靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

アラスカ内陸へ

2011-05-27 02:12:44 | お知らせ
明日の早朝から5日間程、アラスカ州の内陸にあるフェアバンクスという町へ行きます。

「リトリート」なんてものではなく、家族大移動、どっぷりと家庭的日常に浸る旅です。(笑)

ここアンカレッジから車でノンストップにいけば6時間ほど、家の場合は途中何度も止まらざる得ないだろうから、多分一日がかり。

久しぶりの家族小旅行(去年の夏のキャンプ以来)、楽しみです。


皆様の初夏の日々が素晴らしいものでありますように!

感謝を込めて。

「リトリート」

2011-05-27 02:12:23 | 思うに
夫と話していて「リトリート(retreat)」についての話題になったことがある。

「撤退、隠居」などの意味もあるけれど、「仕事や家庭などの日常生活を離れ、自分だけの時間や人間関係に浸る場所」という意味での「リトリート」。

クリスチャンの国で育った夫(彼は教会に行くこともなくクリスチャンとはいえないのですが)にとって、「リトリート」は馴染み深いもの。都会から離れ自然に囲まれた場所で一日の大半を祈るなどして過ごし「神との繋がりにフォーカス」するのだそうだ。

「仕事や家庭から離れ」とあるけれどレジャーや余暇ともまた違う。日本ではあんまり馴染みのないコンセプトかも、と思いながらちょっと調べてみると、仏教でも「リトリート」は必要不可欠であり、内省、瞑想、祈りを通して「自分自身に再び繋がる(reconnection to one's self)」ことを目的としている、とある。

仕事や家庭などの日常生活を離れ、「神」や「自身の中心」との繋がりを取り戻す、ということなのだろう。



山奥にしばらく一人でこもり、というような時間はとれそうもないけれど、「リトリートな時間」をちょこちょこと生活の中にとりいれてみよう、と思っている。

「リトリート」にありつつ「日常」にある、というような状態もある程度は可能なのかもしれない。

「聖地」への旅

2011-05-26 01:37:05 | 風景・散歩・旅
ヒマラヤを7日間歩いたことがある。20代初めのこと。

大学の春休み、ネパールあたりに行きたいと調べていて、ムクティナートについて知った。チベット仏教とヒンズー教の聖地とされるムクティナート、トレッキングコースを歩いて7日間ほどとある。ここだ、と思い、翌週には一人で飛行機に乗っていた。

道中は盗賊が出るので、一人では絶対に歩かないようにとされている。途中の宿で出会ったバックパッカー達とグループになって進む。ほとんどが「巡礼者」という雰囲気はなく、トレッキングを楽しむ旅行者。ドイツ、イギリス、カナダ、オーストラリア様々な国の人々。わいわいと色々な言語の歌を教え合い、大声で歌いながら。確か「カエルの歌」の輪唱を皆が気に入ったのだった。壮大なヒマラヤの山々を背景に、「ケロケロケロケロクワックワックワッ」と時には明るい時にはつぶやくような様々なアクセントの声が響く。かなりのトランス体験。

一日8時間ほど歩いた。途中で引き返したり違う道へ分かれたりで、最後の宿に残ったのは私だけだった。最後の一日は一人で歩いた。それまでは人とすれ違うということもほとんどなかったのだけれど、聖地まで数時間の距離へは飛行機で乗りつけることができるため、道は巡礼者や身軽な旅行者で賑わう。

7日目にたどり着いた。足の裏は豆がつぶれて血だらけ、着いたとたん痛みでうまく歩けなくなった。帰りは数時間のところにある飛行場へ這うようにして。

なんであそこまでしたのか、自分でもよくわからない。(笑) チベット仏教徒でもヒンズー教徒でもないのに。


ただこの「聖地」を目指す「巡礼」という体験は、象徴的に今の自分のなかに根づいているように感じている。

「聖地」は人の中にある。

そして足裏を血だらけにしてたどり着こうとせずとも、常にその「聖地」と共にあることができる、はず。

「タラの芽」、感謝

2011-05-26 01:34:03 | 出来事や雑感や (子育て)
よし、今日は「タラの芽」パラダイスに! と思いきや。少し咳をして喉が痛いといっていた次女が昼過ぎから微熱を出す。

急遽友人に「行けなくなった」と告げると、エネルギー有り余る長男、長女、三女を連れて行ってくださると。

ありがたいです。

子供たちに「ちゃんと夕食を採取してくるように」と託し送り出す。

持ち帰ったのは両手の平にのる程の量。どうやら小川で遊んでいたらしい・・・。(笑)


友人がおすそ分けして下さった。こんなにたくさん。

何から何までありがとうございました。

天ぷらにしました。



未発達な脳

2011-05-25 01:47:36 | 思うに
5番目の子がまだ4ヶ月頃のこと、何をやっても顔を真っ赤にして泣き止まない、看護婦に電話した。

「初めての子ね」と言われながら(笑)、「コリック(おむつの汚れやお腹がすいたなどの明らかな原因なく激しく泣き続けること)は脳が未発達(brain immaturity)のため」なのだと聞いた。「うまく切り替えられない」のだと。

それまでの4人の子供のときには「コリックはお腹にガスが溜まっているため」と説明を受けて来た。母乳をあげる母親はガスの溜まるキャベツや玉ねぎなどの食事を避ける、お腹のマッサージでガスを出してあげる、などのアドバイス。しっくりこなかった、どうしてもガスとは思えない。

この「脳が未発達で切り替えられない」という説明、ストンと腑に落ちた。顔を真っ赤にして激しく泣き叫ぶ赤ちゃん、悲しいといより怒っているようにも観える。抱っこして欲しいときに抱っこしてもらえなかった、好きな抱き方でなかった、どこかに触れた瞬間出産の時の痛みを思い出したというのもあるのかもしれない。とにかく苦しみや悲しみから抜けることができず、はては怒り狂っている状態。

「切り替える」には、風呂、外の冷たい空気に触れさせる、光ったり音のするものを目の前で揺らしてみる、などがいいとアドバイスを受けた。「脳の記憶」にはまり込んだ状態から、身体の感覚に訴えかけることで、ハッと切り替わる瞬間が来る。



この出来事を時々思い出す。

大きくなった子供たちを見ていても、自分を見ていても、「切り替える」ことができず悶々ともだえていることがある。

鍵は、「外」を感じることなのだろう。自身の枠組みを越えた「外」を身体全体の感覚として。

そして「外」と「内」との一体感を取り戻すこと。

クラフト(God's Eye)

2011-05-25 00:38:12 | 出来事や雑感や (その他)
こちらで子供たちのアクティビティとして時々目にするクラフト、

「神の目(God's Eye)」。

棒を十字にし、毛糸を巻きつけていく。

夏休みに入ってから上三人、せっせと作っている。色々な色を組み合わせて。


メキシコの民芸品。

現地では「Sikuli」と呼ばれ、「まだ知らない物事、知ることのできない物事を見、理解する力
“the power to see and understand things unknown and unknowable”」を意味するそう。


今日の夢

2011-05-24 00:11:04 | 
真っ白い大きな部屋 手に手に壷を抱えたたくさんの人がいる

大きな壷 小さな壷 装飾がびっしりとついた豪華な壷 シンプルな壷 まぶしい光沢のある壺 今にも壊れそうな壺 

人々は互いの壺を見せ合い 評価し合っている


部屋の隅にいた老女が 何かを思いついたようにパチンと指を鳴らし 壺を床に置く

そして左足の親指を そっと壺の口に近づけた 

すると ひゅっと老女が消える 壺に吸い込まれるように


周りで見ていた人々は 驚いて老女が持っていた壺に近づき 覗いたり 老女の壺の口に足を近づけてみたり

それでも何も起こらない

一人の男の子がまたパチンと指を鳴らし 自分の持っていた青い幾何学文様のついた壺を床に置き 足を口に近づける 

男の子はひゅっと吸い込まれ消えた


部屋のあちらこちらからパチンパチンと指を鳴らす音 徐々に人が減っていき 床に置かれた壺だけが残る

それらの床に置かれた壺に 足を近づけて周る人々 何も起こらないと首をかしげながら



両手に抱える壺からささやくような声が聞こえる

「どんな形をしていようとも 自分の壺からなら入ることができる」 

壺を床に置き 足を近づけてみる ひゅっと軽くなった 

壺の中は 宇宙

そのポッカリと空いた

2011-05-23 00:01:02 | イメージ・ヴィジョン
自分が信じてること 

サラッと消えてしまうことがある


ポッカリと穴が開いたような気持ち
 
せっせとまた「信」を組み立て直すことを少し休み

そのポッカリと空いたところに しばらくくつろいでみる


右も左も上も下もなく 動くということも止まるということもなく 有るということも無いということもない


再び動き始めるとき 自身は常にその「空」と共にあるのだと 体感している

子供言葉

2011-05-23 00:00:37 | 子供言葉
少し熱く語る私。

私: 何だってできるのよ、もし自分があきらめないのなら。

長男11歳: 何だってできる! って叫びながらガソリンかぶって火をつければ燃えちゃう、

      飛ぶことだってできる! ってビルの頂上から飛び降りたらつぶれちゃう。

      ママ、人間にはできないこと、ってあるんだよ。

子供と大人の間

2011-05-22 23:59:26 | 子育てノート
長男と出かけた。二人で過ごすために出かけるなんて初めてのこと。

昼はカフェ、夜はバーになるという北ヨーロッパのある都市の名前のついたカフェで、長男はイタリアンソーダを、私はチャイを頼んで向かい合って座る。昼と夜のちょうど間の時間、店内はがらりとして客もほとんどいない。

じっと顔を見ると、少し恥ずかしそうな表情をして目をそらす。11歳、今年1年で彼は随分と変わった。「子供」というにも「大人」というにもしっくりとこない独特な過程にいるのかもしれない。改めて向き合うと、「私の子供」というより、「1人の人」に向き合っているような気持ちになる。

軽く冗談を言い合い、互いに少しずつオープンになっていく。学校のこと、友達のこと、好きな本や漫画や映画のこと、彼の話を聞き、私の思うこと感じることも話す。

この日長男と出かけたのは、夏始まりを祝い、これからの長い夏休み、仲良くやっていこうじゃないと二人で手を握り合う、というような意味合いもあったのだけれど、何より長男をじっくりと観、そして彼が彼自身の進む方向を明らかにしていくための手伝いができたら、という思いがあったというのが大きい。

彼が思い描く彼の進む道、今まで私自身が生きてき、そして11年彼と暮らしてきて、私が彼にとってよいだろうと思い描く彼の進む道、この日初めて、その二つが少し重なり合う方向がみえてきた。「その道を歩いていくの、全力でサポートするから」と伝える。

アップダウンもあるだろう、自分なんてだめだと思うこともあり、他の道をいこうと思うこともあり、全くパッションが感じられなくなることもあるだろう。それでもその少しずつ見えてきている道にくっついて進んでいこう、その時は見えなくても必ず開けてくるときが来るから、と話す。

「自分ができないと思わなければ、必ずできる」と言ってみる。

その人にとって現実的でない道も確かにあるのだろう。その人のもっているもの、環境、生きてきた流れ、それらがぴったりと合わさった道があり、その道を進み続けるのなら「自分ができないと思わなければ、必ずできる」のかもしれない、と最近よく思う。

カフェの後、ベーカリーでパンを買い、本屋に寄り帰宅。2時間程だったけれど、長男と私の関係が少し変わったように感じている。今二人が進む方向が、少し見えてきたのかもしれない。

少しずつ、一歩一歩、進み続けていきたい。


今まで見たことのない長男の表情に気がつくことも多くなった。

夏休み始まる。

2011-05-20 23:59:17 | 思うに
今日から夏休み始まりました、3ヶ月間!

5人の子供たちとどう過ごすか、で頭いっぱいです。(笑)


11歳から1歳児までの開きのある子供たちが共に没頭できるアクティビティ、を見つける難しさを感じてます。ハイキングやサイクリングに出かけても、ペースも進める距離もまったく違う。だいたい下の子に合わせて引き返す、というパターン。逆に下の子たちは昼寝なんてそっちのけ、上の子たちのペースで一日中引っ張りまわされる。

まあ他の子の様子をみて自分のやりたいことを我慢するのを学ぶのも大切なのですが、時々は夫と手分けして、思いっきり上の子達のペースで行けるとこまで行く、下の子のペースでゆったりと過ごす、という状況を作り出すなどしていこうと思ってます。


それにしても3ヶ月! 

学校からは何の宿題が出されるわけでもなく(「夏の生活」が懐かしい!)。各家庭が独自の勉強カリキュラムを考える必要があります。その子その子の弱点を補強したり興味あることを伸ばしたり、普段かなり弱い日本語教育などの時間もとれたり。朝は「ホームスクール」です。


昨夜は子供たちと話し合い。

夏休みが終わったときに何を達成していたいか、という具体的ゴールを出し合いました。

掛け算マスター、計算ミスを減らす、などの勉強面や、自分が言われて嫌な言葉を人に使わない、ピアノのあの曲をマスター、この本のシリーズ読み切る、サーカーのあの技できるようにする、などなど。

今日はそれぞれの具体的ゴールを紙に書き壁に貼ろう、そしてどうやったらそのゴールを達成できるかを具体的に計画していこう、ということに。具体的ゴールがあると、子供たちの顔つきが変わる、と感じてます。


あと四六時中顔をつきあわせるので喧嘩もしょっちゅう。

足を引っ張り合ったり、誰が損か得かなどを比べるためでなく、

「助け合うためにこうして一緒にここにいる」

と書いた紙を壁に貼っておこうということに。(笑)


「壁に貼る」と、いつしかただの「壁の模様の一部」になる、ということも大いにあり得るのですが。(笑) 初心に帰り気持ちをリフレッシュしながら。



さて、色々と考え出すと頭の痛いことも多々ありますが、子供なんて本当にあっという間に大きくなってしまう、この今というときは二度と戻らないかけがえのない瞬間、と日々リセットしながら、子供たちとの時間にどっぷり浸り楽しんでいこうと思っています。

いつか「あの夏の日々」と懐かしく振り返る日が来るのでしょうね。

学校最終日

2011-05-20 23:58:58 | 出来事や雑感や (行事)
こちら「終業式」なんてものがありません。

長男5年生長女4年生、それぞれ学校でバーベキュー、ピクニック。

次女一年生は、キンダー(年長)から3年生までまとめて海の見える公園へ。

サッカーしたり、凧上げしたり、

砂場や遊具で遊んだり、


友達と毛布に包まって物語を聞いたり、


クラフトしたり。


ランチ食べたり、


ケーキ食べたり。


8月からは皆一学年上に。