日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「あちら」と「こちら」(9)

2017-07-20 | 社会 政治
「あちら」と「こちら」(9)

 最初に少し付言しておきたい。護憲派や9条の会の悪口を話しているのではない。むしろ、彼らに署名をもらいながら、ありがたさを痛感した。彼らも一枚岩ではないが、今よりも少しでも現状をましな世の中にしたい、今よりも悪くしたくないとの思いや運動上の方向性において、共闘しているのだ。それは悪くはないし大事なことだ。それを断った上で、今後ますます護憲や9条の思想や運動が風化していくことを視野に入れれば、やはりこれまでとは異なる理念、思想とその運動の在り方を提示しておく、受け皿を用意しておくことが大事ではないだろうか。

 私はこの点に関してはM・ヴェーバーのプロテスタントの理念とその理念が現実の形となって体現されたされた資本主義との関係に関する仮説を参考にしたいと考えている。つまり、こちらの理念、思想を提示すると同時に、それが現実に形となって眼前に確認できる衣食住のネットワークをつくり出すことが、こちらの共同体の形成に不可欠だと考えてきたし、やっとこれしかもうないだろうと思うのだ。
 今から数年前に中国北京の龍泉寺でのほんの短い間の体験が、私にこれまでの考えを再確認させることとなった。それにもかかわらず、私がやっとこのようなブログの記事で、改めて問いたいと、熱に浮かされたように書き留めておきたいと私の気持ちを奮い起こしたのは、中途視覚障碍者としての路上での白杖訓練と、少しでもまだ見えるうちにとの切迫感だった。文章の見直しや語句の手直しはしていない、その時間を別の者に回したかった。
 
 ここで龍泉寺での日本語ボランティアに従事している人の集まりで話す機会がありそのために準備した原稿を一部削除した形で紹介しておきたい。
      
〈はじめに〉

 私は昨年、中国人の大学院生のお手伝いをさせてもらいました。それは、中国語で書かれた「仏陀の説いた教えの意」と位置づけられる仏教を、日本語に翻訳するというものでした。正確に言いますと、その院生の日本語訳の確認作業です。私はそのときに、もし翻訳がうまければそれを元に伝わる、理解できる中身も自然と多くなるのに対して、逆にまずければそれだけ理解する内容も乏しくなるということを確認したしだいであります。と同時に、そもそも、「仏教」として理解されてきた、仏陀の説いた教えは、長い年月を経ながら「翻訳」されてきたということに気がつきました。

 私は宗教に関してはあまり知りませんが、『広辞苑』によれば、仏教とは、「四諦の真理に目覚め、八正道(はつしょうどう)の実践を行うことによって、苦悩から解放されて涅槃の境地を目指す」とあります。

 こうした仏教の「苦悩から解放されて涅槃の境地を目指す」修行は、同時にまた魂の修行と重なるのではないか、と私は考えるのです。よく日本で聞いていたことの一つに、人は魂の修行をするために、この世に生を受けるというのがありました。この場合においても、その魂の中身をうまく「翻訳」できる人と、そうでない人との生き方の違いは、やはり歴然としているのではありませんか。

 その意味では、前者は、後者と比較したとき、涅槃の境地を目指す修行が、少しは容易になるのではないかと思うのです。魂の側から見ますと、どのような人間が魂を受け取り、その修行を引き受けるのかは、大事になるのではありませんか。つまり上手(じょうず)に魂のありようを翻訳してくれないときには、魂は訳者が悪いと愚痴(ぐち)をいうかもしれません


〈魂の修行と研究者としての修行〉

 ここで少し私の悩みを聞いてください。すぐ上で触れましたが、人生はある種の修行だとよくいわれますね。この世に生を受けた人は「魂」の「翻訳」を介して、固有名詞をもつ「日本人」となり、「村田邦夫」となるのではないかと思うのです。

 決して目には見えない、しかしながら、なぜか感じることのできる、気づくことが可能な魂の修行をしながら、目に見える各人の仕事における修行に従事しているのではありませんか。齢(よわい)を重ねるごとに、このように私は思うようになってきました。私の周りを見ても、そのように感じている人が多いのではないかと思うのです。

 正直なところ、私は40代を過ぎてから、次第に自分自身に対して、むなしさを感じるようになりました。自分の生き方が「嘘」だと感じ、またいつしかそれを自覚し始めるに至ったからです。その意味では、私がこの世で生きている間に引き受けた魂の良い翻訳者となる可能性が出てきたといえるかもしれません。

 不思議なものですね。それこそ「運」に恵まれて、大学に職を得て、生活も浪人時代とは違い、安定して家庭も平穏さを少しは保てるようになったのに、ですよ。そこには、私が自分の研究において、「真理」らしきものに、目覚めたことが関(かか)わっています。行論(こうろん)の都合上、ここで少しだけ私の研究を紹介させてください。

〈気づくからこそ、悩みもまた深まる〉

 私はこれまで自由とか人権とか民主主義とか、平和といった「普遍主義」に関する研究を一貫して行ってきました。ごく簡単に申しますと、「衣食足りて礼節を知る」との一説があります。これを導きの糸としまして、先の自由、人権、民主主義、平和といった理念や価値の次元で語られてきた普遍主義なるものが、それではどのような私たちの衣・食・住のネットワークの下で、実現するのだろうかについて考えるとき、まさに「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係の歩みが浮かび上がってきたのです。

 付言すれば、プロテスタントの宗教倫理と資本主義の勃興とを結びつけて壮大な仮説を展開した、かのM・ウ”エーバーは、「礼節を知る」ことにより「衣食足りて」の状態が導かれたと考えたのですね。つまり魂の救済に「成功」したことが、資本主義の勃興につながったと。もとよりこうした観点からだけではその勃興を説明することはできませんが、とにかく宗教と資本主義の関係に焦点を絞り込んでみたときに、こうした仮説が成立すると主張したのです。

 ところで、ここでいう普遍主義が、つまり自由、人権、民主主義、平和が礼節に該当しています。それでは、その礼節を知るための「衣食足りて」の営みというか、営為はどのようにして実現されるのでしょうか。あるいは実現されてきたのでしょうか。

 その営為は、これまでの私の研究からすれば、誰かが衣食足りての営為を実現するとき、別の誰かが衣食足りずの営為に甘んじることを余儀なくされると同時に、そこで実現される礼節も、その礼節を知る営為のためには必ず別の誰かが礼節を知らずの営為を引き受けざるを得なくなるという関係を前提としているということです。この誰かは、当然ながら、個人、集団、共同体(国家)に、それぞれ該当します。私はその各々を構成していますので、私自身も、自由、人権、民主主義、平和といった普遍主義の実現が何よりも大事だなんて、偉そうに世間様に向かってのたまうとしたら、それこそ天に唾することではありませんか。


〈それを「煩悩」とは呼びたくはないのだが〉

 ここで、私の話を魂の修行と結び付けて、もう少し述べますと、私が私の引き受けた魂の修行をする際、他の誰かの魂の修行と相互に関係しているということです。単刀直入にいえば、私の魂が救済されるためには、誰かの魂が救済されなくなるという関係があるのではないか、と私は考えるのです。おわかりのように、「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の中に、とくに「礼節を知る(知らず)」の営為の中に、魂の修行(救済)をもし含んだ場合の話をしています。多くの場合は、この逆ですね。しかしながら、私はどうしても、世俗的な生き方を前提としながら魂の救済についてぎりぎりまで結び付けて考えたいのです。

 こうした「差別」と「排除」の関係からぬけ出す、つまり「解脱(げだつ)」するには、それではどうすればいいのでしょうか。平凡な言い方になりますが、この世に生きる者同士が分かち合いながら生きていくことが何より重要だということになります。個人の魂の救済ではなく、あくまでもその個人が関係を結ぶ多くの諸個人同士の、諸個人全体の魂の救済が求められなければなりません。それを可能とする「衣食足りて礼節を知る」営為とはどのようなものであり、またどのようにすれば実現可能となるのか、それを見つけなければなりません。

 結論を先取りして言いますと、すぐ上で述べたように「見つけなければなりません」と一方で言いながら、他方では、20年間近く従来どおりの生き方にとどまり続けている私自身の姿に正直疲れているのです。どうすればいいのだろうかと思案してきましたが、私には容易なことではありませんでした。こうすればいい、ああすればと、頭で描くことはできたとしても、いざ具体的に現実の世界の中でやろうとするとき、不安に襲われ、躊躇してしまうのですね。

 結局のところ、偉そうなことを言いながら、何も前に進まないままにこの歳になってしまったのですね。

 それができないから困ってしまうのです。そうした中で、自責の念にさいなまれながら、嘘に嘘を重ねてここまで生きてきたというのが正直なところですか。

〈それを「我欲」に「執着」していると言い切れるのだろうか〉

 それでは、なぜできないのかと自問自答すると、妻に、子供に大きな迷惑をかけてしまう。あまりにも無責任な態度ではないか。いろいろと考えるのですが、それをしようとするとき一番困るのは、妻や子供というよりもこの私自身だということですね。
 身動きが取れないのは私自身がそうさせているのです。分かち合うということは、私のものを別の誰かに与えるということになります。奪われるということになります。裏切られるかもしれないといった、他人を信じられない、私自身も信じきれない、そんな私がそこには見え隠れしているのですね。

 躊躇して身動きが取れなくなる一番の理由は、やはりこれまでとは異なる新しい生き方を実践するには、たとえば志を同じくする者たちが集う、分かち合いの精神に依拠した「共同体」を創造するには相当なエネルギーが必要となります。そうした共同体を組織するお金から、食べるものをどのようにして調達するかに始まり、多種多様の活動が求められますから、その際、私自身の仕事ができなくなることが容易に想像されます。

 もちろん、これも言い訳です。怠惰な人間の物言いに他なりません。しかしながら、それにもかかわらず、何とかしなければと心を痛めてきたのも事実なのです。

 厳しい現実の中で、自分を守ることさえままならなくなっている今の世界で、どうやって分かち合うことができるのでしょうか。小さな人間集団ならともかく、世界を見渡すとき、それは何か絶望的とも思われるのです。小さな集団でも、たとえば家族にあっても、家庭崩壊と呼ばれる状況が先進国では深刻化しています。

〈終わりに〉

 こうした現状を鑑みるとき、私にはこれといった妙案はありませんが、上述しましたように、私はいま一度、M・ウ"ェーバーの顰(ひそみ)に倣(なら)って、、「礼節を知りて、衣食足る」を再考する必要があるのではないかといいたいのです。「衣食足りて礼節を知る」の営為を前提とするとき、魂の救済は難しいのではないかと私は感じるようになりました。もちろん、たとえ「礼節を知りて衣食足る」の新たなる営為に従事するとしても、そうした試みは、この世界の超大国(覇権国)や中心国とそこで事業を展開している多国籍企業が率先垂範して実現しようと試みている「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係から構成される仕組み(構造)を前提としていますから、相当にその実践は困難を極めるだろうことは必至です。

 こうした仕組みの中で生き続ける限りは、キリスト教であれ、イスラム教であれ、また仏教であっても、魂の救済は容易ではない、と私は感じています。それを踏まえながらも、それにもかかわらず、魂の救済を第一義的として位置づける人たちが集(つど)うことによって、そうした「礼節を知る」集団が〈指導〉する「衣食足る」営為を構想し、実践していくことは21世紀の世界ではますますその重要性を高めると私は考えるのです。その場合の「衣食足る」の営為は、「足るを知る」つまり「知足」と結びつく営為であり、従来のそれとは異なるものであります。そうすることによって、より多くの魂の救済が可能となるのではないかと思うのです。

 北京の龍泉寺の活動はまさにそうした一つの試みではないでしょうか。仏陀の教えを、多くの言語に翻訳することにより、魂の救済に目覚める人々を輩出することは、そこから先の「礼節を知り衣食足る」の営為の実現に向けての第一歩となるに違いありません。私はそう信じています。皆様、ご清聴ありがとうございました。

 この集会での話を、音声ソフトで何度も聞くうちに、私はまたあることを思い出した。大変に厳しい修行であり、誰でも簡単にできることではない。ある意味では鉄の規律を備えた軍隊組織にも似ている。(ここは少し補足しておく。軍隊組織ではもちろんない。自発的組織でお互いが寛容の精神に富み尊敬しあい、目標、目的に向かって強固な団結を保持している。そういう組織を表現するとすれば、やはり誤解を与えることを承知で、ある意味で軍隊組織の形容がふさわしいと考えた。逆に言えば、自発的な各人の意思にゆだねながらも、これほど統率のとれた平和部隊は他に見られない、と私は感じた次第である。)おそらくこういうと、やはりあちらの方がはるかにいいと考える人も多いかもしれないが、もし時間があれば、ぜひ一度龍泉寺を訪れてほしい、そこで自給自足の生活をする中で、逆にあちらの世界のシステムの「格子なき牢獄」の住みにくさ、息苦しさも痛感するに違いない。私は龍泉寺での早朝の最後のお勤めをさぼった身としてとてもじゃないが偉そうに言う資格はないが、それでも、どこにも居場所を見つけられないでもがき苦しんでいる者には、救いの場所となるに違いない。

今回の投稿で、ひとまず言わんとする話は不十分ながらも、とにかくできたことで、少しほっとしている。目の調子と折り合いをつけながら、また書くけるときに書いていこうと思っている。我慢しないといけないのに、これも性格なのだろう。




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