郵貯スタンプ・じい散歩

日毎に選んだ街を散歩しながら、郵便局の窓口で貯金をし、局名のスタンプを押してもらう。歩く街の感じた事を紹介。

「神代植物公園」に行って来ました。

2011-03-31 21:07:11 | Weblog
 3月16日(水曜日)
 巨大地震の後、今まで、奥尻島の津波の被害の跡はテレビで見た事は有りましたが、実際の津波が押し寄せて来る状況を初めて見て、物凄さに、
只、驚くばかり、テレビの画像をデジカメで撮ったりしてましたが、船が、車が、家が流され、何も無くなった都市が映し出されると、”映画のセット”と
思いたくなるが、実際の映像である事に愕然とされる日が何日も続き、店の売り上げは”話しにならない数字”が続き、中国人は慌てて帰国してしまうし、
明るい話題が無い中、昨日(15日)、電話が有り、本当は今日が、二年振りに挑戦仕様と思っていた東久留米市企画の「特定保健指導」の面談日だった
が、「スタッフが通勤出来ず、人数が揃わない」との理由で、”延期”になってしまい、今の自分に出来る事は、”奇麗な花を見に行き、皆にその写真を
見て貰おう”と花の見える場所に。今日は【神代植物公園】へ。
≪元は、東京の街路樹等を育てるための苗園でしたが、戦後、神代緑地として公開された後、昭和36年10月20日に名称も”神代植物園”と改めて
 都内唯一の植物公園として開園されました。面積は486,536㎡。≫
 4年前までは毎年2月に”梅”を見に、その他にも年に2~3回は車椅子を押しながら、”深大寺そば”を食べに行った序に、と結構行っていたが、
今回は4年振り。毎回車で行っていたが、始めて三鷹駅から調布行の京王バスで”神代植物公園”下車。妻と来ていた時は、障害者は付添も無料。
入場料(500円)を払って入るのは何十年振り。正門から入ると、入った所に、【大温室は15・16日は閉鎖。 ”洋らん展”は16日迄中止。】の貼り紙。
まず、「植物会館」に寄る。入口から中に掛けて”クンシラン”が並び、出る時に気がついた”サーティ・ワン”。梅園に向かって歩くと築山に”大寒桜”
    ”キバナクンシラン”           ”サーティ・ワン”             ”大寒桜”             ”大寒桜”のアップ
         
      ”ミツマタ”                 ”ボケ”               ”薄色縮緬(梅)”          ”薄色縮緬”アップ
         
     ”コブシ”の芽              ”神代曙(桜)”             ”子福桜”一輪               ”沈丁花”
         
    ”クリスマスツリー”             ”福寿草”                 ”花桃”             ”花桃(寒白)”  
         
広い芝生広場の手前の廻りは、福寿草以外は、まだこれから咲く花や木が多く、梅園に向かって歩くも、あまり人と行き会わない位空いている。
梅園の手前の神代小橋の手前に”サンシュユ”の大きな木が黄色く染まって見えた。   
神代小橋を渡る手前から左の”梅園”の紅・桃・白が混ざった花が満開。右は濃い緑の葉っぱの”椿・山茶花園”が広がる。まず、”梅”。
         ”満開の梅園”               ”見驚(ケンキョウ)”          ”塒出(トヤデ)錦”            ”白加賀”
      
      ”紅千鳥”               ”養老枝垂れ”              ”月宮殿”                ”無類絞り”
          
     ”楊貴妃”                ”輪違い”               ”輪違い”アップ-1           ”輪違い”-2
          
     ”世界図”   
 梅園の外れに”マンサク科”の木が二種類。
      ”アーノルドプロミス”(マンサク科)                          ”モリスパリダ”(マンサク科)
        
ここから”椿・山茶花園”に。
    ”初狩(わびすけ)”            ”秋の山”                  ”曙”                 ”紅獅子”
         
      ”太郎庵”               ”数寄屋”                  ”銀竜”                 ”菊月”
         
      ”蜀光錦”             ”日月(ジツゲツ)”               ”八重姫”                ”ヤブツバキ”
          
梅園と椿・山茶花園の間を歩くと、先程なかった”梅”が
           ”梅園”                 ”獅子頭”                ”獅子頭”-2          深大寺口前の茶屋
   
深大寺口前にあるお茶屋は、殆ど営業していない。こちら側から出様と思って深大寺門の方にお聞きしたら、「バスなら正門の方が」と言われ、別の道を
通って正門に戻る事に。雑木林を抜け、花の無い”バラ園”と”ふじ園”を抜け、大温室は閉まっているので、これも花の無い”ぼたん・しゃくやく園”に
入ったら、”王芙蓉”に目が出ていた。”しゃくなげ園”の中で”ヒマラヤスギ”の下を見て歩いたら、”バラ”の花の様な”実”を拾えた。正門手前の
”つつじ園”の中の”タチバナ”に黄色い実が一杯付いており、落ちたばかりの実を拾ってみたが、食べられそうもなかった。
  花の無い”バラ・ふじ園”          ”王芙蓉”の芽            ”ヒマラヤスギの実”            ”タチバナ”
          
今日は、天気も悪く、満開の梅も花びらが散ってしまいそうに強い風が吹き、人も殆ど居ないので、寒そうな一日でした。 
2時間10分。6,144歩の”こんな事をしていて良いのか?”散歩でしたが、”こんな時だからこそ”奇麗な花を見てもらおうと思う。
今日は天気も良くなかったので、写真も冴えないけど、その後、18日に「小石川後楽園」29日には「新宿御苑」に行って来ました。
                                             
       

「東日本巨大地震」当日に戻って、自信になる迄の事を。

2011-03-28 01:04:31 | Weblog
 3月11日(金曜日)
 その日は、地震次の日の12日にも書いたが、当日は亡き妻の母の95歳の誕生日で、昼前から、いつも食事をする中野通りの下田橋バス停前の
イタリアンレストラン「コパン」で、義母と、残った兄妹3人と、自分に自分の息子2人。平日なので、仕事や学校の関係で来れない孫や曾孫が誰も
参加出来なかったが、予約をしておかないと入れない店で約1時間半。義母を囲んで楽しい一時を過ごさせて貰い、三男の車で義母や兄妹を送らせ、
次男と2人で、そんなに遠くない自宅まで、「哲学堂公園」を通って帰ることにして、梅林口から公園の中に入る。
あまりここから入った事がなかったが、今は丁度”梅”の時期。梅林を見て、その先の【群像彫刻「哲学の庭」】に建てられた像を見て廻る。
梅林の梅の木に多数の”スズメ”        梅”思いのまま”              ”サンシュユ”
      
     「哲学の庭」の一番目                ”ガンジー”                ”達磨大師”             ”聖フランシス”
         
     「哲学の庭」の二番目              ”ユスティニアヌス”              ”聖徳太子”            ”ハムラビ
         
     「哲学の庭」の三番目                 ”老子”                  ”釈迦”               ”キリスト”
         
                                  ”エクナトン”             ”アブラハム”
                               
                (分析的美術史の研究から、”幸せへの道”を見出し、その理論を彫刻の形で表現)
≪ハンガリー出身で晩年、日本に帰化され、栃木県益子町で創作活動された彫刻家、故ワグナー・ナンドール氏の作品です。平成21年(2009)が
 日本とハンガリーの外交関係解説140周年・国交回復50周年にあたり、この記念行事の一環として、中野区に寄贈されたものです。
 尚、”群像彫刻「哲学の庭」は、同様の物が、ハンガリーノ首都ブタペストにも建立されています。≫
改修なった、妙正寺川を渡り、川沿いの下の道を歩くと菖蒲園の池端に一際目立つ花の木が二本。”河津桜。”哲学堂通り出口手前に”ニホンスイセン”
                    ”河津桜”              ”河津桜”アップ            ”ニホンスイセン”
                   
哲学堂通りに出て、ゆるい坂を登り掛けたら、金網越しに真っ赤な”ボケ”一輪。坂の途中の家に”ヒイラギ”の花と、”コブシ”の木の蕾が弾けそう。
                    ”ボケ”                ”ヒイラギ”               ”コブシ”の蕾
                   
ゆっくり帰ったので、皆帰っており、三男はそのまま店に直行しており、ケーキを買いに行った姉と妹も待っていてくれた。この後、あんなに凄い地震が
来るなんて思いもよらず、皆でケーキを食べ、暫くして兄は、買いものに行くと家を出、残った者はゆっくり寛いでいた。
                   ”ケーキ”               ”地震”の1時間位前
               
椅子に座ってウツラウツラしていた14時46分。何分揺れたのか、本当に死ぬかと思ったし、もしそうなっていたら、このケーキが最後に食べた物に
なっていたかも。
今日は(既に昨日)、自分の65歳の誕生日。三男の嫁から「誕生日おめでとう御座います。食事に来ませんか」と電話が入り、家に入ったら孫が
「ジジ、誕生日おめでとう。これプレゼントです。」と。食事の後にケーキも用意してくれていた。又、先週、店のアルバイトさん全員の名前と、
コメントが書かれたカードを頂き(その後プレゼントを渡された)、仏壇に納めて拝んでしまった。この歳(介護保険被保険者証まで貰ったが)に
なっても、おめでたいのかどうかは別にして、大変嬉しかったです。

 この度の「東北関東大地震」では、自分も会った事のある方が一人亡くなったとの話しも聞き、原発も含めて最悪の事態になってしまうとは、当日は
考えも及ばず、「津波」の恐ろしさを初めて感じると同時に、亡くなった方や、未だに不明の状態にある家族の方々に心からご冥福をお祈り致します。

「谷保天満宮」へ行って来ました。

2011-03-21 23:18:52 | Weblog
 3月9日(水曜日)
 今日も良い天気。”谷保天満宮”って知ってますか?。昨日も書きましたが、都内に”天満宮”が3ヶ所在り
ます。昨日行った”湯島”と、先月行った”亀戸”は23区内ですが、”谷保”は国立市です。
 立川で南武線に乗り換えて3駅目(6分)。南口に出て、公園から路地を歩いて甲州街道に出ると正面に
鳥居が見え、【谷保天満宮】。
≪昌泰四年(901)右大臣菅原道真公筑紫大宰府に左降の折、第三子道武公は武蔵国多摩郡分倍庄栗原
 郷(現・国立市谷保)に配流せられた。延喜三年(903)父君薧去の報に、道武公は思慕の情から父君の尊
 容を刻み、鎮座したのが起りである。天暦元年(947)京都北野天満宮造営の折、当社の威霊を奏上され、
 村上天皇の勅により神殿を造営され、官社に列せられる。建治三年(1277)後宇多天皇の勅により、藤原
 経朝書「天満宮」の扁額を納められる。その後、道武公の 孫、津戸三郎為守は源頼朝に仕え、数々の武
 功を立てるが、義和元年(1181)十一月三日、旧来の地(現・国立府中インター付近)より神殿を現在の
 地に遷し、太宰府に模して梅香山安楽寺を興し、社務六院を置き、祀典を司った。
 明治十八年(1885)には府社に昇格し、東日本に於ける天満宮としては最も古く、湯島天神・亀戸天神と
 並び、関東三天神と称される。因みにここの”うそ替え神事”は11月3日です。≫
参道を歩くと、放し飼いにされている”チャボ”が何羽も寄ってくる。(餌はやらないで)坂道を下りると滝が。
     ”谷保天満宮”            ”チャボ”が寄って来る            何故か滝が
      
本殿に向かって右に”座牛”何だけれども他では見れない”座牛”が居り、その奥に普通の”座牛”が鎮座し、
朱印を頂きに社務所に顔を出し、本殿に参拝。
       ”座牛”                青銅”座牛”             「谷保天満宮本殿」
  
本殿横から裏手に回ると、小さな奇麗な池に奉納された緋鯉に鴨、池の真ん中に「厳島神社」。丁度2年前
に、郵貯廻りで始めて来た時に、この池の水の奇麗さに見とれてしまった。”忍野八海”の池みたい。
            ”厳島神社”                     厳島神社裏の池
      
      神社横の池              ”常盤の清水”            神社奥の林に”半鐘”
      
池の源泉だと思われる【常盤の清水】があり、ここからの水が池に流れ込んでいるのだと思う。
≪永宝年間(1673~1681)に筑紫の僧某が谷保天満宮に詣でた折、この泉を見て
    ”とことはに 湧ける泉の いやさやに 神の宮居の 瑞垣となせり”
 と詠みました。これが”常盤の清水”は常に豊かな水量で”ついぞ枯れた事がない”と言われており、
 昔は付近の人々の井戸として使用されていました。≫
梅園の方へ行こうと本殿前を抜けていくと、古札納所の裏側に一羽の”白鷺”が側溝の水の中をゆっくり歩き
ながら、何かをついばんでいる。近寄っても逃げない。梅園に向かう木の根元に”チャボ”がたむろして。
     何かを狙う”白鷺”         何かをついばむ”白鷺”        木の根元に”チャボ”
      
梅園に入ると、観梅に来られている方がチラホラ。何か寂しい。先日、湯島天神でみた”思いのまま”も
         ”桃”                   ”白”                   ”紅”             
      ”思いのまま”            ”思いのまま”-2              ”梅林”
      
梅園を歩いていると”チャボ”が団体で散歩。一軒だけある売店でエサでも買おうと思って聞いてみたら、
「増えすぎても困るので、エサはやらないで頂きたいので」との事。甘酒を買って飲みながらいたら、「以前は
ウコッケイも居たのですが、チャボは木の上で寝るから大丈夫なのですが、ウコッケイは飛べないので、飼い
犬か、”ハクビシン”に喰い殺された様で、一羽も居なくなってしまった。」との話し。
”常盤の清水”の脇から甲州街道に出て、国立天神下局(風)から甲州街道を渡り国立市役所前踏切を渡り、
谷保第四公園に入ると、幼稚園位の子供を連れたお母さん達が団体で食事をしていた。公園の梅は満開。
  市役所前踏切に”南武線”       谷保第四公園                 ”梅園”
  
      梅園の”梅”               赤い”ボケ”
    公園を抜け、さくら通りにある国立局
(風)を貰い、富士見台局(風)に寄り、ここの団地に文祥堂の時の先輩が住んでいるが電話を控えて来な
かったので、廻るついでなので住所の棟まで行ってみたが、番号表示が違うので、素通りし、国立第三小学
校の脇を抜け、国立東局で風景印を貰い、一橋大学グラウンドの先の多喜窪通りを右折すると一橋大学寮
(国際学生宿舎)前に真っ白い”椿”が。この通りに”東坂下商店会(たまらん坂・嵐山光三郎)の幟旗が。
    坂の途中から国分寺市。途中の信号を
左折すると、道端に”沈丁花”が奇麗に咲いていた。この辺りは”内藤町”(俺ん家?)。住宅街に入り、名の知
れない花も咲き、静かな高台の住宅地。
      
内藤局に寄り風景印を貰ったが、直ぐ傍の嶋田家の壁面に驚き、国立駅方面に下りる坂の途中に真っ黄色
の”ミモザ”は今年始めて。
         分かりにくかったか。 
坂を下りきった右の家に、立派な”梅”の木。旭通りに出る手前の応善寺の勝手口から”ロウバイ”が。
                       
旭通り局・国立駅前局で風景印を貰い、駅前ロータリーに掛かったら、”国立駅前ロータリーはなくさないで”
という市民の反対運動がされていた。ロータリーから”大学通”を。
駅舎改装も行われ以前は雰囲気のある駅舎だったが、どこにでもある様な駅舎になってしまったのは残念。
国分寺側のガードを潜り、北口に廻り国立駅北口局で風景印を頂き、取りあえず今日の散歩は終りにし、
北口から入ったら、大きなカードを持った方達が南口の方から歩いて来られるので、駅員さんにお聞きしたら
「南北の通り抜けの方専用の許可証です。」との事立った。
風景印:8局。朱印:1社。3時間45分。12,113歩の散歩でした。

 
        

「湯島天満宮」へ行って来ました。

2011-03-20 21:01:18 | Weblog
 3月8日(火曜日)
 今は梅の時期。先日”亀戸天満宮”に行って来たので、今日は湯島へ行ってみようと家を出て、本郷三丁目
で下車。本郷三丁目の交差点に立つと、有名な『本郷の”かねやす”までは江戸の内』という【かねやす】ビル
≪兼康祐悦という口中医師(歯科医)が、”乳香散”という歯磨き粉を売り出して大評判になり、客が多数集ま
 り、祭りの様に賑わった。亨保十五年大火が有り、防災上から町奉行(大岡越前守)は”三丁目から江戸城
 に掛けての家は、塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根には茅葺を禁じ、瓦で葺く事を許した。江戸の町並みは、
 本郷まで瓦葺が続き、それからの中山道は板や茅葺の家が続いた。古川柳にも詠われた由来でもある。
 芝神明の兼康との間に”元祖”争いが起き、時の町奉行は「本郷は仮名で、芝は漢字で」と粋な判決を行っ
 た。それ以来、本郷は仮名で”かねやす”と書く様になった。≫
交差店を湯島方面に渡り、春日通りを歩くと、結構古い建物が見える。
     ”かねやす”ビル      日本キリスト教団本郷中央協会       税理士 溝田経理事務所    
  
     江戸あられ「 仙」            原田眼鏡店
    その先に創業寛永年間(1620年頃か
ら)営業している【御菓子老舗 壺屋總本店】という店に入って見た。
≪明治維新になり、長い間徳川様にお世話になったと、大店が廃業していく中で、店を閉店しようと思ってい
 たら、勝海舟が「庶民から支持を得ているんだから、辞める必要はない」と言われ、そのまま続けさせて貰
 ったそうだ。≫
最中を一個づつ買い、家で食べたら、餡の量が違うだけで、とても美味しかった。又、今度通った時に。
     「壺屋總本店」店頭      左から”壺型最中・壺最中・壺々最中”       ヒポクラテスの木
  
㈱南江堂(医学専門書の出版等)という会社の植え込みに【ヒポクラテス】という葉のない木が植わっていた。
≪医聖ヒポクラテスは紀元前460~375年にギリシャのコス島に生き、格言「人生は短く 学術は永遠である」
 を遺した。慶応大学医学部卒の篠田秀男博士は1955年、コス島に遺跡を訪ね、ヒポクラテスの樹の果実
 を5個を母国にもたらした。≫
その先の右に大鳥居が見え、鳥居を潜って本殿の正面から青銅の鳥居を潜るが、”梅まつり”は今日まで。
  
平日でも有り、屋台もたたんでいる店も多い。参道を入り、本殿に参拝。ここは以前に朱印を頂いている、
        参道               屋台裏の”水屋”            湯島天満宮本殿
  
本殿右脇には”盆栽の白梅と紅梅が飾られ、境内に多く咲いている”豊後梅”の拡大写真を
  
      ”思いのまま”              豊後梅に鶯二羽       梅に鶯(デジカメで良く撮れた)
      
     本殿脇の”豊後梅”             古札納所              本殿裏の枝垂れ梅
      
  境内で大道芸の”猿回し”      境内の”クリスマスツリー”         本殿裏の”沈丁花”
      
     湯島の蔵前通りに面してある「折り紙会館」の折り紙がケース入りで展示されていた。 
       
その他にも、境内には色々な”碑”が建てられており、それぞれに蘊蓄はある(調べて来た)が、簡潔に。
    ラドー製の”日時計”       「婦系図」の泉鏡花の”筆塚”       小唄功労者顕彰碑
      
新橋演舞場から写された”新派碑” 亀戸天満宮にも在った”文房至宝碑”  ”講談高座発祥の地碑” 
       
この他に、写真を撮り忘れていたが、「奇縁氷人石」という碑が建っており、石柱の右側面に《たづぬる方』、
左側面には『おしふる方』と刻まれ、これに貼り紙をして”迷子しるべ”とし、又、縁結びの役目も果した。
     男坂上に”瓦斯燈”           ”男坂”上から               ”女坂”上から
       
    男坂下の”湯島聖天”      天神下の老舗茶舗”大佐和”      大佐和入口脇の道標
       
道標には(←池の端 神田→)と書かれていた。
    ”たい焼”の幟が・・          突き当りが上野松坂屋      御徒町駅と吉池の間の道 
      
1時間50分。3,606歩のゆっくり散歩でした。都内にもう一つ”天満宮”が有り、そこへも行ってみようと。
      

「南蔵院」を見に。第二弾。

2011-03-19 10:09:28 | Weblog
 3月4日(金曜日)
 「甘泉園」を出て、新目白通り(都電通り)に出ると【面影橋】の都電の停留所が在り、傍に鉄製の橋が。
≪目白台から続く鎌倉街道と推定される古い街道沿いにあり、姿見の橋とも言われた橋名の由来には諸説
 あり、高名な歌人である在原業平が鏡の様な水面に姿を映した為という説、鷹狩りの鷹を、この辺りで
 見つけた将軍家光が名付けた説や、近くにいた和田靱負(ゆきえ)の娘であった於戸姫(おとひめ)が
 数々の起こった悲劇を嘆き、水面に身を投げた時にうたった和歌から名付けられた説。等≫
    面影橋停留所に都電         面影橋際に”道標”           ”山吹の里”の碑
      
雰囲気のない橋際に<←みなもと17.1㎞  7.5㎞すみだがわ→>の道標が。「みなもと」とは井の頭公園。
橋を渡ったオリジン電機㈱の正門脇に【山吹の里】の碑が建っていた。
≪新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一帯は通称”山吹の里”と云われています。これは太田道灌
 が鷹狩りに出掛けて雨に会い、農家の若い娘に、蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事に
 因んでいます。後日、「七重八重 花は咲けども 山吹の みの(蓑)ひとつだに 無きぞ悲しき」の
 古歌に掛けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだという伝承です。≫
オリジン電機の先に「南蔵院」が有るはずなので、そのまま進むと左側に、この地の総鎮守【氷川神社】が。 
≪下高田村(豊島区高田・雑司ヶ谷・目白・文京区目白台)の総鎮守として信仰を集め、平安時代の歌人、
 在原業平も参拝したと伝えられる。又、当神社の主神がスサノウノミコトである事から、俗に「男体の宮」と
 云われ、奇稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)を主神とする落合村(新宿区下落合)の氷川神社の「女体の宮」と合
 せて、「夫婦の宮」と呼ばれていたという。≫
参拝して、朱印を頂くので、社務所に声を掛けたら、「傍若無人の人が多く、一声も掛けずに入ってきて、写
真を撮ったり、歩きまわったりで困っている。カメラを何台も取り付けた」と言っていたが、神社というのは・・。
簸川神社の真向いに今日の目的の【南蔵院】が在り、まず墓地を見させて頂いた(これがいけないのかも)が
「座光寺家」という墓は確認できなかったので、寺務所に伺い、朱印をお願いしながらお聞きしてみたら、
そうゆう人が何人も来られているらしく、住職が「全くのフィクションです。取材に来られた事も有りません」と。
相当迷惑しているのではないかと思われる。
≪開基は室町時代とされ、徳川三代将軍家光がしばしば訪れたと記している。
 墓地内には、相撲の年寄である、片男波・粂川・雷(イカズチ)・音羽山・二子山・花籠などの墓がある。
 又、三遊亭圓朝の「怪談・乳房榎」ゆかりの寺でも有る。≫
帰り際に、おばあちゃんが帰って来られ、本殿前のバラの苗木を指して「5月には奇麗なバラが咲きますよ。
そこの一本の木を覆う様にバラが咲くのも見事だし、いえの脇にある”車輪梅”という木は、6月に真っ白い
花が一杯咲くので、その頃に又お見えになったら」と教えてくれた。近いので是非見に来よう。
         「南蔵院」             五月にこの木を覆う”バラ”が    6月に咲く”車輪梅”の木
  
今から思うと、この南蔵院は、妻が生存の頃、店の有る高田馬場から実家に行く時に、この前を左折して、目
白不動の前の急坂を登って目白通りに出ていた場所だった。そんな事から位置関係が分かったので、前から
行こうと思っていた【目白不動尊】へ寄って見る事に。
≪目白不動金乗院という。開山永順が本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を築いたのが草創とされてい
 ます。永順の沿年は文禄三年(1594)六月で有る事から、それより以前、天正年間(1573~92)の創建と考
 えられます。当初は、蓮花山金乗院と称し、中野宝仙寺の末寺でしたが、後に、神霊山金乗院慈眼寺と改
 め、護国寺の末寺となった。目白不動堂(東豊山浄滝院新長谷寺)は、元和四年(1618)大和長谷寺第四世
 小池坊秀算が中興し、関口駒井町(文京区)にありましたが、昭和二十年五月の戦災により焼失したため、
 金乗院に合併し、本尊の目白不動明王像を移した。
 目白不動明王は、江戸五海道守護の五色不動(青・黄・赤・白・黒)の随一、又、江戸三不動(白・黒・赤)の
 随一として名高く、目白の号は寛永年間(1624~44)に三代将軍家光の命に寄るといわれる。墓地には、由
 井正雪事件で有名な槍術の達人、丸橋忠弥・青柳文庫を創業した青柳文蔵等の墓が有る。≫
   目白不動金乗院                目白不動堂              丸橋忠弥の墓
       
     境内の”鐔塚”         金乗院向の駐車場脇に”半鐘”     金の成る木の”花”が満開
       
目黒不動尊は名も知られているし、場所も知られているが、今の”目白不動”をどの位の人が知っているの
だろうか、”五色不動の随一”と言われていても、殆ど知らないのではないかと思う。
金乗院前の、急な宿坂を登ると正面に”鬼子母神”の表参道が正面に見えるが、今日は行かないで目白駅
   宿坂の上から振り返ると      鬼子母神の”表参道入口”
      
方面に向い、明治通りの上を走る千登世橋を渡ったが、歩いて渡ったのは初めて。両方の橋の欄干。
       小橋                  大橋
 
学習院の前を歩いて、目白駅の手前を左折、「切手の博物館」内のロータスで切手を買ったが、疲れて喫茶
室の椅子で暫く寝てしまった。     3時間20分。9,080歩のゆっくり散歩でした。
      

先日読んだ文庫本に出てきた山吹の里にある「南蔵院」を見に。

2011-03-18 10:29:41 | Weblog
 3月4日(金曜日)
 昨年読んだ”佐伯泰英作「交代寄合伊那衆異聞」という本の主人公”座光寺家”の菩提寺が高田馬場に近
い昔、”山吹の里”と云われた場所にあるというので、前から見に行って見ようと思っていたので、今日は
歩いて見ようと、12時40分に高田馬場から早稲田通りを歩き、ラーメン店等を覗きながら、明治通りを越
え、グリーンプラザというホテルの手前を左折して道なりに行くと直ぐ右に「てんぷら いもや」の看板。
昨年ここを通った時に、”エッ何でこんな場所に?”と思っていたので、今日はスタートからここで食べ様と思
って来た。中に入ると、もう1時なのに2席しか空いてなく、「奥へどうぞ」と中に入り「定食お願いします」
       店頭                  店内                  定食(600円)
  
神保町周辺でしか見た事がなかったので、お聞きしてみたら、「”のれん分け”で神保町で18年営業してきた
が、忙し過ぎて、こちらに移転したが3ヶ月で”席の後ろで、立って待つ人”が出来だして、すでに28年目」
「学生さんが高田馬場から歩く人が少なくなり、この道を通る学生が少なくなってきたので、お客様は減った
けれど、丁度良い」一歳下の御主人(73歳)と二人きりなので「どちらかが倒れたら閉店。元気で仕事が出
来ればそれで良い」とおっしゃる。食べ終わって「ご馳走様」と言ってお金を払おうとしたら「揚げ玉持って
く?」とビニール袋に入れて持たせてくれた。”安くてボリュームたっぷり”なので若い人が多いのだが、昔か
よっていた様なお客様も何人か。何時までも”元気”で頑張って欲しいものだ。
 店を出て、直ぐ傍の【水稲荷神社】へ参拝。
≪天慶四年(941)、藤原秀郷が冨塚の地に稲荷大神を勧請し、”冨塚稲荷”と命名。元禄十五年(1702)、
 神木の椋の根本より霊水が湧き出し、眼病に効くとして評判となり、火難退散の神託が下った事から、
 ”水稲荷神社”と改名。
 天明八年(1788)、「江戸の水稲荷」を名乗る翁が現れ、京都御所の大火に功績が認められ、「関東稲荷
 総領職」を賜る。昭和三十八年(1963)、早稲田大学と土地交換を行い、甘泉園(清水徳川家の下屋敷)で
 ある現在地に遷座。境内にある高田藤塚は江戸最古の富士塚の移築である。≫
       参道右に”紅梅”          参道左に”白梅”      参道左に「堀部武庸(安兵衛)加功碑
      
     参道右に”弓道場”            ”本殿”                    耳欠け神狐
  
”耳欠け神狐”は、身体の痛い処と神狐を交互に撫でると、痛みが和らぐそうだ。富士塚古墳は本殿の真裏
に在り、”戸塚”という町名の起源にもなっているそうです。本殿前には、「太田道灌駒繋松」や見れないが、
徳川家の遺構の茶室”聴松亭”が在り、「この辺り一帯を”山吹の里という」という看板も見える。
 参道に戻り、鳥居を潜る手前の入口を入ると【甘泉園】という庭園が。
≪園内に湧水が有り、清冽で常時涸れず、又、茶に適したところから起こったもので有り、その由来を書き
 記した石碑が園の南東に当る”水稲荷神社”の社務所脇に現存している。この地は、江戸中期の安永三年
 (1774)徳川御三卿の一つ、清水家の下屋敷が置かれた処である。明治三十年頃、相馬家の所有となった
 が、昭和十三年、早稲田大学に移譲された。戦後、都はこの地を買収し、改修の手を加えて、昭和四十四
 年、新宿区に移譲した。庭園は、神田川右岸を東西に走る台地の北面の傾斜地と、その低地にあって、
 段丘の高低差を利用し、泉の水を引いた池を回遊する林泉になっている。≫
園に入って階段を下りて行くと
     左に”上滝”          手の届く所に実のない”柑橘の木”    池の中に”川鵜”が1羽
      
   ”雪吊り”を施された松        下の出口手前に”椿”
    
前に来た時にも殆ど人が居ない”静かな公園”だが落ち着けそうな公園。
ここで一旦切って、次に続けたいと思います。

「給油」追伸

2011-03-17 23:48:30 | Weblog
 3月17日(木曜日)
 さっき書いたブログの後、握りたての温かいシジミ入りの混ぜご飯”のおにぎりを二つと、ラスクを持って自
転車で息子の様子を見に(陣中見舞い)行ったら、前の方達が諦めて帰ってしまったのか(昼間話した方も
居ない)息子の車が前から4番目になっていた。嫁も湯たんぽを持って自転車で来て、後部座席に座ってい
たので、取りあえず一緒に座って話しながら待ったが、全く動く気配を感じられなかったので、10時20分に
「もう、今日は無理。明日の早朝になるんでは」と言って車を離れ、帰途に就いたら、携帯が鳴って、嫁から
「お父さん給油が始まりました」との連絡。1分も経っていないのに。途中で、外に出て話しながら待っている
人達が居たので、「給油始まったそうですョ」と教えたら「ありがとうございます」と喜ばれ、
帰宅して直ぐに自転車を置いて、車で出て最後尾に並んだ。息子に電話をして「今、並んだ」と報告したら、
「コングラッチュレーション!!」と叫んでいた。朝の10時半から12時間並んだんだから・・・・。
給油も”万札は使えず、1000円札か、クレジットカードのみ”との事で、並び出してから45分で給油が出
来た。これは息子の”おかげ”。自分の後にも40台位並んで居たが、直ぐに終りそうだ。

震災の影響で「給油」が。

2011-03-17 20:16:01 | Weblog
 3月17日(木曜日)
 地震の後、ガソリンを給油する為に道路の左側に渋滞の様に繋がって待つ車が多く、そんなに切羽詰ま
っているのか?と思っていたが、今日の昼過ぎに三男が「トイレ貸して」と入ってきて、「給油しておこうと思
って朝から並んでいるんだけど、トイレに行きたくなったので、嫁に変って乗っていて貰ってトイレに来た」と
の話しで、「スタンドやってるの?」と聞いたら、「開くまで待つ」のだそうだ。
 息子は店の営業が終わって帰るので、電車がない時間になるので、車ないと仕事にならなくなる。
3時半頃に、状況を見に”ゆで卵”を4個持って出掛けてみたら、昼に”プライスの横”と言っていたのが、
少し動いただけで、後方に40台繋がっており、前を見ても全く動きが感じられない。卵を渡してから前を見に
行ってみた。息子の車からサラに40台前がスタンドに並んでいる一番前だが、スタンドには「17日営業未定」
   16日午前中の団地入口の列        17日営業未定の貼り紙       スタンドからの列
  
の貼り紙が貼られており、人もいない。前から3番目に並んでいた車の方が寒そうに外にいたので、
「凄いですネ」と声を掛けたら、
「朝6時に来て、ガソリンを入れてから、小金井に仕事に行こうと思ったが、やってないので待っている」
と言うので「こんな時間迄待っているなんて、暇なんですか?」とお聞きしたら、
「ガソリンが無いと、走れないので、今日は仕事を休んで絶対給油して帰らないと。11時頃には入るそうだ」
今、4時前。まだ7時間以上もあるのに、又、来ると決まっていないのに待ち続けるなんて・・・俺には無理。
息子の車まで戻って、状況を伝えたが、彼も
「朝から並んでここまで待ったのだから、待つしかない」
後で、差し入れでもしようと思って帰ってきた。
これから、夕方作った「乾燥シジミを使った”混ぜご飯”を作ったので、”おにぎり”にしてこれから持って行く
事に。
それにしても、政府が、やっと”買い置きはやめて欲しい”とのコメントを。ガソリンについても充分なストック
が有ると発表したが、「計画停電」で通勤の足が奪われてしまう状況になれば、生真面目な日本人は休まず
に、どうしたら会社に”行けるか、帰れるか”を考える人達なので、この様な現象が起きても仕方がない。こ
れに対する善後策をとれなかった政府の責任だと思う。何もかも手を打つのが遅いし、情報に一本筋が通
っていない。
 昨日、福島県と宮城県の横田氏と連絡が取れたが、ガスと水道が使えないので営業が出来ない。心配して
いた亘理のオーナーの御両親が津波で自宅ごと持って行かれ、遺体が確認されたそうだ。今から10年位前
にお会いした事が有るので、驚いたのと、御冥福を祈りたい。
 海岸線を走っている国道6号線を挟んで”天国と地獄”だそうで、店は殆ど左側にあるので、無事だったが、
水道とガスが仕えないので全く営業が出来ないらしい。(阪神の時も店によってはガスコンロを用意して営業
していた店が有ったのを覚えている)全く収入が見えないので”今後どうなるのか心配でしょうがない”と。
店舗を多く持っていらっしゃる方の方が大変。茨城の”ホリイフード”も今日までに株価が200円も落ちた。
今は、我慢するしかないが、自分の店でも中国出身のアルバイトさんは、怖がって帰国してしまった人も何人
かおり、何時帰って来るのか?仕方がないが。
次回から以前のも残しているものも有り、”じい散歩”に戻って書いて行きたいと思います。ご期待を。

大地震の影響で、「商品不足」に

2011-03-15 15:44:35 | Weblog
 3月14日(月曜日)
 哲学堂で今までに経験した事のない地震を経験して三日経ち、朝10時2分”茨城沖”発成のM6.2の余震
で、妻の実家に電話を入れたところ、義姉がその後も高齢な母を抱え、余震の度に怖い思いをしている。
日頃は、7階の窓正面に富士山が見える場所で、眺めも良いのだが、こうなると逆にどうしようもない。
12・13日と、テレビの映像を見ているだけで、今回の地震の凄さに、ただただ驚くばかり。被災地の方々も
思っても見ない現象で、何がどうなっているのかも分からない内に被災し、多くの家族・友人を失ってしまった
ものと思われる。復旧についても何時になったら今までの様な生活に戻れるのか?。”阪神”の時も凄かった
が、津波であのような状態になったので、”阪神”以上の時間が掛かるのではと思う。自分達に出来る事は?
茨城県他で居酒屋を展開しているチェーン店の社長には12日に連絡がとれた。「店の半分が営業出来ず、
一か月以上は掛かるだろうと思うが、亡くなったスタッフが居なかったのが不幸中の幸いでした。」と。
福島の知り合いに電話を掛けてはいるが、今日の夜、やっと留守電に入れる事が出来たが、無事なのだろ
うか心配。亘理、名取、石巻等の知り合いの方達の行方が心配です。
仙台の昔の会社の先輩には今日の夜、やっと携帯が通じ、「凄かった、死ぬかと思った。家族全員無事で、
電気、水道、ガスが全く途切れてしまい大変だったが、今日の昼から電気と携帯が通じる様になったので、
水道はポンプが動くようになったので仕えるので助かった。まだ余震が在るので家の外には出ない事に。」
 昼間、地元のスーパーへ出掛けてみたら、気が付かないうちに、凄い事になっており、「計画停電」による
必需品である、ロウソク・懐中電灯・電池等を買い置きする方達に混じって、食材の買い置きに走る方達が
多く、スーパーの棚の内、空っぽになる様な商品が目に付いた。エスカレータで地下に下りたら
 籠を乗せるキャスター殆どなし       納豆・豆腐コーナー        野菜(ジャガイモ)コーナー   
      
 干麺(そば・ソーメン)コーナー       カップ麺コーナー             弁当コーナー
      
 米を5袋も買ってどうするの?        特売肉コーナー           ソーセージコーナー
      
     玉子コーナー           菓子パンコーナー         特売菓子パンコーナー
      
   牛乳・ドリンクコーナー         ドリンク(水)コーナー
           1階に上がると、
    懐中電灯コーナー             電池コーナー            カセットコンロコーナー
      
何で?と思いながらも、買えなくなったのは事実で、”出遅れたか?”という気持にもなってしまう。
西武鉄道の運行が分かりにくいので、車で高田馬場まで行く事にして動いたが、途中途中で一番左の車線
だけ渋滞しているので、”何で?”と思ったが、通過する時に、”ガソリン”を入れる為に長蛇の列の様にして
給油している方達が。馬場に6時半に着き、店に入ったら、2組のお客様。アルバイトを調整して帰って貰い
自分を含めて4人態勢で実施。開店以来初めての事だったが、お客様も殆どお見えでなく、遊んでいる様
だ。それでも、韓国人の常連さんが7人で”誕生祝いの飲み会”をしていた。少し早めに上げて貰い、帰った
が、途中の新青梅街道も、住宅や店の明かりが少なく、通りも暗い感じだった。
 原発の問題が大きく取り上げられているのは当然だが、同時に被災者への救災処置を最重要にしなけれ
ばと思うのだが、今日(15日)の時点ではニュースが原発中心になっているのはどうなのだろうか?。我々が
聞いても手の出せない部分を聞かされているよりは、そちらは専門家に任せるしかなく、被災地出身の方々
は家族・親類・知人の心配をしていると思うのだが、もっと身近な情報が欲しいのでは。間違いだろうか。

「東北地方太平洋沖地震」

2011-03-12 09:43:59 | Weblog
 3月11日(金曜日)
 皆さん、御無事でしたでしょうか?。昨日は大変な思いをしました。
昨日は、丁度亡くなった妻のお母さんの95歳の誕生日で、兄弟に家の息子二人を加えて、”誕生日の食事
会”を哲学堂公園近くのイタリアンレストラン「コパン」で11時半から1時過ぎまで、楽しい一時をすごした後、
哲学堂の野球グラウンド前にある実家のマンション(7階建の7階)でお茶を飲みながら、再度ケーキを食べ
たりした後、椅子に座ってウツラウツラしていたその時(14時46分)に。急に揺れ出して目が覚め、次に大
きく揺れ出し、ひじ掛けを持ったまま動けなくなり、義姉が直ぐに部屋のドアーを開け(退路確保)、本棚の本
が落ち出し、姉のパソコンのモニターが落ち、義母の部屋の薄型テレビが棚から落ちるのが見え、取り替え
たばかりの花の花瓶が倒れたり、ピアノの上に飾っていた人形がバラバラ落っこちて、土で出来ている人形
は壊れたり、義妹も息子も動けなくなったまま、今までの経験で”もう終わるだろう””もう終るだろう”と思って
も、一向に揺れが収まらないので、一瞬ではあるが”このまま死ぬのか?”と思ってしまったのも確か。
窓の外に見えるグラウンドでは少年野球がそのまま継続されており、”こんなに揺れているのに気が付かな
いのか?”と思っていたら、やっと”何が有ったんだ”と、不審そうにマウンドに集まって来ていた。
どの位揺れていたのか?。地震でこんな気持ちになったのは初めて。物凄かった。
 テレビを見ていたので、東京直下型かと思って、見ていたが、震源地が”仙台沖”と出た時には、”仙台でこ
んなに揺れるのでは、地元では”とんでもない”のではと思った。
揺れが終わっても「余震が来るから注意して」と言いながら、更に落ちそうな物を片付けていると、又揺れ出
し、柱や壁を触って、余震をやり過ごしカメラを持ち出して写してみました。
       ”ピアノの上”           ”本棚からの落下”            ”座っていた椅子の廻り”         
義母をカバーしようと思っても、揺れが激しく近づけなかった。ここに居ては危ないと思い、公園に避難しよう
となり、入口ドアーは解放したままで、義母を連れて下まで下りるのに、何故かエレベーターは止まらず動い
ていたが、息子が手を抱えながら、階段を注意深く一歩ずつ下り、自分は先に下りて入口廻りから外を確認
したが、外に出たら同じマンションの6階の方も同じ様な目にあっていた。息子と姉妹に義母を預け、店が気
になり、断って店に行く事にしたが、タクシーの空車がなく、一駅歩いて”東池袋行”のバスに乗って目白駅前
に。JRを始め、地下鉄等も一切動いていないので、交通機関としてはバスのみ。車窓から見ていたら、下
校中の小学生が”防空頭巾”をかぶって歩いているのを演習以外では初めて見た。目白駅から高田馬場ま
で学習院の脇の道から新目白通りを渡り、店に行く道を歩いたが、JRが動いていないので、皆歩いていた。
      
店に入ったら、何事もない様な状態だったが、中国のアルバイターは初めての経験だったらしく、地下なの
に揺れによって”酔った”そうだ。交通機関がバス以外は全面ストップなので、息子の嫁は家に戻れない。
逆に入る予定のアルバイトも全く来れない状況になってしまい、中野から1時間掛けて歩いて来てくれた子
や、自分や嫁も残って手伝う事に。山本君や、沖縄の喜久本格君からも電話を貰い、ありがたかった。
こちらからもかけようと思って、仙台や郡山、水戸の知り合いに電話をしてみたが一切掛からず、何もなけ
ればと思ってはみても、元気で有ってくれればと思うが・・・。心配です。
 それでも首都圏では、亡くなった人は”0”との話だったのでホッとしたが、その後、少しずつ被害状況が分
かる様になると、死者も多くなり、特に”津波”の被害が多いのに驚いたと同時に、津波の威力の大きいの
にも驚いた。店の営業も、休憩的に入って来るお客様も多く5人入られて、コーラ*3にウーロン茶*2という
様な注文だったりも仕方がない状況。10時で一応上がり、廻りを見て回るが、営業を中止している店もあ
るが、”スタッフが来られなかったから”という様な理由も有るのでは。駅に行ってみたら、廻りでたむろして
いる若者も多く、JRはロープが貼られて
      「東日本管内の新幹線・首都圏・東北エリアについては、本日は運転を致しません」の貼り紙が。
ところが、西武線は改札の中へ入って行く人が続いているので、見に行ったら”運転再開”したばかり。
店に戻り、12時まで手伝って息子の車で一緒に帰ろうかと思っていたので、嫁と一緒に帰る事に。思った
より早く帰る事が出来た。家に入ったら、1階だからそれ程でもなく、妻の写真や仏壇の中の物が落ちてい
るぐらいで済んだ。
         高田馬場駅周辺の22時過ぎ                自宅の被害
              

朝5時過ぎからテレビを見ていたが、”津波”の威力の物凄さにただただ驚くばかり。亘理にも店が有った
し、仙台・福島・茨城等の被害を見ると、連絡してみるも、まだ一歳繋がらず、気になってしょうがない。
皆さんが無事で有る事を祈るしかない。