徒然なるのゐどる

ふしぎにさびしい宇宙の果てを
ふわりふわりと昇って行こうよ。

ETV特集「らいは不治にあらず~ハンセン病隔離にあらがった医師の記録」を見る

2016年05月27日 | Weblog
「ETV特集らいは不治にあらず~ハンセン病隔離にあらがった医師の記録」を見る。

以下概要~

ハンセン病は、皮膚に病変が生じる病気だ。
戦前、ハンセン病は不死の病とされていて、ハンセン病になった患者は村から出ていけと言われ、放浪生活をおくらないといけなかった。

日本では明治40年、ハンセン病の隔離を決定する法律が出され、患者を収容する政策がすすめられた。

医師の光田健輔は、村を出されて放浪生活を送るようになる患者は不憫と考え、ハンセン病患者を隔離して、生活の場を与えることを、患者への救済と考えていた。
「隔離した者に平和な生活を与えなければ」と使命感と共に隔離を推進させる。
確実な治療法がないハンセン病に、最も有効な治療法は「隔離すること」と考えられた。

一方、医師の小笠原登は、ハンセン病患者をみるなかで、ハンセン病は簡単にはうつらないし、不治の病ではないと確信した。
当時はハンセン病だとわかると医者が逃げ出すような状態であったにも関わらず、小笠原は患者の病変部を指で触り、堅さを確かめ、学生にも「堅さを確認するのが大事だし、これはうつらない」と指導していた。

そんな中、戦争がはじまり、昭和6年、らい予防法が制定された。
戦時中は、らい病は国力を低下させる病気とされ、厳しく取り締まられることになる。
らい予防法では、らい患者は生涯隔離をするべきという、厳しい絶対隔離政策がとられた。
患者は国立療養所に強制的に入れられ、逃亡を防ぐため、外出は禁止された。
結婚するなら子孫を残さないよう、断種や堕胎手術をさせられることになる。

病院では、らい患者を診断した医師は、警察に通報しないといけないという法律もあった。
警察に通報された患者は、療養所に入れられ、もう二度と外に出ることは許されなくなる。
小笠原は「多発性神経炎」など、らい患者に別の病名をつけて、隔離されるのを阻止した。

昭和16年、小笠原は健康な人に植え付けた菌がすぐになくなってしまうことから、ハンセン病は、体質によって発病しないことを確信し、新聞に記事を投稿した。
そして、医師はらい菌ばかりを研究しているが、病原菌だけではなく体質も研究すべきと主張した。

ところがその記事は、朝日新聞に「らいは伝染病にあらず」という題名で載ってしまった。

これに、医師会は猛反発した。

昭和16年、日本らい学会総会で、患者の隔離政策推進派の光田健輔と、隔離反対派の小笠原登が激突する。

小笠原の「らい菌は虚弱体質につけこんで発病する病気です」という体質論に、
野島泰治は「らい病がまるでうつらないかのように、国策に反逆した記事は許されない。その罪は万死に値する」と強い非難を浴びせる。

村田正太は「らいは伝染病ではないのか?伝染病なのか?それをはっきり述べてください」とつめより、
小笠原は「らいは細菌性疾患であることは認めます。しかし、感染は非常に微弱で・・」と述べるが、発言の途中で発言を阻止される。

そこでは、小笠原はどんなに質問に応戦しても、発言を阻止され、発言することを許されなかった。

この総会は、国策に反したことを新聞に書かれたため、医学界はそれを問題視し、小笠原を黙らせるために国民に向かってパフォーマンスをしたものだった。

やがて戦争が終わり、プロミンという、らい菌の増殖を阻止する薬が開発された。

国でも隔離政策をやめるべきという機運が高まり、らい病患者たちも、隔離政策の反対運動を行った。
しかし、隔離政策推進派の光田健輔は「せっかくここまで浄化した国内が、またらい菌で汚染させられる」と阻止。
光田健輔はプロミンによって一度治ったと言われても、また再発するかもしれない、という理由により、患者を生涯隔離することを主張し続けた。

そのため、プロミンによって、らい菌はいません、といわれた患者も、療養所に送られた。
患者の中には、らい病が完治したまま、その後65年間もずっと隔離され続けることになった人もいた。

光田健輔は昭和32年、総理大臣から感謝状を受け取る。
救らいの父と呼ばれるようになった。

昭和33年には国立ハンセン病療養所の入所者数は、最も多くなり、その数は11,911人にもなった。

小笠原は、その後も、ハンセン病は遺伝する病気でも、強烈な伝染病でもなく、不治の病ではないという確信のもと、こっそり医局で患者を見続けた。
しかし、それがばれて依頼退職せざるを得なくなる。
昭和45年に小笠原は死去。

半世紀を経て、らい菌は免疫が異常反応を起こして発病する免疫病であることが、免疫学によって証明されることとなった。
小笠原の半世紀前から言い続けてきた持論が正しいと証明された時、小笠原はもうこの世にはいなかった。

平成8年にらい予防法は廃止され、隔離政策がようやく中止される。
国立療養所で生涯隔離されたまま亡くなった人は、26029人にも及んだ。

~以上

隔離は間違っている、ハンセン病は簡単には映らない病気だと、正しいことを言い続けた人は病院を退職させられて亡くなり、何年間も患者を隔離させるという政策をとらせてきた人が、表彰状を受けると言うのは、皮肉なものだなぁと思う。

しかし、光田は光田で、ハンセン病患者を隔離することが、病気を根絶し、患者のためにもなると考えていたので、彼にも大義があったのだろう。
そして、光田のほうが政治が上手で、政治の競り合いで、小笠原は負けたのかもしれない。
結局政治力のあるものが、大勢を味方につける者の方が、政局では勝つ。

小笠原の主張は、非常に先見の明を得ていた。
まるでガリレオが「それでも地球は動く」と主張した時のようだ。
「ハンセン病は治る、感染力は非常に微弱だ」
皆が反対する中で、しかも政治的な圧力もある中でこの発言をするのは、どれだけ勇気のいったことだろう。

皆が正しいと言う中で一人だけ、間違っていると言うのは、非常に勇気がいることだ。
でも、周囲の人が同じことを言っているから、それが正しいとは限らない。
周囲の常識が、時として間違っていることがある。

カルテを書き変えてでも、学会で総攻撃に遭っても、正しいことを正しいといい続ける努力に、頭が下がる。
そして、隔離をどんなに強制されても、カルテを書き換えてハンセン病を隠し、自分の実家の寺や、研究所や、自宅などで、しぶとく患者を見続ける信念の強さに、感動する。

たとえ全体が隔離をするべきだと言う機運に押されていても、自分だけは、隔離には反対する。
いつだってそういう人が、次の新しい世の中をつくっていく。

小笠原は生涯では、無念を感じながら、でも自身の主張を確信しながら、亡くなっていっただろう。
光田は自分の功績に満足して、自分の主張をやはり確信しながら、亡くなったのだろう。
でも、偉大だったのはやはり、光田ではなくて、小笠原だったのだと思う。

自分が正しいと言うことを主張する勇気。
多くの人のために、自分の信念を貫こうとする気概。
それが人の一生には、大事なのだ。

フェイスブック始めました

2016年05月18日 | Weblog
「フェイスブック」、はじめてみました。

けれど、個人情報保護の観点から、生年月日の年は非公開。(年がばれるとあぶない)
名前も非公開(名前がばれると危ない)。

出身学校も、働いた会社も非公開(ばれると変な電話がかかってくるかも)。

・・と、あれこれ心配していたところ、全部非公開になってしまった。

友達ゼロ人。


フェイスブックって、何が楽しいんだ?

情報社会から逃げたい

2016年05月18日 | Weblog
「電力自由化」「マイナンバー」「ネット料金」「年金」「ふるさと納税」「NHK」・・・。

世の中、情報化社会やら何やらかにやら、難しいことだらけで疲れる。

「電力自由化」300ほどある電力会社から好きにプランを選べる!といわれても・・・。
どのプランを選べばいいのかわからないし、選んだところでどれだけお得になるかわからないし、そもそもひとつの電力会社をやめて、もうひとつの電力会社に移行するには何処に電話をして何を言えばいいのかもわからない・・・。

「マイナンバー」なんのためにあるのかわからないし、そもそもナンバーなんていらないのにどうしてナンバーをつけようとするんだ?
全然わからないから、夫が私の分も申請したけど、一向に届く気配もない。付けてほしくもないのにナンバーつけられて、しかもナンバーが何番になったのか知らせも来ないなんてどういうことなのだろう・・・。

「ネット料金」いつもネット料金プランを変えるようにあちこちから人が来て怖い。これだけお得になると羅列されても、そのお得になるためにどっかから書類を得たり、どっかに電話したり、なんらかの書類を書いたりしなくちゃキャッシュバックできないといわれ、なんだかわかんないから、やってなかったら逆に高くなったし・・・。

「年金」仕事を始めたわけでも何か変更があったわけでもないのに、勝手に「あなたの被保険者の期間が変わった模様で、申請しないと年金をあげません」という書類が来た。何も変わったところないのにナゼ・・・。
夫が電話をしたところ、夫の会社名が若干変わったことで、被保険者じゃなくなったと思われた模様。夫の会社名が変わっただけで、あなたは被保険者じゃなくなりましただなんて、なんか仕事雑すぎないか・・・?
何もしないと気づけば年金が消えてそうで怖い。

「ふるさと納税」なんかこういうイイモノあげるよ、あげるよ~ってことばかりクローズアップされているけれど、確定申告しないと駄目ということでもう無理だ。確定申告って何をすればいいのかもう全然わからない。

「NHK」テレビが映るかどうか確認するだけとかいいながら、夜中に2千円も要求してきて、帰ってくれと言っても絶対に帰らないし、本当に警察を呼んでやればよかったと思うけれど、その時はそこまで頭が回らず、よく考えれば恐喝まがいなのにそう思う程の知識も分別もなかったせいで、まるめこまれ、完全にトラウマになってしまった。

近頃のあれこれが難しすぎて、恐ろしくて、もう私は世の中についていけない。
ジャージー牛の乳を搾ったり、日がな一日蜂の巣を追い求めたり、タロいもをふかしたりして生きていきたい。もう現代社会は嫌だと思う。
エピクロスは隠遁生活を提唱した引きこもり野郎だけど、君が正しいよと思う。

あまりに書類が苦手すぎて法律も知らなすぎて怖いので、それならば遠ざけるよりも、いっそ一度、立ち向かうべきだと思う。

法律家の友人に「法律関係の資格で一番簡単なのって、何なの?」と聞いた。
「行政書士かな」だって。

行政書士か・・・・

いや、一番、ムリだよ。

3歳の息子がしゃべらないこと

2016年05月13日 | Weblog
息子は3歳2カ月。
幼稚園に入って一カ月がたち、幼稚園の園長先生に「お話したいことがありますので、二時間ほどお時間頂けないでしょうか」と、呼びだされてしまった。

一カ月しかまだ幼稚園にいってないのに・・もう親呼び出しかい・・。
と、気が重い。

何の話をするのかはよく分からないけれども、何度か先生に「言葉が遅いことについては、何か手立てがあるかもしれませんので、私も調べてみますね!」と励ますように言われたので、そのことかもしれないと、思う。

別にそんなに気にしてもいないのに・・・
けっこう幼稚園に入ると、周囲の先生から「あとは言葉だけですね」とか、「もうすこしでしゃべれるようになれますよ」と、励ましてもらえる。
別に気にしちゃいないんだってば・・・

息子は3歳だけど、全然しゃべらない。
「ぶっぶー」とか、「バイバイ」とかしか、言わない。

言葉が遅い場合、耳が悪いと疑われる場合もあるけれど、後ろから名前を小声で呼んでも、すぐに振り向く。耳は聴こえてる。

言葉が発達しないのは自閉症なども疑われるようだけれど、特に自閉症の特徴もみられない、気がする。
性格は娘よりも温和なくらいだし、人と取り合いはしないし、目を見て話をちゃんと聞くし、「おはし持ってきて」とか、「電子レンジでご飯チンしてくれない?」とか言うと、ちゃんとわかってやってくれている。
しゃべらないけれど、けっこうたくさんの言葉を理解している。

幼稚園では上の子の教室に遊びに行ったり、外を走り回ったり、けっこうあちこちに顔を出して、教室を飛び出しているらしい。
そのことで呼び出しの可能性も、ある。

でも私は、まだ3歳なんだし、じっと教室にいることなんかできないよ。
みんなで一緒に何かしたこともいままでないんだから、教室飛び出しちゃうのも仕方ないよ。言葉だって、もう少し時間がかかるだけだよ、と思うんだけれど、けっこう周囲が、そうのんびりもさせてくれない。

幼稚園の先生も、集団を教育しているから、そう悠長なこともいっていられないのかもしれないし、あずかっていただいている身としては、「どうもすいません」って感じはあるんだけど、でも、「そんなに急がなくても大丈夫だよぉ」と思ってしまう。

なんか、ママの本とか見ると(なんだ、ママの本って)、1歳になったら早い子で単語を話し、2歳で2語文をしゃべりますとか、目安がたくさん書いてある。
これぐらいになるとクレヨンで丸をかけるようになるとか、けんけんぱができるとか、出来ない場合は何処か不具合を疑った方がいいとか、そういうことがいーっぱい、書いてある。

私はそう言うのを見ると、クラクラ、疲れてしまう。
早めに気づいて対処すれば、早めに治すことができるとか、そういういいところもあるというのは、わかる。

でも、人はいろいろあるじゃない。
「しゃべって」っていわれたら、「しゃべりたくない」と思ったり、意地張ってみたり、いろいろあるじゃない。

人が生きるのは、競走じゃないんだから。
ちょっとくらいしゃべらなかろうが、ちょっとくらい馴染めなかろうが、怪我もせず元気でいるんなら、何の問題もないじゃない、と思ってしまう。

こうしろ、ああしろって言われたら嫌だよねぇ、と私は息子に思ってしまう。
しゃべろって、いわれても、いやなもんは、いやだよねぇって。
息子は人の言うことを全然きかず、温和な性格なくせに、「僕、こうだから」と自分のやり方を押しとおす頑固なところがある。

それって、私にそっくりなのだ。

出雲大社と水木しげるロードの旅

2016年05月12日 | Weblog
GWは、島根県と鳥取県を旅した。

一日目にいったのは出雲大社。
八百万の神が10月になるとこぞって会議にやってくるところだ。
道は広く、整備されていて、大変に綺麗な町。

出雲大社は最近、縁結びの神様として有名になって、女性客がこぞってくるとテレビで見ていた。
なるほど、本当に女子が多い。
縁結び出雲そばという女子向けのメニューがあり、おみくじと、縁結びのお守りと、小さいぜんざいデザートがついている。(←女子でもないのにちゃっかり注文)

ウサギの銅像があちこちにあって、なんだろうと思ったら、出雲のうさぎって、有名らしい。
因幡のウサギなら聞いたことがあるけど・・・出雲のうさぎって??

ははぁ、私はあまりに学がなさすぎて知らなかったのだけれど、
出雲大社は「大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)」をおまつりしている大社。
その大国主大神が、サメを騙して傷だらけになったウサギを助け、その優しさのために因幡の姫八上比売(やかみひめ)に選ばれたことが、「因幡の白ウサギ」の話だということ。

大国主大神をおまつりしている神社が白ウサギの銅像をあちこちにおいているのは当然なのか。
ウサギの銅像はとてもかわいらしく、これも女子の心をくすぐる写真スポットになっている。

ちなみに大国主大神は、別名「だいこくさま」と呼ばれているらしく、ああ、だいこくさまね~・・と、だいこくさまなら聞いたことがある私なのだった。(←昔ならった古事記の記憶は曖昧に・・)

出雲大社には東十九社、西十九社と呼ばれる長屋風の神様の宿泊施設があり、「ほほぉ・・ここで神様はおくつろぎになって・・・」となかなか感慨深かいものがある(何が)。
休日だからか、お神楽も舞っていて、天気は晴れていて木々が涼しく、とてもいいところだった。

玉造温泉に一泊し、二日目は境港へ。

目指すは水木しげるロード。

妖怪大好きの私としては念願のスポット。
娘は再放送の鬼太郎を見ていたので、少しはわかるけれど、息子と旦那はついてくる、といった様子。
しかし、一歩足を踏み入れると、そんな旦那と息子もテンションが上がる、とっても楽しい水木しげるロード。

あちこちにゲゲゲの鬼太郎に出てくる妖怪の銅像があることもさることながら、マンホールや、ベンチや、町のありとあらゆるところに妖怪の絵が描いてあって、まるで宝探し気分。
昔はただの寂れた商店だったんだろうなぁと思える、ボロボロの商店でさえ「ゲゲゲの・・・」という言葉が入るだけで、趣深く見えるから、水木しげるロードは素晴らしい。
「近未来ロード」とかだったら、ボロいものは壊して新しく綺麗にしないといけないところだが、「鬼太郎」とくれば、ボロもすごく味に思える(←ひどい言いよう)。

しかも、あちこちに手作りの鬼太郎グッズを売るお店があったり、「砂かけ婆の砂」と、ただ砂が置いてあるコーナーがあったり、手作りのもので一生懸命水木しげるロードを盛り上げていこうと言う住民の温かい気持ちが伝わってきて、とてもよかった。
やはり、皆が頑張らないと、こんなに素敵なロードをつくることは難しかったのだろう。

水木しげる記念館もよかった。
こじんまりとしているので、そんなに見る物がないんじゃないかと思ったが、中に入ると、妖怪の人形に(どっかの家の)子供が泣いたりして、お化け屋敷気分も味わえると言う一石二鳥。
息子もちょっぴり怖いのか、泣きはしないけれど、ずっと抱っこされっぱなし。
娘は楽しそうに自分で見て回っている。

大人にとって面白いのは水木しげるエピソード。
水木しげるはとても愉快な人物で、けっこう変わっている。
こえだめに落ちて新聞記者の仕事をクビになったり、ラッパ隊に入ろうと思ったけど、ラッパがふけなくてラッパ隊に入れなかったりしたらしい。

水木しげるがなんの面白みもない人だったら、この館はつまらなかっただろうが、水木しげるという人物が大変人間味があって面白い人物だからこそ、この館もとっても楽しく、みんなが訪れるところとなったのだろう。

「墓場鬼太郎」や、「総員玉砕せよ!」「のんのんばあとおれ」「なぞなぞおばけ」など、たくさんの本を買いこんでしまった。
(一番面白いと思ったのは、のんのんばあとおれ。墓場鬼太郎は気持ち悪い話だが、そこが好みのわかれるところ)

そんなこんなで、初めて訪れた、島根、鳥取。
とても楽しい旅行になった。

銀シャリ

2016年05月10日 | Weblog
旦那はけっこういつも、言い間違えをしている。
というか、言葉選びが悪い。

「バカチョンカメラ買えば?」と前に言われたので、「バカチョンカメラなんて言う言葉つかわないで欲しいんだけど・・。子供もいるんだし・・・」と注意させてもらった。
本人は自分があまりいい言葉を使っていないことに気づいていないらしい。

またあるときは、「今日は花曇りの空だね」と10月に言っていた。
「それって春の言葉だからさ、普通に曇りだね、でいいじゃん」と言わせてもらった。
しかしその言葉にはこだわりでもあるのか、夏にも「今日って花曇りだね」とまたしてもいっていた。
「いや、前も言ったけど、その花って桜のことだし、花曇りは春の言葉だから・・」と注意したところ、
「いいや、春の言葉じゃない。俺は何かで読んだんだ」とよくわからない反論をされてしまった。

なんかもう、指摘する私がうるさすぎるのだろうか?
社会人として恥ずかしい思いをしないように言っているのに、いわれるといらっとくるんだろうな。注意しない方がいいんだろうな・・と今ではむしろ指摘することを反省している。

最近旦那が言う言葉で気になるのは、「銀シャリ」
「今日のご飯、銀シャリだよ!」といつもいっている。
本人は、銀のように光っているお米の粒で非常にお米がおいしい、の意味で使っているようだ。
だけど。。。銀シャリって、「白飯」のことだけど・・・。
うちいつも銀シャリなんですけど・・・。
ていうか「お米、おいしいね」で、よくない?・・・

本人が褒め言葉と思って気分のいい時に言っている言葉なので、なおさら指摘しづらい。
たぶん、「粒立ち」とかそういう言葉を教えてあげた方がいいのかもしれないけれど・・。私がそれを指摘すると角が立つしな・・・。

「うん、銀シャリ・・・」

私は黙ることにしたが、娘には耳打ちする。
「銀シャリって言うのは、白いご飯のことだからね。あと、こんな言葉覚えなくていいからね。おいしい白いご飯だね、でいいからね」

こっそりこんなこと耳打ちされてる方が、イラッとくるか?