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【中学歴史教科書8社を比べる】147 ⒃ 「部落差別」の描き方のちがい <その7 ⅲ 江戸時代の身分制度 3/3>

2017年04月11日 | 佐賀県の政治経済

ⅲ 江戸時代の身分制度  3/3

  ~まとめ表 再掲~

 

 

 2 「けがれ」とはどんなことを意味しているのか

 古代からつづく歴史的日本文明のなかの、「けがれ」の意味内容はとても複雑。

※ 「穢れ」という「訓読み漢字表記」が使われることによって、戦後日本人は(ついこの頃までの私と同じように)、かなり誤解をしている可能性が高いと思われる。

 

① <ウィキペデア:けがれ>より  ※現代人がなかなか分かりにくい考え(意味内容)の部分を引用する。

・「戦後の民俗学では、「ケガレ」を「気枯れ」すなわちがカレた状態とし、などのハレの儀式でケを回復する(ケガレをはらう、「気を良める」→清める)という考え方も示されている。
 この点については「
ハレとケ」の項目も参照。」

 

・「神道と仏教

 両者とも穢れに対する意識はあるが、もっとも異なるのは、死そのものに対する考えで、神道では死や血を穢れとするが仏教では神道のようには死を穢れとみなさない。

 葬式などは、仏教では寺で行うこともあるが、神道では神域たる神社ではなく各家で行う。
 これは神聖なものがなんであるかの違いであり、また、清めの塩は穢れを清めているものである。
 この穢れは死者ではなく、死という事象が穢れていると感じた精神的な物である。
 
したがって死においては亡くなった方だけでなく、その身内も忌中の間は神域に立ち入ることは一般には許されない。
 一方で、死者を神として祀る神社があったり、また墓である古墳も神域と見なされる。

 もともと神道においては、穢れは「気枯れ」すなわち「生命力の枯渇」のことであるとされ、その状態では人は罪を犯してしまいやすい状態にあると考えられており、「心の平静を保てなくするような事象」はその「気枯れ」につながると考えられたために、死が穢れたものとされた、などの説がある。」

 

<脱線1> 

② 表記について ~「けがれ」と「穢れ」のちがい~

・「けがれ」・・・和語の本来的な表記

 和語(現代日本語の基層となっている第1日本語:音声言語)の音声表現文字だから。


・「穢れ」・・・和語の便宜的な表記。「訓読み漢字」を使った表記。

 中国亜大陸からの漢字導入後に、上記和語(「けがれ」)に、漢字を「当て字」したものだから便宜的用法。

 (※「音読み漢字」・漢語(第2日本語)とは根本的にちがう用法。参考:第3日本語=カタカナ表記した外国語)

 

 「けがれ」を使わずに、「穢れ」を使うと、漢字「穢」の意味がくっついてきて、日本古来の意味とまじりあってしまう。

 そうすると、歴史的「けがれ」について誤解が生じる原因になる。

※漢字「穢」の意味=けがれ。けがれる。けがす。よごれる。けがらわしい。きたない。/荒れる。田畑が荒れる。雑草が生いしげる。/わるい。悪いもの。悪者。

 

 <脱線1の脱線> 

 (戦後の?)国語(日本語)教育の不備によって、少なくとも小中学校の「日本語についての教育」は、とてもレベルが低いと思う。
 特に、昭和50年代からのいわゆる「ゆとり教育」によって、(すべての教科の)内容:量がしだいに減らされ(最大で1/3減)てからは、悲惨ともいえるありさまだった。

 日本語は世界でも有数の「複雑な言語」なのだから、「日本語についての教育」はもっと言語学に基づいて充実したほうがいいと思う。
 特に、「和語」(「やまとことば」)についての内容が、非常に薄い。

 ①文字が4種類も!・・・ひらがな、カタカナ、漢字、ローマ字
 ②語彙が豊富・・・和語(縄文時代以前から)、漢語(2千年ほど前から)、外来語(中世から。明治維新、大東亜戦争後に激増)

 

(※「国語科の教育」=①国語使用能力を育てる教育。日本語の文章の理解力と表現力を育てる。説明・論説文、物語文など多様」 + 国語(日本語という言語)そのものを理解させる教育=言語学:日本語学。文法(論)、文字(論)、語彙(論)など」

 

 

<脱線2> 

 34年間にわたり、小学校の同和教育の現場で「差別」について学ぶ中で、かなり納得した言説(※学問的に認められているかどうかは分かりませんが)や、体験したできごとの一部を紹介します。

・嵯峨天皇 (809~823 平安時代初期)以降、朝廷は、全国の要所に治安維持のための常住兵士を配置した。地区として残存する集落がある。
 住んで暮らしていくための生業として、重要産業である皮革業を独占する特権(利権)を与えた。
 今でも、一部に先祖伝来の尊王思想をもっている方々もいるそうだ。

・「被差別民」とされている人々のなかには(多くは?)、下級末端役人として、百姓・町人に対する最前線で治安に関する仕事をした。だから、かなり嫌われたりうらまれたりしていた。
 一部には帯刀していた人(下級武士?)もいたらしい。

・明治の「解放令」以後になって、差別が非常に激化した。
 その理由は、
 皮革業利権の喪失(→貧乏化)などのほか、それまで「権力の末端」にいて治安業務や年貢の取り立てなどに携わっていた人々が、ただの「平民」になった(※格下げになった)ので、それまでの「復讐」を受け始めたから。
「キリシタン(キリスト教徒)弾圧」の最前線にいた人々を、欧米諸国の圧力で、明治政府が切り捨てたから。

 ~以上、言説~

 

・私が小学5年生の頃、友達から「ここは○つがいるから気をつけろ」と言われたことがある。しかし、その意味は、昭和51(1776)年に小学校教員になり「同和研修」を受けるまでわからなかった。

 その後調べたら、その地域では、江戸時代以後「ちょうりんぼう」(「のぼう」から転音?)と呼ばれていたらしい。(伝聞)

・学校で「人権啓発としての同和教育」が始まる昭和40年代まで、《上記地域では、葬式などの際には、他の人々と同じ場所(座敷や本堂)には同席できず、一段下がった土間に座っていた。》と聞いたことがある。(伝聞)

 

~次回、明治以後の描き方

<全リンク⇒> <差別 141142143144145146147・>


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