あれやらこれやら いろいろ沖縄

沖縄に住み20数年の県外居住者が見た沖縄の生活や人情・自然や文化、観光。「あれやらこれやら」気ままに。

沖縄の歴史 ~沖縄戦下 「肝胆相照らす」ふたり ~ 島田叡沖縄県知事・大田実海軍少将

2016年09月04日 16時29分55秒 | Weblog
 本島南部・遠くの丘が摩文仁の丘辺り
右手の丘の向こうが6月23日、沖縄戦終戦の日「平和の日」の式典が行なわれる平和祈念公園。


喜屋武岬から摩文仁方面。
画面の岬の先には数多くの戦跡が、平和祈念公園へと続く。
土地の人の話によると「海は米軍の艦船で真っ黒、艦砲射撃の弾幕は凄まじいものだった」という。



 TBSの連続ドラマ「生きろ~戦場に残した伝言~」の再放送を観た。
再放送を観たのは、沖縄戦が終った日「平和の日」当日だったか記憶は定かではない。
平成25年8月7日に放映されたTBS報道ドラマ「生きろ」の再放送だった。
 終戦間近、昭和20年1月、内務省から沖縄県知事に任命された島田叡(しまだ あきら)の5ヶ月間のドキュメンタリードラマである。

 『沖縄戦が始まる2ヶ月前、大阪府の部長であった島田叡に内務省から沖縄県知事の打診があったとき、既に戦況は最悪の状態であった。
「このような時期、俺が行かねば誰かかが行かねばならぬ」と異動を拒まなかったという。
沖縄に赴任した島田は、沖縄県民を護るために多くの改革を目指して命がけで奔走した。
その間に、太田實海軍少将と「肝胆相照らす」仲となった。
世の中「玉砕」を是としていた中で、「兎に角、生きろ」の信念を貫いた感動的ドキュメンタリードラマだった。
昭和20年6月25日、県民と一緒にいた壕を独り出た姿を目撃されたのが最後だったという。』


 未だに、島田叡の遺骨は発見されていない。享年44歳。
摩文仁の丘「島守の塔」に殉職した県庁職員453名と共に祀られている。
 那覇市奥武山公園には「島田叡氏顕彰碑」がある。
平成27年6月26日、30,000人を超える署名と県民による1000万円を越える寄付により建立された。
また、奥武山公園にある多目的グランドは、島田叡の出身地兵庫県に因んで「兵庫・沖縄友愛グランド」と命名されている。
島田は野球人でもあった。
旧制神戸二中時代、「第一回全国中等学校優勝大会」にも出場。東京大学時代は野球部に在籍していた。(Wikipediaに詳しい)

 遺骨捜索は、現在もなお、地元のボランティア団体「島守の会」や、母校の兵庫県立兵庫高等学校OBの手で行われている。 

 島田叡のことは、このドキュメンタリードラマを観るまでは殆ど知らなかった。
「島守の塔」も「奥武山公園の「島田叡氏顕彰碑」、「兵庫・沖縄友愛グランド」のことも知らなかった。
これだけでも写真を撮りたかったが、2ヶ月を過ぎる今も、思いを果たせてない。

 6月末、この項を書こうと思い立ったが、浅はかな知識と感情だけで書いてはならん、と思ってやめた。
先月、8月15日のNHKドキュメンタリー「ふたりの贖罪~日本とアメリカ・憎しみを越えて」を観て思い切った。

 『6月23日は「沖縄戦が終った日」として、今では「慰霊の日」として沖縄県指定の祭日となっている。
摩文仁の丘で慰霊祭が盛大に執り行なわれていることは全国周知の行事であろう。
昭和20年のこの日、時の司令官牛島中将が自決した。この事を以って組織的戦闘が終ったとしたのである。
 50年ほど前、自決した司令部壕を見に行った。
壕の上には「黎明の塔」が祀ってあった。
平和祈念公園内の奥の丘を行くと、各県の慰霊碑が並ぶ。
その奥に、一段高い道を進むと「黎明の塔」があったと記憶する。
ここから海岸の岸壁を少し下った所に司令部壕があった。
暗く、ジメジメした洞窟が口を開けていた。入り口は鎖で封鎖されていた。
その後、何度か「黎明の塔」には足を運んだが、壕には行かなかった。』


 島田と「肝胆相照らす仲」といわれた大田海軍少将。
明治24年千葉県生まれ。旧制千葉中学校から海軍兵学校へ進んだ生粋の軍人であった。(Waikikipediaに詳しい)

1945年6月13日、太田は海軍壕で自決した。自決後、中将に特別進級している。
海軍壕は豊見城公園に隣接してあり、近年、立派な海軍壕公園となっている。
太田は自決する一週間前、海軍次官宛に電報を打っている。
沖縄県民の当時の様子を伝えるに充分なものだろう。



数年前、海軍壕で撮影したもの


 このままでは読解し辛いのでWikipedia掲載文を転載した。
【文中の□部分は不明
発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ
然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ□中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ
而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ルモノアリ
所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ
是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン
糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ】

 *現代語訳はここを参照*


海軍壕公園から豊見城方面市街地




海軍壕の一部


 この項を書こうと思い立って2週間経ってしまった。
戦跡の写真は数多く撮ったが、記録したファイルがみつからない。。
思い当たる記録のファイルを全て探した。たくさんの写真の中から見つけ出したのは十数枚に過ぎなかった。
もう一度、戦跡を訪ねなければなるまい。
*全ての画像は画像をクリックすると拡大*




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沖縄の風景~基地建設にゆれる沖縄 ・ 辺野古

2016年07月27日 18時41分08秒 | Weblog
 7月26日朝,「どこか、どこでもいいから出ないか」と友人から電話があった。
丁度、退屈していたのでふたつ返事で承諾した。
外はギラギラ照り付ける太陽と熱風でうんざりする。
暑さで意識が朦朧としていたわけではないが、カメラを忘れた。
助手席に座り、手持ち無沙汰で夏空を眺めながら取り留めのない話題で時を過ごしていた。
兎に角北上。と、読谷村に入ったところで、突然、数ヶ月前、辺野古を彼と訪ねた事を思い出した。

 辺野古に行こうというきっかけは、NHKのドキュメンタリーを観たからである。
「辺野古」の文字を見ると「基地反対」一色の新聞やテレビの情報の中で、基地を待ち望んでいる人たちがいるというものだった。
 辺野古に居住する40代前後の男性の言葉が非常に印象に残った。
安全保障上基地が必要だといっているわけではない。
基地による地域経済の活性化を期待しているのだ。他に手立てはない、というものだった。
色褪せた看板、傷んだ塀や家屋のある地区の様子が映し出されていた。
 友人に電話を掛け、辺野古に行ってみないかと誘った。
数日後、友人と辺野古に向った。

 辺野古のある名護市東海岸一体は、沖縄の中では印象深く、思い出のある土地である。
20数年前、沖縄に赴任して来たとき、沖縄民謡「二見情話」に出会った。
着任して間もない頃のことである。スナックのカラオケで「二見情話」を初めて聞いた。
メロディーといい、歌詞といい、画面に映し出される映像に衝撃的な感銘を受けた。
その週の日曜日、ひとり二見に向かった。着任早々、大した仕事もなかった。
名護市から東海岸に向って走る。上りを少々走って峠に出た。
「左二見」の道路標識に沿って、曲がりくねった山道を下る。
麓には小さな村落があるがそれを過ぎて、右手は「これぞ沖縄の海」と感嘆するほどの海岸線を北上する。
いくら走っても「二見」の表示らしきものはない。
誰に訊ねることもなく引き返した。
 次の日曜日、再び二見にに向った。
山道を下ったところの小さな村落が二見だという。下り切った所で集落に入った。
小さな道が集落の真ん中に一本通っているだけで左右は山だ。
その谷間の道を200mも行っただろうか、芭蕉の密生するところで集落も道も途切れた。
みるべき所もなく、車をUターンさせて来た道に出た瞬間、眼前に「二見」とだけ書いた看板があった。
県民なら誰もが知っているという「二見情話」の二見だった。


 二見への道(旧329号線)を降り切ったところで、眼前に広がる海が大浦湾である。
写真奥、右手の岬がキャンプシュワブ。岬の左手の海上が基地建設予定地だ。
今は、峠から大浦湾に出るところまでバイパスが通じているから曲がりくねった山道を通ることはない。
バイパスから右下に二見を見ることは出来るが、初めてこの地を訪れる人は看過ごすだろう。
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 今は、本島を北上するときは、偶に、東海岸を通る。国道329号線だ。
この329号線は、辺野古の部落の外れを通っていたが、十数年前にバイパスが出来たため、「二見情話」の歌詞にある上り下りの大きな勾配のある坂は緩やかになってしまった。
この日は久志(くし)から旧道に入った。
入ってから直ぐに小さな公園の中に立つ塔を発見した。


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 塔の下部の碑文と右に刻まれた戦没者の碑。


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 辺野古中心地に当たるのか、その時撮影した内の数枚。




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 マスコミに登場する基地反対のテント。
遠くから車のフロントガラス越しに撮った。
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 久志・辺野古・二見・・・・・私の好きな沖縄のひとつである。
あの頃は、政治とは無関係の古き沖縄が残る所くらいにしか考えてなかった。
 マスコミは反対者側の行動だけを報道する嫌いがある。
しかし、賛成側にもいろいろな考えがあることを教えて欲しいものだ。
NHKドキュメントをみながら、複雑な思いに駆られた。
 先日、居酒屋で「反対反対ばかり言って、仕事もせずに過ごせるのは金があるやつばかりだ!」とはき捨てるように云った老人の言葉が忘れられない。



『 二見情話 』 玉城一美 山内たけし




辺野古


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沖縄の風景~海中道路から浜比嘉島へ~

2016年06月28日 11時53分34秒 | Weblog
 梅雨が明けて10日余り、南国特有の焼けるような熱い太陽が照りつける晴天が続いた。
天気予報士によると「梅雨明け10日」という言葉があるらしい。梅雨が明けた後、10日間は晴天が続くという。
続く暑さにウンザリしていたが、2,3日前からスコールのような雨の日が続いた。
 4月の下旬、友人夫妻に誘われて、うるま市の東、金武湾に沿って勝連半島と金武湾を取り囲むように連なる海中道路、平安座島、宮城島、伊計島をドライブした。

 当初、勝連城址に上ることにしていたが暑さに閉口、「この次に」ということになった。
那覇から小一時間の距離だからと素通りした。
勝連城址は高台にあり、城址からは中城湾と知念半島、金武湾と石川、金武方面、海中道路などが一望できる。
勝連城址の傍を抜けて海中道路に向った。

 海中道路から左が平安座島、右が浜比嘉島。海中道路を走り切ると直ぐに浜比嘉島に渡る大橋がある。
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 宮城島から伊計島に向う海岸を走る道路から。左から浜比嘉島、浜比嘉大橋、平安座島。
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 浜比嘉大橋の袂から平安座島方向。
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 数年前、村落の路地を歩いてたくさんの写真を撮ったのだが、どこに保管したのか、みつけることが出来なかった。
見つけ出したのはこの2枚だけ。
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 島の中央は丘になっていてホテルもある。
ブログに掲載したビーチと反対側には観光客が訪れるビーチもある。

 この日は島の奥まで行ってみた。
このビーチは初めてだ。浜比嘉大橋から車だと5分とかからない。
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 海中道路から伊計島までの景観は素晴らしい。
年に一度はドライブする。
本土からの友人には必ず勧める。





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沖縄のイベント~那覇ハーリー 2016年5月3日~5日~初めての5月3日初日の小・中学生ハーリーを観戦

2016年05月26日 15時32分07秒 | Weblog
 5月25日(水曜日)平年より遅れて梅雨入りして、久方振りに梅雨の中休み。朝方は陽が射して青空が拡がっていた。
午後からはどんよりした厚い雲に覆われていたが雨は落ちて来ない。
窓から吹き込んでくる初夏の風が心地よい。
きょう26日も午前中は厚い雲に覆われていたが、午後からは雲も切れ、今は日が射してきている。
 重い腰をあげて、5月3日の那覇ハーリーの様子を投稿することにした。

 5月3日、那覇ハーリーの初日。
友人の車に同乗したが、駐車場が確保できず、結局、2km余りを歩くことになった。
露天が建ち並び、沖縄のイベント会場で見慣れてしまった風景があった。
 初日は小・中学生が出場するとあって、子供等の屈託のない声援や歓声が会場に響き渡っていた。
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 会場には大型のスクリーンが取り付けられ、競技の様子が映し出されていた。
blogimg.goo.ne.jp画像をクリックで拡大



 地区代表の子供たちだろう、真っ黒に日焼けした姿が爽やかだった。
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 会場に行くまでの道筋に那覇爬龍船記念館があった。
記念館といってもこじんまりとしたものだった。
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 会場近くで珍しいものをみつけた。
久米三十六姓の門中墓であろう。
中国名と現在の沖縄の名前が併記されている。
14世紀の終わりごろ、明の時代、洪武帝の命により沖縄に派遣されたという中国人の子孫を久米三十六姓と呼ぶ。
福建省を出た彼らは現在の那覇市久米に定住し、久米三十六姓と呼ばれるようになった。
子孫達には琉球王国の中枢まで上り詰めた人もいる。三司官になった蔡温は、特に有名である。
詳細はここをクリック。沖縄の歴史の片鱗を見ることができておもしろい。

画像をクリックで拡大(背景の花は月桃)




 会場近くにはもうひとつ、日本最古の外人墓地といわれる「泊(とまり)外人墓地」がある。
定説は定かではないが、詳述したページを見つけた。ここをクリック
墓地は58号線泊交差点から那覇新港に向って200m位のところにある。
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 会場に沿うように県花「デイゴ」の街路樹の並木がある。
数年振りに生き生きとしたデイゴの花を見つけた。
写真は5月3日であるから、今は満開であろう。
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 朝からどんよりしていたが、風と横殴りの大粒の雨が降り出した。
ハーリーが中断となったので、会場を後にした。
初日の子供ハーリーをみるのは始めてであった。ゆったりした、たのしい時を過ごすことが出来た。

ハーリー会場となる那覇新港



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沖縄の居酒屋で ~ ゴキブリに恐怖!ゴキブリ退治の妙手あり? ~ 幼き頃の恐怖が蘇る 

2016年05月04日 18時58分23秒 | Weblog
 最近、夜の外出が億劫になってきた。
一日の平均歩数が5000歩を下回る月が2ヶ月続いた。
少なくとも10000歩以上歩いた日がひと月に5日以上あったのに、この2ヶ月間は一度もない。
4月に入り「これでは人の手を借りるようになってしまう」と多少奮起しているところである。
 そんな折、ちょっと遠出の散歩の帰りに寄った居酒屋での事。
居酒屋の入り口で壁か窓の修理をしていた職人姿の男女二人が、「終りました」と女主人に告げながら入ってきた。
男はわたしの左隣の椅子をひとつ空けてカウンターに座った。
「ご苦労さん」といいながら女主人は生ビールを注いだ。
仕事の経過報告でもしているようだが方言なので、確かと理解できない。
長い間、職人風の男と女主人の会話が続いた。
・・・女主人と書いたが、客はママと呼ぶ。
わたしも、右に倣えでママと呼んでいる。
過ってはスナックかバーであったろうという雰囲気が残っている店ではある。
その間に、二人の初老の男が入ってきた。これを機にママとの長い、賑やかなやりとりは漸く終った。

 矢庭に、「初めてですよね」と職人が声をかけてきた。
勿論、初対面である。
職人はグラスを上げる。「はじめまして、よろしく」の無言の乾杯である。
最初の頃は戸惑ったが、今ではこれが沖縄流と合点しているので私もグラスを上げた。
「わたしは○○といいます」と名刺を出して来た。
「わたしは現役を退いて久しいので名刺はありません」と丁寧に断ると、透かさずママが
「ノラさんていうの」と助け舟を出してくれた。
「ノラさん???」と男。
「そう野良猫のノラ」とママ。
「いや!野良猫じゃありません。野良犬のノラです」とわたし。
犬と猫とどう違うといわれれば身もふたもないが、猫といわれるのは嫌である。
沖縄では野良猫のノラ?とよく云われる。本土では概ね犬だったのだが。
名刺には沖縄に多い苗字だ。仮に、Oさんとしておこう。
「シロアリ駆除ですか」少々驚いてたずねた。先日、ママから「建て替える」と聞いたばかりであるからだ。
「そうです。最近はシロアリ駆除の仕事が少ないものですから雑仕事もやってます」
真面目そうな顔でニッと笑った。
名刺のシロアリの後にゴキブリ、アリ駆除と書いてある。
「ゴキブリ駆除もされるのですか」はじめて見るゴキブリ駆除であった。

 私は数週間前のゴキブリのことを思い出した。
「先日、夜中に台所の電気をつけたところ、大きなゴキブリが蛍光灯が煌々と照る床で、触手みたいな長いヒゲをゆらゆらさせながらじっと私を睨みつけているのです。微動だにしないのです。得体の知れない恐怖にぞっとしました。今までなら、新聞紙か雑誌で叩き潰すのですが、この時ほどゴキブリが恐ろしいと感じたことはありません。蚊用のフマキラーがあったことを思いだし、取り出して戻ってみたら、もういませんでした。台所の下の収納庫から水屋の隙間までフマキラーを撒き散らしました。ゴキブリが怖いと感じたのは初めてです」
あの夜のことを思い出しながら一気に喋ってしまった。
「ゴキブリは怖いですよ。長生きしたゴキブリは攻撃してきますよ」とOさんはいう。
「ゴキブリが人間を攻撃するのですか?」半信半疑、私は聞き返した。
「なれてしまえば、動物はみなそうです」容易に、私は納得した。

 そういわれればと,彼の話を聞きながら、子供の頃の恐怖の出来事を思い出した。
「ニワトリ」に襲われた。4,5歳の頃だと思う。
町内の路地裏にある家で数羽の鶏を飼っていた。チャボと「コーチン、コーチン」と言っていたから名古屋コーチンだろう。
ニワトリは庭に放し飼いになっていた。その家には板塀を張り巡らしていた。
その板塀の外は広くなっていて、子供等の遊び場だった。
或る日、私は数人の悪ガキと遊んでいた。
そろそろ遊び疲れたころ、その中のひとりが「ニワトリがいる!」と叫んだ。
板塀の下の隙間からニワトリが見えた。
それぞれ細い棒切れを探してきて、隙間からニワトリを突っついてからかい始めた。
ニワトリどもは恐慌状態でコココ、コココと狭い庭を逃げ惑う。その内、雄鶏は差し込まれた棒に勇敢に挑みかかってくる。
なお執拗に棒でニワトリを追い回していると、突然、頭上で「カカカア」と声がしたかと思うと同時に頭に羽音が響いた。
塀を越えて、雄鶏が襲ってきたのだ。
皆一目散に逃げた。どう逃げたか思い出せないが、あの時の恐怖は忘れられない。
そこは公衆浴場への道筋だったので、その板塀の傍を通る度に雄鶏が今にも飛びかかって来そうな気がして、一目散に走って通り過ぎたものだ。

 もうひとつ。「大人しい動物」のようにいわれる山羊に追われた。
終戦間もない小学校3年生の時。
当時、生徒数が多く、3年生は本校から1キロほど離れた分教場に移された。
校舎は旧陸軍兵舎で木造平屋建が2棟あった。
冬になると隙間風が寒くて震えながらの毎日であった。
小さな運動場の傍を小川が流れていた。運動場と土手の境目には、いつも山羊が繋がれていた。
 放課後の或る日、幼馴染で同級生のヒー坊達と運動場で遊んでいた。
その内、ひとり去り、ふたり去りして、ヒー坊と二人っきりになった。
遊び疲れた私たちは、棒切れを探し出して運動場の端っこの小川の土手に繋がれていた一匹の黒山羊をからかい始めた。
最初の内、山羊は目を白黒させて逃げようとするが、繋がれているので逃げることが出来ない。
その内、山羊は私達に向って頭を下げて、猛然と挑みかかろうとする。
安全な距離まで逃げては、また近づいて棒で叩く。
棒と言っても、その辺に生えている笹竹をへし折っただけのものだから威力はない。
夕陽が家々の屋根に隠れ始めた頃、「帰ろう」というヒー坊の声で、山羊から十数メールほど離れたとき、
「わーっ」とヒー坊が叫びながら、一目散に校門目がけて走り始めた。
振り返ると綱を引き千切った山羊が、猛然と私に向って突き進んでくる姿が目に飛び込んだ。
ヒー坊の後を追うゆとりはない。
私は、咄嗟に校舎に駆け込み、入り口の戸を閉め、廊下から外を見た。
窓の下で、例の黒山羊が私を見上げ、睨みつけながら、右左に云ったり来たりしていた。
私は震えた。
入り口のドアから入ることが出来ないと知った山羊が、戻って来てわたしを追い詰めようとしている。
そう考えただけで竦み上がった。

 「窮鼠かえって猫を咬む」とは母の口癖だった。
「弱いものをいじめるのは男の屑だ」とは、母の戒めであった。
ニワトリの件も、山羊の件も母はおろか誰にも話したことはない。


「ゴキブリ駆除を業者に頼むのは無駄です」とOさんは、突然、話題を変えた。
ビールが好きなようで中ジョッキー2杯をすでに空けていた。
「駆除業者は駆除は一回だけしかやりません。その一回だけではゴキブリは退治できません。一回の駆除で4,5万はかかります。無駄なことです」と話は続く。
「ゴキブリの免疫力は物凄いです。ゴキブリは卵を抱いています。親が殺虫剤をかけられたとき、びっくりして死ぬ前に卵を産み落としてしまいます。卵は4,5日で孵化します。卵から孵った子供がその消毒液に対して耐性をもって生まれてくるので同じ駆除剤は通用しません。
そういうことですから、ゴキブリ駆除は自分でやるのが一番です。ゴキブリ駆除にはバルサンがいいです。バルサンを天井、床、床下にそれぞれ置いて駆除します。それを一週間毎に4回やれば完全に駆除できます。バルサンは3種類あるから、4週間目に最初使った駆除薬を使います。一万数千円でできるでしょう」
妙に説得力があった。
集合住宅に住んでいる私には無理な話だが、一戸建ての住まいなら試してみたいと思った。



 かの居酒屋のある屋富祖大通り。過っては、沖縄を代表するような繁華街であったらしい。
今ではその面影もない。屋富祖大通も今では「年金通り」といわれているらしい。
ひと通りの人生を終えた人々が、その余生を過ごす町に変貌しているのだ。
概ね、屋富祖、城間、仲西、小湾といった近所の人たちが多い。
時には、現役時代を懐かしんで那覇市、糸満市、宜野湾市や沖縄市から来る。
私のように県外から来た人間には戸惑いも多いが、沖縄の文化や生活に接することが出来る。




 イッペーの季節はとっくに過ぎて、デイゴの咲く頃となった。
左が実となった4月14日の写真・右が3月8日に写したもの。





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