全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

キリスト教映画「変えられる瞬間」抜粋シーン(1)携挙される賢い乙女たちの歩む道

2019-11-05 12:00:00 | 全能神の裁きを経験する証し

キリスト教映画「変えられる瞬間」抜粋シーン(1)携挙される賢い乙女たちの歩む道
主により神の国に招き入れられることについて、「終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。」(コリント人への第一の手紙 15:52)というパウロの言葉にしたがう信者たちもいます。 彼らは、罪深い性質を捨てることなく今なお絶えず罪を犯し続けていますが、主が来られた時には、主が人々の姿を一瞬にして変え神の国に招き入れて下さると信じているのです。一方である信者たちは、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」「…わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない」(レビ記 11:45)という神の御言葉に従っています。 彼らは、今なお絶えず罪を犯す人々は聖者の域にはほど遠く、神の国に招かれる資格は絶対にないと信じています。このようにして、白熱したな議論が展開されました…. 神の国に招かれる資格があるのはどのような人たちなのでしょうか?どうぞこの短編作品をご覧ください。

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

 

聖書に関する映画「神様の名前は変わった?!」抜粋シーン(2)神の名は本当に変わることはないでしょうか?

2019-08-11 10:00:00 | 全能神の裁きを経験する証し

聖書に関する映画「神様の名前は変わった?!」抜粋シーン(2)神の名は本当に変わることはないでしょうか?
宗教界の牧師や長老たちは、主イエスの御名は決して変わることがなく、主イエスの御名に拠り頼むことによってのみ、私たちは救われるのだと、常日頃信者に説いて教えます。このような見解は真理に適っているでしょうか?ヤ-ウェ神は言われました。「わたしより前に造られた神はなく、わたしより後にもない。ただわたしのみヤーウェである。わたしのほかに救う者はいない。」(イザヤ書43:10-11)恵みの時代において、受肉の神はイエスという名をとられました。神は変わることのないお方です。それでは何故、神の名が変わるというようなことが起こり得るのでしょう?さらに、ヨハネの黙示録では、神は終わりの日に新たな名を得るということが預言されていますが、これは一体どういうことなのでしょうか?多くの人々がこの問題について困惑していますが、このビデオがあなたに真理を明らかにします。

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


なぜキリスト教徒は命懸けで福音を宣べ伝え、神への証を立てるのか

2019-06-14 23:25:02 | 全能神の裁きを経験する証し

侯項科(局長):中国共産党が支配する国で神を信じ、福音を伝えるなど絶対に不可能なのだ。神を信じ、福音を伝えることにこだわる者は、誰であろうと殺される。どれだけ多くのクリスチャンが刑務所で酷い死に方をしたか知っているか?どれだけ多くのクリスチャンが殺され、その遺族らがどんなに悲惨な目にあったか知っているのか?共産党の権力に逆らえる者などいないのだ。神を信じ、福音を伝えることにこだわれば、投獄と死が待っている!よく理解できたかな?

馬金龍(国家公安部隊大隊長):お前ら全能神教会は、中央司令部の心労のもとなのだ。共産党はお前らを最大の敵と見なしている。撲滅されるまで攻撃の手を休めることはない。共産党が、全能神教会を弾圧し、禁止するのに、どれだけの金と労力をかけてきたか知っているか?かけすぎるほどだ!これがどういうことか分からんのか?お前らはいまだに福音を広め、神のために証をし、全能の言葉を至るところに広めているが、まるで自分の胸を銃口に突きつけるようなものだ。馬鹿じゃないのか?お前のような奴は、こうするしかない!家で静かにしておけば、誰もお前になんか構いやしない。

なぜキリスト教徒は命懸けで福音を宣べ伝え、神への証を立てるのか

 

韓露(クリスチャン):共産党はこれまでずっと、神を信じる人らを敵視してきました。私たちを根絶やしにしたくてしょうがないのでしょうが、人類を救う神の御業さえも禁じることができるとお思いですか?主イエスが贖いの働きを行いに来られたとき、権力と共謀した教団によって十字架に釘付けにされましたね。彼らは成功したと思いました。主イエスの贖いの働きは確かに失敗したんだと。しかしその期待を裏切るように、主イエスが十字架の上で「すべてが終った」と言われたとき、神様の贖いの働きは、主イエスの磔によって成就したのです。これはどういう意味かというと、神様の知恵はサタンの狡猾さの上に立ているのです。主イエスの贖いの福音は地上にあまねく広められました。これは受け入れられている事実です。ここ数年、中国共産党は全能神教会を必死に弾圧、迫害してきました。取締りが終るまで撤収はしない、とまで言いました。しかし結果はどうなっているでしょう?全能神教会は潰されるどころか、ますます勢いを増しています。なぜか分かりますか?神様の権威です。これが神様の力なんです!どんな国や勢力も、神様が成し遂げようとされることを遮るなんて不可能なのです。なぜ私たちは断固たる決心で神様を信じ、福音を広め、証をするか。ご存知ですか?この時代はもう終りに近づいていて、もうすぐ大災難が起こります。終わりの日の全能神の御業を受け入れ、清められた者だけが、難を逃れ、神様の救いを受け取ることができるのです。どうしてこのような福音を伝えられずにいられましょうか?もし私たちが伝えなければ、多くの人々が神様に戻れなくなり、大災難で滅びてしまいます。たくさんの魂が地獄で罰を受けることになるのです。それなのに、私たちだけ安穏と暮らしていられますか?中国共産党政府に捕まり、迫害されるのを恐れるがゆえの恥を知りながらも生きていけるでしょうか?もしそうなら私たちの良心が許しません。だからこそ、多くのクリスチャンは投獄や死をも恐れず福音を広げ、神さまの証をするのです。なんという精神でしょう?理解できますか?にも拘らずあなた方は、神様を信じる者を国の第一級犯罪者のように扱うなんて、私にはまったく理解できません。それが国家権力の安定化にどう効果的なんでしょう?歴史を通じて、神様を拒んで神様に逆らった国や民族はみな神様に破壊されました。これは真実です。まさに全能神が言われる通りです。「…いかなる国家も勢力も神が果たそうと願うものの前に立ちはだかることはできないと信じている。神の働きを妨害し、神の言葉に抵抗し、神の計画をかき乱し、阻害する者たちは最終的には神に罰せられる。」(『言葉は肉において現れる』より)神様の義なる性質は犯すことができません。神様を拒む者は皆、神様の罰を受けなくてはなりません。


クリスマスの意味を考える:あなたは本当に主イエス様を礼拝しているか

2019-06-11 20:26:02 | 全能神の裁きを経験する証し

毎年クリスマスが近くと、街では様々なクリスマスプレゼント用の商品が店先に並び、サンタクロースやクリスマスツリーが飾られます。木々や建物にはカラフルなイルミネーションが光り、街中がランタンや装飾で華やかに飾られ、誰もがクリスマスを楽しみにしてわくわくします。キリスト教にとってクリスマスは特別な休暇です。クリスマスの数ヶ月前から、あちこちの教会はクリスマスの準備に追われます。クリスマス当時、教会には人が溢れ、兄弟姉妹たちはみなお祝いし、クリスマスの料理を食べ、プログラムに参加したり、主イエス様を礼拝したりします。みんなの笑顔がはじけます。けれどそのように集まって主イエス様の誕生をお祝いする時、私たちはクリスマスの意味を理解しているでしょうか。おそらく兄弟姉妹は「主イエス様は私たち人間を贖うために十字架にかけられました。だから、主イエス様の誕生をお祝いするために、クリスチャンがクリスマスを制定したいのです。主イエス様がお生まれになった日は明確に聖書に記載がありませんが、イエス・キリストの福音が広まるにつれて、クリスマスは徐々に世界的な祝日として浸透していったのです。」と言うでしょう。そのことは皆知っているでしょう。けれども主イエス様の誕生に隠されている神様の愛と神様の御心を知っているでしょうか。主の御心に沿うクリスマスの理解とは、どのようなものでしょうか。

クリスマスの意味を考える:あなたは本当に主イエス様を礼拝しているか

 

神の愛と人類の救いのために主イエス様はお生まれになった

初めに、ヤーウェは霊として人の間で働かれ、モーセを通してご自身の律法と命令を定め、人が地上でどう生きるべきかを導かれました。何が善で何か悪か、どう神様を礼拝すべきかなどを教えられました。けれども律法の時代が終わる頃、人間は益々サタンに堕落させられ、律法を守ることができず、自らの罪を贖ういけにえは、もはや尽きてしまったのです。律法により、いつ罪に定められ死刑に処せられるか分からない危険にさらされました。神は自らの手で作られた人間がそのように破壊されるのは見るに耐えなかったので。人間が生き続けることができるようにと、神様は天国から降ってこられ、主イエスキリストとして受肉され、地上に現れて働きをされ、「悔い改めよ、天国は近づいた」。(マタイによる福音書 4:17)の道を現わされました。そして人々に寛容で忍耐深くあるように、敵を愛するように教えられ、7を70倍するまで赦すように教えられました。主イエス様は病人を癒やされ、悪霊を追い出し、多くのしるしや不思議な業を行い、最終的に十字架にかけられて人類を罪から贖われたのです。私たちが主イエス様を救い主として受け入れて心から主に祈り、罪を告白して悔い改めるなら、私たちの罪は赦され、平安と喜びを享受できます。それは主による喜びと豊かな恵みなのです。主イエス様が生まれて神様が直接受肉されて贖いの業をなされたからこそ、人類は罪の宣告を逃れることができ、律法の足かせを外すことができたと言えるのです。それによって、人間は罪に定められることも死の宣告を受けることもなくなったのです。主イエス様が生まれてくださったから、主に従うものは本当の平和と喜びを享受することができるのです。それ以上に、主イエス様が生まれてくださり、神様の霊が通常の体となられて私たちと同じ言葉を語られたので、主の言葉から人に対する神様の御心と要求をより明確に理解することができ、私たちは更に新しい、より霊的に成長してた実践をすることができ、神様とより近い関係になれるのです。主イエス様が地上に来られて真理を現わし、贖いの業を完成されたことの背景にあるものは、人間を救おうとする神様のなみなみならぬ努力があったのです。それは、私たち堕落した人間に対する神様の愛と憐れみなのです。

神の愛と人類の救いのために主イエス様はお生まれになった

 

主イエス様の御心、そしてと私たちへに求められること

主イエス様が贖いの業を完成され、甦られて天に昇られたけれども、イエス様の誕生を記念して多くの人々はクリスマスになるとパーティーを開き、様々な行事で主イエス様の誕生をお祝いするのです。けれども、私たちはクリスマスの意味と、主イエス様の御心や私たちにイエス様が求めておられることを理解しているでしょうか。神様に満足していただき、称賛していただくには、私たちは何をすべきなのでしょうか。

主イエス様は言われました。「あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。…しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。」(ヨハネによる福音書 4:21、23)主イエス様の言葉から、イエス様は私たちが形にばかりこだわったり行事に参加したりするばかりでなく、霊と誠真をもって神様を礼拝することを望んでおられることが分かります。昔、パリサイ人や祭司長、律法学者たちは神殿での様々な儀式や規則ばかりにこだわっていました。彼らは毎日神様にいけにえを捧げましたが、神様の言葉を実践することはほとんどなく、ヤーウェの命令に従うこともなく、神様からの命令を捨てて人間的な伝統にのみ従ったのです。そして最終的に、彼らは神様からの称賛を得なかったばかりか、主イエス様に嫌われ、呪われたのです。現代の教会が大がかりなクリスマスのお祝いをしても、それは一時のことに過ぎません。人々があつまって喜び、幸せを感じても、心から主を礼拝しているのではなく、クリスマスを機会として神様の御心を理解したり認識を得たりしているのではありません。そうであれば、主イエス様から認めていただくことはできないのです。事実、主イエス様が正式にその業を始められた時から贖いの業を完了された時までの間に、主イエス様は多くの真理を現わされ、多くの要求を提示されました。私たちがみな主の御言葉を実践することに重きをおいていつでもどこでも、どんなことがあっても、誰に対しても主の教えを実践することが、主の望まれることであり、御心なのです。これが私たちに対して主が求められることで、神様を信じる私たちが持つべき、実践の原則の最も基礎となるものなのです。主イエス様が次のように言われた通りです。「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。」(ヨハネによる福音書 8:31)「あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」(ヨハネによる福音書 15:14)このように、私たちの生活や周りの人々に対する接し方において、主の御言葉に則して実践することが極め重要であることが分かります。というのは、それは心から神様を信じて礼拝する者がまず達成しなければならないことだからです。

神の御心旨に沿い、神の称賛を得るにはどうしたらよいか

 

私たちは真に主を礼拝しているか

多くの兄弟姉妹たちが、クリスマスには教会に集い、主イエス様の誕生をお祝いし、祈り、聖書を読み、讃美します。けれどもクリスマス以外の時となると、私たちは自分たちは日々の仕事や多くの人々とのやりとりに明け暮れます。主の前に静まって祈り、主の御言葉を読んでその御心を求めることは滅多にありません。集会に頻繁に出席する兄弟姉妹はいますが、主の言葉を実生活で実践することはほとんどなく、相変わらず罪の生活を送り、罪はどんどん深まっていくのです。例えば、主イエス様は私たちが謙虚で穏やかでいることを求めますが、同僚や教会の兄弟姉妹たちと一緒に働きをする時には、私たちは自分の傲慢な性質に支配され、自分の見方や考えは完璧だとして自分を守り、周りの人達と穏やかに進めることができません。主イエス様は、私たちが周りの人々に対して赦すことを学び、自分を愛するように他の人をも愛すことを求めておられます。けれども周りの人々があなた利益を侵害するようなことがあれば、不当に扱われたと感じてサタンの毒の性質による生き方になってしまい、人を裁いたり非難したりしてしまいます。主イエス様は、私たちが世の人々から自分を切り離すことを求めておられますが、私たちはこの世の名誉、地位、肉体の楽しみを追い、この世の悪に倣い、罪の中に生きて主から益々離れていくのです。これは私たちが主の要求に沿うことのできない僅かな例にすぎません。私たちは宗教儀式に重きをおき、主の救いに感謝することや特別な祝日に主を讃美することに重点をおきますが、主の道に従わずに罪の生活をしがちです。主イエス様を礼拝するとはこのようなことでしょうか。イエス様は本当にそのような私たちを称賛してくださるでしょうか。子育てする親を例にとってみます。もし子供に分別があって親思いであれば、親が何を喜んで何を喜ばないかをわきまえ、両親に対して何かをする時には、親が喜ぶものが分かるのです。けれども、両親の誕生日には大げさなお祝いをして「パパ、ママ、愛してるよ」と言うだけで、本当に助けが必要な時には自分達のことで手一杯で親にすべきことができないのであれば、本当に親孝行だと言えるでしょうか。

神の御心旨に沿い、神の称賛を得るにはどうしたらよいか

もし私たちが真に神様を礼拝し、神の称賛を得ようと思うならば、神様の御言葉に沿って実践し、神様をあがめる心を持ち、すべての事において主の道に従うことに重点を置き、主の言葉を第1とし、私たちの生き方が神様に対する証しとなるようにし、神様に栄光を帰すようにすることが重要です。もちろん、兄弟姉妹の一部の人達は、クリスマスに集って賛美歌を歌い主を讃美し、主の言葉を人生でどう経験してどう実践したかを分かち合い、霊的な生活でどう問題解決するかを互いに支え合い助け合い、神様に更に近づこうとします。これも神様の御心に沿っています。そしてクリスマスが近づくと、西欧諸国では迫害されているクリスチャンやホームレスの人達への慈善運動もされます。そのような場で、ホームレスの人達が集まって保護施設を探したり、迫害されているクリスチャンが世界のあちこちから集まって互いに経験を語り合ったり、厳しい寒さの中でも神様の暖かさを感じることができたりします。このような事も神様は覚えてくださいます。要するに、クリスマス休暇自体が重要なのでも、行事自体が重要なのでもないのです。重要なのは、主イエス様の御言葉であり、主が私たちに求められていることなのです。神様を畏れる心を持ち、すべてのことにおいて主の御心を求め、主の御言葉を実践して主の要求に応えることで満足していただく—これが最も重要なことなのです。このように実践して初めて、私たちは真に主イエス様を礼拝し、主イエス様から称賛していただけるのです。

神様の啓きと導きを感謝します。神様が私たち一人ひとりと共にいてくださいますように。

 

人との繋がりを主の意図に沿ったものにする方法—4つのヒント

2019-06-10 20:01:14 | 全能神の裁きを経験する証し

対人関係の問題は多くの人々にとって頭痛の種となります。そして対人関係は、クリスチャンが人生を通じてしばしば直面する問題でもあります。主イエスは、私たちが互いに調和し、自分と同じように他の人を愛することを求めておられます。そして多くのクリスチャンが、その主の教えを実践しようとします。けれども現実的には、私たちの人間関係には多くのぶつかり合いや誤解が生まれ、互いの関係がぎこちなくなり、崩れてしまいます。これは誰にとっても辛いことです。では、互いに調和できない原因は何でしょうか。主の意図に沿った人間関係を、私たちクリスチャンはどう築けば良いでしょうか。これは私自身もこれまで困難を覚えてきた問題です。私を神様が導いて下さったことに感謝します。その後、私はある本の中に解決を見出すことができました。その経験と私が理解したことをここでご紹介します。

クリスチャン生活 人間 関係人との繋がりを主の意図に沿ったものにする方法—4つのヒント

 

1.誰に対しても公平・公正でなくてはならない。感情や好みで対応してはならない。

イエスは言われました:「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイによる福音書 5:46-48)この主の言葉から、クリスチャンは人生において、神様の言葉に沿った接し方をするよう求めておられます。自らの感情により、好んでそうしなければなりません。 私たちがどう周囲の人たちと接するかを考えてみると、自分たちに利益になったり助けになったりする場合は、相手に対して嬉しかったり感謝したりします。ところが、相手に傷つけられた場合、不愉快になってその後無視したりします。自分が好む相手であれば、その人に近づき、誘い込んだりします。好まない相手であれば、無視して近づきません。相手が高い地位にある人であれば、こびへつらい、ご機嫌を取ろうとします。地位も権力もない相手であれば、拒んで軽んじます。自分が好感を抱いている相手が自分の欠点を指摘した場合は受け入れることができます。けれども、そうでない相手が同様のことをしたならば、受け入れることができず、自分を義とし、言われたことに憤慨さえして相手に敵対し、攻撃したりします。これらはどれも、自分の感情や好みで接しており、公平に接していないことの例です。これはまた、未信者の接し方でもあります。クリスチャンがこのように接したならば、未信者と同じ道を歩んでいるのであり、主を信じる者と言われる価値はなく、そのような者は神様の意図に沿った行動ではありません。主を信じる者として、私たちは主の教えを実践しなくてはなりません。自分を愛するように、他の人たちも愛さなくてはなりません。優れた人間性を持ち合わせていれば、神様を純粋に信じ、真理を愛し、自分の好みに合うかどうか、気性、性格に合うかどうか、普通の兄弟姉妹か教会のリーダーであるかどうかに関係なく、心から、分け隔てなく接するべきです。相手に寛容と愛を示すべきです。欺いたり差別したりしてはなりません。このようなことを守って初めて、神様の意図と一致するのです。

2.相手の欠点を正しく指摘し、腐敗した部分を明らかにする。気まぐれに決めつけたり裁いたりしてはならない。

イエスは次のように言われました:「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」(マタイによる福音書 7:1-2)このイエスの教えにより、私たちはみなサタンに堕落させられた者だと理解することが出来ました。私たちの堕落した性質はみな同じなのです。周りの人々が傲慢さやうぬぼれ、利己主義や卑しむべきサタンの性質を現わしたならば、私たちも同様の性質を現わしかねないということです。私たちも周りの人たちと同じような欠点を持っているのです。周りの人たちより優れている訳ではないのです。もし欠点や腐敗によって相手を裁いたり決めつけたりするならば、私たちは真に傲慢で自分を知らなすぎるということなのです。ですから、周りの人たちがどのように堕落しているか、どのような罪を現わすかにかかわらず、私たちは正しい接し方をし、勝手に裁いたりその人をどのような人か決めつけたりしてはいけないのです。イエスが罪人に対してどのように接したか、聖書に書かれていることを思い出してみてください。「パリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、『先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか』。…イエスは言われた、『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』。」(ヨハネによる福音書 8:3-11参照)この句から、サタンによって堕落させられ、罪に生きる人々の痛みと無力さを、イエスが理解していたことが分かります。イエスは人間の弱さに哀れみを感じられたのです。私たちの堕落が露わになったり、罪を犯したりした時に心から悔い改めるなら、神様は悔い改めて私たちが変わる時間を下さいます。我達もイエスに倣い、他の人の欠点や堕落した部分を正しく示さなければなりません。進歩という観点から、他の人たちを見なければなりません。これは、クリスチャンがその人生の中で、他の人たちに接する際の原則でもあります。もし私たちが他の人に厳しい姿勢を取り、あれこれと細かいことにこだわり、勝手に裁いたりするのであれば、そして、相手がどのような人間かを決めつけて、欠点を見てどうしようもない人間だと結論付けるのであれば、それは傲慢とうぬぼれによる腐敗した性質によって接していることになります。あなたがそのような事をするのであれば、神様の意図に沿ってはおらず、周りの人たちと正常な関係を持つことはまず出来ません。

私の経験をいくつか紹介したいと思います。私たちの教会には、ご主人が未信者であるために集会に間に合うように来ることができない姉妹がいました。私はこの姉妹と何度も話しをしましたが、彼女は否定的な生き方をして信仰は弱いままでした。私はそのことに酷い怒りを感じ、彼女のことを、心から神様を信じることが出来ない人と決めつけました。もう彼女のことを助けることもサポートすることもしなくないと思いました。その後、聖書の中の次の言葉を読みました。「食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。」(ローマ人への手紙 14:3-4)私はとても恥ずかしくなりました。私は自分が打ちのめされ、否定的で霊的に弱っていた時のことを考えました。神様は兄弟姉妹の気持ちに触れて、彼らが何度も私のところへ来て神様の言葉を読むようにされました。彼らは私と交わり、自分たちの経験を分かち合い、そうすることで私を助け、支えようとしました。神様の言葉による導きがなければ、私は揺るぎなく立っていることはできなかったのです。私自身に自慢できるものなどなかったのです。そしてこの姉妹はその時、ご主人の妨害により、集会に来ることが出来ませんでした。その姉妹を、愛の心をもって私は助けなければならなかったにも関わらず、彼女の生活に配慮してあげることができませんでした。私は彼女を避け、純粋に神様を愛してはいないと決めつけたのです。自分自身を考えた時、私は自分が非常に傲慢だと感じました。この姉妹のことに、愛と寛容を持って対応していませんでした。私のしたことで神様の意図に沿ったものは何一つありませんでした。それに気づいた私は、神様の前に罪を悔い改めて言いました。「私は喜んでこの姉妹を助け、支えようと思います。その後私は、愛の心で神様の言葉をこの姉妹に伝え、自分の経験と理解したことを伝えました。何度か彼女と交わりを持つうちに、彼女はご主人からの束縛から解放され、徐々にその状態は改善されていきました。この経験から、兄弟姉妹がどのような欠点や弱さを持っていても、そしてどのような堕落を示しても、心から神様を信じ、過ちを犯した時に悔い改めるなら、神様は変わる機会を与えて下さることを学びました。ですから、私たちも愛をもって他の人々を助け、赦し、神様の要求に沿って一人ひとりに接しなければならないのです。決して気まぐれに人を決めつけたり裁いたりしてはいけないのです。これが、公平に、そして神様の意図に沿って人に接するということです。

3.他の人たちを過大評価しても、過小評価してもいけない。他の人たちの長所から学び、それによって自分の弱さを改善しなさい。

聖書は次のように言っています。「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。」(ピリピ人への手紙 2:3)神様は一人ひとりに違う力量、能力と長所を与えられました。それ故、他の兄弟姉妹に謙虚な心で接し、相手の長所も短所も、正しく見なければなりません。他の人を過大評価しても、過小評価してもいけません。他の人の長所を吸収し、自分の短所を補うべきです。もしも、自分の力や力量、能力が理由で他の人たちを見下し、どこまでも自分を過大評価し、その結果自己顕示したり、自慢したり、他人を裁いたり、軽んじて傷つけたりするならば、それは私たちの傲慢とうぬぼれで堕落した本性に支配されているということです。クリスチャンがそのように生きるべきではありません。例えば以前私は、一緒に働いている姉妹よりも自分の方が優れているといつも思っていました。そのために彼女を見下していました。私たちが一緒に働く時は、意識的であれ無意識であれ、私は自己顕示し、私の心はプライドに満ちていました。私の堕落した性質故に、神様が私を嫌うようになり、私から顔を隠すようになってしまったのです。私の魂は暗くなり、落ち込みました。私は働きの中で、自分では見つけることのできない明らかに問題といえることが多く発生するようになる一方で、その姉妹の働きは徐々に向上していきました。私はイエス様の次の言葉を思いました。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」(マタイによる福音書 23:12)この時私は、自分がそれほど傲慢であるかを知りました。私は自分が分かっていませんでした。私の働きがある程度の結果を生み出していたことも、私が問題を見つけることが出来たことも、聖霊の働きだったというのが事実です。それでも私は、神様の栄誉を自分のものとし、非常に自己満足し、自分に感心していました。兄弟姉妹を見下していました。私にはまったく分別がなかったというのが実際のところです。同時に、私は心の中の執着を捨てる必要があることを分かっていました。姉妹の長所から得るものを吸収し、自分の短所を補うようにすべきでした。それができて初めて、神様は喜ばれ、私のいのちも成長を続けるのです。私はそれを実践し始めました。理解できない問題がある時は、その姉妹に助言を求めました。私が問題に直面したならば、彼女と話し合いました。そうする中で、私は彼女が、私にはない多くの長所があることに気づきました。私はとても恥じ入りました。そしてまた、私の短所を補うように、神様がこの姉妹と共に働くようにされたのだと分かりました。私たちに神様が託された働きを、協力して行うことを神様は望まれているのです。徐々に、私と姉妹の関係は改善され、私は再び聖霊の働きを受けることができました。

4.自分の考えに合致しない考えを他の人たちが持っていると気づいた時には、その人のことを見てばかりいてはならない。むしろ自分を意識して真理を実践しなければならない。

イエスは言われました。「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」(マタイによる福音書 7:3-5)私たちが他の人達と接する時、摩擦や偏見は避けられません。そのような時、相手が間違えているとむやみに考えて、いつも相手が間違えていると決めつけてはいけません。むしろ神様の前に出て、神様の言葉の中に真理を求め、自分の問題はどこにあるのかを見つけることができるようにすべきです。神様の意図が理解でき、自らの堕落した性質を理解できたならば、相手の立場に立って物事を見ることができるようになります。私たちは他の人たちを理解できるようになり、共感できるようになり、忍耐深くなります。そうするとき、自然に相手に対する偏見が激減するのです。

この点に関して、私は意味深い経験をしました。一緒に働いたある姉妹が、教会の働きに対して、私が重荷を負っていないと何度も指摘したことを覚えています。けれども、私はそれを神様からのものと受け取ることができなかったばかりか、この姉妹が故意に私のあら探しをして私を生きづらくさせていると疑いました。私の中に彼女に対する偏見が膨らんでいき、もうこの姉妹と働きをしたくないと思うようになりました。私は神様の言葉を読み、神様の意図を探りました。そして、私は自分の傲慢でうぬぼれたサタンの性質に支配されており、この姉妹の助言を受け入れることができなくなっていたことを知りました。そして彼女に対して疑い深くさえなっていました。それが原因で、彼女との正常な関係が持てなくなっていたのです。同時に、日々私が出会う人々や出来事、物事はすべて神様によって指示され、定められていることを知りました。神様が、これらのことを事細かに用意され、それによって私を変え、救おうとされたのであって、その姉妹が意図的に私にたいして面倒を起こそうとしていたのではなかったのです。私は神様に従い、自分の心の中の執着を捨て、彼女の正しい助言を受け入れることを学ぶ必要がありました。その後、私は神様の前に出て、自分を省みました。姉妹の助言を通して、確かに自分が教会の働きの重荷を担っていないことに気づきました。私はリーダーが用意した働きをし、自分が更に良い働きをしようと考えたことはありませんでした。神様の意図が理解できてからは、神様の要求に従って物事を進めました。私は前向きに、そして束縛されずに自分の堕落をこの姉妹の前で明らかにし、神様に対してもっと多くの責任を与えて下さるよう願いさえしました。何かあれば、どうしたらもっと教会の益となることができるかを考えるようになりました。このように実践することで、この姉妹との間のかつての誤解は解けていきました。私たちは霊的に繋がり、かつての調和を取り戻すことができました。

実践に関する4つの原則は、私が自分の経験から学んだことです。私は、神様の言葉がクリスチャン生活の導きの光であることを真に経験しました。神様の言葉は私たちにとって羅針盤です。神様の言葉による導きがなければ、私たちは進む道はありません。私たちがすべきことは神様の教えを実践し、全ての人に対して公平であることです。そうして初めて、私たちは真の人間らしさを生きることができ、他の人達と強調することができ、他の人に益をもたらすことができ、神様に満足していただき、褒めていただくことができるのです。神様の導きに感謝します。全ての栄光は神様にあります!

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「一度救われればその救いはずっと続く」という定義に聖書的な根拠はあるか


 

夫に裏切られた彼女を、神は苦痛のもやから救われた

2019-06-09 23:01:58 | 全能神の裁きを経験する証し

光陰矢のごとしです。泓(ホン)児(アル)はあどけない少女から優美な若い女性に成長し、恋愛に興味が芽生え、やがて目覚めます。富や地位はどうでもよかったのです。彼女が求めていたのは、どんな嵐を乗り切るときも慈しみと愛があり、困ったときには助け合い、ともに歳を重ねていくような関係だけでした。時が来るのを彼女は静かに待っていました…

彼は突然泓(ホン)児(アル)の世界に現れました。彼女は彼の端正な顔立ちと澄み切った瞳に胸がときめき、彼もまた彼女に特別な感情を抱いたのでした。そのときから、彼女の穏やかで刺激のない日々は陽光で満ちあふれました。やがて二人の距離は縮まり、彼の優しさと思いやりは、泓(ホン)児(アル)にとって外見の良さよりもいっそう愛しいものでした。

 

「この人こそ人生を委ねて一緒に歳を重ねたいと思っていた人だわ」と彼女は確信します。また、彼も「一生幸せにするよ」と誓ってくれました。しかし、彼女の両親は彼の家庭が貧しいことに不満を漏らし、彼女に「別れてほしい」と言います。泓(ホン)児(アル)はそれをまったく意に介さずただひたすら「心から愛し合っているし、絶対に一生連れ添えるわ」という気持ちで、両親の反対もむなしく、二人で遠くに引っ越しました。

やがて子宝に恵まれ、愛らしくぽっちゃりした息子が不自由なく暮らせるように夫婦は疲れを覚えることなく働きました。泓(ホン)児(アル)にとって大変で疲れることでしたが、愛する人と協力して一生懸命働き、家庭を育むことはとても甘美な喜びでした。

彼女の誕生日には特別に、彼は半月分の給料をかけて、ラジオで彼女のために「風雨に耐えて」というラブソングをかけさせ、曲が始まるなり、泓児(ホンアル)は感極まって涙を流します。その曲の中に、1つになった2人の心の声が聞こえたのです。

末永く結ばれ、お互いを大切に思い、愛し合っている夫婦よりも尊いものなどあるでしょうか?彼女が求めていたのは莫大な富ではなく、このように仲のいい夫婦生活でした。円満な家庭があれば十分だったのです。

月日がたち、瞬く間に20年が過ぎました。一人息子はすっかり成長し、2人はかなりの規模の家業を始めるために二人三脚で一生懸命働きました。しかしある時点で、泓(ホン)児(アル)は夫の帰宅が次第に減り、「接待がある」という言い訳が増えたことに気づきました。かつて温かく幸せだった家庭がだんだん冷えていくようで、泓(ホン)児(アル)は気を揉んでいました。会社の建築を準備をしていたときは夫自ら対処しなければならないことがたくさんあり、当時は目が回る忙しさだったけど、いつもできる限り早く家に帰ってくれていた。今は会社の経営がどの面でも軌道に乗って、前ほど忙しくないはずなのに、どうして前よりも家に帰ってこなくなったのかしら」。

彼女は不安で落ち着きません。顧客の趣向は当然理解していました、「フットマッサージや、サウナ、カラオケ、ナイトクラブとか色んな娯楽のワンストップサービスが業界の暗黙のルールになっているし、色んな娯楽の場に行って一夜限りの関係を持ったり、浮気をしたりすることは男の人の間では流行っている。夫は来る日も来る日も客を接待し、このような誘惑だらけの娯楽施設に出入りしているということは、まさか…?いえ、そんなはずはないわ!」

この20年間、彼女と夫はどんな嵐も乗り越えて手に手を取って歩んできました。その間に起きたことはどんなにささいなでも夫婦の愛の証だったのです。これほどしっかりした愛の土台がどうしてちょっとした誘惑で崩れるのでしょう。「私たちの愛ならどのような試練も耐えられるはずよ」、泓(ホン)児(アル)は自分を慰めるためにそう考えましたが、現実と直面してみるとそれでも気が気ではありませんでした。

現実は、泓(ホン)児(アル)が「きっとそうよ」と思った通りにはなってくれなかったのです。夫は高額な使途不明金が続き、家に帰らないことがさらに頻繁になり、言い訳も非常にあいまいになります。こうしたことが重なって打撃を受けた彼女はますます不安で心が押しつぶされそうでした。

夫の普段と違う行動から、「多分浮気ね」と感じていましたが、その現実を受け入れて認めようとはしませんでした。「一生幸せにするよ」と誓い、20年間もともに嵐を乗り越えてきた夫が、突然自分を裏切るなど認める勇気がなかったのです。「死が二人を分かつまで」という誓いは気休めの嘘にすぎなかったのでしょうか。

現実が現実だけにこれ以上自分自身を偽ることができなくなった泓児(ホンアル)は夫を尾行し始めます。ある日、尾行するうちに高級住宅街にたどり着き、そこには彼が別の女性と建てた家があることを知りました。その女性が小さな子供を腕に抱いてあやしているのを見た瞬間、凄まじいショックを受け、自分の目を疑います。「夫が他の女性とホテルに出入りしたり、親密な関係ぐらいにはなったりしているかもね」という疑いは何度か抱きましたが、まさか別の家庭を築き、別の女性との間に子供をつくっているとは夢にも思いませんでした。その厳しい事実を前に、それまで彼女の中にあったわずかばかりの慰めも砕け散り、崩れ去りました。瞬く間に、2人の誓いも20数年にわたる支え合いも跡形もなくバラバラに崩れ落ちたのです。なんて薄情な人なのでしょうか。一生幸せにするという約束を忘れることなどできるのでしょうか「風雨に耐えて」の歌で表した気持ちを忘れてしまったのでしょうか。妻が夫のためにすべてを投げ出したたことも、夫婦で様々なことを乗り越えてきたことを忘れてしまったのでしょうか。どうして忘れることなどできるのか。どうして妻にそのような仕打ちをするのでしょう。20年間育んだ愛が、見知らぬ人の誘惑に負けるなどありえるでしょうか。

 

その瞬間、泓児(ホンアル)は怒りと悲しみに心をかき乱されて震え、不意に涙がこぼれました。そしてかすれた声で夫に「本気で私と息子を捨てて、この女を選ぶっていうの」と叫びます。

夫の顔に罪悪感が浮かび、「すまないことをした。家族は今でも大切だよ」と答えてくれることを彼女は期待しましたが、夫は涙を流して問いかける妻を前にしてもすっかり黙り込んでいました。夫の態度を見て、泓児(ホンアル)は打ちひしがれました。どうしてこれほど薄情に裏切ることができるのか、見当もつきません。心の中の憤りを抑えきれず、夫の顔を強く平手打ちしました。

泓(ホン)児(アル)はその場を去った記憶がありませんでした。すべてが吸い取られてしまったような感じです。黄昏が濃くなる中、海岸に立ちつくす彼女のそばに見られたのは、夕日とその色あせた残光だけでした。

苦痛の波が、絶え間なく心にこみ上げてきました。共に過ごした20年の場面が次々と目に浮かびます。彼のために家族の反対を押し切り、毅然として2人で遠くに移り住みました。ともに必死で働き、金に不自由することがあってもお互いの気持ちがそげるは少しもありませんでした。手に手を取って酸いも甘いも噛み分け、雨にも風にもめげずここまで来たのです。

暮らしが豊かになり、子供が成長したというのに、夫は幸せな家庭を捨てて別の女と巣を作るなどということができたのです。泓(ホン)児(アル)は夫の不貞を憎み、薄情さを憎みましたが、「せっかく一生懸命働いて築いた幸せな家庭が消えてしまうなんて」と思うととても諦めきれず、「取り戻すためにできることなら何でもするわ」と思います。どんな幸福も託していた夫であるだけに、戻ってきてくれさえすれば、過去の過ちは赦せたのです。

帰宅すると、泓(ホン)児(アル)は夫婦仲を救うための計画を立て始めますが、ある友人から、「男は生活のために仕事に行く所で、冷たい表情に嫌というほど出会う」ので、「家に帰ってくる旦那に必要なのは、家庭の温かさ」でそれさえあれば幸せを感じられるという助言を聞きました。また、「男の心をつかむには先ず胃袋から」だと友人は言います。

泓(ホン)児(アル)は、夫の好物がギョーザであると知っていたので、毎日手間暇かけて何種類ものギョーザを手作りし、さりげなく夫のことを調べる方法を色々考えました。息子を使って帰宅してもらう理由も思いつけるだけ思いつきましたが、どんなにうまいことを言ってもいつも気乗りしないようでした。泓(ホン)児(アル)は「私が年を取って見た目も悪くなったから気持ちが冷めたのかしら」と考え、若く見せることに多大な精力を費やすようになります。夫の心を取り戻すために様々な方法を考えましたが、すべて無駄でした。その時期は本当に大変で疲れ果て、ひどい無力感を覚えていました。

毎日、涙を流しながら顔を洗い、夜もよく眠れませんでした。壊れた家庭を修復しようとどれほど多くのことを試したかわかりません。万策が尽きた彼女にできたことは、夫が改心してくれるのを苦しみながら待つことだけでした。

泓(ホン)児(アル)はそのまま3年待ち、その長い日々の間幾度となく自問しました、「20数年もの愛情が、こんなにあっさりなくなってしまうなんて。こんなに苦労してるのにどうして幸せで完璧な家庭を取り戻せないの」

何度も問いましたが、答えは見つかりません。来る日も来る日も待ちましたが、何も変わりませんでした。それは間違いなく彼女たちの夫婦生活に対する「死刑宣告」でした。悲嘆にくれた泓児(ホンアル)には、そんなショックに耐える気力もありませんでした。もううんざりしており、前進する勇気も精力もなくなった彼女は40錠のジアゼパムを一気に飲みました…

翌日目が覚めると、病院にいました。息子と夫もいました。悔し涙がとめどなく流れ、心はボロボロで、泣きたいだけ泣きました。このような状況で家族が揃うとは何とも皮肉ですが、彼女にはどうしようもありません。空を見上げてため息をつきました、「夫婦がともに辛いことを乗り越えられるのに、豊かさに負けてしまう理由なんて誰にわかるかしら。20数年愛がこんなにもろいなんて。」

それから間もなく、息子の姑が神の終わりの日の福音を泓(ホン)児(アル)に伝え、「あなたを救い、苦しみを全部取ってくださるのは神だけよ」と言い添えました。これは、人が神によって創造されたためです。人類は、始めは神の配慮と保護のもとにとても幸せに暮らしましたが、サタンによって堕落させられたために神から離れてしまい、神の存在を否定し、サタンの害毒の中で暮らすようになったのです。人の不満と苦痛は大きくなるばかりです。神御自身が受肉されたのは、真理を表し人類を救い、サタンの手から奪い返すためなのです。

人は神の御前に立ち、神の御言葉を読み、そこから真理を理解することで初めて、社会にはびこる諸悪の根源を見抜き、サタンの害毒から離れて、神の配慮と保護のもとに暮らすことができます。息子の姑は神の御言葉の一節を読みました。「全能者は、深い悲しみの中にあるこのような人々に慈しみを抱く。同時に、神は何の自覚もしていないこのような人々にうんざりしている。なぜなら、神は人間から答えを得るのに、あまりにも長く待たねばならないからである。神は探したいと、あなたの心や霊を探したいと、願っている。神は、あなたに食べ物や水をもってきたい、あなたを目覚めさせたいと思っている――そうしてもはやあなたが渇きを感じないように、もはや空腹でなくなるように。あなたが疲れているとき、この世の荒廃を感じはじめるとき、途方に暮れてはならない、泣いてはならない。全能神という、見張る者はいつでも、あなたが来るのを抱擁して迎えるだろう。彼はあなたのそばで見守っている、あなたが引き返してくるのを待っている。あなたの記憶が突然回復する日を待っている――すなわち、あなたが神から来たという事実、ともかくもどこかで道を失った、道端で気を失った、それから知らずに一人の「父」ができたことが意識にのぼる日を。そして全能者がそこで待っていたということ、はじめからずっとあなたが返ってくることを待っていたということを、あなたが理解することを。全能者は苦しげに切望している、そして答えのない応答を待っている。」(『言葉は肉において現れる』の「全能者のため息」より)

今まで聞いたこともなかったこれらの言葉に耳を傾けた泓(ホン)児(アル)は大変心を打たれ、暖流が心の中で沸き上がって心身が温まるような気分でした。ここ数年、彼女には、心の深い悲しみを分かってくれる人も、苦しみの重荷をともに背負ってくれる人もいませんでした。また、理解して慰めることができる人もいなかったのです。寂しく眠れない夜を何度となく過ごし、明け方まで一人静かに涙を流していました。心の傷が影のように付きまとい、決して忘れることも、振り払うこともできず、「もうずっとこのまま孤独で辛い人生しかないのね」と思っていました。

しかしその日、その一節が心の扉を叩き、「私が辛くて苦しんで涙を流しているとき、神はそれを御存じでいつもそばにいて、私が気を持ち直すのを待ってくださっている」と悟ったのです。神の親心ある言葉を聞いて、泓児(ホンアル)は涙が止まらず、「神がそばにいてくださる。一人じゃないんだ」と感じました。

彼女はそれまで神について聞いたことはなく、何も知りませんでしたが、神はいつもそばで見守ってくださっていたのです。間一髪の時に彼女を救い、自殺を決意した彼女の生命を守られただけでなく、人生にすっかり絶望していた彼女に、息子の姑を通して神の声を聴かせてくださいました。

御自身の言葉を用いて泓児(ホンアル)の心を動かし、温もりを与え、希望をもたらし、絶望と苦痛の人生を好転させてくださったのです。その瞬間、泓児(ホンアル)は神の愛と救いを感じ、傷ついた心が癒されました。心の拠り所を得たのです。

その後、泓児(ホンアル)は全能神教会に通い、神の御言葉を読み、真理について交わり、兄弟姉妹とともに神を称えて讃美歌を歌うようになりました。彼らが皆親切で、誠実さをもって人に接しているのを彼女は目の当たりにしました。彼らは自分たちの暴かれた堕落について単純明快かつ率直に打ち明け、神の御言葉に従って堕落を分析し、神が好む正直者を目指すことができていました。

誰も他人を嘲ったりせず、皆互いに助け合い、糧を与え合いました。誰もが幸せそうな、あふれんばかりの笑顔を見せていました。泓児(ホンアル)はこの誠実でうれしい雰囲気が自分にも移っていると感じ、その大家族の中で、今まで経験したことのないような安らぎと自由を得ました。

久しぶりの温かさと、我が家に帰って来たような気持ちを再発見したのです。苦痛は日ごとに和らぎ、徐々に笑顔が出てきました。長いこと困惑してきた事柄に対する答えを神の御言葉の中に見出し、自分の苦しみの根源がわかるようになりました。神の御言葉には次のようなものがあります。「実は、神の様々な創造物の中で、人間は最も賤しい。人間は万物の長でありながら、そのなかでサタンの策略に影響されるのも、サタンの限りない墮落の道に陥るのも人間だけである。人間はかつて自らを支配したことがない。殆どの人々がサタンの汚れた地で生活し、サタンに嘲笑されている。サタンはあの手この手で人間を悩ませ、人間は死にかけの状態となり、人生の浮き沈みや人間の世界の苦難を経験する。サタンは、人間を弄んだ後、人間の運命に終止符を打つ。」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(1)」より)「こうした社会動向には、それぞれに人間を継続的に堕落させ、良心、人間性、理知を失わせ、人間の倫理や人格をますます低下させる邪悪な影響があり、それゆえ現在、大部分の人々に誠実さや人間性、良心、さらには理知さえ欠如している状態にまで達しているとさえ言えるほどです。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身6」より)「あなたがたは皆、「裏切り」という言葉を知っている。なぜなら、ほとんどの者たちが、これまでに何かしら他人を裏切ることをしたからである。例えば、夫が妻を裏切り、妻が夫を裏切る。息子が父を裏切り、娘が母を裏切る。奴隷が主人を裏切り、友達同士が互いに裏切り合う。親戚同士が裏切り合い、売り主が買い主を裏切る等である。こうした例には、すべて裏切りの本質が含まれている。」(『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題──裏切り(1)」より)「人間の本性とは、その者のいのちであり、それは、生き残るために人間が依存する原則であり、人間はそれを変えることが出來ない。ちょうど裏切りの本性のように――もしあなたが、何か親戚や友人を裏切ることが出来るのであれば、それは裏切りがあなたのいのちの一部であり、あなたの生来の本性であることを証明している。このことは誰も否定出来ないことである。」(『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題──裏切り(1)」より)

神の御言葉を通して、泓児(ホンアル)は「人間の苦しみは全部サタンによる堕落に端を発しているのね。人々は皆いわば大だるの中で暮らし、邪悪に染まっているのだわ」と理解しました。私たちはサタンの悪しきささやきを浴びています。例えば、「屋敷をしっかり保ちながら自分はその傍らで楽しめ」、「人生は短い。楽しめるうちに楽しめ」、「人生は短いのだから今を楽しめ」、「男は10人中9人は女と馬鹿騒ぎし、残りの1人はただの馬鹿だ」といった格言があります。

これらは、男性が他の女性と浮気をして、愛人を囲うことは容認できることであり、地位の印であると説いてします。さらに、誘惑が多い娯楽の場は大通りから小さな路地まで至るところにあり、人々が悪しき肉体的快楽にふけるのにとても便利です。多くの人々は恥ずかしげもなく一夜限りの関係を持ち、浮気に興じます。彼らはあまりにも邪悪で堕落しており、あまりにも下劣なため人間らしさを欠いています。

真理を理解していなければ、人は善悪も美醜も見分けることができず、ポジティブな事柄とネガティブな事柄の区別もできません。そのような人は、物の見方がねじれ、悪事を公正かつ立派な事とみなします。人間が備えるべき人間性も理性も、倫理観も、尊厳も手放し、肉欲を満たすためだけに誓いを破り、配偶者を裏切ります。サタンの支配下で生き、すっかり肉欲に溺れ、悦楽を追求し、自身の見苦しい欲望を満たしているのです。泓児(ホンアル)はこの邪悪な社会について一考しました。夫が妻を裏切り、妻が夫を裏切ることはよくあることです。悪しき風潮で腐敗し、真理を欠く人はこのような行為に何の抵抗もありません。知らず知らずのうちに邪悪な考えの影響を受け、つかの間の肉体的欲求を満たすためだけに責任も道徳も正義も良心も無視します。配偶者を見捨て、家族に途方もない心の傷を与えます。それで一生苦しむ人もいるでしょう。泓児(ホンアル)は夫もこのような邪悪なサタン的風潮の被害者であったのだと悟り、夫がかつてとても思いやりと愛情をかけてくれた時のことや、2人とも自分たちのためだけに物質的な富を求めたりはしなかったことを思い出しました。ただ互いへの愛と慈しみ、幸福と円満さだけを求めていたのです。

しかし裕福になった途端、夫は頻繁に顧客を接待し、あちこちで娯楽の場を飛び回るようになりました。悪しき風潮の魅惑に勝てず、放蕩生活を送るようになったのです。肉欲を満たすことだけを考えて、不倫をし、見苦しい欲望のままに生きま、妻の気持ちも、ましてや家族のことも全く考えていません。こうして家庭が壊れ、2人は離別してしまったのです。

20数年も分かち合ってきた愛も、悪しき風潮の前では、実にもろく見えました。わずかな衝撃にも耐えられなかったのです。それはすべて、サタンが人間を堕落させた結果ではないでしょうか。

泓児(ホンアル)は、サタンによってひどく害されたことを自覚しました。彼女がいつも求めていた夫婦生活は、円満で愛し合い、「死が二人を分かつまで」ともに歳を重ねるというもので、そのような夫婦生活だけが、人生の幸福だと考えていたのです。

夫が道を誤った後、彼女は壊された愛を取り戻すために百方手を尽くし、望みが叶わないと苦痛のもやの中に暮らし、抜け出すこともできず、死んで楽になろうとさえしました。それはすべてサタンが人間に吹き込んだ間違った考えや物の見方に過ぎず、彼女をもてあそび、害するものではなかったでしょうか。

泓(ホン)()児(アル)()は神の御言葉を読んで初めて、「人間は皆自分勝手で、、自分の都合のために、自分の主義に従って行動するんだわ」と理解しました。2人の人間の間に真実の愛はありません。ロマンティックな愛など存在しないのです。しかしサタンは人が悪を崇め、何よりもロマンティックな愛を追求し、完全な幻想の中に生きるように、あらゆる馬鹿げた観念を利用して堕落させ、そそのかします。人はますます堕落し、下劣になり、神からどんどん離れます。

そのことから泓児は、「人は真理がなければ善悪や美醜を見分けることができず、ポジティブな事柄についても判断できない」ことを実感しました。これではただサタンにもてあそばれ、害され、終いには飲みこまれてしまいます。神の救いのおかげで、泓(ホン)児(アル)はサタンによる人間の堕落の実態を知り、苦しみの根源がわかるようになりました。神の御言葉のおかげでずいぶんと心が明るくなり、とても気持ちが安らぎました。

それから泓(ホン)児(アル)はこの神の御言葉の次の節を読みました。「神の本質は聖なるものなので、あなたは神によってのみいのちに通じる明るい正しい道を歩むことができ、神によってのみ人生の意味を知ることができ、神によってのみ真の人生を送ることができ、真理を獲得し、知ることができ、神によってのみ真理からいのちを得ることができます。人間が悪を避けるのを助け、サタンの危害と支配から人間を救うことができるのは神だけです。神以外に、これ以上苦しまないよう、辛苦の海からあなたを救い出すことができる人や物はありません。このことは、神の本質により決まっています。無私にあなたを救うのは神自身のみであり、あなたの将来や運命、人生に究極的に責任を負うのは神のみであり、神はあなたのためにあらゆる物事を手配します。これは、被造物や非被造物のいずれも成し得ないことです。被造物や非被造物に、このような神の本質を持つものは存在しないので、あなたを救い、導く能力のある人や物は存在しません。これが人間にとっての神の本質の重要性です。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身6」より)

泓(ホン)児(アル)は神の御言葉から、「神だけが人をサタンの堕落から救うことができる人は神の御言葉を通して真理を理解することで初めて、人間を堕落させるサタンの戦術や方法を見極められる」と理解しました。それだけが、サタンの策略を見抜き、害を逃れ、自由に生きる道なのです。彼女は「何年も間違った考えに支配されていたのね。結婚して幸せになろうなんて幻想に過ぎなかったんだわ」と嘆き、ため息をつきました。思えば、夫もサタンによって堕落させられた人であり、ネガティブな悪事ばかり追求してきました。そのため彼女には苦しみと傷しかもたらせず、何の幸福ももたらせなかったのです。

人に対する神の愛だけが無私無欲であり、神だけがサタンの支配から人を救いたいと心から願ってくださるのです。人を清め、変えるために神はあらゆる真理を表し、あらゆる環境を采配されます。それはすべて人がサタンの悪影響から逃れるように導き、幸福な人生をもたらすためです。しかし堕落した人類というものは、自分の個人的な興味を引くものに出会うとすぐに裏切るのです。神のみがいつでもどこでも人のそばにおられ、あらゆる逆境を切り抜けられるように助けてくださいます。神のみが本当に頼れる存在であり、神の家だけが人の心と霊にとって本当の避難場所なのです。

以前の泓(ホン)児(アル)はサタンから生じた悪しき風潮を理解しておらず、ただ夫へ憤りを抱きながら、幸福も喜びもない暮らしをしていました。サタンに縛られて害され、惨めな日々を過ごした苦痛は言い表せないほどでした。今では苦しみの根源がわかったため、夫が憎くなくなったのです。

肩の荷が下りたようで、かつてなかったような霊の安らぎと安心と自由を感じました。真理の理解を通してあらゆる人や出来事や物事を見分けるという経験を得て、ついに苦しみとサタンの害悪という責め苦を逃れることができたのです。

神の御言葉の啓きと導きを得た泓(ホン)児(アル)は、以前のようにふさぎ込まなくなります。夫が夫婦愛を裏切ったことの執着を手放し、安らぎを得たのです。ついにもやに覆われた日々に別れを告げました。彼女を知っている人たちは、「人が変わったね。もっと頭がさえて快活になってる」と口をそろえて言います。神の御言葉のおかげでこのように変わることができたため彼女は神への感謝の気持ちでいっぱいでした。

そして数年が経ちました。泓(ホン)児(アル)は神の御言葉を常に読み、教会生活を送り、兄弟姉妹と神の御言葉について交わり、創造物の一つとして本分を尽くすことに全力を注ぎ、とても充実した日々を過ごしています。真理をある程度理解し、「人が地上で生きるのは配偶者や子供のためだけではなく、創造物としてしかるべき本分を尽くすためであり、そのように生きることで初めて神に喜んで頂ける」とはっきり認識しました。ついに人生の正しい道を見つけたのです。それは神に従い、神の御言葉の裁きと刑罰を受け入れ、神の働きを経験し、真理を理解して得るように励むことです。神を畏れ悪を避けることであり、神に従って神を崇拝する者になることです。これが最も有意義で幸せな人生なのです。

泓(ホン)児(アル)の願いは、神の導きと指導の下でこのような人生の道を歩み、真理といのちを得て、サタンの害から完全に逃れ、意義のある人生を送ること、即ち、真理の現実を生きて神に栄光を帰すことなのです。

 

裁きは光

2019-06-08 22:23:40 | 全能神の裁きを経験する証し

趙霞申します。私は一般家庭に生まれました。「野生のガチョウは声を残し、人は評判を残す」や、「木は樹皮と共に生き、人はその体面と共に生きる」などのことわざの影響により、評判や体面は私にとって、非常に重要なものでした。私がするすべてのことは、人々から称賛、賛辞、尊敬を得ることが目的でした。結婚後、私が自分に定めたゴールは次のようなものでした。私は他の人よりももっと豊かな生活をする。私の年配者への対応や、私の態度や行為について誰にも批判的なことは言わせない。子供を有名大学に入れ、将来有望にすることで、私の体面にさらに輝きを加える。そのため、私は義理の家族とは一切喧嘩をしたことがありませんでした。時に、彼らが私に厳しいことを言い、悲嘆に暮れる時は、私は反抗的な態度を取る代わりに、誰も見ていないところへ行き、泣きました。旧正月やその他の祭日のため、他の人が両親に洋服を買っているのを見ると、私も急いで義理の母親のために洋服、それも最高級の洋服を買いに行きました。親戚が訪ねてきた時は、食糧の買い出しや料理を手伝いました。それを行なうのが少し難しかったり、大変だったりした時も、心から喜んで行ないました。他人よりも裕福ではなくなることを恐れ、私は生後1ヶ月の娘を置いて、職場復帰しました。そのため、娘は母乳を飲むことができず、栄養失調に苦しみ、骨と皮だけになっていまいました。娘の状態は、100回栄養剤を注射しただけで回復しましたが、私は疲労がひどく、毎日背中に痛みを感じていました。状況は難しく、疲れを蓄積させるものでしたが、私は良い評判を得るために、この苦難に耐え、休みなく働きました。数年もすると、私は村で有名な嫁となり、家族は裕福になり、周りの人々に羨ましがられるようになりました。その結果、私の義理の家族、近所の人、親戚、そして友人は全員、私を褒め称えました。周りの人から賞賛や賛辞を受けて、私の虚栄心は大いに満たされました。私は過去数年の苦難は無駄ではなかったと感じ、心の中でほくそ笑みました。しかし、義理の弟が結婚すると、私の穏やかな生活が中断されました。彼の妻はいつも皮肉な調子で私に話し、私が義理の母を大切にするのは、彼女の財産を受け取りたいと言う隠された動機があるからだと言いました。彼女は、義理の母が彼女の家よりも私の家に多くの物を与え、えこひいきしていると年中言うため、私たちはよく口論をしていました。私はひどく悲嘆に暮れ、私の無実を示すため、公衆の面前で彼女と口論したいと思いましたが、それでは私が人々の心に築き上げた良いイメージが壊れていまいます。そのため、私は頑張って自分を抑制し、我慢しきれなくなると、誰も見ていない場所で大泣きしました。その後、義理の妹は調子に乗り、私の家族に分与された土地に住み始めました。これには、私は怒りに震え、何日も飲み食いできなくなりました。彼女とこれについて争いたいとさえ思いました。しかし、そんなことをすれば私の面目を潰し、私の評判に傷がつき、周囲の人が私を蔑むようになると考え、これをすべて飲み込むことにしました。しかし、心の中では、自分を抑えすぎたため、苦悩していました。私は、こんな人生がいつ終わってくれるかも知れず生きていくのはあまりにも辛く、疲れるとこだと感じながら、一日中浮かない顔をし、溜め息ばかりをついていました。

 

人は苦しんでいる時こそ、神を見出す契機となります。私が苦しみ、無力感を感じていたその時、全能なる神が私に救いの手を差し伸べてくださいました。ある日、近所の人がこう聞いてきました。「神の存在を信じていますか。」私はこう答えました。「信じていない人がいるんですか。私は神の存在を信じています。」そして、この人は次のように続けました。彼女が信じる神は、宇宙と万物を創造した唯一本物の神であり、当初、人類は神を崇拝していたため、神の祝福を受けて暮らしていた。しかし、人がサタンにより腐敗させられると、神を崇拝しなくなったため、神の呪いを受け、痛みの中で生きるようになった。終わりの日の全能なる神は、人々に真理を授け、苦難の深淵から人々を救い出すために現れた、と。加えて、神を信じてきた彼女の経験についても話してくれました。彼女の話を聞き、私は、信頼できる親友を見つけたと感じ、心の痛みをすべて打ち明けずにはいられませんでした。その後、彼女は、私に神の言葉の一節を読んでくれました。「あなたが疲れているとき、この世の荒廃を感じはじめるとき、途方に暮れてはならない、泣いてはならない。全能神という、見張る者はいつでも、あなたが来るのを抱擁して迎えるだろう。彼はあなたのそばで見守っている、あなたが引き返してくるのを待っている。あなたの記憶が突然回復する日を待っている――すなわち、あなたが神から来たという事実、ともかくもどこかで道を失った、道端で気を失った、それから知らずに一人の「父」ができたことが意識にのぼる日を。そして全能者がそこで待っていたということ、はじめからずっとあなたが返ってくることを待っていたということを、あなたが理解することを。」(『言葉は肉において現れる』の「全能者のため息」より)神の言葉は、暖かい水の流れのように私の心に流れ込み、苦しく、悲しみに満ちていた心を慰めてくれました。私は涙が流れ落ちるのを止めることができませんでした。その瞬間、母の腕に突如として戻ったように迷子の子供になったように感じました。言いようのない興奮と感情が心の中に湧き上がりました。神が私を神の家に招いてくださったこと、行く場所をなくしていた私に思いやりを示してくださったことに何度も感謝しました。私は心と魂で神に従います!その後、毎日、神の言葉を読み、神に祈り賛美歌を歌い、神を讃えました。歌は、特にこれは、私の心をリラックスさせました。ミーティングに出席する中で、教会の兄弟姉妹は、血の繋がりはなくとも大家族のようであることを目の当たりにしました。彼らの関係はシンプルかつオープンなもので、理解と寛容、そして忍耐に溢れ、他者に対する焼きもちや対立、悪巧み、建前、そして裏表がありませんでした。裕福なものに愛情を示す一方で、貧しいからと言って差別をするようなこともありませんでした。彼らは、すべての人を誠実かつ平等に扱うことができる人々でした。皆と一緒に神を讃える賛美歌を歌っていると、特に、心が自由になった気がしました。そのため、この愛情に溢れ、暖かく、公正で楽しい教会生活のすっかり虜になってしまいました。私は全能なる神が唯一真実の神であることに確信を持つようになり、最後の日まで神に従う決心をしました。

神の言葉を読むことで、可能な限り人を救いたいという神の差し迫った願いを理解しました。また、多くの兄弟姉妹ができる限りを尽くして、神の国福音を伝えようとしているのを見ました。そこで、私も福音を伝える仕事に積極的に参加するようになりました。神の終わりの日の働きは、人を救い、人を変えることが目的です。私を浄化し、変えるため、神は私の腐敗した本性に的を絞り、神の刑罰と審判を行なうと共に、繰り返し、思いやりを示し、救済してくださいました。ある時、私は神の信者になりそうな人の元へ福音を伝えに行きました。彼女がリーダータイプの人だと分かると、神と手を組み、何があろうと彼女を神の前に連れて行こうと決心しました。それは、農繁期でした。彼女は農作業でとても忙しくしていたので、私は彼女の隣で一緒に働きながら、神の終わりの日の働きについての証言を伝えました。3日間連続で彼女の所へ行き、同じように彼女に福音を伝えていると、彼女は神を受け入れるつもりがないばかりか、次のように私に怒鳴りました。「図々しい人だね!信じないって、言っただろう。なのに、説教を止めようとしない。」彼女の言葉が痛いところに突き刺さりました。私は、公衆の面前で何度もひっぱたかれたかのように顔がぼっと熱くなりました。心臓では鈍い痛みが次々に押し寄せています。次のように考えました。善意から、あなたに福音を説くためにここに来て、自分の背中が痛くなるまで自分をすり減らし、あなたの仕事を手伝ってきたのに、あなたは受け入れる代わりに、こんな風に私を扱うなんて、何と心のない人だ!私はひどい屈辱を感じ、もう彼女とは口を利きたくないと思いましたが、それは神の意志にそぐわないと感じ、心の中で静かに祈り、心の痛みを押し殺し、彼女の仕事を手伝いながら、説教を続けました。しかし、どんなに一生懸命彼女に伝えようとしても、彼女の心に訴えることはできませんでした。私は家に帰ると、空気を抜かれたゴムボールのように崩れ落ちました。彼女の言った言葉が何度も頭に浮かびました。それについて考えれば考えるほど、辛くなりました。私はなぜこんなことをしているのだろう。私の善意に対して私が受け取るものと言えば、嘲り、中傷、そして暴言のみ。これは本当にあまりにも不公平だ!こんな風に私を扱った人はいない。福音を伝えることはあまりにも辛く、困難だ!いや。私はもう福音を伝えるために出かけることはできない!このまま説教を続けていたら、私は誰にも顔を合わせることができなくなってしまう。あまりにも不当な扱いを受け、辛すぎるため、もう福音を伝えたくない。そう感じていたその時、神の言葉が私を啓きました。「あなたは自分の肩にある荷の重さ、使命、責任などを理解しているだろうか。あなたは歴史上での自分の使命感を持っているだろうか。…彼らはみじめで、哀れで、盲目で、途方に暮れ、そして暗闇の中で泣き叫んでいる。「どっちに行ったらいいのか」と。光が流星のように突然降りて来て、長年人々を圧迫してきた暗闇の力をまき散らしてくれることをどれほど彼らが待ち望んでいることか。どんなに切に望み、日夜どんなに思いこがれているか、誰が知ることができるだろうか。深く耐え忍んでいる人たちは暗闇の地下牢に閉じ込められたまま、光がひらめく日でさえも解放される望みはない。彼らが泣かない日がいつ来るだろうか。全く安息を与えられたことのないこれらのもろい霊はまことにそのような不幸をこうむっている。彼らは長い間無情なロープと凍ったままの歴史で封印をされてきた。誰が彼らの叫び声を聞いたことがあるだろうか。誰がそのみじめな顔つきを見たことがあるだろうか。神の心はどれほど深く悲しみ、心配しているかを考えたことがあるだろうか。神は自身の手で創った罪のない人類がそのような苦しみにあっているのを見ていられるだろうか。何といっても、人類は毒された不幸な人たちである。彼らは今日まで生きながらえたけれども、悪い者に長い間毒を盛られていたと誰が思っただろうか。あなたは自分も犠牲者であることを忘れてしまったのか。あなたの神への愛で、生き残った人たちを救うために喜んで努力しようと思わないだろうか。自分の肉と血のように人類を愛する神に恩返しするために全力で取り組みたいと思わないだろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「将来の使命にどのように取り組むべきか」より)神の言葉のふしぶしに、無知な人々に対する神の懸念、心を悩ませる悲しみ、そして愛が示されていました。神はご自身の手で創造した人々がサタンにより嘲られたり、傷つけられたりするのを見るのが耐えられません。神はすぐにでも人が神の家に戻り、神が人に授けた偉大なる救済を受けるのを身が切られるような思いで待ちわびているのです。しかし、私が伝導しようとする相手からいくつかの厳しい言葉を浴びせられると、私は不当な扱いを受け、攻撃されたように感じ、この困難や苦しみについて不平を言っていました。私は自分の体面を失ったことから、神にはもう協力したくないとさえ思いました。私の良心と理性はどこへ行ったのでしょうか。終わりの日に私たち腐敗した人々を救うため、神は、繰り返し、政府からは追われ、避難され、宗教団体からは放棄され、非難され、冒涜され、中傷され、神の信者からは誤解され、抵抗されてきたのです。神が苦しんできた痛みと屈辱はあまりにも多く、あまりにも大きいものです!それでも、神は人を救うことを諦めず、静かに人の必要なものを供給し続けてきました。神の愛はあまりにも偉大です!神の本質はあまりにも美しく親切です!私の今日の困難は、神が人を救うために耐えてきた苦しみに比べれば何でもありません!私は、私自身も被害者であり、長年サタンに苦しめられてきた人間であることを思い出しました。神が私に救いの手を差し伸べてくださらなければ、私は未だに暗闇の中で、光や生きる希望を見つけられず、苦しげにもがいていたことでしょう。神の救いを受けた私は、屈辱や痛みに耐え、神と協力し、私の本分を正しく尽くし、未だにサタンに傷つけられている無知な人々を神の前に連れてくるため、最大の努力を尽くす必要があります。これは、世界中のどんな仕事よりも価値と意義があり、どれだけの苦しみに耐えなければならないとしても、やりがいのある仕事です。こう考えた時、私は福音を伝えることを辛いことだと考えなくなりました。代わりに、神の国の福音と連携できるなんて、何と幸運なことだろうと感じました。これは私の名誉であり、神を高めることでもありました。私の心は決まりました。福音の働きでどのような困難に遭遇したとしても、私のすべてを捧げ、神を必要としている、より多くの人を神の前に連れて行き、神の心を安心させよう、と。その後、私は、再び福音の働きに身を投じました。

研修を一定期間受けた後、私の本分を尽くす中で、私にひどい態度をとったり、辛辣な言葉を投げかけてきたりする伝導相手に遭遇しても、正しい方法でこれに対処できるようになり、愛情を持って協力し続けることができました。このため、私は自分自身の変化を感じ、それほど体面やステータスについて気にならなくなりました。しかし、私が人生で必要としていたものに基づき私をテストしようと、神が別の環境を用意すると、再び、その状況をすべて経験することになりました。ある日、教会のリーダーが私に最近の調子をたずねてから、神の最近の意思と実践方法について私に伝えてきました。会話の中で、彼女が本分を尽くすために別の教会に移動になることが分かり、興奮せずにはいられませんでした。彼女が去った後、私は教会のリーダーになるかもしれない。そうしたら、私は本当に適切に協力できるはずだ!密かに幸せな気分でいると、その姉が、私の村にいる別の妹が明日来ることになっていると言いました。それを聞いて、私の心は激しく揺れ動きました。彼女は何のために来るのだろう。彼女が教会の新しいリーダーになるのだろうか。不安が大きくなるのを止めることができませんでした。彼女は私ほど長い間神を信じていない。しかも、彼女は私と同じ村の出身だ。彼女がリーダーになったら私の体面はどうなるのだろう。兄弟姉妹は私について何を思うだろう。彼らは、私が彼女ほど真理を求めていないと間違えなく言うだろう。私はそう考えずにはいられませんでした。夜には何度も寝返りを打ち、寝付くことができませんでした。次の日のミーティングでは、教会の新しいリーダーに誰が選ばれたかを絶対に聞き逃すまいとして、リーダーの言葉の調子や態度にじっと集中していました。彼女が話しながら私と目が合うと、自分がリーダーになれる希望を感じました。私の顔は喜びに満たされ、彼女が言うすべてのことに相槌を打ち、同意しました。一方、彼女が話しながら別の妹の方を見ると、彼女がリーダーに任命されるという確信を持ち、落ち込み、それにより、苦悩しました。それから数日、体面とステータスについてあまりにも悩んだため、不安になり、物事に集中できなくなりました。食欲がなくなり、まるで時が凍ってしまったかのように、時間が経つのが極めて遅いとさえ感じました。教会のリーダーは、私のこの状況を見て、私に神の言葉の次の一節を読むように言いました。「あなたがたは今や信者であり、この働きの段階に関する認識が多少ある。しかし依然として地位への欲望を脇に置いていない。あなたがたは自分の地位が高いと、しっかり追求するが、身分が低いと追求しなくなる。地位の祝福のことを常に考えている。」「あなたがたは現在の段階まで達したが、依然として地位を捨て去れないままであり、いつか地位がなくなり、名前が汚されるのではないかという強い恐怖を感じて、地位について調べ、観察しようと日々奮闘している。…あなたがたの追求がこのようなものであればあるほど、刈り入れる物は少なくなるであろう。ある人の地位に対する欲望が強ければ強いほど、それだけ深刻に取り扱われ、重大な精錬を受けなければならない。この種の人は無価値過ぎる。このような人は地位に対する欲望を完全に捨て去るため、適切な取り扱いと裁きを受ける必要がある。あなたがたが最後までこのようにして追求するならば、何も刈り入れないであろう。いのちを追求しない者は変化させされることは出来ない。真理を渇望しない者は、真理を得られない。あなたは自分の変化の追求といのちに入ることに重点を置かず、度を越した欲望や、神への愛を閉じ込め、あなたが神に近付くことを阻む物事に常に重点を置く。そのような物事があなたを変化させることが出来るであろうか。あなたを神の国へと導くことが出来るであろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「なぜ引き立て役になる覚悟がないのか」より)神の言葉の1文1文が私の心を打ちました。神は私の後ろにいて、私の言動をすべて見ていると感じました。私は、ここ2日間の私の考えと行動を自省せざるを得ませんでした。私は、神を求めることに対する私の見方が、「木は樹皮と共に生き、人はその体面と共に生きる」や、「野生のガチョウは声を残し、人は評判を残す」などのことわざにあまりにも基づいており、強く影響を受けていることに気が付きました。私は、他人からのさらなる称賛を得るため、常にステータスを求めていました。これにより、体面やステータスに非常に心を悩ますあまり、不安になり、物事に集中できなくなり、食欲を失い、不眠になり、道化師のように馬鹿なことをしていました。このような環境は、私の状況に合わせて神が仕組んだものです。それは、私に示された神の愛でした。今日の神の働きは、私が最終的に救済を得られるよう、私を救うことであり、サタンの暗い影響力から逃れるのを助けることでした。私が真理を求めていた方法は、神の働きや要求にそぐわないものでした。たとえ、最後の日まで神を信じていたとしても、神の承認を得ることはできなかったでしょう。私は何も持たずにいたことでしょう!そこで、私は声に出さず、神に祈りました。「あぁ、神よ!神の働きに従い、神の要求に則して神を信じる正しい道を進みます。また、真理を理解し、私の腐敗した性質を排除できるよう、神の言葉に注力していきます。私がリーダーになろうがなるまいが、真理を求め、神の意思を満たさない私の性質を変えることに関心を向けていきます。」神の意思を理解すると、心が特に穏やかになり、内容に関わらず、それを楽しんで伝えていきました。ミーティングの後、教会のリーダーは、大多数の兄弟姉妹の推薦により、あの妹が教会の新しいリーダーになり、私は彼女の働きと連携することになると告げました。私の心はとても穏やかで、喜んでこれを受け入れ、あの妹と調和を持って働き、本分を尽くしていくことに同意しました。

今回、神の刑罰と裁きを経験した後、私は体面とステータスにフォーカスするきらいがあることを知り、私の肉を進んで投げ打ち、神を信じ、神の要求に則して本分を尽くしていくことにしました。しかし、サタンの毒は私の中のとても深い場所まで汚染していました。魂の奥底では、サタンの影響によりまだコントロールされていました。サタンの害からさらに私を守るため、神は、再び、私に救いの手を差し伸べてくださいました。ある日、教会のある妹の状態が良くないと伝えられました。そのため、この問題をどのように解決するかについて、私のパートナーであった姉に相談しました。私のパートナーであった姉は気分が優れなかったため、話し合いの後、私は1人で問題を解決することにしました。同日の夜に彼女と話をするため、彼女を探し、問題を素早く解決しました。この時、上層部のリーダーは私が多大なる努力を払ったことに対し私を必ず褒めてくれるだろうと考え、私の心は喜びで輝きました。しかし、私がこの朗報を待っていると、上層部のリーダーがこの妹の状態を理解するための書簡を送ってきました。私は、私への称賛であると考えていたため、喜んで封を開け、書簡を読みました。しかし、書簡は、特に、私のパートナーであった姉に宛てたもので、彼女がどのように問題を取り扱ったかをたずねるものだと分かり、すぐに憤慨しました。問題を解決したのは明らかに私でした。なのに、なぜ、私にそれについてたずねてこないのか。まるで、リーダーの心には私のことなどなく、私は見下されているようだ。私は使い走りに過ぎない。私がどんなに優れた働きをしても、それに注意を向ける人がいないため、私が評価されることはない。それについて考えれば考えるほど、不当な扱いを受けていると感じ、落ち込みました。私は、完全に体面を潰されたように感じました。この時、私のパートナーであった姉が書簡を手にし、ちょうど私に話しかけようとしました。私は自分の感情を抑えることができず、彼女に向かって叫んでしまいました。「上層部のリーダーはこの問題がどのように解決されたかを知りません。ご存知でしょう、私は長年これに精力的に取り組んできたのに、誰も褒めてくれません。そして最後には、あなたがすべての評価を得るのです。皆の目には、私は使い走りにすぎず、補助的な作業をしているだけの人なんです。私がどんなに努力しても、誰も評価してくれません。」そう言うと、私は悲嘆に暮れ、泣き出してしまいました。その時、神の言葉が耳の中に響きました。「3.あなたが大いに努力しているにもかかわらず、わたしがあなたに対して冷淡であったとしたら、曖昧さの中でわたしのために業を行い続けることが出来るであろうか。4.あなたは、何かをわたしのために費やした後に、わたしがあなたの些細な要求を満たさなかったとしたら、わたしに失望し、落胆したり、さらには激怒したり罵声を浴びせたりするであろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題──裏切り(2)」より)神の非難の言葉に、私の心はゆっくりと落ち着きを取り戻し、同時にかなり多くのことがはっきりと見えてきました。たった今起きたばかりのことは、心の中で、まるで映画のように何度もリプレイされました。神の啓示により、私の本性があまりにもひどく、危険なものであり、私が神を信じる心や本分を尽くすことは、神を満足させるためや、神の承認を得るためではなく、他の人から称賛や賛辞を得るためだったことを自覚しました。私は希望が満たされないと知るや否や、恨み節でいっぱいになり、私の獣のような本性が噴火し、極めて簡単に神を裏切っていまします。この時、私はあまりにも道を踏み外しすぎた、人間性を欠いていることを自覚しました。私が感じた痛みは心をえぐるようでした。私は悔い改め、神に祈りました。「神よ、私は自分が変わり、体面やステータスはもはや重要なものではなくなったと感じていました。あの妹とも仲良くすることができました。しかし、私は、いつも、人々の間で何のステータスもないように感じており、私の努力が他者に賞賛されなかった時は苦しい思いをしてきました。今日、神の啓示により、再び、サタンのような醜さを露呈してしまいました。神よ、サタンは私の奥底まで本当に腐敗させています。ステータスや評判、見栄。これらすべてが私の足かせとなっています。神が私をサタンの影響から再び抜け出せるよう導いてくださるようにお祈りします。」その後、私は、神の次の言葉を見つけました。「あなた方一人ひとりは、群衆の最高の高みに昇りつめた。あなた方は昇りつめて群衆の祖先となった。あなた方は極めて身勝手であり、心穏やかな場所を求めている蛆虫の間で暴れまわっており、自分よりも小さい蛆虫を貪ろうとしている。あなた方は海底に沈んだ幽霊にも増して心の内に悪意と邪悪を持っている。あなた方は糞の最下層に住み、蛆虫を上から下まで邪魔して心穏やかにさせないようにし、争い合っているかと思えば静かになっている。あなた方は自分の身分も知らないが、それでも糞の中で争い合う。そのような争いから何が得られるのであろうか。あなた方がわたしに対し真に畏敬の念を持っているならば、わたしの陰でどうして争い合うことができようか。身分がどんなに高くても、あなたは糞の中にいる臭く取るに足らない蛆虫であることに変わりはないではないか。あなたは、羽を生やして空を翔ける鳩になることができようか。」(『言葉は肉において現れる』の「落ち葉が土に還る時、あなたは行ったあらゆる悪事を後悔するであろう」より)神の裁きの一語一語が鋭い剣のように私の心をぐさりと突き刺し、私の霊を覚醒しました。私は神を讃え、神の証を立てるために本分を尽くしてきたのではなく、常に他者に自分自身の優位性を見せびらかし、自分自身の証を立て、他の人々が私を賞賛し、尊敬するよう、彼らの中で高い位置に立つことを夢みてきたことに気が付きました。私の心には神を畏れる気持ちがあったでしょうか。私が求めてきたものは、神を裏切った大天使と全く同じものではなかったでしょうか。私はサタンによりひどく腐敗させられた創造物です。神の前で私はゴミ、ウジ虫のような存在です。私は常に神を崇拝し、神を畏れる気持ちを持って本分を尽くすべきでしたが、誠実な働きに従事せず、本分を尽くすことを人に見せびらかし、自分自身の証を立てることのために利用したいと常に思ってきました。神がこれを嫌い、嫌悪感を抱かないはずがありません。神はとても聖く偉大であり、権威とパワーに満ちているにも関わらず、謙虚かつ控えめで、人に神を尊敬させ、賞賛させるために自身の身分を明かすようなことは決してしません。そうする代わりに、神は持てるすべてを使い、人を黙って助け続けています。自分自身を正当化したり、評価を求めたり、人から何かを求めたりすることは一切ありません。神の謙虚さ、気高さ、そして無私の精神により、私自身の傲慢さ、卑しさ、身勝手さを認識しました。私はサタンによりあまりにも深くまで腐敗させられており、神の裁き、刑罰、試練、精錬による救済を強く必要としていると感じるようになりました。そこで、神の前にひざまずきました。「あぁ、全能なる神よ!神の刑罰と裁きを通して、私は自身の反抗的な態度と、神の気高さ、そして偉大さをよりはっきりと認識しました。これから、私は自分の本分を尽くす時に、神を畏れる心を持ち、正しい人間らしく振る舞い、神の言葉を頼ることにより私のサタンのような性質を排除することだけを望んでいきます。」

神の刑罰と裁きを繰り返し経験した後、私の真理追求に対する見方は少しずつ変わりましたが、私のいのちにおける性質は本当の意味ではまだ変わっていませんでした。より徹底的に私を浄化し、私がいのちの正しい道を歩けるよう導くため、神は再び私を救ってくださいました。その後、私は教会のリーダーに選出され、別の姉と協力して私たちの本分を尽くしていました。私のこれまでの失敗により、私は、教会の働きを正しく実践するにはこの姉と協力する必要があることと常に自戒していました。最初のうちは、この姉と何についても口論になっていましたが、神のお導きを一緒に求めることにより、働きのあらゆる側面で結果を出してきました。しかし、しばらくすると、私はこの姉が素晴らしい内在する性質を持っており、真理の説明が明確で、光を照らす力があり、彼女の能力が私のよりも高いことに気が付きました。ミーティング中、兄弟姉妹の誰もが彼女の話を聞きたがり、問題がある時は誰もが彼女に相談しました。このような状況を目の当たりにし、私は再びサタンの罠にかかり、サタンに嘲りを受けました。この姉はあらゆる面で私より優れており、彼女がどこへ行こうと兄弟姉妹により賞賛されている。何てことだ!私は何があっても、彼女を超え、兄弟姉妹に私も彼女に劣っていないところを示さなければならない。このため、私は毎日ノンストップで教会の中をバタバタと走り回り、兄弟姉妹のためにミーティングを手配し、誰が問題を抱えていようと、その問題解決を手伝うため、その人の所に走って行きました。・・・外から見れば私は忠実で従順であるように見えたかもしれませんが、私の心の中の野心を神の目が見過ごすはずがありません。私の反抗的な態度は神の怒りに触れ、その結果、闇に落ちてしまいました。神の言葉を読む時、いかなる啓示も受け取らず、祈る時には言うべき言葉が見当たらず、ミーティング中には淡々と話しをし、兄弟姉妹とのミーティングを恐れるようにさえなりました。私は体面とステータスに完全に囚われていました。私は、背中に大きな荷物を背負い、プレッシャーから息ができなくなりながら、毎日を何が何だか分からないままに過ごしていました。いくつかの教会の問題を理解することさえできなくなり、私の仕事効率は著しく低下しました。神からのこのような啓示に直面しても、私は自分自身を知ろうとはせず、兄弟姉妹に私の状態について打ち明けたり、問題を解決するために真理を求めたりしようともしませんでした。彼らが私を見下すのが怖かったのです。その後、神の懲罰と懲らしめが私に下りました。私の胃が突然激しく痛み始め、落ち着いて座っていることも、立っていることもできなくなりました。ステータスを得られないことによる不満足感と病気の苦しみにより、生死を彷徨いました。私の問題を知ることを拒否し、教会の働きに協力できなかったため、教会は私を除免し、霊的な献身と自己反省のため家に帰るように命じるより他ありませんでした。私のステータスを失い、まるで地獄行きを宣告されたかのように感じました。感情的に、私は奈落の底まで落ち、すべての体面を失ったのです。私が聖霊の働きを失い、本分を尽くすことができないでいる時に、兄弟姉妹が全員積極的にそれぞれの本分を尽くしているのを見ると特に、心の中がさらに苦しめられました。苦しみの中で、私は自問せずにはいられませんでした。他の人は神を信じ、より多くの真理を理解しているのに、なぜ私は、体面とステータスのために、繰り返し反抗的な態度を続け、神に抵抗したのだろうか。私は、私がつまずいた根本原因を突き止められるよう導いてくださるよう、神に何度も懇願しました。ある日、私は神の次の言葉を見つけました。「特にパウロを偶像化する人々も居る。そうした者は、講演をすることや外部で業を行うことを好む。そうした者は、集まって話し合う事を好み、人々が自分の話を聞き、崇拝し、自分達のところに集まってくるのを好む。そうした者は、他人の心に自分の信望を築くのを好み、他人が自分の像を尊ぶことに価値を見出す。このような行動から、人間の本性に関して分かることは、何であろうか。この者の本性を分析してみよう。こうした者のように、このような行動を取る人間の本性は、どのような本性であろうか。その本性は概括すると、どのようなものであると言えるであろうか。凡人は、その本性を見抜くことが出来ず、行動のみを見ることが出来る。そうした行動とその者の本性の関係は、どのようなものであろうか。その者の本性は、どのようなものであろうか。あなたがたは、それを確認できないであろう。この者がそのように行動する場合、その行動は、その者が傲慢であり自惚れていることを証明するに十分である。この者は全く神を崇拝しておらず、高い地位を求め、他人に対する権威を掌握すること、他人をわがものにすること、他人の心に自分の信望を築くことを望む。これは典型的なサタンの像である。」(『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より)さらに、このことについては、『いのちに入ることに関する交流と教え)』の中でも、次のように書かれています。「サタンの本質と本性は裏切りである。サタンは始まりの時から神を裏切り、神を裏切った後、神が創造した地球上の人を騙し、嘲り、操り、コントロールすることにより、神と同じ立場に立ち、神の国とは別の国を作ろうとした。… あなたがたにも分かる通り、サタンの本性は、神を裏切ることではないだろうか。サタンが人類にしてきたすべてのことを鑑みると、サタンは正真正銘の神に抵抗する悪魔であり、サタンの本性は神を裏切ることであるのが明確に分かる。これらすべては絶対である」(『いのちに入ることに関する交流と教え その1』内、「あなた自身の腐敗した本質を知る方法)」より)これらの言葉を反芻するうち、神を畏れて、震えを止めることができませんでした。私の生き様はまったくサタンのイメージそのもので、私は正真正銘のサタンの化身であり、傲慢で自惚れており、一切神を崇拝していないことが分かったのです。神は教会で本分を尽くし、神を畏れる心を持って、兄弟姉妹を神の前に連れて行き、彼らの心に神の場所を作り、神を畏れさせ、神に従わせることができるように私を引き上げました。しかし、神による引き上げを受けて、私は、神が私に本分を尽くさせようとした意図を察しておらず、兄弟姉妹がいのちに入ろうとするのを助けるという責任を一切感じていませんでした。その代わりに、私は、常に、人々に私に関心を向け、私の話を聞いてもらいたいと考え、その私自身の欲望により、どこへ行こうと、自分自身の名声を築き上げようとしていました。私は能力が高い人に焼きもちを焼いたり、力ある人に嫉妬したりして、頑固にも他者と優位性を競っていました。外目には私は人と競っていましたが、実際に私が競っていたのは神で、ステータスと権力について神と闘っていたのです。これは神の性質を深刻に背くもので、これは、神による懲罰を受けるべき行為です!しかし、神は私が行なったことに対して、私を取り扱うことはしませんでした。神は、ただ、私を裁き、罰し、懲らしめ、そして鍛えました。そして、私が自省し、悔い改めるよう、私からステータスを剥奪しました。神の私への愛がとても深く、とても大きいことを認識しました!私は、心の中で後悔と自責の念を感じずにはいられませんでした。さらに、私の腐敗がとても深いことが本当に嫌になりました。私は神に従いましたが、真理を求めていませんでした。その代わりに、盲目的に、ステータスと体面のために努力していたのです。神の愛と救済に見合う生き方を本当にしていませんでした。自省すればするほど、「木は樹皮と共に生き、人はその体面と共に生きる」や、「野生のガチョウは声を残し、人は評判を残す」など、私がよすがとしていたことわざは、サタンが人を腐敗させ、傷つけるために利用していた嘘であったことがよりはっきりと見えました。サタンはこれらのものを利用し、人の魂を麻痺させ、人の心を歪め、人にいのちについて誤った見方をさせ、ステータスや名声、財、体面など無意味なものを追求することに躍起にならせ、最終的には神の道から外れ、神を裏切るように仕向け、これにより、人々が誤謬に従い、そのために働き、サタンの意のままに、被害を受け、傷付くようにするためのものであったことを認識しました。私は、サタンの嘘をよすがとし、いのちについて誤った見方をしていた人間の1人で、傲慢で、自惚れており、横柄で、心の中に神の場所はありませんでした。私は腐敗した状態で暮らし、神を敵として扱っていました。現在、私は神の慈悲を受け、二度と神に反抗することはありません。私は完全に自分を修復し、完全にサタンを捨て、私の心をすべて神に捧げ、神の心を安心させるよう、真の人間のようにいのちを全うしていきます。その後、私はこれからの道をどのように進むすべきか、神の心を満たすためにどのように真理を求めるべきかを模索しました。神様、私を再び導いてくださりありがとうございます。その時、神の言葉を見ました。「今日、たとえあなたが働く者ではなくても、あなたは被造物の本分を尽くせなければならず、神の指揮すること全てに従うことを追い求めるべきである。あなたは神の言うことは何であろうと全てに従うべきであり、どんな試練や精錬でも経験し、たとえ自分が弱くても心の中で神を愛せるはずである。自分のいのちに責任を持つ人は、喜んで被造物の本分を尽くす人といえるし、そういう人の追求への見解が正しいのである。神はこのような人を必要とされるのである。…人は、被造物としてその本分を尽くすこと、そして他の選択肢を持たないで神を愛することを追い求めるべきなのである。それだけ神は人に愛される価値があるのである。神を愛することを追い求めるのであれば、それ以外の個人的な利益あるいは望みを追い求めてはならない。そしてこれが追求の最も正しい形である。」(『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より)まるで灯台のように、神の言葉が私の取るべき道を示し、私の心を啓きました。神は、ステータスがあるか否かに関わらず、どんな環境にあるかに関わらず、人が真理を求めるために最善を尽くし、神による手配や定めに従い、愛を探し、神を満足させることができることを望んでいます。これは、真理を求める最も正しい方法であり、創造物が歩むべきいのちの正しい道です。そのため、私は神の前で決心しました。あぁ、神よ。いのちの正しい道を示してくださり、ありがとうございます。私の過去のステータスは、神からの引き上げによるものでした。ステータスのない今日も、また、神の義によるものです。私はちっぽけな創造物に過ぎません。これから、私は真理を求め、すべての神の定めに従っていくことのみを望んでいます。

その後、神の言葉を読み、教会での生活を続ける中で、私の状態は、素早く通常状態に戻りました。教会は再び私に適した働きを割り当てました。また、私は、何かが起きるたび、神の意思を探し、自分自身を知ろうとし、それを解決するのに適した神の言葉を見つけることで、本分を尽くすことの真理を求めることに集中しました。体面やステータスが関係する物事に直面する時は、心にある考えがあっても、祈りと神の言葉を通して、真理を求め、自分自身を捨てることで、徐々に、これらのものにコントロールされないでいられるようになり、平穏な心で本分を尽くすことができるようになりました。私ほど長い間神を信じていない兄弟姉妹が重要な権限を任せられた時は、真理を求めることにより、各個人が尽くすべき本分は神によって運命づけられたものであり、私は神の采配に従う必要があるということを理解できるようになりました。その結果、正しい方法でこれを取り扱うことができました。兄弟姉妹が私の本性や本質を取り扱い、これを指摘する時は、私は体面を失ったと感じても、祈りを通して従順になることができました。これは、神の愛が私に降り注いだためで、私のいのちの性質を変えるのに大きく役に立ちました。過去には、体面にあまりにもフォーカスしすぎたため、私のことを見下すのが怖く、誰にも心を打ち明けることができませんでした。今は、神の要求に従い、正直な人間になるために練習を重ね、問題が起きた時は、兄弟姉妹に打ち明けています。これにより、魂の奥底で特に安心と幸せを感じています。これらの変化を目の当たりにし、私は、神の終わりの日の刑罰と裁きの働きにより私にもたらされた変化に対し、神に感謝し、神を賞賛せずにはいられませんでした。

全能なる神に従うようになり、数年経ちます。思い返すと、サタンの毒が私の魂を侵食していました。私は、長年に渡り、サタンの支配下で生活しており、サタンによる被害を受け、嘲られていました。いのちの価値や意味について、知りませんでした。光を見ることも、真の幸せや喜びを見つけることもできませんでした。不幸の深淵に沈み込み、そこから自分自身を救い出すことができませんでした。現在、神による繰り返しの刑罰と裁きにより、私はサタンの害を排除することができ、安心感と自由を得ることができました。自分の良心と理性を取り戻し、明るく正しいいのちの道で神に従いながら真理を求めるという正しい目標もあります。神の刑罰と裁きを通して、神の無私かつ誠実な愛を真に経験し、祝福を噛みしめ、世俗の人が経験できないような愛を受け取っています。神だけがサタンの不幸の海から人間を救い出すことができ、神の刑罰と裁きの働きだけが人の内部に入り込んだサタンの毒を浄化し、人に真の人間らしくいのちを全うさせ、正しいいのちの道を歩ませることができます。神の刑罰と裁きは光です。これは、神が人間に授けた最大の恵みで、最高の保護で、最も価値のある宝です。全能なる神の言葉も次のように言っています。「神の刑罰と裁きは人間の最高の守りであり、最も素晴らしい恵みであると考えていた。人間が目ざめて肉とサタンを憎むことが出来るのは、神の刑罰と裁きによるほか無い。人間は、神の厳しい鍛錬により、サタンの影響から解放され、狭い人間の世界から解放され、神のいる光の中で生きることが出来る。刑罰や裁きよりも優れた救いは無い。」(『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より)神よ、私を救い、生まれ変わらせるために刑罰と裁きをお与えくださり、ありがとうございます!これからの神を信じる私の道で、真理を追求し、さらなる神の刑罰と裁きを受け、サタンの毒を完全に排除して浄化され、神のことを本当に知り、神のことを正真正銘愛する人となるための努力を惜しみません。すべての栄光は神のものです。アーメン!


どのように男女関係の誘惑に勝利したか(第二部)

2019-06-05 22:49:52 | 全能神の裁きを経験する証し

ワン・ウェイの件でサタンの誘惑に陥ることのなかったジンルは、二度とワン・ウェイに会ってはならないということも分かっていたが、あの晩の出来事と自分に対するワン・ウェイの熱い告白は、映画の一場面のように繰り返しジンルの心に甦ってきた……

そしてワン・ウェイから再び電話があると、ジンルの心は僅かに揺れた。「もう二度と二人では会わないわ。でも今まで通り、友達ではいられる。自分が節度を持ってしっかりしていれば、大丈夫なのよ。」そう考えて、ワン・ウェイからの電話に出て、しばらくおしゃべりをした。そんな事をしているうちに、ジンルはワン・ウェイがまた電話をしてくるだろうかと考えるようになり、それを楽しみにするようになっていった。ワン・ウェイが電話してくる度に、自然な対応をしようとジンルは自分を落ち着かせた……そんなことが続くうちに、ワン・ウェイからの電話は以前より頻繁になった。ジンルはワン・ウェイとの会話が終わって電話を切った後、いつも心が穏やかでなくなり、心が痛み、自分のしていることが神の心に沿わないのではないかと感じた。ジンルの心の痛みと不安は、正に神がジンルに対してあの時の教えを思い起こさせ、非難しているのだと気づいた。ジンルはすぐに神の前に出て祈った。「ああ神様!私はワン・ウェイとこのようなことを続けるべきではないと分かっています。でも自分の気持ちがコントロールできません。罪に向かっている自分をどうすることもできません。ああ神様!このようなことを続けてあなたを悲しませたくありません。ああ神様!どうか私を助けてください!」

 

その後ジンルはいくつか神の言葉を読み、自分を苦しみから解放する言葉を見つけた。「あなたたちはみな、罪と放蕩の場所で生活している。あなたたちは皆みだらで罪深い人々だ。今日、あなたたちは神を見ることができるだけではなく、もっと重要なことは、刑罰と裁きとを受け、こんなにも深い救い、つまり、神の最大の愛を受けているのだ。……あなたたちは、どうやって生活し、どのように生きていくのかを知らず、また、あなたたちは、このみだらで罪深い場所に住み、みだらで汚れた悪魔であるが、神は、あなたたちがいっそう堕落してゆくのを望まない。また神は、あなたたちがこのような汚れた場所で生活し、サタンの思うままに踏みつけられるのは見るにしのびない。あるいは、あなたたちがハデスに落ちてゆくままにすることなど望まない。神はただあなたたちの群れを獲得し、完全に救いたいと願っている。……」(「征服の働きの内なる真実(4)」より)。 説教と交わりの中で次のように書かれていた。「情欲に溺れた人たちが最終的にどうなるか、あなた方はもう知っていますね。大抵の場合、どうなるでしょうか。呪いを受けるでしょうか。何か良いものは生まれるでしょうか。そこに一生平安はないのです。情欲がもたらすものは混乱とトラブル、それは耐え難い苦しみです。向こう見ずに結婚相手を求めたり異常な求め方をしたりする者に幸せな結末があるでしょうか。良い結果が出ることなどなく、結局は呪いを受けるのです。軽々しく扱うことではありません。」(『いのちに入ることに関する交わりと説教』(VII)から「どのような人が神に完全にされるか」より) 「あなたがある特定の異性にみだらな思いを抱いた場合、その問題にどう対処するでしょうか。考えてみてください。あなたは最低限、結婚というものを尊重しなければなりません。もし相手に夫や妻がある場合、相手の結婚生活を尊重しなければなりません。相手の結婚生活の妨げになってはなりません。相手を尊重するということは、自分自身を尊重するということで、他の人たちを尊重することができないのであれば、自分自身も尊重できないのです。他の人たちを尊重するならば、自分自身も尊重するのです。もしあなたが結婚を尊重しないならば、あなたは人間性に欠けていることになります。もしあなたが結婚を尊重することができるならば、そして、他の人を愛し尊重することができるならば、その相手を傷つけることはしません。もし誰かがあなたに言い寄っても拒否することができるならば、あなたは適切に対処しているのです。そのような誘惑に負けないようにするには何が必要でしょうか。それは真理であり、あなたが真理を持ち合わせているならば、そのようなことをはっきりと知ることができます。この問題の本質をはっきりと理解して初めて、あなたは、自分の行動がどう相手を傷つけるか、相手の心がどう痛手を負うか、相手の人格をどこまで傷つけたかを知ることができ、そうして初めて、そのような行動を避けることができるのです。そのようなみだらな考えや思いが浮かんでも、あなたはいつでもそれを拒否することができ、そのようなものに興味を持つこともなくなり、注意を向けることもなくなります。あなたの心はそのようなものに揺れることはなくなるからです。(『いのちに入ることに関する交わりと説教』(VI)から「現在の教会に広がる三つの問題の解決に焦点を置く」より)

神の言葉と交わりの言葉を熟慮する中で、ジンルは、自分がサタンの狡猾な策略と本質、そして情欲にまかせるままにした場合にもたらされる害と結果を見抜くことが出来なかったために、抜け出せない感情の渦の中に落ちてしまったのだと知った。

そのことを思い返してみて初めて、ジンルは「愛は素晴らしい」「愛し合っていれば最後には結婚する」、「永遠を求めるより今を幸せに生きろ」、「愛することは罪ではない」といった考えを洗脳させていたのはサタンであり、サタンが、美しい愛を夢見るようにさせ、道徳や良心に制限されずにワン・ウェイのことばかり考えて連絡を取り合うようにさせて引き込まれていき、罪の中を生きて自分のしていることが過ちだと思わずに罪の喜びを求めるようにさせたのだと気づいた。

ジンルは自分の周りで不倫問題を抱えている何人もの人々、そして愛人を抱えている何人もの男性のことを考えた。一時の欲を満足させても、結局家族の争いや結婚生活の破滅を招き、時には三角関係が原因で殺人にまで発展するのだ。昨今”me too”の動きが広がっているが、大学で、公共の集会や情報公開の場で、メディアを通じて急速に広がっている。有名人や知識人が一夜だけの関係を持ったために非難され、信用を失い、みだらな関係の代名詞のようになってしまった人もいる。特に中国政府の当局者の多くは妻と愛人がいて、その多くは政治的に対立する者たちが不倫問題を利用して陰謀を企て、それによって重罪人として投獄されたりもしている。ジンルは、不倫関係に陥る人達はただ自分の情欲を満たすためだけにそのようなことをしていることをはっきりと理解していて、それは否定的なことであり、邪悪なことであり、人を泥沼に陥らせるだけのものだと分かっていた。賭け事で損をするともう一度やりたくなってしまう人たちが、最後には家族を経済的崩壊へと陥らせ、家族がばらばらになってしまうのと同じように、情欲に溺れる人々は一度そのような関係を持つと、同じことを繰り返すようになり、遂には姦淫の罪から抜け出せなくなるのだ。そのようにして最終的に彼らは自分たちの体を破壊し、将来どこまでもその問題を引きずり、生きる気力を失って自ら命を絶つ人さえいる。それだから、ジンルは情欲に任せていることは良くないと感じた。罪深いことで、天からの罰と怒りを招くことだと思った。そして人を破滅の道に引き込むことであると。そしてジンルは、サタン的哲学と理論は全て妄想であり偽りであり、真実ではなく、人を騙し、サタンが人を堕落させる道具であり、不倫に関わる男女の間に本当の愛はないことを理解した。もし本当の愛があるならば、その人には人間性があり、相手を敬い、結婚というものを敬い、相手を傷つけることは一切しない。不倫をする人間はみな互いの情欲をもてあそび、相手を利用しているのだ。ジンルがそれを理解した時、神の前に出て、こう祈った。「ああ神様!サタンの毒に侵されて生きる結果がどのようなものかやっと理解できました。これ以上サタンの毒に侵されて肉の欲の中に生きたくありません。ワン・ウェイと連絡を取り合いながら生活することは誠実さも品格もないものです。私はこんなことを続けることであなたの名前を辱めることなどしたくありませんし、クリスチャンとしての証しを失いたくありません。私に神様を畏れる心を与え、真理の原則を貫いて肉を捨て、危険を知った時にはそれを避け、神様の栄光のために真の人間の姿を生きる者とさせてください。」

ある日ジンルがスクーターで教会へ向かっていると、ちょうどワン・ウェイが車で通りかかった。ワン・ウェイはジンルを呼んだ。ジンルは答えたかったが、その瞬間に神様からの言葉と神の前での自分の祈りを思い出した。ジンルはこのままの状態を続けることはできないと分かっていたので、車の中のワン・ウェイを見ただけで何も言わなかった。ジンルはスクーターを止めることなく走らせていくと、ワン・ウェイが着いてきて、クラクションを鳴らした。心の中でジンルは神に祈り、サタンの策略から自分を守り、クリスチャンとしての証しになるようにと祈った。すると、ジンルの心は静まった。ジンルはワン・ウェイに言葉を返すこともしなかった。どうしたらワン・ウェイから逃げられるか、それだけを考えた。分かれ道に来たとき、ジンルはワン・ウェイが一方へ曲がるのを見て、急いで反対方向に向かってスクーターを走らせた……

ジンルはその後何度もワン・ウェイと路上で出会ったが、ワン・ウェイに対する態度を変えることはなかった。すると神はジンルに道を開いてくださった。ワン・ウェイに会う時はいつでも、ワン・ウェイが誰か知り合いにばったり会ったり、渋滞だったりして、ジンルに近づくことはできなくなった。ジンルはその後ワン・ウェイと接点を持たずに済むようになった。ジンルはケータイ番号を変え、二人はその後会うことも話すこともなくなった。

このような経験を思い起こし、ジンルは次の事を本当に理解するに至った。この誘惑だらけの世界では、日々サタンからのさまざまな誘惑に直面する。真理を持たない私たちはそのような誘惑を見分けることができず、サタンの毒によって生きてしまい、邪悪な世の流れに流されるままになり、罪に陥って抜け出せず、サタンに騙され傷つけられてしまう。サタンの様々な誘惑と巧みな策略を見抜きたいと思えば、神様の前に出て神様の言葉を身に付け、より多くの真理を理解し、肯定的な事と否定的な事の違いが分かるようにし、サタンの巧みな策略を完全に理解し、誰に会っても、どのような物事に直面しても、神様の言葉にしたがって物事を見、神様の言葉と一致して物事を行い、行動に原則が伴うようにする他に道はなく、そのようにして初めて、サタンの誘惑に陥らなくなる。神様の次の言葉にある通りだ。「人間が自分のものとすべき真理は神の言葉の中にある。それは、人類にとって最も有益で役立つ真理である。それは、あなたがたの体に必要な薬であり、糧であり、正常な人間性を回復させる助けになるものであり、人間が備えているべき真理である。あなたがたが神の言葉を実践すればするほど、あなたがたのいのちは一層早く開花するであろう。また、あなたがたが神の言葉を実践すればするほど、真理は一層明らかになる。あなたがたの霊的背丈が成長するに従って霊的世界のことをもっと明瞭に理解し、より力を得てサタンに勝利するであろう。」(「真理を理解したらそれを実行せよ」より)

ジンルは胸が一杯になって大きく呼吸し、そして思った。「神様が御言葉をもって私を救い、助けてくださらなかったならば、私はとっくに人間のあるべき姿を失って堕落し、誠実さも品位もないまま、不倫関係に陥るような酷いことをしていたわ。家庭のある人と関係を持ち、愛人になっていたんだわ。家庭を崩壊させた者のレッテルを貼られ、堕落した人生を生き、良心の呵責に苦しみながら残りの人生を生きることになっていたんだわ。」ジンルは心から神に感謝し、讃美した。ジンルは以前のような平穏な生活を取り戻し、教会で喜びを持って自分の本分を尽くし、神の言葉による裁きと清めを受け入れ、真の幸福の道をしっかりと歩んでいる。全ての栄光は神にあれ!


クリスマスの意味を考える:あなたは本当に主イエス様を礼拝しているか

2019-05-30 12:00:00 | 全能神の裁きを経験する証し

毎年クリスマスが近くと、街では様々なクリスマスプレゼント用の商品が店先に並び、サンタクロースやクリスマスツリーが飾られます。木々や建物にはカラフルなイルミネーションが光り、街中がランタンや装飾で華やかに飾られ、誰もがクリスマスを楽しみにしてわくわくします。キリスト教にとってクリスマスは特別な休暇です。クリスマスの数ヶ月前から、あちこちの教会はクリスマスの準備に追われます。クリスマス当時、教会には人が溢れ、兄弟姉妹たちはみなお祝いし、クリスマスの料理を食べ、プログラムに参加したり、主イエス様を礼拝したりします。みんなの笑顔がはじけます。けれどそのように集まって主イエス様の誕生をお祝いする時、私たちはクリスマスの意味を理解しているでしょうか。おそらく兄弟姉妹は「主イエス様は私たち人間を贖うために十字架にかけられました。だから、主イエス様の誕生をお祝いするために、クリスチャンがクリスマスを制定したいのです。主イエス様がお生まれになった日は明確に聖書に記載がありませんが、イエス・キリストの福音が広まるにつれて、クリスマスは徐々に世界的な祝日として浸透していったのです。」と言うでしょう。そのことは皆知っているでしょう。けれども主イエス様の誕生に隠されている神様の愛と神様の御心を知っているでしょうか。主の御心に沿うクリスマスの理解とは、どのようなものでしょうか。

クリスマスの意味を考える:あなたは本当に主イエス様を礼拝しているか

 

神の愛と人類の救いのために主イエス様はお生まれになった

初めに、ヤーウェは霊として人の間で働かれ、モーセを通してご自身の律法と命令を定め、人が地上でどう生きるべきかを導かれました。何が善で何か悪か、どう神様を礼拝すべきかなどを教えられました。けれども律法の時代が終わる頃、人間は益々サタンに堕落させられ、律法を守ることができず、自らの罪を贖ういけにえは、もはや尽きてしまったのです。律法により、いつ罪に定められ死刑に処せられるか分からない危険にさらされました。神は自らの手で作られた人間がそのように破壊されるのは見るに耐えなかったので。人間が生き続けることができるようにと、神様は天国から降ってこられ、主イエスキリストとして受肉され、地上に現れて働きをされ、「悔い改めよ、天国は近づいた」。(マタイによる福音書 4:17)の道を現わされました。そして人々に寛容で忍耐深くあるように、敵を愛するように教えられ、7を70倍するまで赦すように教えられました。主イエス様は病人を癒やされ、悪霊を追い出し、多くのしるしや不思議な業を行い、最終的に十字架にかけられて人類を罪から贖われたのです。私たちが主イエス様を救い主として受け入れて心から主に祈り、罪を告白して悔い改めるなら、私たちの罪は赦され、平安と喜びを享受できます。それは主による喜びと豊かな恵みなのです。主イエス様が生まれて神様が直接受肉されて贖いの業をなされたからこそ、人類は罪の宣告を逃れることができ、律法の足かせを外すことができたと言えるのです。それによって、人間は罪に定められることも死の宣告を受けることもなくなったのです。主イエス様が生まれてくださったから、主に従うものは本当の平和と喜びを享受することができるのです。それ以上に、主イエス様が生まれてくださり、神様の霊が通常の体となられて私たちと同じ言葉を語られたので、主の言葉から人に対する神様の御心と要求をより明確に理解することができ、私たちは更に新しい、より霊的に成長してた実践をすることができ、神様とより近い関係になれるのです。主イエス様が地上に来られて真理を現わし、贖いの業を完成されたことの背景にあるものは、人間を救おうとする神様のなみなみならぬ努力があったのです。それは、私たち堕落した人間に対する神様の愛と憐れみなのです。

神の愛と人類の救いのために主イエス様はお生まれになった

 

主イエス様の御心、そしてと私たちへに求められること

主イエス様が贖いの業を完成され、甦られて天に昇られたけれども、イエス様の誕生を記念して多くの人々はクリスマスになるとパーティーを開き、様々な行事で主イエス様の誕生をお祝いするのです。けれども、私たちはクリスマスの意味と、主イエス様の御心や私たちにイエス様が求めておられることを理解しているでしょうか。神様に満足していただき、称賛していただくには、私たちは何をすべきなのでしょうか。

主イエス様は言われました。「あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。…しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。」(ヨハネによる福音書 4:21、23)主イエス様の言葉から、イエス様は私たちが形にばかりこだわったり行事に参加したりするばかりでなく、霊と誠真をもって神様を礼拝することを望んでおられることが分かります。昔、パリサイ人や祭司長、律法学者たちは神殿での様々な儀式や規則ばかりにこだわっていました。彼らは毎日神様にいけにえを捧げましたが、神様の言葉を実践することはほとんどなく、ヤーウェの命令に従うこともなく、神様からの命令を捨てて人間的な伝統にのみ従ったのです。そして最終的に、彼らは神様からの称賛を得なかったばかりか、主イエス様に嫌われ、呪われたのです。現代の教会が大がかりなクリスマスのお祝いをしても、それは一時のことに過ぎません。人々があつまって喜び、幸せを感じても、心から主を礼拝しているのではなく、クリスマスを機会として神様の御心を理解したり認識を得たりしているのではありません。そうであれば、主イエス様から認めていただくことはできないのです。事実、主イエス様が正式にその業を始められた時から贖いの業を完了された時までの間に、主イエス様は多くの真理を現わされ、多くの要求を提示されました。私たちがみな主の御言葉を実践することに重きをおいていつでもどこでも、どんなことがあっても、誰に対しても主の教えを実践することが、主の望まれることであり、御心なのです。これが私たちに対して主が求められることで、神様を信じる私たちが持つべき、実践の原則の最も基礎となるものなのです。主イエス様が次のように言われた通りです。「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。」(ヨハネによる福音書 8:31)「あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」(ヨハネによる福音書 15:14)このように、私たちの生活や周りの人々に対する接し方において、主の御言葉に則して実践することが極め重要であることが分かります。というのは、それは心から神様を信じて礼拝する者がまず達成しなければならないことだからです。

神の御心旨に沿い、神の称賛を得るにはどうしたらよいか

 

私たちは真に主を礼拝しているか

多くの兄弟姉妹たちが、クリスマスには教会に集い、主イエス様の誕生をお祝いし、祈り、聖書を読み、讃美します。けれどもクリスマス以外の時となると、私たちは自分たちは日々の仕事や多くの人々とのやりとりに明け暮れます。主の前に静まって祈り、主の御言葉を読んでその御心を求めることは滅多にありません。集会に頻繁に出席する兄弟姉妹はいますが、主の言葉を実生活で実践することはほとんどなく、相変わらず罪の生活を送り、罪はどんどん深まっていくのです。例えば、主イエス様は私たちが謙虚で穏やかでいることを求めますが、同僚や教会の兄弟姉妹たちと一緒に働きをする時には、私たちは自分の傲慢な性質に支配され、自分の見方や考えは完璧だとして自分を守り、周りの人達と穏やかに進めることができません。主イエス様は、私たちが周りの人々に対して赦すことを学び、自分を愛するように他の人をも愛すことを求めておられます。けれども周りの人々があなた利益を侵害するようなことがあれば、不当に扱われたと感じてサタンの毒の性質による生き方になってしまい、人を裁いたり非難したりしてしまいます。主イエス様は、私たちが世の人々から自分を切り離すことを求めておられますが、私たちはこの世の名誉、地位、肉体の楽しみを追い、この世の悪に倣い、罪の中に生きて主から益々離れていくのです。これは私たちが主の要求に沿うことのできない僅かな例にすぎません。私たちは宗教儀式に重きをおき、主の救いに感謝することや特別な祝日に主を讃美することに重点をおきますが、主の道に従わずに罪の生活をしがちです。主イエス様を礼拝するとはこのようなことでしょうか。イエス様は本当にそのような私たちを称賛してくださるでしょうか。子育てする親を例にとってみます。もし子供に分別があって親思いであれば、親が何を喜んで何を喜ばないかをわきまえ、両親に対して何かをする時には、親が喜ぶものが分かるのです。けれども、両親の誕生日には大げさなお祝いをして「パパ、ママ、愛してるよ」と言うだけで、本当に助けが必要な時には自分達のことで手一杯で親にすべきことができないのであれば、本当に親孝行だと言えるでしょうか。

神の御心旨に沿い、神の称賛を得るにはどうしたらよいか

もし私たちが真に神様を礼拝し、神の称賛を得ようと思うならば、神様の御言葉に沿って実践し、神様をあがめる心を持ち、すべての事において主の道に従うことに重点を置き、主の言葉を第1とし、私たちの生き方が神様に対する証しとなるようにし、神様に栄光を帰すようにすることが重要です。もちろん、兄弟姉妹の一部の人達は、クリスマスに集って賛美歌を歌い主を讃美し、主の言葉を人生でどう経験してどう実践したかを分かち合い、霊的な生活でどう問題解決するかを互いに支え合い助け合い、神様に更に近づこうとします。これも神様の御心に沿っています。そしてクリスマスが近づくと、西欧諸国では迫害されているクリスチャンやホームレスの人達への慈善運動もされます。そのような場で、ホームレスの人達が集まって保護施設を探したり、迫害されているクリスチャンが世界のあちこちから集まって互いに経験を語り合ったり、厳しい寒さの中でも神様の暖かさを感じることができたりします。このような事も神様は覚えてくださいます。要するに、クリスマス休暇自体が重要なのでも、行事自体が重要なのでもないのです。重要なのは、主イエス様の御言葉であり、主が私たちに求められていることなのです。神様を畏れる心を持ち、すべてのことにおいて主の御心を求め、主の御言葉を実践して主の要求に応えることで満足していただく—これが最も重要なことなのです。このように実践して初めて、私たちは真に主イエス様を礼拝し、主イエス様から称賛していただけるのです。

神様の啓きと導きを感謝します。神様が私たち一人ひとりと共にいてくださいますように。


結婚生活を救う“秘密”(その2)

2019-05-29 11:36:26 | 全能神の裁きを経験する証し

しかし、妻に福音を伝えた時、妻はそれを受け入れませんでした。その後、教会の兄弟姉妹に、家に来て妻に福音を伝えて欲しいと頼みましたが、妻はそれでも耳を傾けようとせず、彼らをお客さんとして迎え入れることでさえ難色を示しました。このような状況を見て、ただ、妻に対する真摯な願いを神に委ねるより他ありませんでした。ある日、私は次のような神の言葉を読みました。「日々の生活におけるあなたの実践と表現は神への証しであり、教えを実践することであり、神への証しなのであり、それが真に神の愛を享受しているということなのだ。この点まで経験を重ねてくると、その経験は成果を生み出すようになる。真に神の愛を見た者は、教えを実践している者であり、その行いがみな他の人々から賞賛の目で見られ、外見は凡庸であっても、最上の敬虔な生き方をしているのであり…他の人々から尊敬を受ける。そうした人々は、証しをすることができる。」(『言葉は肉において現れる』の「神を愛する者たちは永遠に神の光の中に生きる」より)「人々にすべてが起こるのは、彼らが神に対する証しに固く立つことを神が必要とする時である。当面、あなたには重要なことは何も起こっていないし、あなたは重大な証しはしていないが、あなたの毎日の生活の詳細はすべて神への証しに関連している。あなたが兄弟姉妹、あなたの家族、あなたの周囲のすべての人から称賛を得られたら、また、いつか不信心者が来て、あなたの行うことのすべてを称賛し、神の行うすべては素晴らしいことがわかったら、その時、あなたは証しをしたことになるのである。」(『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より)神の言葉は、私が取るべき道を示してくれました。それは、人のそれまでの性質を変え、堕落したライフスタイルを変えるには、神の言葉を使う必要があるということでした。私が神の証を立て、妻に利益をもたらし、啓発する唯一の方法は、私の中の変化と、神が私に行なった働きを彼女に見せることでした。かつて、神を信じるようになる前、私はサタンのルールに従い生活していた頃を思い出しました。快楽主義から来ることで頭が一杯で、傲慢に振る舞い、妻を顎で使っていました。私は手が付けられない状態で、人としてあるべき状態ではありませんでした。それは、妻と子供達をひどく傷付けるサタンの悪魔的イメージをすべて反映したものでした。現在、妻は私に怒りを募らせており、私が彼女に許しを請う必要があるという断固たる考えを持っていました。その上、現在、私は神を信じており、神の言葉に従い行動しており、本物の人間のように行動しなければなりません。神の証を立てるために、私は真理の現実をまっとうしなければなりません。

それ以降、私は神の言葉を実践し始め、自分自身を最優先しないようにしました。また、私だけの楽しみにだけフォーカスしないよう、ましてや、偏執的優越心により、あれをやれ、これをやれと妻に命じて抑圧しないように努力しました。妻が店のストックを買いに早起きして市場に行くのを見た時は、私も早起きし、強い信仰心で神の働きを読み、現場の従業員の作業日程を決めるために、仕事に行くまで、妻の家事を助け、朝食を作り、片付けをし、洗濯までしました。仕事でのソーシャルイベントへの参加義務については、それを維持するために人類の方法を使うことはなくなり、その代わりに、神の知恵に頼って、誘惑から距離を取り、これらの悪い習慣を断ち切れるよう、神の前で祈りました。これらのことをすると、信じられないような平穏を感じました。同時に、真理を実践し始めてから、神の祝福を目にするようになりました。ソーシャルイベントに参加しなくとも、すべての仕事のプロジェクトから、簡単にお金を稼ぐことができました。収入をまとめると、妻にお金を渡し、「必要なものに使ってください。かつて、私はいつもどんちゃん騒ぎのためにお金を無駄に使っており、本当に悪い道にいました。あなたには大変な苦労をかけました。これからは、あなたにお金の管理をして欲しいのです!」と言いました。これを聞いて、妻はからかうような調子で、「あら、ようやく、家周りのことをして、家を家らしく扱うことができるようになったんですね。良心が目覚めましたか。」と言いました。それを聞いて、神が私にもたらした救済に心の中で感謝しました。さらに、子供達の勉強もできるだけ見るようにし、先生との三者面談にも積極的に参加するようになりました。食事の後には、よく、妻と子供達と共に、神への信仰における私自身の経験や、神がいかに私を導き、私を変えたかについて話し合い、その証を立てました。徐々に、私の家族は密接になっていきました。

クリスチャン結婚

 

それからしばらくして、教会の兄弟姉妹が交流のために家に来た時、妻は私達の後ろに座り、私達の話を聞いていました。妻は解決策のない人生の問題について兄弟姉妹に熱心に尋ね、兄弟姉妹は神の言葉で彼女に答え、彼女が取るべき道を示しました。私は、妻が兄弟姉妹に「あなた方の交流は私が直面していた現実的な困難を解決しました。皆さん、ありがとうございます!時間がある時に、また、私達を尋ねに来てください。リー・クアンがここにいなくても、是非、お越しください。」と言うのを聞きました。妻がそう言うのを聞いて、私はものすごい幸せになりました。これは、妻がこんな風に変わることを実現した、神の神秘的な働きの実に1例です。

ある日、帰宅すると、妻は熱心に神の言葉を読んでいました。私は素早く彼女の所へ行き、「いつから神の言葉を読み始めたのですか。理解していますか。」と興奮気味に言いました。妻は少し恥ずかしそうに、「実は、これを読み始め、賛美歌を歌うようになってかなりの日が経っています。あなたが変わるのを目の当たりにし神を信じるようになり、また、家に来た兄弟姉妹が、あなたのかつての快楽的な友人達と異なり、健全で威厳に満ちているのを見て、これこそ真の道だと感じました。ゆっくりと、神の言葉を読んだり、賛美歌を歌ったり、福音のビデオを見たりするようになりました。今では、神の言葉は毎日読むようになっています…」と、言いました。妻がそう言うのを聞いて、神だけが人を変え、救うことができると本当に感じ始め、心の中で、神を絶え間なく讃えました。神は私を鬱や苦しみから救い、神の言葉により私を清め、変えました。神は真の人間らしく生きることを可能にし、私を通して、妻が全能の神がどのようなものかを見ることができ、それにより、妻も救済を得ました。神の働きは本当に素晴らしく、神はとても賢く、私達の愛を受けるのに値する存在です!私は神の偉大なる救済を受け、心から神に感謝し、神を讃えます!

その後、子供達も神を信じる道を歩み始めました。私達は家族として一緒に神の言葉を頻繁に読み、私達の経験や神の言葉の知恵について話し合うのが好きでした。家族全体が神の愛の温かい包容の中で喜びを感じています。妻が神の終わりの日の働きを受け入れてから、妻の気性はずっと明るいものになり、全体的な精神的展望は日を追うごとに良くなっていきました。私の兄とその奥さんは、妻が神を信じるようになってからの変化に気が付きました。彼女はとても生き生きとし、おしゃべりになり、まるで全く別人になったかのようでした。姪までが驚いた顔で私を見て、「おじさん、顔色がすごく良いし、シワも消えましたね。充実して見えるし、すごく若返りました!」と言いました。私達の親戚や近所の人達も、皆、私達家族が良い方向に変わったのを目の当たりにし、羨望の目を向けました。特に、妻が私達のビジネスを運営するのを、私が手伝うようになり、彼女の回りの女性たちは、「彼らが夫婦として共にいかに幸せでいるかをご覧なさい。彼らは宝を得たようです!」と言いましたが、それは本当のことでした。人々がそのようなことを言うのを聞いて、とても良い気分になりました。これは、全能の神の救済の働きであり、神の偉大さが私の結婚を救ってくださったことを私は十分に認識していました。私は、神が私と家族を救済してくださったことに対し、心からの感謝を表したいと思います。

そして、今、私の結婚が危機的状態にあった頃を思い返すと、言葉に尽くせません。私はすべてのことを試しましたが、功を奏したものはありませんでした。しかし、神の働きを通して、修復されたのです。全能の神の導きを通して、妻と私は共に同じ道を歩み、私が家族に対して長い間望んでいた、平和で幸せな家族と生活を手に入れることができました。神の前に来て、神の言葉を受け入れ、それを実践することによってのみ神の祝福と保護を受け取ることができ、それにより、耐えてきた辛さや困難が解決されると言うことが、経験により、しっかりと示されています。全能の神の終わりの日の働きは、幸福への真の道です!これから、私はさらに密接に神に従い、神の救済と言う愛に報いるため、正しい道を歩んでいきます!