臍曲がりの独り言

行動記録と私見

幕臣たちと技術立国

2006年06月29日 | 書籍紹介・評
級友の "K" さんに教えられて、図書館に申し込んだら直ぐに入手できました。
江川太郎左衛門英龍の名前は小中学生の頃から韮山の反射炉などで技術者として承知してましたが、後の二人のうち中島三郎助は全く知りませんでしたし、榎本武揚が武人としてより技術者として優れた人物というのも始めて知りました。
この三人の江戸末期から維新にかけての行動と技術立国に尽くした模様をこの著者は史実に基づいて小説風に書いた本です。
幕末に来航したイギリス、ロシア、アメリカの軍艦から貪欲に知識を吸入し、自力で銃やら大砲、軍艦類を製造し、操作方法まで訓練し物にしてしまった努力をの様子が画かれてます。
中島三郎助と榎本武揚が徳川幕府の臣として薩長軍と戦い、函館戦争で中島は戦死し榎本は五稜郭で降伏し、その後二年半も投獄されていて死罪になるところ、大村益次郎の反対を押し切って黒田清隆が榎本の技術者の才を見込んで助命し、そのご明治政府にあって技術者、技術官僚、外交官として大活躍をした事が書かれてます。
幕府が作った海軍伝習所では勝海舟は落第生であったこと、幕府が特使派遣で日本初の軍艦咸臨丸の艦長は勝海舟であったが、勝海舟と仲の悪かった榎本武揚は外されていたが、帰国してから勝海舟は罷免されたということなどこの本で始めて知りました。
今から考えると、当時銃や大砲を作った鉄や青銅をどうやって作ったか、どうやって加工し、砲身の中ぐりを作ったか私には疑問だらけで、大いに知りたい事柄です。
前の大戦の時戦艦「大和・武蔵」に搭載された18吋の世界最大の大砲を日本海軍は極秘の内に製作しましたが、私が大学2年生で、海軍艦政本部に動員されてた時三菱長崎造船所の先輩技師から、当時全く知らせられなかったのは日本国民だけで、世界中の国々は日本が18吋砲を作りつつあることを知っていたそうです。理由は数年前室蘭の日本製鋼所にドイツからワルドリッヒの超大型旋盤を輸入したことで外国は皆知ってた相です。
幕臣たちが当時どんなに苦労してたか、この本を読んで感慨に耽けざるをえませんでした。

19回目のゴルフ(真夏日の暑さ)

2006年06月28日 | 日記
今日は本当にむしむしした暑い日でした。帰ったらテレビで一番の真夏日だったそうです。
いつもの4人で賑やかな一日でした。
"K" さんが "S" さんのアドバイスに従っての成果が出て、ドライバーとフェアウエイウッドが抜群に良く、特にフェアウエイウッドのボールが高く上がるようになりご機嫌の一日だったと思います。
私のエナのドライバーも "S" さんに迫る距離が出ることがあり満足なのですが、相変わらずフェアウエイウッドが乱調でなんとかならないかと自問自答するのですが、以前にも述べたように相性の良い道具が見つからないのが残念ですが矢っ張り腕が悪いのでしょう。
午後から付いたキャディさんがカートの自動運転を時々止めて彼女の手動運転に切り替えて走るので、風を切って速く走るので涼しくもありプレイも速くなり快適でした。但し見つかると怒られるそうです。
"S" さんの裁判の話、日銀総裁の話、話題の本の話、インターネットバンキングの話、食べ物の塩分の話等々話題は尽きなく愉快な一日でした。
本日のスコアは 55+57=112 平均パット数 1,78
次回7月4日はその数日後蓼科で小淵沢マンションのゴルフ会があるので辞退する旨申し入れました。

帰途日曜大工センターがあったので、立ち寄り、ビニールチューブを1.5m購入しました。新しい我が家のお風呂が昔と違って追い炊きが出来るようになり(深夜電力による温水タンクからのお風呂は昔追い炊きが出来ず、毎回湯水を捨てるか半分ぐらい捨てて85度のお湯を足して42度の温度にしてました)便利になったのですが、湯船のなかに滓が発生する不便が生じてますので、このチューブをつかって、サイホンの理でこの滓を吸い出すことを思いついた次第で、早速実験してみたところ大成功で、家内もビックリ、綺麗な湯水になりました。

六月の黒砂会

2006年06月27日 | 日記
常任幹事の "A" さんが足痛で欠席の電話あり代役を仰せつかり、関西に住んで居られた加藤氏が亡くなったことを娘さんから皆さんに知らせて欲しい旨と黒砂会の語源の由来を尋ねてこられたそうです。
今日は13名(ご婦人3名を含む)の出席で、この会は三々五々集まる会で最終人数が決まらないものですから、学士会館内の四カ所の食堂の何処に今日はするか決めるのに苦労します。和食堂は一番老人向けで評判がよいのですが、14名入れる部屋は大抵既に予約されていて取り難く、今日はラタンに2席に分かれて設定して貰いました(此処は料金が一番高い)。
この会館の建物は戦前からの建築物で天井が高く最近手を加え立派にしたのは良いのですが、昼の定食が1,200円から1,900円に値上げされてしまいました。結果売上金額は変わらないけれど客数が減ってしまった相で、近く元に戻すかもしれないと先日の学士会館総会の時に噂されてました。午餐会、夕食会なども値上げされしかも先払い方式を導入するなど、批判が多い様です。
今日も又色々と話題豊富で日銀、株の話やらインターネットバンキング、老人の食事は塩分控えめにとか、我々はもう半分アルツハイマーになっているのではとか、様々の話が出ました。
"U" さんの新しい介護付マンションにもう "I" "U" さんの二人は行ってきたらしく大変良い環境だそうで、未だ空いてる部屋もあるようですがお値段を聞いたら手が出そうもない価額でビックリしました。後何年か先を考えると今から手を打っておくことは賢明なのかもしれません。
"H" さんが右のような40年前の卒業20周年のクラス会写真の複写を持参されました。自分がどれなのかも分からない人も居られ、顔に記憶は残っていても名前が直ぐに思い出されず大騒ぎでした。
帰って名簿と照らし合わせて見たところ、私なりに判明した分は23名あり内6名(圷、浅越、石井、榊原、松田、村木)が亡くなられて居ります。生き残って写っているのは誰か、皆さんも考察してしてみては如何!! 

十誠

2006年06月26日 | 感想
戦死した兄の陸軍経理学校第二期生の同級の方からこのような最近発行された会報が送られた参りました。
裏面の文中に、5月10日九段靖国神社と九段会館で行われた慰霊祭と懇親会で、尋ねられるまま色々思いで話を語ったことが "K" さんの筆により下記のように書かれておりました。
ちょっと恥ずかしい気もしましたが掲載致します。


各期便り {第二期生}
○陸士陸経同期生会
  五月十日同期生遺族約百五十名が集い、靖国神社で慰霊祭を、九段会館で総会・懇親会を関催した。陸経関係では、遺族北川秀夫様(北川一郎君令弟)、同期生大枝・神下・高田・西山の計五名が参列した。終戦六十周年を記念して刊行した、「萬世に燦たり」は第二期生会として、戦死者十二名のご遺族に贈呈すると共に、関係方面に寄贈した。
○十誠会慰霊法要
新霊位、佃 藤吾君、金子ハ郎君。参列者、遺族佃めぐみ、金子君子、金子大輔、原山和子の各位。来賓山田隆二君(五十三期)、同期生大枝・神下・高田合計八名。
前夜祭として行はれた全国大会には同じく三名が参加したが、お願いした協賃金は同期生合計十六ロと予想以上だった。
○消息
  北川秀夫様の住所は左記に変更
  〒157・O061
  世田谷区北鳥山6・11・3・1707
  電03・6750・0690
○同期残照
  北川一郎君。大戦当初南海支隊に属して、豪軍の航空基地ポートモレスビー攻略のため、東部ニューギュヤに上陸して険峻なスタンレー山を踏破進軍したが、補給が続かず地獄の苦しみと闘いつつ支隊は玉砕し、彼自身も昭和十八年一月半三日、同期生最初の戦死者となった。陸士五十三期との合同慰霊祭には、令弟秀夫様が毎年参列されているが、先般次のような逸話を聞いてその兄弟愛に泣かされた。
私が東大に入れたのも今日があるのも皆兄貴の御蔭です。兄貴は俺は学資がいらなかったのだから、その分、弟は大学にやってくれと、親と喧嘩してまでがんばってくれました。

彼は又予科卒業時のアルバムには、「力」と寄せ書きしたが、そういう男であった。

自動車安全祈祷

2006年06月25日 | 日記
今まで新車に乗り換えるたびに川崎大師の祈祷殿に行ってお払い受けてきてましたので、今回も今日家内と川崎まで行ったのですが、今日は入口で斯様なチラシを渡され、此処は4月末に閉鎖され、遙か彼方の国道409号線沿いの大師河原に移転してました。
.車で移動するに10分以上もかかるところに新築されて、祈祷殿そのものは同じような大きさの同じような形の建物ですが、全面の駐車スペースは断然広くなっておりました。
祈祷は依然と全く変わっておりませんでした。
変わったのは、ご祈願料が大幅に値上げされていたことです。
気持ちはなんとなく安堵し、爽快になったような気分です。
帰途大師名物のくず餅を買って、娘の家に立ち寄り一服して帰宅しました。

姉弟姉妹の集まり

2006年06月23日 | 日記
今日家内の6人姉妹の内北海道にいる次女と病気入院中の三女を除く、長男を含めて四名が今度の新居を見物に訪れました。
近くのデニースで会食をし、家に戻ったところ撮したのがこの写真です。
嫁さん旦那さんとご一緒に来られれば良かったのにと思うのですが、家内の姉妹は連れ合いの交流がないのは以前から不思議に思っております。
子供たちの従兄弟同士の交際も余りないのは、私の場合を考えると不思議に感じます。

梅雨の合間のゴルフ

2006年06月20日 | 日記
20日は毎月学士会館で午餐会がある日なのですが、"K" さんが全てゴルフ優先ということなので、今日は午餐会を止めて磯子に行きました。幸い梅雨の合間で可成り湿度は高かったものの快適なプレイが出来ました。
今日もゴルフ場は超満員で普通ならハーフで交代するところ、あてがわれたキャディさんが新人で1ラウンド変更なく面倒を見て下さいとマスター室から依頼されました。
1番出だしてコース半ばまで来たところ "M" というハンデ9のメンバーの方が急遽加わり、賑やかに回ることが出来ました。
いつもの仲間の "A" "S" さん達は自宅でパットの練習マットで訓練してると聞き、今度の我がマンションは練習マットを敷くスペースがあるので数日前真似して私も購入して来て早速やってみたのですが、パットばかりやっているとこれは直ぐに腰が痛くなって長くは出来ませんでした。そのせいか今日は余り効果がありませんでスコアはダボペースより悪く 109 という結果でした。
この大きな鬼百合の花は 15番ティーグランド横に見事に咲いていたので撮った物です。
プレー中例によって、新刊本の話、音楽の話、旨い飯屋の話、ゴルフスイングと握り、日銀総裁の話等々色々でした。
今朝出がけにあった地震は震度 2~3 度と言われてますが、我が高層マンションはそのような感じは全くしませんで 1度 位にしか思えませんで、此処の地盤は矢張り可成り良いという初めの説明は本当のように思えます。

アラスカ物語・新田次郎新潮文庫

2006年06月15日 | 感想
かねてから "K" さんから薦められていたのですが、先日の "K" さんのブログに感想文が載り、世田谷図書館の在庫を調べたところ、待たなくても手にはいることが分かったので早速取り寄せ、10日から読み出し今日読了しましました。

著者の新田次郎という作家の名前は知っては居ましたが彼の小説などは読んだことがなかったのですが、今評判の藤原正彦の父親であることは最近知った次第です。
この小説は登場人物の「フランク安田」という人物は実在していて、もう二人の日本人「ジョージ大島」「ジェームス・ミナノ」も実在人物で、この小説は実録物語であるといえます。

「フランク安田」(実名は「安田恭輔」)は明治元年生まれ、15歳で三菱汽船に入り22歳の時に米国沿岸警備船のキャビンボーイに採用されたけれども、自身の才能と努力の結果随分と重要視されるに従い、逆に白人からの迫害を受けるようになった結果、逃避する先でエスキモーの中に溶け込み、エスキモーにとって無くてはならない有名人になってしまった。
二次世界大戦が始まるや、米国の無法な日本人隔離政策により強制的に米国本土の日本人収容所に入れられ、日本敗戦とともに又アラスカに戻り、人生をエスキモーの救済に尽くして、生まれ故郷に遂に帰ることなく現地で90歳で没するまでの人生行路を描いた実録です。

読んでいて、こんな日本人が実在したとは全く凄いとしか言いようが無く、毎夜少しづつでしたがのめり込まれて読んだ次第です。
"K" さんに教えられなかったら、このような本を読まなかったでしょう。革めて感謝します。

それにしても戦時中の米国の米国内に在住してた日本人にたいする強制収容は戦後可成り経ってから謝罪したとはいえ、無法なことをする国民だと思うにつけ、戦後の軍事法廷を開いて、戦犯を作って断罪したのも全く国際法を平気で無視するに憚らない国と思うと、現在の日本人はもう少し戦前の米国が日本に人種差別で何をしたか勉強して貰いたいと思います。

著者の新田次郎さんは現地で3ヶ月以上の取材を敢行し、安田恭輔の故郷、宮城県石巻市の調査もされるという努力の結果この小説を物にしてます。
そもそも新田次郎という人は中央気象台、富士山測候所等に勤務された技術者で異色の小説家と言えます。
又夫人が作家「藤原てい」さんで数学者藤原正彦氏は次男です。

気に入るFWが欲しい・パッソの始(試)走

2006年06月13日 | 日記

今日は一日中曇り空で、暑くも寒くもない、日にも焼けない気候でした。2枚の写真の様に此処磯子CCは五月躑躅が花盛りでした。
グリーンが速いので、6月2日のゴルフの時に紹介した「田中貴金属製の銀75%の高価な代物」で作られた軽めのパターを今日も使用したところ、これが図に当たり平均パット数 1.61 という出来でした。
ドライバー良し、パット良し、惜しむらくはフェアウェイウッドが安定しないことで、表題のように安定して使えるFWが無いものでしょうかということになります。
それでも今日のスコアは 53 + 51 = 104 という希に見るスコアでした。
今日もう一つ発見したことは、或るショートホールでドライバー?でワンオンしたとき、可成り短めに持って打ったのが感じよく、ヒントになって、グリップの握り方を今まで飛ばそう飛ばそうと考えるばかり、シャフトの端一杯に持って振り回してたのを、グリップエンド2センチほど出して握ってスイングしたところ、今までよりフェアウェイウッドのミスが半減したように感ぜられました。
今日は昨夜のサッカーのワールドカップの大敗について議論諤々で、サッカーのルールに馴染めない我々には興味半減と言うところで、日本人は矢張り体力の点で未だ劣っているという結論でした。
今日皆さんにお披露目した私の真っ赤な新車について、まるで消防自動車のようだというお墨付きをいただきました。
購入してから雨続きだったので、今日が始めて 80キロ ?以上の距離を走りました。硬めのアブソーバーと空気圧のタイヤで、以前よりゴツゴツ感があり、車体が小さいのでスピード感が高く、100 km/h で走っていても以前のイストの時の 120 km/h のような感じです。カーナビの操作が変わり未だ完全に使いこなせず、物入れがずっと少なくなり、今まで積んでいたけれど二年以上使わなかった物は捨てることにしました。
車というのは、操作簡単で加速力さえ人並み以上なら小さい方が小回りが効いて使いやすいもので、ステイタスシンボルと考えるのは古く、知的には低級と思いますが如何でしょう?

車の入替

2006年06月08日 | 日記
予て註文して置いた新車が今日納車になりました。
写真のように「トヨタ・パッソ・ラッシー」という、ダイハツ製の 1300cc の車です。
今迄の「イスト」が今月一杯で車検になるので、車となんとかは新しいものに限るということで、「イスト」という車は本当に良くできた満足してる車ですが、年齢も83にもなると今までの方針通り小さいものに変えて行くことにこだわり、敢えて新車に切り替えた次第。
今度の新居は商店街に近く、車を利用する機会が益々減り、
本当にちょっとした足代わりとしては 1000cc でも充分なのですが、タイヤの小径なのは好きでないので、パッソには「Racy」というタイプに径の大きいのがありましたので、恰好が凄く若者用なのですが敢えて色も「赤色」の物に決めた次第です。
車体ナンバーは最近は使用者の好みの番号が取れるので、昔プリウスの時に付けた番号にして貰いました。
何でこの番号にしたかは私のプライバシーに属することなので内緒です。
今までの「イスト」のデータを見てみると
使用期間 2年11ヶ月
走行距離 17,450 km
燃費   12.23 km/l
ということになり、今までに一番良かったのは初代プリウスで 14.60 km/l で、最悪は 3000cc のアリストの 5.26 km/l で、因みに 4000cc だったセルシオは 5.66 km/l でした。
使用したガソリン代は総計 ¥155,466.- で キロ当たり ¥8.90 ということになります。