九州神社紀行−ブログ

北九州近郊を中心に神社および周辺風景の撮影日記です。

宮原両神社(熊本県小国町)

2007-11-03 08:25:42 | 神社参拝ー九州
 宮原両神社(熊本県小国町)を掲載しました。

 宮原両神社(みやのはるりょうじんじゃ)
<通称>小国両神社(おぐにりょうじんじゃ)
【鎮座地】〒869-2501 熊本県阿蘇郡小国町大字宮原1670 旧肥後国 阿蘇郡
【御祭神】高橋神 火宮神 (配祀)雨宮大明神、他
【例祭】 10月14日 秋季大祭
【旧社格等】県社
【御由緒】
 小国両神社由緒略記
◎鎮座地
  熊本県阿蘇郡小国町大字宮原一六七〇番地
◎社 名
  宮原両神社 (みやのはるりようじんじゃ)
   古来より小国郷と呼ばれる小国町・南小国町の産土神社であるため、小国両神社(おぐにりようじんじゃ)とも云う。
◎祭 神
  高橋大神・火宮大神のご兄弟二神を主祭神として、母神の雨宮媛神ほか、家族・親族の神々二十一座を祀る
◎由 緒
  両神杜々記によれば、古代に肥後一の宮阿蘇神社の祭神である、阿蘇大明神健磐龍命の御子阿蘇国造速瓶玉命へ小国の雨宮媛神が妃となられ、高橋宮・火宮が誕生す。高橋宮・火宮ご兄弟は、父祖阿蘇大明神の命により小国郷の開拓に尽力され、農耕を起こし文化を広め郷土開発の先駆者として多大の功績を残された。その後、高橋宮のご聖徳と、ご功業をたたえて
  十六代 仁徳天皇の御代に、高橋大神を祀り
  十八代 反正天皇の御代に、火宮大神を祀り
   これより両神社の社名が始まったと伝わる古社である。
◎神 徳
  農林畜産 祈雨祈晴 火災防止 縁結び等生活守護の神
  武徳必勝 武道上達 必勝開運の神
◎特殊神事
  ○御衣更の神事
  ○すがもり神事
  ○古伝の神
◎神紋
  抱き鷹の羽の中に上り藤
◎社地
  境内地  一、二七八坪 後背山林 一三、四七六坪
  杉や桧の古木(樹齢百年〜四百年生)が、約六百本林立す。
  アオバズク・コゲラ・キッツキ・トビや、ムササビ・タヌキ・野ウサギが棲む。
◎社 殿
  □本殿 流れ造り     【元禄二年造営】
  □拝殿 平入り入母屋造り 【大正五年造営】
  □楼門一間二戸楼門造り 【大正五年造営】
   その他、神饌所・手水舎・新神輿庫・旧神輿庫・社務所。なお、社殿再建記録は以下の通りである。
  □平安時代 天暦元年 【西暦  九四七年】
  □鎌倉時代 弘長三年 【西暦一、二六一年】
  ロ江戸時代 元禄二年 【西暦一、六八九年】
◎神 宝・その他
  □銅矛(弥生時代)       □狛犬 (室町時代)
  □随神(桃山時代・・文禄二年) □鷹  (桃山時代・・慶長十二年)
  口馬具(江戸時代・・延宝五年) □神輿 (江戸時代・・明和七年)
  □絵馬(江戸時代・・明和七年) □古文書(社司年代記文亀・・明治初年記録他)
◎例 祭
  十月十四日 御本祭 高橋大神祭および本庁幣献幣式 
  十月十五日 御本祭 火宮大神祭
  十月十六日〜十八日 御神幸祭
  十月十九日 御遷座祭
 (神社パンフレットより)

 熊本県の最北部に位置し大分県に隣接する小国町にあります。小国町役場から1kmほどの静川沿いに鎮座しています。
破傷風の血清療法などで有名な北里柴三郎博士は当町のご出身で生家があります。

 中央の鳥居から楼門
境内への入口は三ヶ所ありそれぞれに歴史を感じさせる鳥居があり、これは中央の鳥居です。

静川に架かる橋から東側の鳥居、社叢

  楼門
平成3年の台風19号により倒壊しましたが、平成9年10月再建されました。
 扁額には「小国宮」とあります。

楼門から拝殿

拝殿大正2年の建築です。
 拝殿周囲にはたくさんの絵馬が奉納されています。

  本殿
阿蘇を開拓した健磐龍命の孫にあたる、高橋宮と火宮の二神を祀るので「両神社」と名付けられたと言われています。
 また、小国町、南小国町両町の産土神社であることから、小国両神社ともいわれています。

高浜虚子の句碑「ちりもみぢ 暫くしては 散り紅葉」
昭和27年、虚子が地元の俳人笹原氏の案内で小国郷の氏神両神社を訪問されました。そのときに詠んだ句です。

   社殿全景

  三神杉
楼門側にあります、三本に別れたそれぞれに主祭神(兄:高橋神、母:雨宮神、弟:火神)のご神霊が鎮まります。(案内板)

小国郷の富くじと神々
 熊本・細川家の参勤交代の行列は阿蘇・久住を経て大分から瀬戸内海へ出た。
小国会所(役場)では久住を通過する行列に出される人馬の賃料不足に頭を痛めた。
文政元年(1818)村役人の後藤助左衛門は、人馬銭不足を補うため弟太郎兵衛を講元に「富くじ」を小国郡代に願い出た。小国郷の「富くじ」は年ごとに盛んになり、第一回ノーベル賞候補となった北里柴三郎博士が、この小国郷で生れた嘉永から安政年間までの十年間に七十六回も行われた。
 その頃、小国郷の中心宮原は「小国両神社」門前に商家が軒を並べた。
商家では金融のはしり恵比寿講が始められ、鏡ケ池に「恵比寿様」がお祀りされた。その商家の中に湊屋(みなとや)橋本純左衛門の造り酒屋があった。純左衛門は、毎朝けやき水源で体を清めて「水神様」に開運を祈り、自然の恵みと健康に感謝し「小国両神社」に天下の太平 (平和)を願い、家運隆盛を祈る事を朝の勤めとした。また、夕日の沈むころになると鏡ケ池の「恵比寿様」に、その日の商いを報告し商売繁盛と財運を祈った。
ある朝方、純左衛門はいつものけやき水源に小舟が入る夢を見た。吉兆と感じた純左衛門は「富くじ」を買い見事一番くじを当てた。湊屋は、この福運を一人占めに出来ないと豊後に通じる横町坂やけやき水源に入る小道も石畳にした。
 湊屋の「正夢」 の話を聞いた小国郷内の城野市郎右衛門は、毎朝、一里余りの道を一年以上通い続けて「一番くじ」を願い、「けやき水源水神様」「小国両神社」「鏡ケ池の恵比寿様」の神々に開運招福を祈り続けた。
 ある朝、視野一杯に広がる湧水の夢に運が開けた事を予感した。
市郎右衛門の願いは叶い、小国両神社・久住宮の富くじに五回当たった。市郎右衛門は余りの福運に感激し湊屋にならい、市郎右衛門は小国郷内に石畳や石橋をつくり社会への恩返しとした。
 人々は石畳となった道を「富くじの道」と呼びはじめた今もその一部が残っている。
「鏡ケ池の恵比寿様」を信仰する人たちに、小国六賢人と呼ばれた人たちがいた。
その六人で 「六助講」と名づけた恵比寿講が始められた。その中の一人大塚麿は四十歳を過ぎて大阪に進出し、鉄道海運で大成功し関西財界に重きをなした。明治26年「六助講」 の六人を中心に、この小さな町に銀行ができた。小国銀行である。小国銀行は発展して阿蘇・久住に支店をもち太平洋戦争の経済統制で肥後銀行に合併されるまでその繁栄は続き県北の有力銀行となった。
 (禿迷蘆著 小国郷史より)−案内パンフレットより−

   鏡ケ池
醍醐天皇の孫姫 小松女院が愛しい人との再会を願い、鏡を投げ入れたと言われています。この伝説から現在では恋する女性が、コインを投げ入れ、愛しい人との再会を願う泉とされています。

 けやき水源
参道の路地から入ったところにある清冽な泉です、大きな欅の根元からこんこんと水が湧き出しています。

 けやき水源から静川の景観
正面に東の鳥居に向かう橋が見えます。

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北里柴三郎 コインを投げ 太平洋戦争 ノーベル賞 アオバズク 入母屋造り
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