日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

〈「システム」とその関係の歩み〉(以下、<私の語る>「システム」と略す)から、「開国」前後の

2024-05-08 | 日記
〈「システム」とその関係の歩み〉(以下、<私の語る>「システム」と略す)から、「開国」前後の「システム」と「システム人」そして「日本」と「日本人」を語るとき(続・続・続)


今回記事で私の強調したい点は、以下のとおりである。


①円安問題で米ドルと日本円の通貨レートを介した資産の損得勘定に躍起となっている今の日本と日本人には、かつての日本経済の繁栄していた頃に、日本企業や日本人観光客の来襲?によって、自国経済の健全な発展を阻止・阻害されていた1970年代以前のいわゆるグローバルサウスを構成する諸国に暮らす多くの人々の飢餓や貧困状態など見えていなかったのではあるまいか。


②そうした観点から外国為替市場における通貨レートの長期的な変遷を振り返るとき、「システム」を介した通貨レートの操作は、「カクサ」を構成する一つの重要な要因であることがわかるのではあるまいか。それゆえ、通貨レートは、「システム」がつくり出す差別と排除の「カクサ」の関係を導くことに貢献してきたと言えるだろう。もっとも、そうは言っても、あくまでも「システム」の差別と排除の関係それ自体が、「システム」の発展の高度化と低度化をつくり出すカクサの原動力であることは言うまでもない。


③これまで、私たちは「システム」の差別と排除の関係を不問に付しつつ、その良い所取りに奔走してきたことから、今日の不都合な結果は当然の報いと言えば私自身もつらいのだが、致し方ないのである。それゆえ、これからも99%の、その中でも真ん中から下の方に属する私たちは、そうした不都合な現実を直視すると同時に、どのようにして生き続けていくかの方策を巡らす必要があると言える。そのためにも、今一度開国前後の「システム」と「システム人」について、確認しておく必要があるのである。その際、私たちが当然としてきた「歴史叙述の神話」は片隅に置いておいた方がいい、と私は考えるのだ。




 それでは以下に論を進めていきたいが、その前に読者に是非とも想像してほしいことがある。幕末の中期・後期において外国船が来航する機会が次第に多くなってくる。そしていわゆる黒船来襲となる。そこから開国期を経て、英国や米国を始めとして欧米諸国との通商関係が深まり、開国以降の日本と日本人は、次第に当時の国際関係の中に位置づけられることとなる。この国際関係をまずは想像してほしいのだ。


 たとえば、それを「ブラックボックス」として捉え、その中に幕末以降の日本と日本人が組み込まれていくとしたとき、そのブラックボックスは一体どのようになっているのだろうか。たとえば、いきなり日本国憲法の前文にあるように、諸国民の―ーーというようには考えないでほしいのだ。幕末の日本に開国を迫った欧米諸国は、その前に清朝中国を開国したのだが、その欧米諸国と中国との関係は、どのような姿に描くことができるのだろうか。


 英国は当時覇権国として世界に君臨していたが、その英国による清朝中国への武力(暴力)による半植民地化と英国本国におけるデモクラシーの拡張とはどのように関連付けられるのだろうか。その関係を、同時に当時の欧米諸国の関係と結び付けて考えてほしいのである。その際、その関係には勿論であるが、アジアやアフリカ、南米諸国との関係も含められているが、それらの関係から構成される「風景」は、先のブラックボックスの中にも当然ながら包摂されていると考えられるだろう。結論を先取りして言えば、私はこのブラックボックスを、「システム」として図式のモデルで示したのである。付言すれば、このブログ記事で省略形として描いている例のA、B、CまたはB、C、Aと、もう一つの通時態的モデルがまさにそれである。


 そのブラックボックスを描いた私のモデルは、「マイクロソフトエッジ」をクリックして出てくる画面に私の名前を入れて検索すると、私のブログ記事一覧が現れる。その一番最初の記事を検索してその画面を下の方に見ていくと、そこに私の図式のモデルが出てくる。(なお、拙著『21世紀の「日本」と日本人』と「普遍主義」』の98-101頁にも掲載されている)それら全体が私がこの記事で言うところのブラックボックスである。幕末期の日本と日本人はこの図式で描くブラックボックスの中に呑み込まれていったのだ。


 そのブラックボックスの中に示される差別と排除の関係を前提として、先ずは「システム」を直接的に担い支える「システム人」としての存在を強要されてしまい、そしてその後に「日本」という主権国家と「日本国民」を構成する「日本人」が創造されたのだ。それゆえ、私たちが「日本」とか「日本人」を語る際に銘記しておかなければならないのは、このブラックボックスを背景としてそれと結び付けられた「日本」と「日本人」を語ることが何よりも肝要であるということである。忘れてならないのは、今回記事の通貨レートや円安問題を巡る日本や米国また日米関係の経済記事を読む際は、このブラックボックスにある差別と排除の関係と結び付けることがどうしても必要となるということである。


 ところがなのだ、私たちの日本史教科書や政治学の西洋政治史や日本政治史や国際関係論の教科書では、このブラックボックスとその深い暗闇の中でつくり出されてきた一つの「システム」を構成する下位システムである覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムにおける差別と排除の関係は、ほとんど見えてこないばかりか、それらの関係を研究者自身も捉え直そうとはしないのだ。卑近な例として丸山眞男氏の『「文明論之概略」を読む』(岩波新書)の中に示されている国際関係のくだりがある。これでは、もう何も語れるものなど何もないに等しい。ただただ皮相的な学問的「知」に甘んじるだけではあるまいか。


 その延長線上に、「ナショナリズム」と「デモクラシー」の「幸福な結婚」論が提示されるのではあるまいか。また、それと関連した「健全なナショナリズム」とか「下からのナショナリズム」「上からのナショナリズム」、「産業革命と民主主義の二つを実現した歴史を辿った国」「産業革命の実現には成功したが後者のそれには失敗した歴史を辿った国」「それらいずれの実現にも失敗した歴史を辿った国」云々といったこれまでの知見は、先のブラックボックスの中の三つの下位システムに示される関係と切り離されたものであったことが理解されるのではあるまいか。


 残念ながら、この21世紀に入ってからも、私たちの学問的営為はほとんど何も変わるところがないのである。新しく見つけ出された資料や研究の進展に役立つ機材等々に恵まれた時代に生きていたとしても、私たちの頭の中身は、旧態依然とした「歴史叙述の神話」の状態にどっぷりと浸ったままであるから、なんともし難いのは言うまでもなかろう。誤解のないように言及すれば、私は別に悲憤慷慨しているわけでもないし、失望しているわけでもない。「システム」の中で生き続ける限り、それはむしろ当然のことだから、何をいまさらというしかあるまい。(続)


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