郵貯スタンプ・じい散歩

日毎に選んだ街を散歩しながら、郵便局の窓口で貯金をし、局名のスタンプを押してもらう。歩く街の感じた事を紹介。

「蒲原観音堂」をご存じですか?。

2016-04-28 22:18:55 | Weblog
 4月20日(水曜日)
 18日から”おじさんの会”の5人で、草野氏の嬬恋村の別荘にお世話になっており、昨日二人が上田から帰京したので3人になっていたが、今日は帰京する日なので、初日に草野さんの軽井沢の後輩の方のイタリアンレストランで昼食をした時にジャンパーを忘れてきたので、まず一番にそのお店に寄る積りで別荘を8時過ぎに出て来て、中学の時に林間学校で行った事が有る四阿山を見ながら軽井沢に入った処で、草野さんが「浅間山の噴火で埋まってしまった村が近くに有るので寄ってみる?」との話が有り、自分も平沢氏も「聞いたことない」となり、近いというので戻る事に。
        早朝に撮れた”アカハラ”                    四阿山
 
 【群馬県嬬恋村蒲原区・県指定史跡 天明三年浅間やけ遺跡】
《浅間山(標高2,568m)群馬県と長野県の県境に位置し、現在でも活発な火山活動が観測されている日本有数の活火山です。浅間山の噴火として記録された最古のものは、なんと日本書紀に記録が残るほど古く、そんな噴火の歴史を繰り返してきた浅間山ですが、天明三年(1783)の大噴火は日本の火山噴火の災害として最大の出来事の一つとして数えられます。浅間山の噴火は5月9日から始まったとされるが、8月3日(旧暦7月6日)からは一段と激しさを増し、ついに5日の午前にはクライマックスの状態に達した。午前十時三十分頃、火口から吹き上げられた岩塊は浅間山麓に落下し、付近の土石を巻き込んで雪崩の様な状態で斜面を高速で流れ下った(今でいう土石流で、”浅間押し”と呼ばれた)。蒲原村を中心とした浅間山麓の被害はこの時に発生した。災害の中心となった鎌原村は、戸数百戸前後、人口570人ほどの浅間山麓の拠点的な集落であったが、村は一瞬にして埋没し、被災死亡者は477人(馬165頭)、生存者は93人とされる。観音堂の石段は昭和54年発掘調査をされ、その段数は全部で50段であり、おのうち35段が埋没し、その土石層の厚さは6m前後と判明した。尚、その際二人の被災者が発見された。更に、被災の後、90余人の生存者は、互いに園を結び、家族(新たな夫婦が出来、孤児も養子となり)を構成し、荒れ地を耕し、復興に努力した》
          「蒲原観音堂」                    赤い橋の手前まで埋まった
 
          埋まっている石段                   ”観音堂”と”おこもり堂”
 
           「観音堂」                     ”おこもり堂”の女性が説明を
 
 「日本のポンペイ」とも呼ばれているらしいが、被災後に生存者全員で話し合って、新しい夫婦が出来、孤児を作らなかった事を聞いて感激した。人手の問題も有ったと思うが素晴らしい事だと思う。何度か嬬恋村には来ていたが、連れてきていただいた事に感謝を感じた。昭和30年に三笠宮殿下が訪問され、最近では池上彰さんも訪問されていた。近くを通った時は寄られてみたら如何でしょうか。
     おばさんがお茶をふるまってくれ、        サータアンダギーの様な”かりんとう”も
 
 又、来ます。               

かいぼり「池底ツアー」へ参加

2016-04-14 08:54:45 | Weblog
 3月5日(土曜日)
 昨年11月に井の頭公園へ来た時、”かいぼり”を知り、同時に”池底ツアー”の話も聞いていた。あまり天気が良くなかったので参加しないで来たが、今週で最終週との事で、問い合わせて参加する事に。
 午後1時からのスタートなので、昼前に車で行ったら、駐車場に苦労して、”ジブリの森”の先の第二駐車場に止めて、時間が有ったので、井の頭公園を半周し、集合場所で時間が来るのを待っていると、段々人が集まって来て、約60名の参加になった。加代さんは、先月骨折の骨を止めていたプレートを外す手術をしたばかりなので、泥土は無理。
       (左)     井の頭公園の”七井橋”からの風景      (右)
 
     七井橋からボート乗り場を          干上がった池にアオサギが
 
      ”池底ツアー”に登録         登録が終わって
 
 野口雨情の歌碑が有る処で登録し、時間まで待機して、”かいぼり隊”の案内者の説明を聞き、午後1時スタート。”お茶の水”の処から井の頭池に降りる。
            ”かいぼり隊”の方の案内で”お茶の水”の処から池に
 
        足元はズブズブ           池底出説明を受ける
 
この穴は以前玉川上水へ水を送る排水溝    陸から加代さんが
 
      足がはまって動けなく              行き過ぎると危ないヨ!
 
    池の成り立ちの説明を受ける       七つ有る”湧水”の一つを見られた
 
  子供は”泥んこ遊び”     陸上から加代さんが撮った集合写真
 
 再度、”七井橋”の下へ降りる為に一度陸に上がる事に。長靴を洗い、少し歩いて”七井橋”手前から降りる事に。
              野口雨情の歌碑の処で、一度陸に上がる
 
       泥んこの長靴を洗う          ”七井橋”の手前から再度池底に
 
       ”七井橋”の橋下へ               橋下で説明を受ける
 
    鴨と亀の足跡           七井橋の上から見物人が
 
        終了の挨拶があり                 池から上がる
  
 ぬかるんで、歩きにくい”泥んこ”の池底を歩いただけだが、非常に面白かった。明日まで”池底ツアー”が実施され、明後日から水を入れるらしく、今日は特別、参加者が多かったみたい。水が昔どうりに池を満たすのには、暫く日にちが掛かるらしい。二年後にも最後の”かいぼり”が実施される様なので、来年は、一度経験されてみては如何でしょうか。
    


「六義園」の枝垂れ桜のライトアップを見に。

2016-04-06 22:38:18 | Weblog
 3月31日(木曜日)
 ”ソメイヨシノ”の故郷「染井霊園」を見て歩き、夜間の「六義園」の枝垂れ桜のライトアップを見るまでに少し時間が有ったので、駒込駅前のピザショップに入り、小腹を満たしてから【六義園】へ。
《六義園は、五代将軍・徳川綱吉の信認が厚かった川越藩主・柳沢吉保が元禄15年(1702)に築園した和歌の趣味を基調とする「回遊式築山泉水」の大名庭園です。池を巡る園路を歩きながら移り変わる景色を楽しめる繊細で温和な日本庭園です。江戸時代の大名庭園の中でも代表的なもので、明治時代に入って、三菱の創業者である岩崎彌太郎の別邸となりました。その後、昭和13年(1938)に岩崎家より東京市(都)に寄付され、昭和28年(1953)に国の特別名勝に指定された貴重な文化財です。「六義園」の名は、中国の詩の分類法(詩の六義)にならった古今集の序にある和歌の分類の六体(そう歌・かぞえ歌・なぞらえ歌・たとえ歌・ただごと歌・いわい歌)に由来したものです。柳沢吉保自身の撰した「六義園記」では、日本風に「むくさのその」と呼んでいましたが、現在では漢音読みで「六義」を「りくぎ」と読む習わしから、「りくぎえん」とよみます。》
 私の生まれ育った文京区の自宅からは、歩いても来れる場所で、小学校の時の遠足でも歩いてきた覚えがある位ですが、つい3年前位にも昼間入らせて貰ったが、いつも正門から入るので、駒込駅に近い「染井門」から入るのは初めて。並んでいる観光客の一番後ろに二人で並んでいたら、地元の幼馴染の清水誠とバッタリ。「後で、中でな!」と声を掛けたが、並んで入ってからは、”これじゃ会えるはずがない”と思い直した位の混雑。正門に近い「枝垂れ桜」の周りは、自由に歩く事も、写真を撮るのも思うに任せない状況。
   枝垂れの手前の「竹林」          「大きな枝垂れ桜」を裏側から
 
 人の流れに逆らいながら、写真に良いポジションを探しながら歩き、やっと良いポジションを。
          「大きな枝垂れ桜」                   少し位置を擦らせて             
 夜間照明がされているので、中々ピントがはっきりしない。何回も取り直したが、きりがないので先へ進む事にしたが、回遊路の幅が二人が精一杯なので、大泉水を前にして、ここでも立ち止まって写しているわけにもいかないが、池の中の島にある”妹山・背山”に当たる照明が凄くきれい。ここで、写真を撮っていたら、暗い中で横を通る清水誠に気が付き、声を掛けたら、本人がビックリしていた(息子の家族と来ていた)。
     ”妹山・背山”に照明が当たって                 「蓬莱島」
 
      「心泉亭」傍の松     第二の枝垂れとはいうものの桜?
 
 夜間ライトアップを見たのは初めてだったけど、来てみて良かった。
          


”ソメイヨシノ”の故郷、「染井霊園」へ桜を見に。

2016-04-06 07:48:33 | Weblog
 3月31日(木曜日)
 やっと桜が咲きだしたら、天気が思わしくなく、今年はどこの桜を見様かと。
加代さんを連れて、”行った事がない”という、桜の種類【ソメイヨシノ(染井吉野)】の生まれた場所へ案内を。
JR駒込駅で下り、駅前の「六義園」の染井口に並ぶ人を見ながら「こっちは後で」と染井通りを歩いて【染井霊園】へ。
《江戸時代、ここ染井周辺は植木職人の街で有名であった。中でも評判の高かった、代々・伊兵衛を名乗る伊藤家の政武がオオシマザクラとエドヒガンを交配しソメイヨシノを作った。それを売り出したのが始まりで、全国に広まりました。》
 霊園内は、「六義園」入場に並ぶ人とは正反対に、散策する人も少ない中、霊園事務所で頂いた「染井霊園マップ」を見ながら歩く。”言文一致の先導者”二葉亭四迷、”日本美術の先覚者”岡倉天心、”明治の木彫りの第一人者”高村光雲にその息子の”智恵子抄”で有名な高村光太郎・智恵子夫妻、”気骨ある明治新聞人で正岡子規を社員としていた”陸羯南の墓などを探しながら桜を見て回りました。
     左・岡倉天心の墓を見る様に桜が            高村光雲・光太郎夫妻の墓
 
                         西そめいよしの通り
 
          「長池堤」の桜                     満開の”染井吉野”
 
 今日は、丁度満開。前回来た時は、かなり散りだしていたので、霊園内の”花吹雪広場”が名の通り、広場一面が花びらで敷き詰められていたのには感動した事を覚えている。
 霊園の周辺の寺にも、遠山金四郎・芥川龍之介・谷崎潤一郎等、有名人の墓が有るが、そこには以前行っていたので、今日は、”西そめいよしの通り”を行った左にある勝林寺に有る、田沼意次の墓を見に。
 今日は、孫の小学校の入学式なので、「六義園」の”枝垂れ桜ライトアップ”は次回に。