大原野神社(京都府西京区)を掲載しました。
大原野神社(おおはらのじんじゃ)
【鎮座地】〒610-1153 京都市西京区大原野南春日町1152 旧山城国 乙訓郡
【御祭神】建御賀豆智命 伊波比主命 天之子八根命 比大神
【例祭】 4月8日 例祭
【旧社格等】官幣中社(現別表神社)
二十二社
式外社
【御由緒】
創立と沿革
大原野神社の鎮座する南春日町付近は、山城地方でも最も古くから開けた所で、一万年以前の有柄尖頭器などが神社の山の手の方からはっけんされている。
人皇50代桓武天皇が、延暦3年(784)都を大和の奈良から、京都向日市を中心とした長岡京(784~794)に遷された時、鷹狩を愛した天皇は、しばしば大原野の地に足を運んで、鷹を放たれた。
万葉集の編者大伴家持が、大原やせがいの水を手にむすび鳥は鳴くとも遊びてゆかん、と詠じたのも、このような催しに従った折のことである。その節には藤原氏の人々も多く参加していたが、それらの人々はこの地の風景の美しいのを賞でて、氏神である奈良春日大社の分霊をうつし祀ることにした。これが当社の起りである。
その後約60年を経た嘉祥3年(850)に左大臣藤原冬嗣のむすめ順子を母とした文徳天皇は、祖父、冬嗣の願望を思い出してこの地に壮麗な社殿を造営された。
明治4年(1871)官幣中社に列せられ御社頭はにぎやかであったが、第2次大戦のあと、国家からの援助は打切られ現在に至っている。
(平成祭データ)
源氏物詰 ゆかりの地
大原野神社
桓武夫皇は長岡京遷都に際し、藤原氏出身の皇后のために、大和の春日社の分霊を、この地(平安京西郊、小塩山東麓)に勧請したことに始まり、平安時代に入って文徳夫皇が外祖父、藤原冬嗣の念願をうけて神殿を建立、地名にちなみ大原野神社とした。
当社は藤原氏の氏社として、斎王にならい藤原氏の子女を斎女として置いた。藤原氏の皇后や中宮の参詣が多く、紫式部も中宮彰子について参詣しており、また紫式部は、父藤原為時の任国である越前(福井)で、雪の日野山を見ながら小塩山を思い出し「ここにかく日野の杉むら埋雪 小塩の松に今日やまがへる」(『紫式部集』)と詠っている。
『源氏物語』「行幸」では、冷泉帝が大原野行幸を行い、京の人々が見物に訪れるなか、玉鬘や六条院の人々も車を寄せて行幸を見物している。物忌で同行しなかった光源氏は、帝からの歌に応えて「小塩山みゆきつもれる松原に 今日ばかりなる跡やなからむ」と寿いだ。
平成二〇年三月京都市
(社頭案内板より)
京都市の西部、西京区にあります。「竹取物語」の舞台ともいわれ、淳和天皇陵のある小塩山の東麓、大原野南春日町に鎮座しています。
鳥居の扁額には「大原野大神」とあります。鳥居の右には「官幣中社 大原野神社」と刻まれた社号標が並んでいます。
参道の鳥居(二の鳥居)一の鳥居をくぐり階段を上ると二の鳥居です。
二の鳥居から参道
二の鳥居からは樹木に覆われた平坦な参道が200mほど続きます。一の鳥居から続く参道は春は櫻、秋は紅葉の名所として有名です。
鯉沢の池参道右(東側)にあります。
奈良の猿沢の池を模して、左大臣藤原冬嗣を祖父とした文徳天皇により壮麗な社殿と共に作られました。
右には茶店「春日乃茶屋」があり、よもぎ団子が名物との看板がでています。
瀬和井(せがい),参道左鯉沢の池の対面にあります。
瀬和井(せがい)
清和天皇産湯の清水とも伝えられ、古来歌枕にあがう数々の和歌に詠まれて名高い。
大原や小塩の山のほととぎす
われに神代のことかたらなん
左大臣
大原や小塩の山の小松原
はや木高かれ千代の蔭見ん
紀貫之
大原やせがいの水の手にむすび
鳥は鳴くとも遊びてゆかん
大伴家持
夜を寒みせがいの水は氷るとも
庭燎は春のこころこそすれ
大江匡房
(案内板より)
三の鳥居鯉沢の池を過ぎ、しばらく進むと社殿のある境内入口に朱の鮮やかな三の鳥居です。境内は朱の瑞垣に囲まれています。
三の鳥居から中門三の鳥居をくぐると、広場になっています。
右に社務所、左の丘に歌碑、境内社がならび、正面一段上に中門から本殿です。
中門と神鹿
普通に見られる拝殿はなく、一般の参拝はここで行います。左右に回廊が続いています。
中門前に雌雄一対の神鹿があります。本社春日社の鹿が神の使い(眷属)とされることに由来しています。
中門から本殿
中門の奥に4棟の本殿が並んで、手前には拝所があります。建築年代は、擬宝珠に文政五年(1822)の銘があり、この時期に再建または改築されたと考えられています。
本殿裏手から
創始は延暦三年(784)の長岡京遷都の際、藤原氏の氏神として奈良の春日大社の分霊を勧請したのがはじまりとされ、当地には仁壽元年(851)文徳天皇により壮麗な社殿が創建されています。
本殿
同規模・同形式の四棟の檜皮茸、一間社春日造社殿で、各社殿間は板塀で連結されています。写真左から第一殿 建御賀豆智命、第二殿 伊波比主命、第三殿 天之子八根命、第四殿 比大神です。
樅ノ木境内右(東)にあります。
側の案内に「樹齢約450年、区民の誇りの木」とあります。
境内社境内左に三社並んであります。
境内末社として八坂社、稲荷社、八幡社、白髭社などがあります。
少し離れて左隣には御祭神・瀬織津姫神を祀る、祓戸社、歌碑が並んでいます。
境内の紅葉
大原野神社(おおはらのじんじゃ)
【鎮座地】〒610-1153 京都市西京区大原野南春日町1152 旧山城国 乙訓郡
【御祭神】建御賀豆智命 伊波比主命 天之子八根命 比大神
【例祭】 4月8日 例祭
【旧社格等】官幣中社(現別表神社)
二十二社
式外社
【御由緒】
創立と沿革
大原野神社の鎮座する南春日町付近は、山城地方でも最も古くから開けた所で、一万年以前の有柄尖頭器などが神社の山の手の方からはっけんされている。
人皇50代桓武天皇が、延暦3年(784)都を大和の奈良から、京都向日市を中心とした長岡京(784~794)に遷された時、鷹狩を愛した天皇は、しばしば大原野の地に足を運んで、鷹を放たれた。
万葉集の編者大伴家持が、大原やせがいの水を手にむすび鳥は鳴くとも遊びてゆかん、と詠じたのも、このような催しに従った折のことである。その節には藤原氏の人々も多く参加していたが、それらの人々はこの地の風景の美しいのを賞でて、氏神である奈良春日大社の分霊をうつし祀ることにした。これが当社の起りである。
その後約60年を経た嘉祥3年(850)に左大臣藤原冬嗣のむすめ順子を母とした文徳天皇は、祖父、冬嗣の願望を思い出してこの地に壮麗な社殿を造営された。
明治4年(1871)官幣中社に列せられ御社頭はにぎやかであったが、第2次大戦のあと、国家からの援助は打切られ現在に至っている。
(平成祭データ)
源氏物詰 ゆかりの地
大原野神社
桓武夫皇は長岡京遷都に際し、藤原氏出身の皇后のために、大和の春日社の分霊を、この地(平安京西郊、小塩山東麓)に勧請したことに始まり、平安時代に入って文徳夫皇が外祖父、藤原冬嗣の念願をうけて神殿を建立、地名にちなみ大原野神社とした。
当社は藤原氏の氏社として、斎王にならい藤原氏の子女を斎女として置いた。藤原氏の皇后や中宮の参詣が多く、紫式部も中宮彰子について参詣しており、また紫式部は、父藤原為時の任国である越前(福井)で、雪の日野山を見ながら小塩山を思い出し「ここにかく日野の杉むら埋雪 小塩の松に今日やまがへる」(『紫式部集』)と詠っている。
『源氏物語』「行幸」では、冷泉帝が大原野行幸を行い、京の人々が見物に訪れるなか、玉鬘や六条院の人々も車を寄せて行幸を見物している。物忌で同行しなかった光源氏は、帝からの歌に応えて「小塩山みゆきつもれる松原に 今日ばかりなる跡やなからむ」と寿いだ。
平成二〇年三月京都市
(社頭案内板より)
京都市の西部、西京区にあります。「竹取物語」の舞台ともいわれ、淳和天皇陵のある小塩山の東麓、大原野南春日町に鎮座しています。
鳥居の扁額には「大原野大神」とあります。鳥居の右には「官幣中社 大原野神社」と刻まれた社号標が並んでいます。
参道の鳥居(二の鳥居)一の鳥居をくぐり階段を上ると二の鳥居です。
二の鳥居から参道
二の鳥居からは樹木に覆われた平坦な参道が200mほど続きます。一の鳥居から続く参道は春は櫻、秋は紅葉の名所として有名です。
鯉沢の池参道右(東側)にあります。
奈良の猿沢の池を模して、左大臣藤原冬嗣を祖父とした文徳天皇により壮麗な社殿と共に作られました。
右には茶店「春日乃茶屋」があり、よもぎ団子が名物との看板がでています。
瀬和井(せがい),参道左鯉沢の池の対面にあります。
瀬和井(せがい)
清和天皇産湯の清水とも伝えられ、古来歌枕にあがう数々の和歌に詠まれて名高い。
大原や小塩の山のほととぎす
われに神代のことかたらなん
左大臣
大原や小塩の山の小松原
はや木高かれ千代の蔭見ん
紀貫之
大原やせがいの水の手にむすび
鳥は鳴くとも遊びてゆかん
大伴家持
夜を寒みせがいの水は氷るとも
庭燎は春のこころこそすれ
大江匡房
(案内板より)
三の鳥居鯉沢の池を過ぎ、しばらく進むと社殿のある境内入口に朱の鮮やかな三の鳥居です。境内は朱の瑞垣に囲まれています。
三の鳥居から中門三の鳥居をくぐると、広場になっています。
右に社務所、左の丘に歌碑、境内社がならび、正面一段上に中門から本殿です。
中門と神鹿
普通に見られる拝殿はなく、一般の参拝はここで行います。左右に回廊が続いています。
中門前に雌雄一対の神鹿があります。本社春日社の鹿が神の使い(眷属)とされることに由来しています。
中門から本殿
中門の奥に4棟の本殿が並んで、手前には拝所があります。建築年代は、擬宝珠に文政五年(1822)の銘があり、この時期に再建または改築されたと考えられています。
本殿裏手から
創始は延暦三年(784)の長岡京遷都の際、藤原氏の氏神として奈良の春日大社の分霊を勧請したのがはじまりとされ、当地には仁壽元年(851)文徳天皇により壮麗な社殿が創建されています。
本殿
同規模・同形式の四棟の檜皮茸、一間社春日造社殿で、各社殿間は板塀で連結されています。写真左から第一殿 建御賀豆智命、第二殿 伊波比主命、第三殿 天之子八根命、第四殿 比大神です。
樅ノ木境内右(東)にあります。
側の案内に「樹齢約450年、区民の誇りの木」とあります。
境内社境内左に三社並んであります。
境内末社として八坂社、稲荷社、八幡社、白髭社などがあります。
少し離れて左隣には御祭神・瀬織津姫神を祀る、祓戸社、歌碑が並んでいます。
境内の紅葉
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