徒然なるのゐどる

ふしぎにさびしい宇宙の果てを
ふわりふわりと昇って行こうよ。

「拾われ」ました。

2016年06月27日 | Weblog
先週、ある児童文学の小説賞の最終選考で、落選したと書いた。

そうしたら、出版社の人から後日連絡があった。
「賞は落選だったけれど、とてもおしい内容だったから、改稿して出版してみませんか?」と声をかけられた。

え、そそ、そんなことあるのー!

人生いろいろあって疑り深くなっている私は「お金かかるんですかねー」と聞いた。
「もちろん無料です」「・・・・。」

どれぐらい、本気なのかな。
ほんとのほんとに、本を出版させてくれるのかな・・・。
なんかもう、やっぱ駄目でしたとか、嫌なんだけども・・・。

「うまくいけば来年の二月末にデビューということになりますかね」と言われ…。

ブシュー。

ほんとうかなぁ、ほんとうかなぁ。
まぁ、本当に本になるかどうかわからないけれど、やってみるしか、ないよね。

捨てる神あれば拾う神あり。

出版に向けて(?)一年間の改稿生活が始まりました。

「落選」しました。

2016年06月24日 | Weblog
先日、とある文学賞の最終選考に残ったと、出版社から電話があった。

プロになっても大丈夫かどうかの意思確認が行われ、ドキドキしながら一週間、ドキドキそしすぎて死ぬんじゃないかと思いながら待っていた。

落ちた時に悲しいから、期待してはいけないという気持ちと、期待して楽しみな気持ちでいられるのは今だけなんだから、期待を楽しもうと言う気持ちと、なんかそう言う気持ちがごっちゃになって、期待したほうがいいんだかしないほうがいいんだか、もうわけがわからなくなって、変なテンションに。

しかし、電話が来て、結果は落選ということ。
ものすごーくガッカリしてしまった。
でもちょっと、ノーベル文学賞を待つ村上春樹の気分を味わったなぁと思いつつ(え?全然違う?)。

私もまた、黙っていればいいのに、あまりに嬉しくて興奮して、夫や母に喋ってしまった。
喋ったものだから、夫や母もきっと何か思っただろうことで、私も落選を告げる時の切なさったらない。

まぁ母も夫もさらっと一言残念だったねというくらいですませてくれたけれど、こちらとしては本当にもう一刻も早くその出来事を忘れてくれという気分だった。

世の中で、「初めて書いた小説が入選しましたぁ」とかいう人がいると、ハラが立つ。
勝手にねたんでるだけだけど、なんか、腹が立つ。

私なんか、私なんかなぁ、大学を卒業してからだけで100くらい、人生では400くらい応募しているはずなのに、全然なんの章にも入らないんだぞ!と説教してやりたい気分だ。(厳密に言うと説教になってない)
私のような人もいる一方で、一回応募するだけで入選する人がいるんだもんなぁと、思うと、やりきれない気分になる。

でもその一方で、いくら応募しても、応募しても、どうにもならなくても、次応募すればどうにかなるかもしれないと期待もしている。応募すればするだけ、当選する確率が上がるというものだ。

夢は叶うか叶わないか、じゃない。
叶うか諦めるかだ。

諦めなければ絶対にいつか叶う。それは単に、確率の問題だ。諦めなければ、夢がかなう確率がうなぎ昇りになるから。

そして、死ぬまで応募して夢がかなわなかったら、私は「夢かなわなかったわー」と死に際に認めるかもしれないけれど、挑戦し続けられるうちは、それは夢がかなわなかったとは言わない。まだ叶えている途中なんだ!と言い張ることができる。

そんなわけで私は、絶対にあきらめないぞと思っている。
「夢がかなわなかった野郎」「夢破れ野郎」というレッテルだけはぜったいにはられてなるものか。
「夢破れ野郎」よりは、「夢叶えている途中の夢見がち野郎」のほうがかっこいい。

30もこえて夢を追っていると「恥ずかしい奴」と世の中では言われがちだ。
でも、本当に恥ずかしい奴は、「夢をおってるやつって恥ずかしい~」と指差しながら、なんの夢も努力もしていない奴だ。

次こそはきっと大丈夫。焦らずに地道に頑張り続ければ、きっといつかどうにかなるよ。
落選した作品の講評を聴きながら、すぐにでもそう思っていた。

新ジリアンマイケルズの奇妙な世界観

2016年06月11日 | Weblog
ジリアンマイケルズの30日間ダイエットを4月から続けている。
が、先日息子がDVDをどこかに隠し、DVDが行方不明になってしまった。
仕方がないので、腹がまたでっぱる前に、「新・ジリアンマイケルズの30日間ダイエット」を買う。

新になったら、ジリアンがおかしくなってしまった。

靴のまま腹筋しているメンバーの腹を踏みつけたり、筋肉に話しかけたりしている。
「私って暴君みたいでしょ。大丈夫、セラピーに通ってるから」と笑顔でしゃべっている。

セラピーに・・・。

アメリカのセレブの間では普通のことなのかもしれないけれど、でも…日本だとヤバイよ。心配になるよ。

以前のDVDから、「私のこと変だと思ってるでしょ」とか、「私のことエラそうと思ってるでしょ」とか、「なんか被害妄想強いぎみだなこの人・・・」と心配していた。
しかし、新ジリアンで、セラピーに通っている事態にまでなっていた。

また「80年代のエアロビブーム復活よ。イェ~イ!!」とか突然テンションが上がりまくったりするので、気分の上下の幅が激しい。
「こんにちわ、筋肉さん、私のパーティー楽しんでってね!」とか、筋肉に向けて話しかけるくだりなんかは、もうスポンジボブのイカれた世界観でコワい。

いや、これがアメリカの普通のユーモアあふれる世界観なのかもしれない。
けど…前回のDVDよりも新ジリアンのほうがジリアンの世界観がぶっとんじゃってて、私にはコワい。
(だいたい私はスポンジボブの世界観も怖い)

私は勝手に「全米ナンバーワントレーナーとうたわれ、巨万の富を手にしたジリアン。とはいえその巨額のお金と社交界のデビューは、彼女の精神に大変な苦痛を与えているのだな…」と勝手に解釈して、温かい目でジリアンを見つめながらダイエットに励むのだった。

ふらいんぐうぃっちと弘前の町並み

2016年06月11日 | Weblog
アニメ「ふらいんぐうぃっち」を観ている。
弘前に住む魔女見習いの女の子の話だ。

最初はこのひらがなの題名と、魔女の女の子と聞いて、萌え萌えなお話かと思っていたけれど、友達に勧められて見てみるとどうもそう言う感じではない。
道端に生えているばっけ(ふきのとう)をとっててんぷらにして食べたり、同居の同年代の男の子といい感じになるかと思いきやそういう雰囲気もなく、なんというか、マターリなほのぼの日常モノだ。

アニメで描かれている弘前市は、大学時代に住んでいた場所だ。
アニメに出てくる町並みは弘前の雰囲気が出ていて、家と家の感覚の広さや、田んぼや、道の畔具合や、空き地の多さ具合が、ふらりと立ち寄る弘前の町並みを思い起こさせる。

ところで、子供の頃ドラえもんを見ているとき、町並みに対して「フィクション」を感じていた。
「これはドラえもんの世界で、私の住んでいるところとは別だ」と完全に思っていた。

ところが大きくなって東京に行ってみると、なんとなくこういう塀のある街並みを目にして、「あれはフィクションではなくて本当にあるところがモデルだったんだー」と思った。
サザエさんもそうで、完全にフィクションだと思っていたら、そういう町並みが本当に東京に行ったらあった。東京のただの住宅街をを歩きながら、「アニメの世界にいるみたい…」と思った事を記憶している。

私は生まれも育ちも公務員住宅で、物ごころついてからは計画されたニュータウン住まいなので、塀がない町並みで育った。だから、アニメに出てきた、高い塀の中をジャイアンから逃げて走る感じとか、ドカンのあるなんにもない空き地とか、実際に見たことのない町並みにどうしてもなじめなかったのだ。

「ふらいんぐうぃっち」を見ていると、物語としてものんびりしていて面白いんだけれど、ああ~、弘前いいところだったなぁ。こういう道の広さと、のんびり感があったなぁと思い出され、感慨深い。
自分の中のイメージの弘前とビッタリ合致して、フィクション以上の生身の物として世界観を感じる。

そう思うと、他の物語の一つ一つにもそのキャラクターの住んでいる世界というのが存在していることを思うと、なんだか不思議な感じがするのだった。