あれやらこれやら いろいろ沖縄

沖縄に住み20数年の県外居住者が見た沖縄の生活や人情・自然や文化、観光。「あれやらこれやら」気ままに。

沖縄の行事 ~ 旧暦12月24日(1月21日)は「御願解き(ウグヮンブトゥチ)」 ~ あと一週間で旧正月(1月28日)

2017年01月21日 22時42分21秒 | Weblog
 きょう1月21日は旧暦12月24日「御願解き(ウグヮンブトゥチ)」
近くのスーパーで餅(ムーチー)やみかん、泡盛などを買った。
「郷に入れば郷に従え」で、出来るだけ沖縄の風習にならうようにしている。
寒気団が入ったとかで寒い。空もどんよりしていて、久々の沖縄の冬が続いている。



 祭祀の多い沖縄でも、11月(旧暦)だけは行事がない。
その所為でもないが、1月5日「ムーチー(鬼餅)」の日(旧暦12月8日)を忘れていた。
偶々、1月5日当日、知人からの電話で、
「きょうはムーチーなのに暖かだな」
と云われてはじめて気付いた。
ずっと暖かな日が続いていたので冬という意識が薄くなっていた。
この日も22,3℃はあったろうと思う。
ムーチーの日は「沖縄で一番寒い日」と云われているのだが、ほんとうに寒いと感じたのは、先日の大寒波のときくらいである。
「こんな日がムーチーか」と思いつつベランダに出て空を見た。



 1月5日、電話が終ると直ぐに、近くのスーパーへ「ムーチー」を買いに家を出た。
行く道でツワブキの花を見つけた。
「今年はツワブキが何処にも咲いていないね」と話したのは、大晦日近くであった。
「今年は妙に暖かだからね」
 毎年、スーパーの建物沿いにたくさんのツワブキが咲き乱れているのだが、この日は一株だけが咲いていた。


 帰路、マンション1階の駐車場の花壇に目を留めた。
いつものありふれた光景でもあるので見過ごしていたのだ。
つつじ


コスモスとトマト



琉球萩



<余談>
 写真には1月6日とあるが編集日であって、撮影したのは1月5日。

 時が流れるのは速い。
先日、「時間は存在するのか」なんて難しい番組をEテレで観た。
途中からだったので、容易に理解の門前までも立てずに番組は終った。
「時間の流れは、50歳(=であったと思うが)では10歳の時の20倍速い」
といった件だけは鮮明に覚えている。
あとはチンプンカンプンであった。
時間が存在しないということさへ理解できない。
しかし、実感としては確かにある。
 一日が過ぎる速さ。
朝飯食って、パソコンの前に座ったら、もうお昼。昼飯食ったと思ったら1時過ぎ。
寝る前に振り返ってみたら何もしていない。
毎日がこの調子で過ぎてゆく。
 前回、ブログを書いてから2ヶ月になろうとしている。
溜まるのは写真とメモばかり。
そのメモも写真も、時が経ってくると、首を傾げるほど忘却の彼方に消え、断片しか蘇ってこない。
歳の所為か、痴呆症の始まりか。
2ヶ月ほど前、痴呆症のテストをしてもらったら「100%大丈夫です」とは言われたが・・・・・?

 下の写真はベランダで育てた白菊。
花びらがピンクのように変色し始めたので、枯れるなと思っていた。
もう3週間を過ぎるのに元気であった。
これも1月5日、空の模様を撮った時のもの。




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沖縄の季節~トックリキワタの満開は過ぎたか?未だか? 11月16日 ~ 国道330号線(浦添バイパスの並木)

2016年11月23日 20時23分05秒 | Weblog
 数日前、友人から「浦添バイパスのトックリキワタがきれいだよ」という電話をもらった。
11月16日、16時過ぎに家を出た。
55番線のバスに乗り、パイプライン「沢岻入り口」で下車、坂道を上る。
程なく、国道330号(浦添バイパス)に架かる陸橋の上に出た。
17時前、夕暮れは近かった。



 バイパスの歩道に立ち、北へ行くか南の那覇方面に歩くか迷っていた。
先ほどから、こちらに向って歩いてくる老夫婦が、そばに寄って来た。いきなり、
「☆◇◎×%%・・・・・」お爺が話しかけてきた。
手を耳に当てて
「なんですか?」と応えた。
「薬局は何処にある!」訛りのある苛立った大きな声で、目を丸くして睨みつけられた。
「えっ?」と応えようとした瞬間、
「もうええ!」というなり、すたすたと歩き出した。女房殿はとことこ無言のまま爺の後をついてゆく。
背を丸め遠ざかる老いたふたつの背中を眺めながら、面食らって言葉も出なかった。
何が起こったのか、暫し唖然としてしまった。
90歳は近いだろうなと思ったが、妙に腹も立たなかった。

 小山の中腹を走るバイパスはビルなどの建物の影になり、暮れるのが早い。



 枝の先にあるのは蕾か、実か判断できなかったが、満開の頃のような花の賑わいが感じられない。。
今年の夏は長かった。満開時は先だろうか。
葉の繁った木にも花が咲いている。これには驚いた。



 白い花のトックリキワタをみつけた。
初めてだ。



 日暮れも近くなったので、久し振りに那覇まで足を延ばすことにした。





降り立った「旭橋」交差点は夕闇。 この夜は「梵」で遅くまで語り、唄った。




ー画像は画像をクリックで拡大ー


この記事は11月19日に書いた。
アップの前に3年前の11月11日の頃と見比べて見た。


国道330号(浦添バイパス)撮影地点


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沖縄の風景 ~ 与儀公園・与儀十字路 ~ 

2016年11月09日 21時55分52秒 | Weblog
 先月(10月)20日過ぎ、「トックリキワタが咲いているよ」と電話が入った。
沖縄の晩秋に咲くトックリキワタをたのしみにしていることを知っている友人からだった。
トックリキワタをみる好きな場所が3つある。
那覇市与儀公園前の神原中学校の正門から玄関の並木、那覇市の通称ハーバービュー通りの並木、浦添市バイパスの並木。
昨年11月、運転免許証を自主返納したこともあり、連絡のあった数日後の夕方、与儀公園前の神原中学校に行くことにした。
バスの車窓からは何本かのトックリキワタをみかけたが、花をつけた木は1本だけで、他はみな葉だけが繁っていた。
 与儀公園でバスを降りる。
予感が的中。校門からの並木は1本だけが5分咲きでだった。
他は葉が茂っている。この分では、今年は花は咲かない。



 数年前までは、並木が桜かと見紛うほどであったが、この数年はこのような風景を見ていない。
3年前の同じ場所のトックリキワタ。



 がっかりして与儀公園を散策することにした。
入り口に蒸気機関車D51が展示してあった。
沖縄には軽便鉄道はあったがD51はなかったはずだ。
不思議に思ながら説明板を読んだ。



 公園内の様子。
平日だったからだろうか、人影はまばらであった。



 公園内の大木。
ゆうな

がじゅまる



 園内を30分ほど歩いた。
公園に沿って流れる川岸に桜並木があった。
大きな木ではないが、来年2月の桜の時期に来てみよう。
久し振りに酒膳「梵」にでも顔を出してみようと、降りたバス停に立った。
 待つこと10分。
頻繁にバスは来るものと思っていたのに来ない。
時刻表を見ると本数が驚くほど少ない。
バスが来るまで15分余りある。
大体、時間通りには来ない。次のバス停まで歩くことにした。



 与儀交差点を右折して「開南」に向う。
バスは頻繁に通り過ぎる。
どうも与儀公園のバス停は他にあるらしい。
少々苛立ちながら通り過ぎるバスを横目に見ながら、だらだら坂を上ること15分余り。
漸く、開南のバス停に辿り着く。
開南は公設市場や壷屋などの入り口で、首里や南部方面へ行くバスの分岐点の要所でもあったらしい。
開南交差点


 今年は真夏日が長かったからであろう。
11月中旬にでも他の場所に行ってみよう。


~全ての画像はクリックすると拡大する~





与儀公園



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沖縄の人情 ~ 小さな小さな公園で無償奉仕する「沖縄のおばあ」 ~ 

2016年10月27日 13時35分19秒 | Weblog
 先週の日曜日の事。
牧港ロクト整形外科でリハビリを終えての帰り道のことである。
バス停は病院から100メートル足らずの小さな小さな公園の傍にある。
公園には大きな羊蹄木や想思樹などが3,4本植えてある小さな緑地帯と云った方がいいかもしれない。
これらの木々の外れにクワディサーと地元の人が呼ぶ大きな木がある。
涼しげに木陰をつくっている下に、この木を取り囲むようにあつらえた木製ベンチがある。
ベンチから5,6メートル離れたところにバス停のポールがポツンと置かれている。
バスを待つ間、みなこの木の下で時間待ちをするのだ。




 「バサッ」大きな音がした。
バス停に向って、小さな小さな公園の縁を歩いている時である。
驚いて木立をみた。何も動く気配がない。
錯覚かと合点しつつ、バス停まで辿り着き、時刻表をみると5分後にバスが来る。
きょうはついているな、と得をした気分になった。
いつもの事ながら、バスは5,6分は遅れるなと思いつつ一服しようとベンチに近づいたら、ビニール袋に入った荷物がふたつ、目に飛び込んできた
そのひとつから黒い札入れが覗いている。
周囲を見廻したが人影はない。
忘れ物かと重いつつ煙草に火をつけた瞬間、「バサッ」と音がした。
音のした方を振り返ると白い人影が生垣の合間に見える。
『何をしているのだろう?あの人の荷物かな?』
そっと近づいてみると、背を丸めて、タオルで頬被りして顔を包み、頭につば広の帽子を載せた女性と思しき後ろ姿がみえた。

 「あのう、あれはあなたのじゃないですか?」
こんな声の掛け方をしたものだから、女性はびっくりしたように振り返った。
「何っ!!」と言葉鋭く、ゆっくりと腰を上げた。
丸い目をまん丸にして、責めるような、攻撃的な視線を私に向けた。
わたしは思わず怯んで、大きな声で言った。
「あれ、あなたのじゃないの?財布がみえてるよ!」
件のビニール袋を指差した。
「財布なんか置いてない!!」
ひとりぶつぶつ言いながらベンチの荷物の傍に座った。
落ち着いてみると、80歳にはなるだろうと思われる「おばあ」である。
「これねっ!」と黒の札入れを掴んでみせた。
「うん」と小さく応える。
オバアは「ああ」とひと言だけ云う。
と、今まで気がつかなかったが、荷物の傍にあった飲み残しの茶色の液体の紙コップを掴みながら、
「金じゃない」
と云った声には険はなかった。
「氷はないかね」、氷があればいいのに」
言いながら、その液体を口に少し注いだ。
「それは・・・」と云いかけると、
「ビール!」という。
突然、、
「◇※%#$●●☆§※????・・・・・・・・・・」としゃべり始めた。
オバアがひと息入れたところで、
「おれ、ウチナンチュウじゃないから、ウチナーグチはわからない」
とゆっくりした口調で詫びた。。
「ああ、そうねえ?」と、色の黒い私をまじまじとみつめた。
「わん(=わたし)、汚いのは嫌い。放っておけない。だから、ここを掃除しとる」
「1銭ももらってないよ。ボランティア。綺麗好きじゃから汚いの見るときれいにするの。
でも、きれいにして、終ったらワジワジするの、なんでかねえ」

しゃべりながら、黒い札入れから煙草を取り出して私に見せる。
何も云わないで見せるだけ。
「誰に文句言ったらいいのかね?警察、市長?市長は○×だったねえ」
間髪を入れずに2度ほど繰り返した。
「ううん・・・?市長は名前が違うよ」
と云ったところでバスが来た。
「バスが来たから帰るね。熱中症に気をつけてくださいよ!」
返事も聞かずにバスに飛び乗った。
 久し振りに「おきなわ」に出会った。
いつも見る車窓の景色が変って見えた。
朴訥な喋りが耳に残った。
オバアが仕事をしていた所に、新しい竹箒があったな、と思い出した。
オバアが「ボランティア」と云ったハイカラな言葉が妙に可笑しく愛しかった。

 3日後の水曜日。
同じバス停に降りた。
驚いた。
想思樹や羊蹄木などが丸裸になっていた。
オバアが背を丸めて作業をしていた場所も強烈な太陽の光が眩しく射し込んでいた。
オバアがみたらなんというだろう。
訳もなく、わたしもワジワジしてきた。



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沖縄の歴史 ~沖縄戦下 「肝胆相照らす」ふたり ~ 島田叡沖縄県知事・大田実海軍少将

2016年09月04日 16時29分55秒 | Weblog
  本島南部・遠くの丘が摩文仁の丘辺り
右手の丘の向こうが6月23日、沖縄戦終戦の日「平和の日」の式典が行なわれる平和祈念公園。


喜屋武岬から摩文仁方面。
画面の岬の先には数多くの戦跡が、平和祈念公園へと続く。
土地の人の話によると「海は米軍の艦船で真っ黒、艦砲射撃の弾幕は凄まじいものだった」という。



 TBSの連続ドラマ「生きろ~戦場に残した伝言~」の再放送を観た。
再放送を観たのは、沖縄戦が終った日「平和の日」当日だったか記憶は定かではない。
平成25年8月7日に放映されたTBS報道ドラマ「生きろ」の再放送だった。
 終戦間近、昭和20年1月、内務省から沖縄県知事に任命された島田叡(しまだ あきら)の5ヶ月間のドキュメンタリードラマである。

 『沖縄戦が始まる2ヶ月前、大阪府の部長であった島田叡に内務省から沖縄県知事の打診があったとき、既に戦況は最悪の状態であった。
「このような時期、俺が行かねば誰かかが行かねばならぬ」と異動を拒まなかったという。
沖縄に赴任した島田は、沖縄県民を護るために多くの改革を目指して命がけで奔走した。
その間に、太田實海軍少将と「肝胆相照らす」仲となった。
世の中「玉砕」を是としていた中で、「兎に角、生きろ」の信念を貫いた感動的ドキュメンタリードラマだった。
昭和20年6月25日、県民と一緒にいた壕を独り出た姿を目撃されたのが最後だったという。』


 未だに、島田叡の遺骨は発見されていない。享年44歳。
摩文仁の丘「島守の塔」に殉職した県庁職員453名と共に祀られている。
 那覇市奥武山公園には「島田叡氏顕彰碑」がある。
平成27年6月26日、30,000人を超える署名と県民による1000万円を越える寄付により建立された。
また、奥武山公園にある多目的グランドは、島田叡の出身地兵庫県に因んで「兵庫・沖縄友愛グランド」と命名されている。
島田は野球人でもあった。
旧制神戸二中時代、「第一回全国中等学校優勝大会」にも出場。東京大学時代は野球部に在籍していた。(Wikipediaに詳しい)

 遺骨捜索は、現在もなお、地元のボランティア団体「島守の会」や、母校の兵庫県立兵庫高等学校OBの手で行われている。 

 島田叡のことは、このドキュメンタリードラマを観るまでは殆ど知らなかった。
「島守の塔」も「奥武山公園の「島田叡氏顕彰碑」、「兵庫・沖縄友愛グランド」のことも知らなかった。
これだけでも写真を撮りたかったが、2ヶ月を過ぎる今も、思いを果たせてない。

 6月末、この項を書こうと思い立ったが、浅はかな知識と感情だけで書いてはならん、と思ってやめた。
先月、8月15日のNHKドキュメンタリー「ふたりの贖罪~日本とアメリカ・憎しみを越えて」を観て思い切った。

 『6月23日は「沖縄戦が終った日」として、今では「慰霊の日」として沖縄県指定の祭日となっている。
摩文仁の丘で慰霊祭が盛大に執り行なわれていることは全国周知の行事であろう。
昭和20年のこの日、時の司令官牛島中将が自決した。この事を以って組織的戦闘が終ったとしたのである。
 50年ほど前、自決した司令部壕を見に行った。
壕の上には「黎明の塔」が祀ってあった。
平和祈念公園内の奥の丘を行くと、各県の慰霊碑が並ぶ。
その奥に、一段高い道を進むと「黎明の塔」があったと記憶する。
ここから海岸の岸壁を少し下った所に司令部壕があった。
暗く、ジメジメした洞窟が口を開けていた。入り口は鎖で封鎖されていた。
その後、何度か「黎明の塔」には足を運んだが、壕には行かなかった。』


 島田と「肝胆相照らす仲」といわれた大田海軍少将。
明治24年千葉県生まれ。旧制千葉中学校から海軍兵学校へ進んだ生粋の軍人であった。(Waikikipediaに詳しい)

1945年6月13日、太田は海軍壕で自決した。自決後、中将に特別進級している。
海軍壕は豊見城公園に隣接してあり、近年、立派な海軍壕公園となっている。
太田は自決する一週間前、海軍次官宛に電報を打っている。
沖縄県民の当時の様子を伝えるに充分なものだろう。



数年前、海軍壕で撮影したもの


 このままでは読解し辛いのでWikipedia掲載文を転載した。
【文中の□部分は不明
発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ
然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ□中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ
而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ルモノアリ
所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ
是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン
糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ】

 *現代語訳はここを参照*


海軍壕公園から豊見城方面市街地




海軍壕の一部


 この項を書こうと思い立って2週間経ってしまった。
戦跡の写真は数多く撮ったが、記録したファイルがみつからない。。
思い当たる記録のファイルを全て探した。たくさんの写真の中から見つけ出したのは十数枚に過ぎなかった。
もう一度、戦跡を訪ねなければなるまい。
*全ての画像は画像をクリックすると拡大*




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