佐賀県民の声 ~言わんと、なんも変わらんばい!~

実は日本には大昔から「村の寄り合い」や「民をいつくしむ皇室」などりっぱな日本的民主主義があった。ここは民の声の広場です。

【中学歴史教科書8社を比べる】13 ~⑶水田稲作の伝来  各社ばらばら! <その3>~

2016年11月29日 | 社会・文化・文明

4 水田稲作伝来ルートの各社の違いについて

 違い(の原因)について理解するために、まずウィキペデアで基本的知識を確かめる。

⑴ ウィキペデアに書いてあること (2016.11.28現在)

 ※引用元を<リンク>している。なお、字化は松永による(※考察のための基本部分なので)。

A:<弥生時代

「紀元前5世紀中頃に、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州に広がった。」

「甕棺墓は、北部九州弥生時代 - 中期の代表的な墓制である。前期前半段階には壷形土器をそのまま大型化した埋葬容器が使用されるが、前期末までには埋葬専用容器として独自の形状を持ったものが成立する。朝鮮半島に甕棺墓が現れるのは日本の約100年後であり、半島から伝来したとは考えにくい。」

 

「中国との通交 中国との通交は渡来系弥生人に遡ることができる。近年、DNAの研究が進み、渡来系弥生人の多くは中国大陸の長江流域、江南地方から来たと言われている。更に遡ると現在の中国の青海省付近にまで遡ることができるという調査結果がある。

 稲作については、弥生米のDNA(SSR多型)分析によって、朝鮮半島には存在しない水稲の品種が確認されており、朝鮮半島経由のルートとは異なる、中国中南部から直接渡来したルートが提唱されている。」

 

「最初に弥生系と考えられている北部九州や瀬戸内・近畿地方でさえ、弥生時代初期の遺跡からは弥生系の人と判定される人骨の出土数は縄文系とされる人骨より少ない。水田稲作の先進地帯でも、縄文人が水稲耕作を行ったのではないか。絶対多数の縄文人と少数の大陸系渡来人との協同のうちに農耕社会へと移行したと考えられる。」

 

「佐原真は福岡平野・佐賀平野などの北九州の一部で、縄文人が渡来人と混血した結果弥生文化を形成して東に進み、混血して名古屋と丹後半島とを結ぶ線まで進み、水稲耕作が定着したとしている。混血が起きた地域を西日本と限定すると、東日本では鈴木尚の説のように在来の縄文人が弥生人化したと理解している。」


B:<稲作

 「イネ(水稲および陸稲)の日本本土への伝来に関しては、『朝鮮半島経由説』、『江南説(直接ルート)』『南方経由説』の3説がある。」


 ~『朝鮮半島経由説』より~

「分子人類学者の崎谷満は、ハプログループO1b2 (Y染色体)に属す人々が、長江下流域から朝鮮半島を経由して日本に水稲をもたらしたとしている。」


 ~『江南説(直接ルート)』より~

「農学者の佐藤洋一郎は、中国・朝鮮・日本の水稲(温帯ジャポニカ)のSSR(Simple Sequence Repeat)マーカー領域に存在するRM1-aからhの8種類のDNA多型を調査し、中国にはRM1-a~hの8種類があり、bが多く、aがそれに続く、朝鮮半島はbを除いた7種類が存在し、aがもっとも多い。

  日本にはa、b、cの3種類が存在し、bが最も多い。aは東北も含めた全域で、bは西日本が中心であることを発見し、稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠になるとしている。」


 ~『南方経由説』より~

「2008年には、農業生物資源研究所がイネの粒幅を決める遺伝子「qSW5」を用いてジャポニカ品種日本晴とインディカ品種カサラスの遺伝子情報の解析を行い、温帯ジャポニカイネが東南アジアから中国を経由して日本に伝播したとする論文をネイチャー ジェネティクスに発表している。」

~つづく~

<全リンク⇒へ> <水稲111213・> 


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。