ついには、妻が警察署に電話をした。
僕「これはだめだね」
妻「そうでしょう?頭に来るよね」
僕らが住むマンションの前には、割と大きな公園がある。
別段、それが目当てでここに住んでいるわけではないが、
我が子が生まれてからは、こういう環境も悪くはないと思っている。
小高い山や大きな木、遊具に広場、そして、野球場があり、
平日の学校が終わるころの時間や休日には多くの人でにぎわう。
また、夜には、どこから集まってくるのか、ランニングをする者までいる。
僕「確かに、これは迷惑な話だ」
妻「注意して、逆上されて殺されたら困るしね」
都会というほど中心部に位置していないのだが、
これほど多くのものが整った公園は珍しい。
しかし、ここが住宅街であるということが原因しているのか、
これほど多くの者に利用されているにもかかわらず、駐車場がないのだ。
そのため、休日には公園の外周にはびっしりと路上駐車の車が並ぶ。
特に、野球の試合がある日などは、まるで芋虫のような連なりができるほどだ。
妻の逆鱗に触れた決め手となったのは、
その公園の入り口に堂々と駐車した大ばか者がいたことで、
自分も含めた公園利用者が不利益をこうむったということらしい。
妻「あれじゃ、ベビーカー押して入れないじゃない」
僕の見ていた限りでも、近所の子どもだろうか、
自転車で公園内に進入を試みようとしたが、先ほど話した車が原因で危うく車にこするところだった。
妻としては、ぜひともこすってもらいたいくらいだったろう。
妻「まあ、駐車場もないし、百歩譲って路上駐車はいいとしても、入り口を塞ぐのはね」
そうこうしていると、赤いランプを点滅させたかわいらしい軽自動車が登場する。
僕としては、何だか逃げたくなる対象であるが、今度ばかりはその様子を興味深く見つめる。
その白黒の車は、そうして公園付近をうろうろすると、ついにはスピーカーから大きな声を発する。
「路上駐車されている車は移動させてください」
僕には、否応なしに切符を切ったくせに、何とも心優しい対応だ。
できれば、今すぐレッカー車を呼んで一台ずつ運んで行ってもらいたいくらいだ。
そして、そんなアナウンスの効力だったのかは知らないが、
ぱらぱらと車の持ち主が自分の車にやってくる。
これで一安心と思いきや、どうやら何かを話して、再び公園内へと去っていく。
地域の交番は、これだからだめなのだ。
そこへ、何ともいいタイミングで、今回の主犯(?)である
入り口前に駐車していた車の持ち主が車にやってくる。
何とも運がいいのか、運が悪いのか、
僕は、おもむろに窓ガラスをノックすると、
車の中からまだ30代であろう女性がドアを開ける。
僕「ここ、公園の入り口だから、移動させて」
向こうの女性は、まるで死刑でも宣告されたような顔で、うんとうなずく。
それはそうだ。
このときの僕の格好ときたら、黒いズボンに黒い長袖、黒いサングラスと
もしここにコナンがいれば、黒ずくめの男と勘違いをされ、麻酔銃が飛んできただろう。
妻「言ってきたの?」
僕「うん」
妻「それにしても、やっぱり、ないよね?」
僕「まあね。野球をやってるのだからマナーぐらいは守ってほしいもんだ」
妻「一台とまれば、いいんだと思ってとめていくのかな」
僕「それは、割れ窓理論だね」
妻「何それ?」
どうもこんばんは。
黒い男、nosumooです。
何とも長い導入ではあったが、とにかく、こういうわけで妻は憤慨している。
確かに、こうした問題は実際に自分が被害に遭って初めてわかるものも多い。
例えば、目の見えない人のために設置された点字ブロックだって、
僕らにはまるで関係のない話だ。
どこで途切れていようが、途中に障害物があろうが、
ほとんど気づかずに生活している。
しかし、みずからが盲目になれば、多くの困難が待ち構えている。
逆に、あの点字ブロックのせいで、
車椅子使用者やベビーカーに乗った赤ん坊の脳ががたがたと揺さぶられるという問題点ある。
みずからの問題として捉えられるかどうかで、世界はまた違って見えるのだ。
さて、今回はそんな社会風刺をしようということではなく、
妻の頭に疑問符をつけた割れ窓理論をご紹介しましょか。
なるほど、車の窓ガラスをたたき割れってことだな?
いや、そういう話ではない。
これは、先ほどと繰り返しになるが、妻はきっとそれでも文句は言わないだろう。
この割れ窓理論というのは、アメリカのジョージさんという犯罪学者が提唱したものである。
ニューヨークのスラム街など、治安が悪い場所はどうして治安が悪いのかという話で、
結局のところ、割れた窓を放置しているからだという簡単な話だ。
む?……全然わからんのだけど。
つまり、犯罪者というのは、目が行き届いているところは決して狙わない。
映画じゃあるまいし、鉄壁の金庫からお金を盗んでやろうとする者などいなく、
同じ大金であれば、鍵のかかっていない、誰の監視もない金庫からいただくのだ。
窓ガラスが割られているのに、それを放置するということは、
ここは、そうした治安維持がなされていない場所であると判別され、
次々と窓ガラスが割られ、犯罪が多発するということだ。
赤信号、みんなで渡れば怖くないってやつ?
そのとおりだ。
一台の違法駐車があり、それを取り締まることがないために、もう一台が駐車する。
2台もとまっていて大丈夫なのだ、自分もとめてしまえというぐあいになり、
しまいには、先ほどのように、ぐるりと車が取り囲んでしまう。
さらに、集団心理の恐ろしいことは、
こうなってしまうと、法を犯した者に罪の意識が薄らいでしまうことだ。
「あいつもやっているのに自分だけが取り締まられるなんておかしい」
「いや、そもそも、こんなに大勢がとめているんだから、駐車場がないほうがおかしい」
こんな感じで自分を正当化してしまう。
もちろん、やっていることは極悪とまではいかずとも、よくないことである。
しかし、その認識をも覆してしまうほどなのだ。
さてさて、
この辺でいよいよ本題だ。
この割れ窓理論には続きがある。
こんな状態になった場合にどうやって解消するかということだ。
まず、一台でも路上駐車がいれば、即刻、取り締まる。たとえ、本件と関係がないものでもだ。
そして、警察など、治安維持を業務とする者が日々取り締まる。
一番初めに説明した割れた窓ガラスならば、
ガラスを取りかえるという割と簡単な方法で解消が可能だが、
今回のように、法を犯す場合には警察権力が必要となる。
現に、我がまち札幌の名所であるススキノの違法駐車は、
この徹底的とも言える日々のパトロールにより、違法駐車が激減した。
つまり、この解決策は、理論の話だけではなく、実証されているのだ。
では、僕の住むマンションの前の公園ではどうだろうか?
地域の交番というのは、残念ながら、そこまで暇ではないのだ。
いや、いつかに説明したとおり、暇を持て余しているのではあるが、
この公園にだけ張りついているわけにもいかないのは明白だ。
これが地域の問題の解決が難しいところなのである。
タイトルにあるように、割れないガラス(権力に頼った解決策)ではだめだ。
人、物、金とテレビで嫌というほど耳にするこれらは、
僕ら民間人には持ち得ない代物だ。
じゃあ、どうするのさ?このまま、黙って見過ごすのかい?
うむ。
そこで、逆転の発想が必要となる。
たとえボールが当たって砕けてしまうような割れやすいガラスでも、
割られなけばいいはずだ。
つまり、「ここにとめるのはマナー違反だ」と本人に自覚してもらうのが一番いい。
一体どういうこと?
僕らが何に罪悪感を感じるかということだ。
例えば、道端で歩きたばこをする者でも幼児の前では気を使ったり、
例えば、ごみをポイ捨てする者でも学校の前では控えたり、
特に共通してあるものではないが、人にはそれぞれ思うところはあるはずだ。
成功事例は幾つかある。
路上駐車がひどいところに植木鉢を置いたり、子どもが描いた両親の似顔絵を飾ったり、
ここの前にはとめないでおこうという心理がいい意味で働くのである。
さて、僕はどうしようか。
とりあえず、花束とワンカップでも置いて様子を見ようというのは、
それこそマナー違反なのだろうかね。
僕「これはだめだね」
妻「そうでしょう?頭に来るよね」
僕らが住むマンションの前には、割と大きな公園がある。
別段、それが目当てでここに住んでいるわけではないが、
我が子が生まれてからは、こういう環境も悪くはないと思っている。
小高い山や大きな木、遊具に広場、そして、野球場があり、
平日の学校が終わるころの時間や休日には多くの人でにぎわう。
また、夜には、どこから集まってくるのか、ランニングをする者までいる。
僕「確かに、これは迷惑な話だ」
妻「注意して、逆上されて殺されたら困るしね」
都会というほど中心部に位置していないのだが、
これほど多くのものが整った公園は珍しい。
しかし、ここが住宅街であるということが原因しているのか、
これほど多くの者に利用されているにもかかわらず、駐車場がないのだ。
そのため、休日には公園の外周にはびっしりと路上駐車の車が並ぶ。
特に、野球の試合がある日などは、まるで芋虫のような連なりができるほどだ。
妻の逆鱗に触れた決め手となったのは、
その公園の入り口に堂々と駐車した大ばか者がいたことで、
自分も含めた公園利用者が不利益をこうむったということらしい。
妻「あれじゃ、ベビーカー押して入れないじゃない」
僕の見ていた限りでも、近所の子どもだろうか、
自転車で公園内に進入を試みようとしたが、先ほど話した車が原因で危うく車にこするところだった。
妻としては、ぜひともこすってもらいたいくらいだったろう。
妻「まあ、駐車場もないし、百歩譲って路上駐車はいいとしても、入り口を塞ぐのはね」
そうこうしていると、赤いランプを点滅させたかわいらしい軽自動車が登場する。
僕としては、何だか逃げたくなる対象であるが、今度ばかりはその様子を興味深く見つめる。
その白黒の車は、そうして公園付近をうろうろすると、ついにはスピーカーから大きな声を発する。
「路上駐車されている車は移動させてください」
僕には、否応なしに切符を切ったくせに、何とも心優しい対応だ。
できれば、今すぐレッカー車を呼んで一台ずつ運んで行ってもらいたいくらいだ。
そして、そんなアナウンスの効力だったのかは知らないが、
ぱらぱらと車の持ち主が自分の車にやってくる。
これで一安心と思いきや、どうやら何かを話して、再び公園内へと去っていく。
地域の交番は、これだからだめなのだ。
そこへ、何ともいいタイミングで、今回の主犯(?)である
入り口前に駐車していた車の持ち主が車にやってくる。
何とも運がいいのか、運が悪いのか、
僕は、おもむろに窓ガラスをノックすると、
車の中からまだ30代であろう女性がドアを開ける。
僕「ここ、公園の入り口だから、移動させて」
向こうの女性は、まるで死刑でも宣告されたような顔で、うんとうなずく。
それはそうだ。
このときの僕の格好ときたら、黒いズボンに黒い長袖、黒いサングラスと
もしここにコナンがいれば、黒ずくめの男と勘違いをされ、麻酔銃が飛んできただろう。
妻「言ってきたの?」
僕「うん」
妻「それにしても、やっぱり、ないよね?」
僕「まあね。野球をやってるのだからマナーぐらいは守ってほしいもんだ」
妻「一台とまれば、いいんだと思ってとめていくのかな」
僕「それは、割れ窓理論だね」
妻「何それ?」
どうもこんばんは。
黒い男、nosumooです。
何とも長い導入ではあったが、とにかく、こういうわけで妻は憤慨している。
確かに、こうした問題は実際に自分が被害に遭って初めてわかるものも多い。
例えば、目の見えない人のために設置された点字ブロックだって、
僕らにはまるで関係のない話だ。
どこで途切れていようが、途中に障害物があろうが、
ほとんど気づかずに生活している。
しかし、みずからが盲目になれば、多くの困難が待ち構えている。
逆に、あの点字ブロックのせいで、
車椅子使用者やベビーカーに乗った赤ん坊の脳ががたがたと揺さぶられるという問題点ある。
みずからの問題として捉えられるかどうかで、世界はまた違って見えるのだ。
さて、今回はそんな社会風刺をしようということではなく、
妻の頭に疑問符をつけた割れ窓理論をご紹介しましょか。
なるほど、車の窓ガラスをたたき割れってことだな?
いや、そういう話ではない。
これは、先ほどと繰り返しになるが、妻はきっとそれでも文句は言わないだろう。
この割れ窓理論というのは、アメリカのジョージさんという犯罪学者が提唱したものである。
ニューヨークのスラム街など、治安が悪い場所はどうして治安が悪いのかという話で、
結局のところ、割れた窓を放置しているからだという簡単な話だ。
む?……全然わからんのだけど。
つまり、犯罪者というのは、目が行き届いているところは決して狙わない。
映画じゃあるまいし、鉄壁の金庫からお金を盗んでやろうとする者などいなく、
同じ大金であれば、鍵のかかっていない、誰の監視もない金庫からいただくのだ。
窓ガラスが割られているのに、それを放置するということは、
ここは、そうした治安維持がなされていない場所であると判別され、
次々と窓ガラスが割られ、犯罪が多発するということだ。
赤信号、みんなで渡れば怖くないってやつ?
そのとおりだ。
一台の違法駐車があり、それを取り締まることがないために、もう一台が駐車する。
2台もとまっていて大丈夫なのだ、自分もとめてしまえというぐあいになり、
しまいには、先ほどのように、ぐるりと車が取り囲んでしまう。
さらに、集団心理の恐ろしいことは、
こうなってしまうと、法を犯した者に罪の意識が薄らいでしまうことだ。
「あいつもやっているのに自分だけが取り締まられるなんておかしい」
「いや、そもそも、こんなに大勢がとめているんだから、駐車場がないほうがおかしい」
こんな感じで自分を正当化してしまう。
もちろん、やっていることは極悪とまではいかずとも、よくないことである。
しかし、その認識をも覆してしまうほどなのだ。
さてさて、
この辺でいよいよ本題だ。
この割れ窓理論には続きがある。
こんな状態になった場合にどうやって解消するかということだ。
まず、一台でも路上駐車がいれば、即刻、取り締まる。たとえ、本件と関係がないものでもだ。
そして、警察など、治安維持を業務とする者が日々取り締まる。
一番初めに説明した割れた窓ガラスならば、
ガラスを取りかえるという割と簡単な方法で解消が可能だが、
今回のように、法を犯す場合には警察権力が必要となる。
現に、我がまち札幌の名所であるススキノの違法駐車は、
この徹底的とも言える日々のパトロールにより、違法駐車が激減した。
つまり、この解決策は、理論の話だけではなく、実証されているのだ。
では、僕の住むマンションの前の公園ではどうだろうか?
地域の交番というのは、残念ながら、そこまで暇ではないのだ。
いや、いつかに説明したとおり、暇を持て余しているのではあるが、
この公園にだけ張りついているわけにもいかないのは明白だ。
これが地域の問題の解決が難しいところなのである。
タイトルにあるように、割れないガラス(権力に頼った解決策)ではだめだ。
人、物、金とテレビで嫌というほど耳にするこれらは、
僕ら民間人には持ち得ない代物だ。
じゃあ、どうするのさ?このまま、黙って見過ごすのかい?
うむ。
そこで、逆転の発想が必要となる。
たとえボールが当たって砕けてしまうような割れやすいガラスでも、
割られなけばいいはずだ。
つまり、「ここにとめるのはマナー違反だ」と本人に自覚してもらうのが一番いい。
一体どういうこと?
僕らが何に罪悪感を感じるかということだ。
例えば、道端で歩きたばこをする者でも幼児の前では気を使ったり、
例えば、ごみをポイ捨てする者でも学校の前では控えたり、
特に共通してあるものではないが、人にはそれぞれ思うところはあるはずだ。
成功事例は幾つかある。
路上駐車がひどいところに植木鉢を置いたり、子どもが描いた両親の似顔絵を飾ったり、
ここの前にはとめないでおこうという心理がいい意味で働くのである。
さて、僕はどうしようか。
とりあえず、花束とワンカップでも置いて様子を見ようというのは、
それこそマナー違反なのだろうかね。