九州神社紀行-ブログ

北九州近郊を中心に神社および周辺風景の撮影日記です。

能褒野神社(三重県亀山市)

2009-09-02 15:42:33 | 神社参拝ー中部
 能褒野神社(三重県亀山市)を掲載しました。

 能褒野神社(のぼのじんじゃ)
【鎮座地】〒519-0213 三重県亀山市田村町1409 旧伊勢国 鈴鹿郡
【御祭神】日本武尊 (配祀)弟橘姫命 建見兒王
【例祭】 10月8日 例祭
【旧社格等】県社
【御由緒】
 能褒野神社御由緒
日本武尊能褒野で薨去される。景行天皇深くこれを嘆かれ、太子の礼を以て葬られた。
中世以降戦乱が相ついで尊の御陵墓も荒廃して定かでなくなり、加佐登塚、吉備塚等諸説が続出したが、明治十二年、前方後円の古制により十六のばい塚をもつ女ケ坂を以て尊の御陵であると確認され、守部を常置して祭られることになった。
 明治十六年、神宮祭主久邇宮朝彦親王より、能褒野神社と社号の選定ありて、翌十七年三月十日、御陵の傍に創立の許可あり、社殿境内の新設に着手した。明治二十八年、その業ようやく終り、時の神宮祭主、賀陽宮邦憲王殿下より御霊代を納めまつらんとの御沙汰を蒙り、伊藤宮司及び惣代二名が殿下に親謁し、御手づから御神体を頂いて帰り、御鎮座祭を行った。
 明治三十八年、日露の役終わり、陛下神宮へ御親拝の日、勅使を御墓へ差遣され、同勅使は神社へも参拝、玉串を奉納された。また、能褒野神社創立に関する詳細を陛下に復奏するとの御言葉が、神職伊藤忠孝にあった。
 明治四十一年、弟橘姫命(元小天宮祭神)建見児王(県主神社祭神)を配祀し、式内社那久志里神社、同志婆加支神社、村社八島神社、田守神社外、四十余社を合祀して村社となった。
 大正十三年、能褒野保勝会組織、同十四年六月県社に昇格し、十月祝祭を行った。この時秩父宮、高松宮、伏見宮、閑院宮、朝香宮、東久邇宮、北白河宮、竹田宮等、各宮家より「御鏡餅料」を給い、知事以下二百余名の参列を得て、厳粛な祭儀が行われた。
 大正十五年五月、保勝会にて亀山駅前に大鳥居を建設。久邇宮邦彦王殿下より「能褒野神社」の御染筆を頂き、扁額を掲げた。
 昭和二十一年マッカーサー指令により国家神道廃止され、宗教法人となり昭和二十七年十二月一日、宗教法人能褒野神社として今日に及んでいる。
 (平成祭データ)

 三重県の中北部に位置し鈴鹿市の西に隣接する亀山市にあります。JR関西本線井田川駅の北およそ2Km、田村町女ケ坂の鬱蒼とした杜に鎮座しています。

    参道
 鳥居をくぐるとすぐに石灯篭から左に手水舎、玉砂利の参道途中にも灯篭が数基、正面突き当りに鳥居から拝殿です。
 拝殿右に社務所があり、事前に記入したご朱印をいただきました。

  参道から拝殿
 明治12年明治政府により当地の王塚古墳が「景行天皇皇子日本武尊能褒野墓」と確定され、その後当社が創建されました。

  拝殿
 創建は明治16年社号が能褒野神社と選定され、明治28年社殿が竣工し鎮座祭を斎行。その後明治41年近隣の式内社数社とともに弟橘姫と建見児王が合祀されました。

 拝殿の扁額非常に簡素な白木の扁額です。
 「御祭神日本武尊 能褒野神社」とあります。

 本殿
 本殿は拝殿の裏に神門から瑞垣と樹木に囲まれて全容は見られませんでした。

 連理の榊社殿の左にあります。雄株と雌株二本の榊の木が横に延びた一本の枝でつながっています。

  連理の榊
男女の深い契りをたとえて比翼連理の仲という。
拝殿西の境内に連理の榊あり。雄株の根廻り七〇糎、雌株五十五糎 高さ三米余の所で、お互いの手をさしのべた形で連なっている。
 尊の安全を願って海に沈んだ姫。その姫をしのんであづまはやと絶句し、命果てるとき白鳥と化して天に昇った尊の魂が、奇しくも御魂を鎮める処を得て、ここに一株の榊と化せられたものか、人智を以ってはかり知れないものがある。
 (案内板より)

 
 山神と水神
 連理の榊のそばにあります。由緒等不明です。

 拝殿から参道
境内は鬱蒼とした樹木が生い茂り、薄暗く独特の雰囲気です。西に「能褒野陵」のある「のぼのの森公園」が隣接しています。
 カーナビの案内が悪く神社の裏手に着いてしまい、肝心の「能褒野陵」の参拝をうっかり忘れてしまいました。
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