「ETV特集らいは不治にあらず~ハンセン病隔離にあらがった医師の記録」を見る。
以下概要~
ハンセン病は、皮膚に病変が生じる病気だ。
戦前、ハンセン病は不死の病とされていて、ハンセン病になった患者は村から出ていけと言われ、放浪生活をおくらないといけなかった。
日本では明治40年、ハンセン病の隔離を決定する法律が出され、患者を収容する政策がすすめられた。
医師の光田健輔は、村を出されて放浪生活を送るようになる患者は不憫と考え、ハンセン病患者を隔離して、生活の場を与えることを、患者への救済と考えていた。
「隔離した者に平和な生活を与えなければ」と使命感と共に隔離を推進させる。
確実な治療法がないハンセン病に、最も有効な治療法は「隔離すること」と考えられた。
一方、医師の小笠原登は、ハンセン病患者をみるなかで、ハンセン病は簡単にはうつらないし、不治の病ではないと確信した。
当時はハンセン病だとわかると医者が逃げ出すような状態であったにも関わらず、小笠原は患者の病変部を指で触り、堅さを確かめ、学生にも「堅さを確認するのが大事だし、これはうつらない」と指導していた。
そんな中、戦争がはじまり、昭和6年、らい予防法が制定された。
戦時中は、らい病は国力を低下させる病気とされ、厳しく取り締まられることになる。
らい予防法では、らい患者は生涯隔離をするべきという、厳しい絶対隔離政策がとられた。
患者は国立療養所に強制的に入れられ、逃亡を防ぐため、外出は禁止された。
結婚するなら子孫を残さないよう、断種や堕胎手術をさせられることになる。
病院では、らい患者を診断した医師は、警察に通報しないといけないという法律もあった。
警察に通報された患者は、療養所に入れられ、もう二度と外に出ることは許されなくなる。
小笠原は「多発性神経炎」など、らい患者に別の病名をつけて、隔離されるのを阻止した。
昭和16年、小笠原は健康な人に植え付けた菌がすぐになくなってしまうことから、ハンセン病は、体質によって発病しないことを確信し、新聞に記事を投稿した。
そして、医師はらい菌ばかりを研究しているが、病原菌だけではなく体質も研究すべきと主張した。
ところがその記事は、朝日新聞に「らいは伝染病にあらず」という題名で載ってしまった。
これに、医師会は猛反発した。
昭和16年、日本らい学会総会で、患者の隔離政策推進派の光田健輔と、隔離反対派の小笠原登が激突する。
小笠原の「らい菌は虚弱体質につけこんで発病する病気です」という体質論に、
野島泰治は「らい病がまるでうつらないかのように、国策に反逆した記事は許されない。その罪は万死に値する」と強い非難を浴びせる。
村田正太は「らいは伝染病ではないのか?伝染病なのか?それをはっきり述べてください」とつめより、
小笠原は「らいは細菌性疾患であることは認めます。しかし、感染は非常に微弱で・・」と述べるが、発言の途中で発言を阻止される。
そこでは、小笠原はどんなに質問に応戦しても、発言を阻止され、発言することを許されなかった。
この総会は、国策に反したことを新聞に書かれたため、医学界はそれを問題視し、小笠原を黙らせるために国民に向かってパフォーマンスをしたものだった。
やがて戦争が終わり、プロミンという、らい菌の増殖を阻止する薬が開発された。
国でも隔離政策をやめるべきという機運が高まり、らい病患者たちも、隔離政策の反対運動を行った。
しかし、隔離政策推進派の光田健輔は「せっかくここまで浄化した国内が、またらい菌で汚染させられる」と阻止。
光田健輔はプロミンによって一度治ったと言われても、また再発するかもしれない、という理由により、患者を生涯隔離することを主張し続けた。
そのため、プロミンによって、らい菌はいません、といわれた患者も、療養所に送られた。
患者の中には、らい病が完治したまま、その後65年間もずっと隔離され続けることになった人もいた。
光田健輔は昭和32年、総理大臣から感謝状を受け取る。
救らいの父と呼ばれるようになった。
昭和33年には国立ハンセン病療養所の入所者数は、最も多くなり、その数は11,911人にもなった。
小笠原は、その後も、ハンセン病は遺伝する病気でも、強烈な伝染病でもなく、不治の病ではないという確信のもと、こっそり医局で患者を見続けた。
しかし、それがばれて依頼退職せざるを得なくなる。
昭和45年に小笠原は死去。
半世紀を経て、らい菌は免疫が異常反応を起こして発病する免疫病であることが、免疫学によって証明されることとなった。
小笠原の半世紀前から言い続けてきた持論が正しいと証明された時、小笠原はもうこの世にはいなかった。
平成8年にらい予防法は廃止され、隔離政策がようやく中止される。
国立療養所で生涯隔離されたまま亡くなった人は、26029人にも及んだ。
~以上
隔離は間違っている、ハンセン病は簡単には映らない病気だと、正しいことを言い続けた人は病院を退職させられて亡くなり、何年間も患者を隔離させるという政策をとらせてきた人が、表彰状を受けると言うのは、皮肉なものだなぁと思う。
しかし、光田は光田で、ハンセン病患者を隔離することが、病気を根絶し、患者のためにもなると考えていたので、彼にも大義があったのだろう。
そして、光田のほうが政治が上手で、政治の競り合いで、小笠原は負けたのかもしれない。
結局政治力のあるものが、大勢を味方につける者の方が、政局では勝つ。
小笠原の主張は、非常に先見の明を得ていた。
まるでガリレオが「それでも地球は動く」と主張した時のようだ。
「ハンセン病は治る、感染力は非常に微弱だ」
皆が反対する中で、しかも政治的な圧力もある中でこの発言をするのは、どれだけ勇気のいったことだろう。
皆が正しいと言う中で一人だけ、間違っていると言うのは、非常に勇気がいることだ。
でも、周囲の人が同じことを言っているから、それが正しいとは限らない。
周囲の常識が、時として間違っていることがある。
カルテを書き変えてでも、学会で総攻撃に遭っても、正しいことを正しいといい続ける努力に、頭が下がる。
そして、隔離をどんなに強制されても、カルテを書き換えてハンセン病を隠し、自分の実家の寺や、研究所や、自宅などで、しぶとく患者を見続ける信念の強さに、感動する。
たとえ全体が隔離をするべきだと言う機運に押されていても、自分だけは、隔離には反対する。
いつだってそういう人が、次の新しい世の中をつくっていく。
小笠原は生涯では、無念を感じながら、でも自身の主張を確信しながら、亡くなっていっただろう。
光田は自分の功績に満足して、自分の主張をやはり確信しながら、亡くなったのだろう。
でも、偉大だったのはやはり、光田ではなくて、小笠原だったのだと思う。
自分が正しいと言うことを主張する勇気。
多くの人のために、自分の信念を貫こうとする気概。
それが人の一生には、大事なのだ。
以下概要~
ハンセン病は、皮膚に病変が生じる病気だ。
戦前、ハンセン病は不死の病とされていて、ハンセン病になった患者は村から出ていけと言われ、放浪生活をおくらないといけなかった。
日本では明治40年、ハンセン病の隔離を決定する法律が出され、患者を収容する政策がすすめられた。
医師の光田健輔は、村を出されて放浪生活を送るようになる患者は不憫と考え、ハンセン病患者を隔離して、生活の場を与えることを、患者への救済と考えていた。
「隔離した者に平和な生活を与えなければ」と使命感と共に隔離を推進させる。
確実な治療法がないハンセン病に、最も有効な治療法は「隔離すること」と考えられた。
一方、医師の小笠原登は、ハンセン病患者をみるなかで、ハンセン病は簡単にはうつらないし、不治の病ではないと確信した。
当時はハンセン病だとわかると医者が逃げ出すような状態であったにも関わらず、小笠原は患者の病変部を指で触り、堅さを確かめ、学生にも「堅さを確認するのが大事だし、これはうつらない」と指導していた。
そんな中、戦争がはじまり、昭和6年、らい予防法が制定された。
戦時中は、らい病は国力を低下させる病気とされ、厳しく取り締まられることになる。
らい予防法では、らい患者は生涯隔離をするべきという、厳しい絶対隔離政策がとられた。
患者は国立療養所に強制的に入れられ、逃亡を防ぐため、外出は禁止された。
結婚するなら子孫を残さないよう、断種や堕胎手術をさせられることになる。
病院では、らい患者を診断した医師は、警察に通報しないといけないという法律もあった。
警察に通報された患者は、療養所に入れられ、もう二度と外に出ることは許されなくなる。
小笠原は「多発性神経炎」など、らい患者に別の病名をつけて、隔離されるのを阻止した。
昭和16年、小笠原は健康な人に植え付けた菌がすぐになくなってしまうことから、ハンセン病は、体質によって発病しないことを確信し、新聞に記事を投稿した。
そして、医師はらい菌ばかりを研究しているが、病原菌だけではなく体質も研究すべきと主張した。
ところがその記事は、朝日新聞に「らいは伝染病にあらず」という題名で載ってしまった。
これに、医師会は猛反発した。
昭和16年、日本らい学会総会で、患者の隔離政策推進派の光田健輔と、隔離反対派の小笠原登が激突する。
小笠原の「らい菌は虚弱体質につけこんで発病する病気です」という体質論に、
野島泰治は「らい病がまるでうつらないかのように、国策に反逆した記事は許されない。その罪は万死に値する」と強い非難を浴びせる。
村田正太は「らいは伝染病ではないのか?伝染病なのか?それをはっきり述べてください」とつめより、
小笠原は「らいは細菌性疾患であることは認めます。しかし、感染は非常に微弱で・・」と述べるが、発言の途中で発言を阻止される。
そこでは、小笠原はどんなに質問に応戦しても、発言を阻止され、発言することを許されなかった。
この総会は、国策に反したことを新聞に書かれたため、医学界はそれを問題視し、小笠原を黙らせるために国民に向かってパフォーマンスをしたものだった。
やがて戦争が終わり、プロミンという、らい菌の増殖を阻止する薬が開発された。
国でも隔離政策をやめるべきという機運が高まり、らい病患者たちも、隔離政策の反対運動を行った。
しかし、隔離政策推進派の光田健輔は「せっかくここまで浄化した国内が、またらい菌で汚染させられる」と阻止。
光田健輔はプロミンによって一度治ったと言われても、また再発するかもしれない、という理由により、患者を生涯隔離することを主張し続けた。
そのため、プロミンによって、らい菌はいません、といわれた患者も、療養所に送られた。
患者の中には、らい病が完治したまま、その後65年間もずっと隔離され続けることになった人もいた。
光田健輔は昭和32年、総理大臣から感謝状を受け取る。
救らいの父と呼ばれるようになった。
昭和33年には国立ハンセン病療養所の入所者数は、最も多くなり、その数は11,911人にもなった。
小笠原は、その後も、ハンセン病は遺伝する病気でも、強烈な伝染病でもなく、不治の病ではないという確信のもと、こっそり医局で患者を見続けた。
しかし、それがばれて依頼退職せざるを得なくなる。
昭和45年に小笠原は死去。
半世紀を経て、らい菌は免疫が異常反応を起こして発病する免疫病であることが、免疫学によって証明されることとなった。
小笠原の半世紀前から言い続けてきた持論が正しいと証明された時、小笠原はもうこの世にはいなかった。
平成8年にらい予防法は廃止され、隔離政策がようやく中止される。
国立療養所で生涯隔離されたまま亡くなった人は、26029人にも及んだ。
~以上
隔離は間違っている、ハンセン病は簡単には映らない病気だと、正しいことを言い続けた人は病院を退職させられて亡くなり、何年間も患者を隔離させるという政策をとらせてきた人が、表彰状を受けると言うのは、皮肉なものだなぁと思う。
しかし、光田は光田で、ハンセン病患者を隔離することが、病気を根絶し、患者のためにもなると考えていたので、彼にも大義があったのだろう。
そして、光田のほうが政治が上手で、政治の競り合いで、小笠原は負けたのかもしれない。
結局政治力のあるものが、大勢を味方につける者の方が、政局では勝つ。
小笠原の主張は、非常に先見の明を得ていた。
まるでガリレオが「それでも地球は動く」と主張した時のようだ。
「ハンセン病は治る、感染力は非常に微弱だ」
皆が反対する中で、しかも政治的な圧力もある中でこの発言をするのは、どれだけ勇気のいったことだろう。
皆が正しいと言う中で一人だけ、間違っていると言うのは、非常に勇気がいることだ。
でも、周囲の人が同じことを言っているから、それが正しいとは限らない。
周囲の常識が、時として間違っていることがある。
カルテを書き変えてでも、学会で総攻撃に遭っても、正しいことを正しいといい続ける努力に、頭が下がる。
そして、隔離をどんなに強制されても、カルテを書き換えてハンセン病を隠し、自分の実家の寺や、研究所や、自宅などで、しぶとく患者を見続ける信念の強さに、感動する。
たとえ全体が隔離をするべきだと言う機運に押されていても、自分だけは、隔離には反対する。
いつだってそういう人が、次の新しい世の中をつくっていく。
小笠原は生涯では、無念を感じながら、でも自身の主張を確信しながら、亡くなっていっただろう。
光田は自分の功績に満足して、自分の主張をやはり確信しながら、亡くなったのだろう。
でも、偉大だったのはやはり、光田ではなくて、小笠原だったのだと思う。
自分が正しいと言うことを主張する勇気。
多くの人のために、自分の信念を貫こうとする気概。
それが人の一生には、大事なのだ。