画像は輪島市の市街地から程近い鴨ヶ浦海岸にある海水プールです。海水の海の満干を利用し中の海水を循環させるなかなかエコなプールです。以前は海産物の養殖場なんかにも使っていたこともあったようですが、この海水プールは競泳のオリンピックメダリストが育ったことで知られる由緒あるプールです。
このプールで練習しオリンピックで銀メダル通算4個を獲得したのは輪島市出身の山中毅(1936年生まれ)さんで、自由形の日本代表として1956年のメルボルン・1960年のローマ・1964年の東京と3度のオリンピックの7種目に出場し、銀メダル4個を含め全てに入賞した石川県を代表する競泳選手です。
漁師の父と海女の母を持つ山中さんは、母親が出産の数日前まで海に潜っていたため「生まれる前から泳いでいる」と言われ、また幼い頃より父親からも厳しく泳ぎを叩き込まれ競泳選手としての素質は十分にあったようです。
悲運のシルバー(銀メダル)コレクターと呼ばれることもありますが、同じ歳であり最大のライバルオーストラリアのマレー・ローズとの激闘をはじめは欧米の強豪選手と互角以上の闘いを繰り広げる山中さんの姿に、第二次大戦敗戦の傷の癒え切らない当時の日本の多くの人が勇気づけられたそうです。
※1961年には世界新記録を短期間に3度更新するなど世界のトップスイマーとして長らく活躍しました。
現在ではこの海水プールで競泳の練習をする人はいませんが、当時の輪島には今のような淡水のプールなど無い時代(海が目の前なので)だったので、小さな海水プールでも随分重宝したのかも知れませんね。
このプールで練習しオリンピックで銀メダル通算4個を獲得したのは輪島市出身の山中毅(1936年生まれ)さんで、自由形の日本代表として1956年のメルボルン・1960年のローマ・1964年の東京と3度のオリンピックの7種目に出場し、銀メダル4個を含め全てに入賞した石川県を代表する競泳選手です。
漁師の父と海女の母を持つ山中さんは、母親が出産の数日前まで海に潜っていたため「生まれる前から泳いでいる」と言われ、また幼い頃より父親からも厳しく泳ぎを叩き込まれ競泳選手としての素質は十分にあったようです。
悲運のシルバー(銀メダル)コレクターと呼ばれることもありますが、同じ歳であり最大のライバルオーストラリアのマレー・ローズとの激闘をはじめは欧米の強豪選手と互角以上の闘いを繰り広げる山中さんの姿に、第二次大戦敗戦の傷の癒え切らない当時の日本の多くの人が勇気づけられたそうです。
※1961年には世界新記録を短期間に3度更新するなど世界のトップスイマーとして長らく活躍しました。
現在ではこの海水プールで競泳の練習をする人はいませんが、当時の輪島には今のような淡水のプールなど無い時代(海が目の前なので)だったので、小さな海水プールでも随分重宝したのかも知れませんね。