靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

悲劇に向き合う

2013-03-31 03:20:00 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。

(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

悲劇に向き合うには:

もし、全体的な図を眺める視点があるのだとしたら、私達が見ているのは、その一部分。私達が分かった!と思っているのは、全体的図のほんの一部分。

何の罪もない善き人々が事故に会う、病気になる、亡くなる。周りに日常的に起こる「理不尽」なこと。

なぜ? そう問い続けたとしても、言葉だけが宙に空回り。

もしその全体図に近づく術があるのだとしたら、それは「沈黙」のみ。

聖書より:

寺院に初めて「神」を迎えるというめでたい祝いの日。モーセの兄Aaronの二人息子が、香をたき、その器を神前に差し出す。すると、炎が二人に燃え移り、モーセとAaronの目の前で二人の息子は焼け死ぬ。Aaronはただ沈黙。(Levit.,Chapter 10)

モーセが未来の賢者アキバ(大人になっても読み書きのできなかった貧しい農民だったアキバ、子供に混じり勉強を始めやがて何万人という弟子を持つ賢者に。彼の聖書の解釈も多く残され、その知恵は温もりに溢れている)について知らされ、「これだけの貢献をしたアキバ、どれほどの報酬を手にしたことでしょう!」と「神」に問うと、ローマ人に拷問を受け、吊り下げられ生きたまま焼かれ死んでいくアキバの様を見せられる。「なぜですか?  報酬はどこにあるんですか?」そう詰め寄るモーセに、「沈黙せよ」と「神」は言い放つ。(Minachot 29b)

「分かってしまったら」それはもう「神」ではないのだと。論理的に説明ができ、小さな人間の頭で理解してしまうのなら、もうそれは「神」ではないと。


「理不尽」な悲劇に、向き合う姿勢を教えられた話に、ホロコーストを体験した精神科医フランクルの著書に記された女性の話がある。

その女性は、金に埋め込まれた歯を繋ぎ合わせたブレスレットをしている。

「これは○○、これは○○、これは○○で、この小さなのは○○・・・」

そう一つ一つの歯を指しながら、ヘブライ語の名前を言う女性。ホロコーストで亡くなった九人の子供さん達の歯を、繋ぎ合わせて身につけているのだと。

「なぜそれほどの悲劇を思い出すものを、そうして常に身につけていられるのですか?」

そう問うフランクルに、その女性は笑顔で答える。

「私は今イスラエルの孤児院を経営しています。このブレスレットは私がこうして生きていく力の源なのです」


注意点:

・これらは自分にのみ当てはめる。悲しみの淵にいる他者に対し、私達にはなぜだかは分からないのだから、受け入れ、他のために生かしていきなさい、といった態度では接しない。他者に対しては、その悲しみ苦しみにただ寄り添うのみ。

・どうせ分からないのだしもう受け入れたのだから、と何もしないのではなく、受け入れつつ、自分にできる限りのことをし続けるということ。

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