書いた。彼らの行なった働きはヤーウェの声の代弁で、それはヤーウェに代わって行われた預言の働きであった。当時のヤーウェの働きは、単に霊を用いて人々を導くことであった。ヤーウェは受肉せず、人々は神の顔をまったく見なかった。そこで、ヤーウェは大勢の預言者を起こして、自分の働きをさせた。預言者たちに神託を与え、彼らはそれをイスラエルのすべての部族や氏族に伝えた。彼らの働きは預言をすることで、彼らの一部はヤーウェが彼らに与えた指示を記述して、他の人々に見せた。ヤーウェはこれらの人々を起こして預言を語らせ、将来の働きや、当時進行中の働きについて預言させた。そこで、人々はヤーウェの知恵と素晴らしさを見ることができた。これらの預言の書は聖書の他の書とは大きく異なっていた。それらは預言の霊を受けた人々、ヤーウェに幻を見せられたり、その声を聞いたりした人々が語り、書き記した言葉だ。預言の書以外は、旧約のすべてはヤーウェがその働きを終えた後に人々が作成した記録だ。これらの書は、創世記や出エジプト記がイザヤ書やダニエル書に比肩できないのと同様、ヤーウェの起こした預言者の語った預言とは同列に置けない。預言は働きが実行される以前に告げられた。一方、他の書は働きが完了してから書かれたもので、それが人々にできたことだった。当時の預言者はヤーウェの啓示を受けて預言を伝えた。彼らは多くの言葉を語り、恵みの時代の物事について、また、終わりの日に世界が破壊されることを預言した──ヤーウェが計画している働きだ。残りの書はみな、ヤーウェがイスラエルで行った働きについての記録である。だから、聖書を読む場合には、主にヤーウェがイスラエルでしたことについて読むことになる。聖書の旧約は主にヤーウェのイスラエル人を導く働きの記録であり、モーセを用いてイスラエル人をパロの虜囚から解放し、エジプトから脱出させ、荒野に連れていき、その後、カナンに入った。その後に起こったことはみな、彼らのカナンでの生活である。これ以外はみな、全イスラエルでヤーウェの行った働きの記録である。旧約に記録されていることはみな、ヤーウェのイスラエルでの働きの記録で、これはヤーウェがアダムとエバを創造した場所での働きである。ノアの後、神が正式に地上の人々を導き始めた時から、旧約に記録されていることはみな、イスラエルでの働きである。では、なぜイスラエルの外では何の働きも記録されていないのだろうか。なぜなら、イスラエルの地が人類の生まれた地だったからだ。始めに、イスラエルの他に国はなかった。そして、ヤーウェは他の場所では働かなかった。このように、聖書に記されていることは、純粋に当時のイスラエルでの働きなのである。預言者たち、イザヤ、ダニエル、エレミヤ、エゼキエルの話した言葉……彼らの言葉は、神の地上における他の働きを預言するもので、ヤーウェの神自身の働きを予告している。これはみな神から出たもので、聖霊の働きであり、これらの預言者の書を除くと、他のすべてはみな当時のヤーウェの働きを経験した人々の記録である。

創造の働きは、人間が存在する以前に行われた。しかし、創世記は人間が存在するようになってから書かれた。これは、モーセが律法の時代に著した書である。これは、今日あなたたちの間に起こっている事柄に似ている。起こった後で、あなたたちは将来人々に見せるために、将来の人々のために書き記すが、記録したものは過去に起こったことで、歴史に他ならない。旧約に記録されている事柄はヤーウェのイスラエルでの働きで、新約に記録されているのは恵みの時代のイエスの働きである。これらは神が二つの異なる時代に行った働きを記録している。旧約は律法の時代の神の働きを記録している。だから、旧約は歴史的な書物で、新約は恵みの時代の働きの産物である。新しい働きが始まると、それも時代遅れになった。そういうわけで、新約もまた歴史的な書物である。もちろん、新約は旧約ほど組織だったものではないし、それほど多くを記録していない。旧約のヤーウェの語った多くの言葉のすべては聖書に記録されているが、イエスの言葉の一部しか四福音書に記録されていない。もちろん、イエスもまた多くの働きをしたが、それは詳細に記録されなかった。新約にあまり記録がないのは、イエスが行った働きの量による。地上でイエスが三年半の間に行った働きと使徒たちの働きは、ヤーウェのそれよりはるかに少ない。だから、新約は旧約よりずっと書が少ない。

聖書とはどういう書物なのか。旧約は律法の時代の神の働きである。旧約聖書は律法の時代のヤーウェの働きと、創造の働きを記録している。そのすべてがヤーウェの行った働きを記録しており、マラキ書のヤーウェの働きの記録で終わっている。旧約は神の行った二つの働きを記録している。一つは創造の働き、もう一つは律法の布告だ。どちらの働きもヤーウェが行った。律法の時代はヤーウェ神という名で行れた働きを示している。これは、主にヤーウェという名で行われた働きの総体なのだ。だから、旧約はヤーウェの働きを記録しており、新約はイエスの働き、主にイエスという名で行われた働きを記録している。イエスの名の意義とその行った働きは、主に新約に記録されている。旧約の律法の時代、ヤーウェはイスラエルに神殿と祭壇を築いた。地上でイスラエル人の生活を導き、彼らがヤーウェの選ばれた民、つまり彼らが神が地上で最初に選んだ集団で、神の心にかなう者であり、神自ら導いた民であることを証明した。つまり、イスラエルの十二部族がヤーウェが最初に選んだ民であり、神は律法の時代のヤーウェの働き終了まで、いつでも彼らの中で働いた。第二の段階の働きは新約の恵みの時代の働きで、イスラエルの十二部族の一つ、ユダヤ族の間で行われた。働きの範囲が狭かったのは、イエスが受肉した神であったからだ。イエスはユダヤの地でだけ働き、三年半の間だけ働いた。だから、新約に記録されたものは、旧約に記録された働きの量を超えることは到底できないのだ。恵みの時代のイエスの働きは、主に四福音書に記録されている。恵みの時代に人々の歩んだ道は、いのちの性質のもっとも表面的な変化であり、そのほとんどは書簡として記録されている。それらの書簡は、当時聖霊がどのように働いたかを示している。(もちろん、パウロが懲罰を受けたか不運な目に遭ったかはともかく、働きにおいては彼は聖霊に導かれており、当時聖霊に用いられた人である。ペテロもまた、聖霊に用いられたが、彼はパウロほどの働きをしていない。パウロの働きには人間の不純さが含まれていたが、彼が書いた手紙から、聖霊が当時どのように働いたかがわかる。パウロの導いた道は、正しい道、聖霊の道だった。)

律法の時代の働きを見たければ、また、イスラエル人がどのようにヤーウェの道に従ったかを見たいのなら、旧約を読まなければいけない。恵みの時代の働きを理解したいのなら、新約を読まなければいけない。しかし、終わりの日の働きについては、どうすればいいのか。今日の神の導きを受け入れ今日の働きに入らなければいけない。これが新たな働きであり、誰も予め聖書に記録していないからだ。今日、神は中国で肉となり、新たな民を選んだ。神はこれらの人々の間で働き、恵みの時代の働きから続いて、地の働きを続ける。今日の働きの道は人間がかつて歩んだことのないもので、誰も見たことのないものである。それはかつて誰もしたことのない働きであり、それは神が地上で行う最新の働きだ。だから、かつて行われたことのない働きは歴史ではない。今は今であり、まだ過去になっていないからである。人々は神が地上で、イスラエルの外で、より偉大で新しい働きをしたこと、それがすでにイスラエルの範囲を超え、預言者たちの預言を超え、これまでに預言されていない、新しい、驚くべき働き、イスラエルの外の新たな働き、人々が見も想像もできない働きであることを知らない。どうして聖書にこのような働きの具体的な記録が載っているだろう。誰が今日の働きの細部に至るまで漏らすことなく、事前に記録することができただろう。あのカビ臭い古い本に、この、慣習を破る、より大きな賢い働きを、誰が記録できるだろう。今日の働きは歴史ではない。だから、今日の新たな道を歩みたいのなら、聖書から離れなければいけない。聖書の預言書や歴史書を越えなければならない。そうしてはじめて、新たな道を正しく歩むことができ、そうしてはじめて、新たな領域、新たな働きに入ることができる。なぜ今日、聖書を読まないように言われるのか、なぜ聖書とは別の働きがあるのか、なぜ神は新たな、より詳細な実践を聖書に求めないのか、なぜより偉大な働きが聖書の外にあるのかを理解しなければいけない。これをみな、あなたたちは理解する必要がある。新旧の働きの違いを知らなければいけない。聖書を読まないが、聖書を分析できなければいけない。そうでなければ、まだ聖書を崇めていて、新たな働き、新たな変化に入るのが困難になるであろう。より高い道があるのに、なぜ低い、旧式な道を学ぶのか。新たな言葉、新たな働きがあるのに、なぜ古い歴史的記録の中で生きるのか。新たな言葉はあなたに必要なものを与えることができる。つまり、これが新しい働きであることの証明である。古い記録は十分な満足を与えたり現在の必要を満たすことができない。このことは、それが歴史であり、今現在の働きではないことを示している。最も高い道は最も新しい働きだ。そして、新しい働きは、どんなに過去の道が高くとも、それは人々の思考の歴史であり、参考としての価値がどれほどであってもそれは古い道なのだ。たとえそれが「聖なる書」に記されていても、古い道は歴史だ。たとえ「聖なる書」に記録されていないことでも、新たな道が今現在のものなのだ。この道はあなたを救う。そして、この道はあなたを変える。これは聖霊の働きだからだ。

あなたたちは聖書を理解しなければいけない──この働きは最も必要なものだ。今日、聖書を読む必要はない。そこには新しいものは何もないからだ。みな古い。聖書は歴史的な書物であり、もしも恵みの時代に旧約を飲み食いしていたなら、恵みの時代に旧約の時代の要求を実践していたなら、イエスはその人を拒んでいただろう。そして、罪に定めていたであろう。もしも旧約をイエスの働きに適用していたなら、その人はパリサイ人であったであろう。もし、今日、旧約聖書と新約聖書をともに飲み食いし、実践したなら、今日の神はあなたを罪に定めるだろう。今日の聖霊の働きから取り残されるだろう。もし旧約聖書と新約聖書を飲み食いするなら、その人たちは聖霊の流れの外にいる。イエスの時代、イエスは当時、ユダヤ人と自分に従う者みなを自らの内の聖霊の働きに従って導いた。イエスは聖書を自身の行為の基礎とせず、自分の働きに従って語った。イエスは聖書の記述を気に留めなかった。また、自分に従う人々を導く道を聖書に求めなかった。教えを説き始めたその初めから、イエスは悔い改めの道を広めた──その言葉は旧約の預言書ではまったく触れられていないものだった。イエスは聖書に従って行動しなかっただけではなく、新たな道へと導き、新たな働きを行った。イエスは教えを説く際に、一度も聖書に触れていない。律法の時代には、イエスのように奇跡を起こし、病を癒し、悪霊を祓う者は一人もいなかった。イエスの働き、その教え、そして彼の言葉の権威と力も、律法の時代の誰よりも勝っていた。イエスはただ、自分の新たな働きを行った。多くの人々は聖書を用いてイエスを罪に定めたが(さらにはイエスを十字架につけるのに旧約を用いた)、イエスの働きは旧約を超えていた。もしそうでなければ、なぜ人々はイエスを十字架につけたのか。それは、旧約ではイエスの教え、病を癒し悪霊を祓う能力について何の記述もなかったからではないのか。イエスの働きは新たな道を開くためのものであり、それは意図的に聖書に戦いを挑むものではなかったし、意図的に旧約を放棄するものでもなかった。イエスはただ、自分の職分を果たすため、自分を切に求める人々に新たな働きをもたらすために来たのである。旧約を説明し、その働きを継続するために来たのではない。イエスの働きは、律法の時代が発展を続けるようにするためではなかった。イエスの働きはそれが聖書に基づいたものかどうかを問題にしなかったからである。イエスは単に、しなければならない働きをするために来たのだ。だから、イエスは旧約の預言を説明せず、また旧約の律法の時代の言葉に沿った働きもしなかった。イエスは旧約の記述を無視した。それが自分の働きに合致しているかどうかを気にしなかった。また、他の人々が自分の働きを理解しているかどうか、人々がそれをどう非難しているかも気にしなかった。イエスはただ、しなければならない働きを続けたのだ。多くの人々は旧約の預言者たちの預言に基づいて彼を罪に定めたのだが。人々にとって、イエスの働きは根拠を欠き、旧約の記述に反することが数多くあるかのように思われた。これは人の過ちではなかったか。神の働きに教義を当てはめる必要があるのだろうか。また、それは預言者たちの預言に合致しなければいけないのだろうか。結局のところ、どちらが偉大なのだろう。神か、それとも聖書か。なぜ神の働きが聖書に沿ったものでなければならないのか。神には聖書を超える権利がないということか。神は聖書から離れて別の働きをすることができないのか。なぜイエスとその弟子たちは安息日を守らなかったのか。もし安息日を守り、旧約の掟を実践するためであったのなら、なぜイエスは現れて以来、安息日は守らなかったのに、足を洗い、頭を覆い、パンを割り、ワインを飲んだのか。これはみな、旧約の掟にはないことではないか。もしイエスが旧約を遵守したなら、なぜそうした教義に違反したのか。神と聖書と、どちらが先に来たかわかっているはずである。神は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのではないか。

新約の時代にイエスの行った働きは新たな働きを開いた。イエスは旧約の働きに沿った働きはしなかった。また、旧約のヤーウェが語った言葉に従わなかった。イエスは自分の働きをし、新たな働きをし、律法よりも上位の働きをした。そしてイエスは言った。「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。」だから、イエスの成就したことによって、多くの教義は廃棄された。安息日にイエスが弟子たちを連れて麦畑を通ったとき、彼らは麦の穂を摘んで食べた。イエスは安息日を守らず、「人の子は安息日の主である」と言った。当時、イスラエル人の規則によると、誰でも安息日を守らなかった者は石で打ち殺された。しかしながら、イエスは神殿に入りも安息日を守りもしなかったし、その働きは旧約の時代にヤーウェがしなかったことだった。だから、イエスの行った働きは旧約の律法を超えており、それよりも高いものであり、掟に沿ったものではなかった。恵みの時代に、イエスは旧約の律法に従った働きはせず、そうした教義に逆らった。今日、聖書、特に旧約の律法を擁護する人々が依然として存在する。そうすることで、彼らはイエスの働きを否定しているのではないか。「聖書は聖なる書物で、読まなければいけない」という人々がいる。また「神の働きは永遠に守らなければいけない、旧約は神とイスラエルの民との契約で、破棄することはできない、また、安息日は常に守らなければいけない」という人々もいる。こういうことは愚かなことではないか。なぜイエスは安息日を守らなかったのか。イエスは罪を犯していたのか。誰がそうしたことを見通せるのか。どのように聖書を読んでも、人間の理解力で神の働きを知ることは不可能であろう。神について純粋な認識を得ることができないばかりか、人のもつ観念が、ますますとんでもないものになり、神に敵対するようになる。もし今日の神の受肉がなければ、人々は自分たちの観念のせいで滅ぼされ、神の刑罰を受けて死ぬだろう。


神の働きは人間が想像するほど簡単か

2020-03-18 09:40:14 | 書籍

あなたは神を信じる者の一人として、今日、終わりの日の神の働きやあなたに対する神の計画のすべての働きを受ける中で、あなたは神により引き上げられ、救いを受け取っていることを理解しなくてはならない。全宇宙における神のすべての働きは、この一群の人々に焦点を当てている。神はあなたがたにすべての努力を注ぎ、あなたがたのためにすべてを犠牲にした。そして全宇宙における聖霊のすべての働きを取り戻し、あなたがたに与えたのだ。それが、あなたがたは幸運なのだとわたしが言う理由である。さらに神は、自らが選んだイスラエルの民から自分の栄光をあなたがたへと移した。それはあなたがた一団を通して、神の計画の目的を全て明らかにするためである。それゆえ、あなたがたは神の嗣業を受ける者、更には神の栄光の継承者となるのだ。あなたがたは皆このような言葉を覚えているだろう。「このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」あなた方は皆過去にこの言葉を耳にしたことがあるが、その言葉の真意を理解した者はひとりもいない。今日あなたがたは、この言葉の持つ真の意義をよく理解している。これらの言葉は終わりの日に神が成就するものである。そしてそれは、赤い大きな竜の横たわる地で、竜にひどく苦しめられている人々の上に成就する。赤い大きな竜は神を迫害する神の敵であり、よってこの地において神を信じる者たちは屈辱や迫害に晒されている。それ故、これらの言葉はあなたがた一群の中で実現するのだ。神に逆らう地において働きが行われるため、神のすべての働きは過度の妨害を受け、神の言葉の多くはすぐには達成されない。したがって、人々は神の言葉によって精錬される。これもまた、苦しみの要素である。赤い大きな竜の地で働きを実行することは神にとって非常に困難だが、神はこのような困難を通して、自分の働きのひとつの段階を行い、自分の知恵と不思議な業を明らかにする。神はこの機会を通して、この一群の人々を完全にする。人々の苦しみ、彼らの素質、そしてこのけがれた地の人々のサタン的なすべての性質故に、神はその清めや征服の働きを行うことで栄光を手にし、神の業の証に立つ人々を得るのだ。これこそが、神がこの一群の人々のために行った全ての犠牲のすべての意義である。つまり、神は自身に逆らう者たちを通して征服の働きを行うのだ。そうすることによってのみ、神の大いなる力が現わされるのだ。言い換えれば、けがれた地にいる者たちのみが神の栄光を受け継ぐに相応しく、これが唯一、このことによってのみ神の大いなる力を際立たせることができる。それだからわたしは、神の栄光はけがれた地とそこに住む者たちから得られると言うのだ。これが神の旨である。これはちょうどイエスの働きの段階と同じだ。イエスは、彼を迫害したパリサイ人たちを通してのみ栄光を受けることができた。そのような迫害やユダの裏切りがなければ、イエスは嘲笑されたり中傷されたりすることもなく、ましてや十字架に付けられることなどなく、栄光を受けることは不可能だったに違いない。神が各時代にどこで働こうが、肉としての働きをどこで行おうが、神はそこで栄光を受け、自らが得ようとする者たちを得るのである。これが神の働きの計画であり、神の経営である。

数千年に渡る神の計画において、肉による働きは二つの部分から成っている。そのひとつは十字架に付けられることであり、これによって神は栄光を受けた。もう一つは終わりの日の征服と人を完全にする働きであり、それによっても神は栄光を受ける。これが神の経営である。したがって、神の働きや神があなたがたに託したことをあまり簡単に考えてはならない。あなたがたは皆、すべてを超越した、神の永遠で重みのある栄光の継承者であり、それは神が特別そう定めたのである。神の栄光の二つの部分のうち、一つはあなたがたの中に現れている。神の栄光の一つの部分すべてがあなたがたに授けられており、あなたがたがそれを相続する。これは神によって引き上げられることであり、はるか昔に予め定められた神の計画である。大きな赤い竜が住む地において神が偉大な働きを行ったことを考えれば、その働きをどこか別の地で行えば、とうの昔にすばらしい実を結んでおり、容易に人に受け入れられていただろう。また、神を信じる西洋の聖職者たちにとっては、そのような働きを受け入れることはいとも簡単なことだろう。それはイエスによる働きの段階が前例となっているからだ。だから、神は自らが栄光を得るこの段階の働きを別のどの場所でも達成し得ないのである。つまり、全ての人間から支持され、全ての国から認められているので、神の栄光が「留まる」ところがないのだ。そしてこれこそが、この地におけるこの段階の働きが持つ極めて重要な意義である。あなたがたの中には、法の保護を受けているものはひとりもおらず、むしろあなたがたは法によって罰せられている。さらに難しいことには、一人としてあなたがたを理解する者はいない。それが親戚であれ、両親であれ、友人や同僚であれ、誰もあなたがたを理解しないのだ。神があなたがたを「捨てる」なら、あなたがたが地上で生き続ける手段などない。しかしそれでも尚、人々は神から離れることに耐えられない。これこそ神が人々を征服することの意義であり、また神の栄光であるのだ。あなたがたが今日受け継いだものは、昔の使徒や預言者たちすべてのそれに優るものであり、モーセやペテロにさえ優るものである。祝福を一日や二日で受けることはできない。それは多くの犠牲を通して獲得されねばならない。つまり、精錬された愛や、大きな信仰、そして神があなたがたに到達することを求める多くの真理を持たなくてはならない。それに加えて、義に面と向かい、おびえたり屈服したりすることなく、神に対して変わることなく尽きない愛を抱いていなくてはならない。あなたがたの決意が求められ、あなたがたのいのちの性質を変えることが求められる。あなたがたの堕落を改め、神の采配を不平不満なくすべて受け入れ、死にいたるまで従順でなければならない。これが、あなたがたが達成しなければならない事である。これが神の働きの最終目的であり、この一群の人々に神が求めることである。神はあなたがたに施すと同時に、あなたがたが神に報いてその要求を満たすことを求める。つまり、神のすべての働きには理由があり、このことから、なぜ神が何度も高い基準の働きを為し、厳しい要求をするのかが分かるだろう。このような訳で、あなたがたは神への信仰で満たされていなくてはならないのである。要するに、あなたがたが神の嗣業を受け継ぐに相応しい者となるため、神はすべての働きをあなたがたのために行ったのだ。これは神自身の栄光のためというより、あなたがたの救いのため、そしてけがれた地でひどく苦しめられているこの一群の人々を完全にするためである。あなたがたは神の旨を理解しなければならない。だからこそわたしは見識や理知のない多くの愚かな人々にこう勧める。これ以上神を試みたり、抵抗したりしてはならない。神は人が経験したことのないようなすべての苦しみを耐え抜き、はるか昔に人間に代わってさらに多くの屈辱にも耐えた。あなたがたには他に何か手放せないものなどあるだろうか。神の旨以上に大切なものが何かあるだろうか。神の愛に優るものなどあるだろうか。このけがれた地において神がその働きを実行するにはすでに倍の困難を伴うが、もし人が承知の上で、意図的に背くのであれば、神の働きは長引かざるを得ないだろう。どのような場合にも、それは誰の得にも益にもならない。神は時間に制約されることはない。神の働きと栄光が優先される。それ故、どれだけ時間がかかろうとも、神自身の働きに関しては、いかなる犠牲をもいとわない。これが神の性質である。その働きが成し遂げられるまで神は休むことがない。神が二つ目の栄光を獲得する時初めて、その働きは終わりを迎えることができる。栄光を獲得する二つ目の働きを全宇宙において神が成就できなければ、神の日は永遠に来ることがなく、神の手を選民たちから離すこともできず、神の栄光がイスラエルにやって来ることもなく、神の計画が完結することも決してないであろう。あなたがたは神の旨を理解し、神の働きは、天地万物の創造のように簡単なものでないことを理解すべきである。なぜなら、今日の働きとは、堕落した者たちや極度に麻痺してしまった人たちを変え、創造されながらもサタンに働きかけられてしまった人たちを清めることであり、アダムとエバを創造することではなく、ましてや光を創ったり、あらゆる種類の植物や動物を創造したりすることでもない。神の働きは、今やサタンによって堕落させられたものを清めて取り戻し、神のものとし、神の栄光とするためのものである。そのような働きは、人間が想像する天地万物の創造のように簡単なものではなく、人間が想像するような、サタンを呪って底なしの穴へ送るようなものでもない。むしろそれは人間を変えるためのものであり、否定的なものを肯定的なものに変え、神に属さないものを神の所有物にすることである。これがこの段階の神の働きの秘められた意味である。あなたがたはそれに気づかなくてはならないし、物事を安易に考え過ぎてはならない。神の働きは、どんな通常の働きとも異なっている。そのすばらしさは人間の頭では測り知ることができず、その知恵は人間が獲得できるものではない。この段階の働きの最中、神は万物を創造しているのでも、それらを破壊しているのでもない。むしろ、神はすべての創造物を変え、サタンによってけがされたすべてのものを清めているのだ。それゆえ神は大規模な働きを始めるであろう。そして、これこそが神による働きの意義の全てである。これらの言葉から、あなたは、神の働きが簡単だと思うだろうか。

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人類経営の目的

2020-03-15 11:42:54 | 書籍

もしも人々が本当に完全に、神の人類経営(救い)の目的と共に、人間の正しい道を理解することができるなら、人々は個人の将来や終着点を宝として心に握りしめることはないだろう。もはや豚や犬よりも悪い両親に仕えたいとも願わないだろう。人の将来と終着点とは、まさにペテロの「親」と呼ばれるものの今日版なのではないのか。それはまさに人自身の肉と血だ。肉の将来である終着点は、神を生きていながらに見ることなのか、あるいは死後に魂が神に会うことなのか。肉は明日、患難の中にあるように巨大な炉の中で尽きるのか、あるいは燃え盛る火に入れられることになるのか。人の肉がはたして不幸や苦しみに耐えられるのかに関するこの類の問いが、今この流れの中にあって、脳があり正常な思考をしている人々が最も心配している問いなのではないのか(ここで、苦しみを耐えるとは祝福を受け取ることであり、苦しみとは、将来の試練は人の終着点にとって有益であるという意味である。不幸とは堅く立てないこと、ないし騙されることである。あるいは災害のさなか、不幸な状況に見舞われていのちを落とし、魂の適切な終着点がないという意味である)。人には健全な理性が備わっているが、おそらくその考えることは、彼らの理性に備わっているべきものと完全には調和していない。これは、人々がむしろ混乱していて、物事に盲目に従うからである。人々は自分がどのように成長すべきかを完全に把握しているべきであるし、特に患難の時に(つまり、炉による精錬の間)どう成長するべきなのか、そして火の試練の際、何を備えているべきか整理しておくべきである。豚や犬のような、そして蟻や虫よりも悪い両親(肉を意味する)に常に仕えることはやめなさい。それについて苦しみもだえ、一生懸命に考え、頭を悩ませる意味は何なのか。肉はあなたに属しておらず、神の手の中にある。神はあなたを支配しているだけでなく、サタンに命令をする方だ。(これが元々意味するのは、肉はサタンに属していたということである。サタンも神の手中にあるので、こういう表現しかできないのだ。そういう表現の方が説得力があるからである。つまり、そう表現することで、人が完全にサタンの支配下にあるのではなく、神の手の中にあることを示唆する。)あなたがたは肉の苦しみの中に生きてはいるが、肉はあなたがたに属しているのだろうか。それはあなたがたの制御下にあるのか。どうして肉について頭を悩ませる必要があるだろう。どうしてとうの昔に有罪とされ呪われ、汚れた霊によって汚された、あなたがたの堕落した肉のために執拗に神に嘆願する必要があるだろうか。どうしてサタンの仲間を心から離さずにいる必要があるのか。肉があなたがたの現実の将来や素晴らしい希望、そしてあなたがたのいのちの真の終着点を台無しにすることを心配しないのだろうか。

今日の道は歩むのに容易ではない。通るのが難しいとも言えるし、これまでの時代の中でもきわめて稀だと言える。しかし、人の肉だけでその人を滅ぼせるなどとは誰が考えただろう。今日の働きとは確かに、春の雨のごとく尊く、人に対する神の優しさのごとく価値あるものだ。しかし、もし人が今日の神の働きの目的を知らず、あるいは人間の本質を理解していないのなら、その尊さや価値の高さをどのように語ることができようか。肉は人間たち自身には属さないので、その終着点が実際にどこなのか、誰もはっきりと見ることはできない。しかしながら、あなたがたは創造主が、被造物である人類を元の地位へと戻し、創造の時からの元の姿へと回復させるのだということをよく知っておくべきだ。神は人に自身が吹き込んだ息を完全に取り戻し、人の骨も肉も取り戻して創造の主に返すのである。主は人類をすっかり変えて、再び新しくする。そして人から、元々人ではなく神の所有物であった遺産のすべてを取り戻す。神はもう二度とそれを人類には渡さない。その中の何も元々人類に属していたものはないのだから。主はそのすべてを取り戻す。──これは不当な強奪ではない。むしろ天と地を元の状態へと回復し、人を変え、新しくするためのものである。これは人々が想像するような、肉の刑罰の後にある取り戻しでは恐らくないものの、これが人にとっての理にかなった終着点である。神が欲しいのは、滅んだ後の肉の残骸ではなく、初めに神に属していた人の中にあった元来の要素だ。よって、神は人類を絶滅させたり、人の肉を根絶させたりはしない。人の肉は人に属する私有財産ではないからだ。むしろそれは、人類を経営する神の付属物だ。どうして神が、自身が「楽しむ」ために人の肉を絶滅させたりなどできようか。この時点で、あなたがたは本当に自分の、たった1セントの価値もないような肉のすべてを放棄しているのか。もしあなたがたが、終わりの日の働きの30%でも理解することができたなら(たった30%、つまり終わりの日に神が行われる言葉の働きを理解することと、今日の聖霊の働きを理解することだ)、あなたがたは今日しているように、もう何年も腐敗状態の自分の肉に「仕え」、「孝行」し続けることはないだろう。あなたがたは人類が今、かつてないほどの状態に進歩し、これからは歴史の車輪のように前進し続けることはもうないのだということを完全に理解するべきである。あなたがたのカビ臭い肉にはもう長いことハエがたかっているのに、それでどうやって、神が今日まで継続を可能にしてきた歴史の車輪を逆回転させられるというのか。それでどうやって、沈黙しているような終末期の時計の針を再び動かし、時を刻むようにできるというのか。そんなものでどうして深い霧に覆われたような世界を変えられるというのか。あなたがたの肉は山や川をよみがえらせることができるのか。あなたがたのほとんど機能をもたないその肉は、本当にあなたがたが憧れてきたような人類の世界を回復させられるのか。あなたがたは本当に、子孫が「人間」になれるように教育できるのか。さあ、わかっただろうか。あなたがたの肉は厳密に何に属しているのか。人に働き、完全な者とし、そして変えるにあたって、神の元々の意図とはあなたがたに美しい故国を与えることや、人の肉に安息をもたらすことではなかった。そうではなく、それは神の栄光と神の証しとのためであり、人が将来をより楽しむことができるため、そしてすぐに安息を喜べるようになるためであった。それでもなお、それはあなたがたの肉のためではない。人は神の経営の資産であり、人の肉は単なる付属物にすぎない。(人は霊と体の両方をもった物質であるが、肉は腐敗する部品にすぎない。これは、肉が経営計画の一道具であることを意味する。)あなたがたは、神が人を完全な者とし、完成させ、そして獲得することは、人の肉への剣と強打以外はもたらさなかったこと、終わりのない苦しみ、燃える火、無情な裁き、刑罰、呪い、そして果てしない試練をもたらしてきたことを知るべきだ。これが内幕であり、人類経営の働きの真実である。しかし、これらすべての目的は人の肉に対するもので、敵意の槍の穂先はすべて、無慈悲に人の肉に向けられている(人は、元々は潔白だからだ)。そのすべては神の栄光と証し、そして神の経営のためである。これは、神の働きがただ人類のためだけではなく、計画全体と、神が人類を創った時の元々の意志の実現のためだからである。よって人々が経験することのおそらく90%は苦しみと火の試練なのだが、人の肉が憧れてきた甘く幸せな日々は非常に少ないかあるいはまったくなく、ましてや神と美しい時を過ごすという幸せな瞬間を、肉において楽しめることなどない。肉は汚れているので、人の肉が見たり味わったりすることは、人が喜ばない神の刑罰以外の何者でもなく、まるで正常な理性を失っているかのようだ。これは神が、人の好まない自身の義なる性質を現すからであり、人の罪を大目に見ないからであり、そして敵をひどく嫌悪するからである。神は率直に、あらゆる方法を通して自身の性質をみな明らかにし、それによってサタンとの6千年の戦い、すなわちすべての人類の救いの働きと古きサタンの破壊を完結するのだ。

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終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる

2020-03-12 11:01:09 | 書籍

いのちの道は、誰でも持てるものではなく、誰にでも簡単に得られるものでもない。なぜなら、いのちは神のみに由来しているからだ。それはすなわち、神自身のみがいのちの本質を持っており、神自身なくしていのちの道は存在せず、神のみが、いのちと永遠に流れつづけるいのちの生ける泉の源であることを意味する。神が世界を創造したとき以来、神はいのちの活力に関わる多くの働きをし、人にいのちを与える多くの働きをし、人がいのちを得られるよう多大な代償を払ってきた。神自身が永遠のいのちで、神自身が、人が復活できる道だからである。神が人の心に不在であることはなく、常に人の中に生きている。神は人の生活の原動力であり、人の存在の基盤であり、誕生後の人の存在にとっての豊かな鉱物である。神は人を生まれ変わらせ、人が自分の持つあらゆる役割においてしっかりと生きられるようにする。神の力と、神の消えることのないいのちの力のおかげで、人は何世代も生きてきた。その間ずっと、神のいのちの力は人の存在の支えであり、神は普通の人間が誰も払ったことのないような代償を払ってきた。神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。そしていかなる力をも超越する。神のいのちは永遠であり、神の力は非凡であり、神のいのちの力はいかなる被造物や敵の力によっても簡単に圧倒されない。神のいのちの力は存在し、時と場所にかかわらず明るい輝きを放つ。天地は激変するかもしれないが、神のいのちは永遠に不変である。万物は過ぎ去るが、神のいのちは依然としてそこにある。それは、神が万物の存在の源であり、それらの存在の根幹だからだ。人のいのちは神に由来し、天の存在は神に拠り、地の生存は神のいのちの力から生じる。活力を有するいかなる物体も神の主権を越えることはできず、いのちの力を有する何物も神の権威の及ぶ範囲から逃れ出ることはできない。このようにして、誰もが神の支配下に服従し、神の命令の下で生きねばならず、誰も神の支配から逃れられない。

もしかしたら今、あなたはいのちを受け取りたいと望んでいたり、真理を得たいと望んでいたりするかもしれない。いずれの場合にも、あなたは神を見つけだし、あなたが頼れてあなたに永遠のいのちを与える神を見つけたいということだ。永遠のいのちを得たいと望むなら、あなたはまず永遠のいのちの源を理解せねばならず、神がどこにいるのかを知らねばならない。わたしは、神のみが永久不変のいのちで、神のみがいのちの道を持っていると既に言った。神のいのちは永久不変なので、それは永遠のいのちである。神のみがいのちの道なので、神自身が永遠のいのちの道である。それだから、あなたはまず神がどこにいるのか、そして永遠のいのちの道を得るにはどうしたらよいかを理解しなければならない。では、この二つの点について、それぞれ話そう。

あなたが本当に永遠のいのちの道を得たいと望み、飽くことなく探し続けているなら、まずこの質問に答えてほしい。今日、神はどこにいるのか?おそらくあなたは、神は天にいると答えるだろう。もちろん、あなたの家に住みはしないだろう。あなたは、神は明らかに万物の中にいると言うかもしれない。もしくは、神は各々の心の中に住んでいると言うかもしれないし、神は霊的世界にいると言うかもしれない。これらのどれも否定はしないが、問題を明確にしなければならない。神が人の心の中に住んでいるというのは全く正しいわけではないが、かと言って全く間違っているわけでもない。すなわち、神を信ずる者の中には、その信仰が本物である者と偽物である者、また神が認める者と認めない者、神を喜ばせる者と神が嫌う者、そして神が完全にする者と神が排除する者がいるからだ。だから神は一握りの人の心にのみ住んでいるとわたしは言う。この人たちは疑いなく真に神を信じ、神に認められ、神を喜ばせ、神はこの人たちを完全にする。神はこのような人たちを導く。彼らは神に導かれていて、既に神の永遠のいのちの道を見聞きしている。神への信仰が偽物であり、神に認められず、神に嫌われ、排除される者たち――彼らは神に拒絶され、いのちの道を得られず、神がどこにいるのかに関しては無知なままでいるしかない。対照的に、心に神が住んでいる者は、神がどこにいるかを知っている。彼らは、神が永遠のいのちの道を与える者たちで、神に従う者たちだ。あなたは今、神がどこにいるかを知っているか。神は、人の心の中と、人の傍の両方にいる。神は霊的世界にいて、全てのものの上にいるだけでなく、人が存在する地上に、それ以上にいる。だから、終わりの日の到来により、神の働きの段階は新たな領域へとすすんだ。神は万物に対して支配権を持っており、人の心に根幹として存在し、さらに神は人の間に存在している。このようにしてのみ、神はいのちの道を人類にもたらすことができ、人をいのちの道へと導く。人がいのちの道を得ることができ、生存できるように、神は地上に来て、人の間に住む。同時に、人の間での自分の計画に沿うように、神は万物を支配する。だから、あなたが神は天と人の心にいるという教義のみを認め、人の間での神の存在の真理を認めないのなら、あなたは決していのちを得ることはないし、真理の道を得ることもない。

神自身がいのちであり、真理であり、神のいのちと真理は共存している。真理を得られない者がいのちを得ることは決してない。真理による導き、支え、施しがなければ、あなたは文字と教義、そしてさらには死しか得られない。神のいのちは常に存在し、神の真理といのちは共存する。真理の源を見つけることができないなら、いのちの栄養は得られないだろう。いのちの施しを得られないなら、もちろん真理は全く得られないので、想像と観念以外には、あなたの肉全体はただの肉、臭い肉でしかない。活字による言葉はいのちとはみなされず、歴史の記録は真理として敬われることはなく、過去の教義は神が現在話している言葉の記録とはみなされない。神が地上に来て人の間に生きているときに告げたものだけが真理であり、いのちであり、神の心であり、神が現在働くやり方である。昔神が語った言葉の記録を現代に適用しようとするのなら、あなたは考古学者であり、あなたにぴったりの表現は歴史的遺産の専門家ということになる。なぜなら、あなたは常に神が過ぎ去った時にした働きの痕跡を信じており、神が以前人の間で働いた時に残した神の影しか信じておらず、神が昔自分を信じる者に与えた道しか信じていないからである。あなたは、神の今日の働きの方向を信じておらず、今ある神の栄光に満ちた顔を信じておらず、現在神が表している真理の道を信じていない。それゆえに、あなたは間違いなく完全に現実から遊離した空想家である。もし今、あなたがなお人にいのちをもたらすことのできない言葉に固執するなら、あなたは望みのない一片の枯れ木[a]だ。あなたは保守的すぎで、あまりに強情で、理性がなさすぎるからだ。

神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体でもある。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。遅かれ早かれ、キリストになりすましている者たちはみな倒れる。彼らはキリストと自称しながら、キリストの本質は全く持っていないからだ。だから、キリストの真偽は人が定めることのできるものではなく、神自身が答え定めるものだとわたしは言うのだ。このようにして、あなたが真にいのちの道を求めるなら、あなたはまず、神は地上に来ることで人にいのちの道を与えるということを認め、そして神が人にいのちの道を与えるために地上に来るのは終わりの日なのだと認めなくてはならない。これは過去のことではない。今起こっていることなのだ。

終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。この真理を通して人はいのちを得ることができ、この真理を通してのみ、人が神を知り神に良しと認めてもらうことができる。あなたが終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないのなら、あなたは決してイエスに良しと認めてもらうことはできず、天の国の門をくぐる資格を得ることはない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり歴史に囚われた人だからだ。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることはなく、永遠のいのちの道を得ることはない。なぜなら、彼らが持っているのは、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も執着してきた汚水でしかないからだ。いのちの水を与えられない者は永遠に死体であり、サタンのおもちゃであり、地獄の子である。そのような者がどうして神に会うことができようか。あなたが過去にしがみつき、足踏みをしながら現状維持しようとし、現状を変え歴史を棄てようとしないなら、あなたは神に常に反することになるのではないか。神の働きの歩みは、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚に固執して何もしないまま、座して自滅を待っている。このままで、あなたが小羊の足跡に従う者だと見なされることはあろうか。あなたが神として固執するものが、常にあたらしく古びない神だと言えようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きの歩みをたどれるよう導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。あなたの手につかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む言葉は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人の人生を知るうえで助けとなる知恵の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするように導いてくれる道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないだろうか。そこに含まれる奥義を理解させてはくれないだろうか。あなたは、自分で自分を天国に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天国に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたは未だに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよと。そして誰が今働いているのかを見よと。誰が今、終わりの日に人を救う働きをしているのかを見よと。そうしなければ、あなたは決して真理を得ることはなく、決していのちを得ることもない。

キリストが語る真理に依り頼むことなくいのちを得ることを望む者は、地上で最も愚か者であり、キリストがもたらすいのちの道を受け入れない者は幻想の世界で迷子になった者だ。だから、終わりの日のキリストを受け入れない者は神から永遠に嫌われるとわたしは言う。キリストは、終わりの日に神の国への門となる存在であり、誰も迂回することはできない。キリストを通してでなければ、誰も神に完全にしてもらうことはできない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を受け入れ、神の道に従わなければならない。真理を受け取ることも、いのちの供給を受け入れることもなく、祝福だけを得ようと考えてはならない。キリストは、彼を真に信じる者にいのちを与えるために終わりの日にくる。その働きは、古い時代を終わらせ新しい時代に入るためのもので、新しい時代に入る人が必ず進まなければならない道だ。あなたが彼を認めず、彼を非難したり、冒涜したり、さらに迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない。このキリストこそ、聖霊の現れであり、神の顕現であり、神が地上での業を託した者だからだ。だから、あなたが終わりの日のキリストがする全てのことを受け入れられないなら、あなたは聖霊を冒涜しているとわたしは言うのだ。聖霊を冒涜する者が受けなければならない報いは、誰の目にも明らかだ。そして、あなたが終わりの日のキリストに敵対し、拒むなら、誰もその結末をあなたに代わって引き受けることはできないともわたしは言おう。さらに、これから先、あなたが神に認めてもらう機会はない。たとえあなたが自らの罪を償おうとしても、あなたが神の顔を拝することは二度とない。なぜなら、あなたが敵対したのは人ではなく、あなたが拒んだのは卑小な存在ではなく、他でもないキリストだからだ。あなたはこの結末に気づいているのか。あなたが犯したのは小さな過ちではなく、重罪だ。だから、全ての人に忠告する。真理の前に牙をむき出したり、軽率に批判したりすることのないように。あなたにいのちを与えるのは真理以外にはなく、あなたを生まれ変わらせ、神の顔を仰ぐことができるようにしてくれるものは、真理以外にはないからだ。