4月20日(水曜日)
18日から”おじさんの会”の5人で、草野氏の嬬恋村の別荘にお世話になっており、昨日二人が上田から帰京したので3人になっていたが、今日は帰京する日なので、初日に草野さんの軽井沢の後輩の方のイタリアンレストランで昼食をした時にジャンパーを忘れてきたので、まず一番にそのお店に寄る積りで別荘を8時過ぎに出て来て、中学の時に林間学校で行った事が有る四阿山を見ながら軽井沢に入った処で、草野さんが「浅間山の噴火で埋まってしまった村が近くに有るので寄ってみる?」との話が有り、自分も平沢氏も「聞いたことない」となり、近いというので戻る事に。
早朝に撮れた”アカハラ” 四阿山
【群馬県嬬恋村蒲原区・県指定史跡 天明三年浅間やけ遺跡】
《浅間山(標高2,568m)群馬県と長野県の県境に位置し、現在でも活発な火山活動が観測されている日本有数の活火山です。浅間山の噴火として記録された最古のものは、なんと日本書紀に記録が残るほど古く、そんな噴火の歴史を繰り返してきた浅間山ですが、天明三年(1783)の大噴火は日本の火山噴火の災害として最大の出来事の一つとして数えられます。浅間山の噴火は5月9日から始まったとされるが、8月3日(旧暦7月6日)からは一段と激しさを増し、ついに5日の午前にはクライマックスの状態に達した。午前十時三十分頃、火口から吹き上げられた岩塊は浅間山麓に落下し、付近の土石を巻き込んで雪崩の様な状態で斜面を高速で流れ下った(今でいう土石流で、”浅間押し”と呼ばれた)。蒲原村を中心とした浅間山麓の被害はこの時に発生した。災害の中心となった鎌原村は、戸数百戸前後、人口570人ほどの浅間山麓の拠点的な集落であったが、村は一瞬にして埋没し、被災死亡者は477人(馬165頭)、生存者は93人とされる。観音堂の石段は昭和54年発掘調査をされ、その段数は全部で50段であり、おのうち35段が埋没し、その土石層の厚さは6m前後と判明した。尚、その際二人の被災者が発見された。更に、被災の後、90余人の生存者は、互いに園を結び、家族(新たな夫婦が出来、孤児も養子となり)を構成し、荒れ地を耕し、復興に努力した》
「蒲原観音堂」 赤い橋の手前まで埋まった
埋まっている石段 ”観音堂”と”おこもり堂”
「観音堂」 ”おこもり堂”の女性が説明を
「日本のポンペイ」とも呼ばれているらしいが、被災後に生存者全員で話し合って、新しい夫婦が出来、孤児を作らなかった事を聞いて感激した。人手の問題も有ったと思うが素晴らしい事だと思う。何度か嬬恋村には来ていたが、連れてきていただいた事に感謝を感じた。昭和30年に三笠宮殿下が訪問され、最近では池上彰さんも訪問されていた。近くを通った時は寄られてみたら如何でしょうか。
おばさんがお茶をふるまってくれ、 サータアンダギーの様な”かりんとう”も
又、来ます。
18日から”おじさんの会”の5人で、草野氏の嬬恋村の別荘にお世話になっており、昨日二人が上田から帰京したので3人になっていたが、今日は帰京する日なので、初日に草野さんの軽井沢の後輩の方のイタリアンレストランで昼食をした時にジャンパーを忘れてきたので、まず一番にそのお店に寄る積りで別荘を8時過ぎに出て来て、中学の時に林間学校で行った事が有る四阿山を見ながら軽井沢に入った処で、草野さんが「浅間山の噴火で埋まってしまった村が近くに有るので寄ってみる?」との話が有り、自分も平沢氏も「聞いたことない」となり、近いというので戻る事に。
早朝に撮れた”アカハラ” 四阿山
【群馬県嬬恋村蒲原区・県指定史跡 天明三年浅間やけ遺跡】
《浅間山(標高2,568m)群馬県と長野県の県境に位置し、現在でも活発な火山活動が観測されている日本有数の活火山です。浅間山の噴火として記録された最古のものは、なんと日本書紀に記録が残るほど古く、そんな噴火の歴史を繰り返してきた浅間山ですが、天明三年(1783)の大噴火は日本の火山噴火の災害として最大の出来事の一つとして数えられます。浅間山の噴火は5月9日から始まったとされるが、8月3日(旧暦7月6日)からは一段と激しさを増し、ついに5日の午前にはクライマックスの状態に達した。午前十時三十分頃、火口から吹き上げられた岩塊は浅間山麓に落下し、付近の土石を巻き込んで雪崩の様な状態で斜面を高速で流れ下った(今でいう土石流で、”浅間押し”と呼ばれた)。蒲原村を中心とした浅間山麓の被害はこの時に発生した。災害の中心となった鎌原村は、戸数百戸前後、人口570人ほどの浅間山麓の拠点的な集落であったが、村は一瞬にして埋没し、被災死亡者は477人(馬165頭)、生存者は93人とされる。観音堂の石段は昭和54年発掘調査をされ、その段数は全部で50段であり、おのうち35段が埋没し、その土石層の厚さは6m前後と判明した。尚、その際二人の被災者が発見された。更に、被災の後、90余人の生存者は、互いに園を結び、家族(新たな夫婦が出来、孤児も養子となり)を構成し、荒れ地を耕し、復興に努力した》
「蒲原観音堂」 赤い橋の手前まで埋まった
埋まっている石段 ”観音堂”と”おこもり堂”
「観音堂」 ”おこもり堂”の女性が説明を
「日本のポンペイ」とも呼ばれているらしいが、被災後に生存者全員で話し合って、新しい夫婦が出来、孤児を作らなかった事を聞いて感激した。人手の問題も有ったと思うが素晴らしい事だと思う。何度か嬬恋村には来ていたが、連れてきていただいた事に感謝を感じた。昭和30年に三笠宮殿下が訪問され、最近では池上彰さんも訪問されていた。近くを通った時は寄られてみたら如何でしょうか。
おばさんがお茶をふるまってくれ、 サータアンダギーの様な”かりんとう”も
又、来ます。