ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

私の『青春の門』前 ~高校の頃 あれこれ①

2018-11-17 20:52:39 | あの頃
 「そんな馬鹿な!」
と、言われそうだ。

 伊達と、生まれ故郷・室蘭は隣り合っていた。
そのことに気づいたのは、
6年半前、伊達に住み始めてからだった。

 室蘭は、風が強く、曇り空が多い。
伊達には、広いゴルフ練習場がないので、
時々、白鳥大橋を渡って、室蘭市入江まで練習に行く。

 伊達は、快晴なのに、車を進めると、
雲行きが急変することが、しばしばある。

 地元の人は、口をそろえて言う。
「伊達と室蘭は、(気候が)違うから」。

 18歳まで過ごしたその町だが、
その地しか知らなかった私には、
気候の善し悪しは、論外だった。

 だが、高校時代のことだ。
霧の濃い朝。
 当時、男子は下駄履き登校が流行っていた。

 バス停から学校まで10分弱の道は、
霧で先が見えなかった。
 カランカランと下駄の音、
そして、時折霧の中から女子の話し声と、
明るい笑いが聞こえた。

 学校の玄関に着くと、
いつもと変わらない現実・日常だが、
あの濃霧の通学路だけは、鮮明に残っている。
 私の好きな室蘭の1コマだ。

 さて、私の高校生活だが、
最近、伊達から室蘭へのハンドルを握りながら、
思い出すエピソードがいくつかある。

 精神的に幼かった私なので、
あの頃を「青春の門」とは言えない。
 あえて言うなら『青春の門前』が、いいかも・・。


  <その1>
 2年生のクラス替えで、
口数の少ない男子と一緒になった。
たまたま隣の席に座ることに。

 毎朝、私より先に着席していた。
いつも私が、「おはよう」と言う。
 彼は、私を見上げてから、無言で頭を下げた。

 授業中はもちろん、
休み時間も、彼から話しかけられたことはなかった。

 しかも、私が話しかけても、
「そう」「いいえ」「わかりました」「それはどうかな・・」程度で、
会話が弾むことはなかった。
 彼への印象は、次第に悪くなっていった。

 1か月程が過ぎた頃だったろうか、
体育の授業で、バスケットがあった。
 チームを作り、試合をした。
そこで、ドリブルもシュートもままならない彼を見た。

 そして、5月末、体育祭があった。
クラス対抗の球技大会だ。
 私はバレーボールの一員になった。
彼も一緒のチームだった。
 何回か練習をした。
彼はトスどころが、アンダーサーブもネットを越えなかった。

 運動が苦手なんだと思い、
口数の少なさにも、少し寛大な気持ちになった。

 ところが、彼が剣道部に所属し、
部活動に励んでいると聞いた。
 若干耳を疑った。

 翌朝、彼に尋ねた。
「剣道部だって?」
 「アッ、はい。」
「剣道、できるの?」
 「はい。」
「いつから?」  
 「前から。」
「へぇ-」

 そこで、終わればよかった。
私の勇み足だった。
 バスケットやバレーの運動ぶりが残っていた。
剣道だって同様と思った。

 「一度、防具を着けて剣道をやってみたいなぁ。」
「やってみる? いいよ!」
 「初めてでも、まあ負けないな」。
その言葉が、彼に火をつけたのだ。

 数日後、部活を終えてから、
初めて剣道の防具を身につけた。
 窮屈で重かった。

 何人か見物人がいた。
彼は、竹刀で面を打てと言った。
 竹刀を構え、思い切り振り下ろした。
「もっと強く。」
 彼に言われるまま、力を込めた。
すると再び、
「もっと強く」。
さらに大きな声がとんだ。
 数回、くり返した。
息が弾んだ。

 「次は僕が面を打つから、竹刀で防いで」
彼に言われて、竹刀を頭上に構え、
面を防ぐことにした。

 彼は竹刀を構えた。
次の瞬間だ。
 顔面に彼の胴着が迫り、目をつむった。

 突然、「メーン!」
体育館に響き渡る声とともに、
頭上にすごい衝撃が、落ちてきた。

 私は、声も出せないまま、お尻から床に落ちた。
そして、まさに大の字になり、一瞬気を失った。

 その後、どんな言葉をかわし、
防具をとったのか、記憶はない。
 
 翌朝、いつも通り、彼は隣の席にいた。
私の「おはよう」に、変わらず見上げてから頭をさけた。

 以来、時々私は、
「剣道、頑張って」と言った。
 その度に、「ありがとう」
と、明るい声で応じてくれた。


  <その2>
 高校生活の多くは、生徒会活動に明け暮れた。
1学年の後期から3学年の前期まで、
2年もの間、生徒会室に入り浸っていた。

 だから、学校祭2回、体育祭4回の運営に携わった。
1つ1つの催しが成功裏に終えた時の達成感は、
経験を重ねるごとに大きくなった。

 さて、1年の秋、生徒会の役員になってすぐ、体育祭があった。
私は体育部担当だった。
 しかし、先輩役員に指示されても、その仕事の半分もできなかった。
申し訳ない気持ちだった。

 そんな時、休憩時間の談笑で、2年生の生徒会長が言い出した。
「体育祭は運動部ばかり目立つけど、
生徒会役員も目立ちたいなあ。」

 すかさず、私と一緒に体育部担当の2年生が応じた。
「じゃ、俺はクラス対抗のバスケットで優勝するよ。」

 会長が笑顔で私を見た。
「君は、どうする?」
私は、口ごもった。
 「バスケットもバレーもサッカーも、
優勝なんてできないし・・・。困りました・・・。」

 すると役員の1人が、冗談ぽく言った。
「マラソンで10位以内なんて・・・。」
 「それはいい。」
「頑張ってみろよ。」
 「マラソンは、根性だからなぁ。」
責任のない軽い言葉が、同じ役員から飛んだ。
 そして、最後に会長が締めた。
「そんな深刻に考えない。
できればでいい・・。できればで・・」

 まったく自信がなかった。
でも、みんなの役に立ちたかった。
 
 マラソンコースは10キロだった。
警察への届け出のため、
生徒会顧問の先生と、2度3度と自転車で下見をした。

 アップダウンの多いコースだった。
そこを野球部や陸上部など運動部の男子と一緒に走る。
 そして10位以内。
それは、無理に決まっていた。

 なのに、その日まで、私は登下校のバスを止め、ランニングした。
その努力だけでもしなければと思った。

 そして、いよいよ当日がきた。
あの日以来、役員の誰もマラソンのことを話題にしなかった。
 私一人が、気にかけていた。

 運動部の屈強に混じって、スタートラインの先頭に立った。
会長をはじめ役員に、結果より意欲だけは知って欲しかった。

 どこまで彼らについていけるか、イチかバチかだった。
コースは熟知していた。
 前半より後半に上りが多く、苦しくなる。
私の前を走っていた屈強が次第にバテていった。

 最後はただ勢いだけだった。
ゴールして、渡された順位カードを見た。
 4位と書いてあった。
それを見たら、急に力が抜けた。

 その後、何をして、どうやって帰宅したのか覚えがない。
その夜から、高熱に襲われ、3日も寝込んだ。

 家族は、マラソンで寝込んだ私に呆れた。
回復すると、「馬鹿もほどほどにしろ。」
 父は、本気で私を叱った。

 3日ぶりに生徒会室に顔を出した。
誰も4位の私を話題にしなかった。
 父の叱責が、こたえた。
                 ≪つづく≫

 
 

 我が家の庭も 枯れススキ

    次回ブログ更新予定は 12月1日
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もう一度 行きたい  ≪後≫

2018-11-03 20:34:34 | 思い
 前回のブログの抜粋から始める。

 『そうか、紅葉の素敵な美しさの後は、
寒さの到来か。
 風邪で体調を崩した昨年の冬を思い出した。
やけに不安がつのる。
 こんな時は、旅でもしたくなる。

 「旅支度を急ぎ、明日にでも出掛けよう。」
そんな心づもりなどない。
 今は、いつか機会があったら、そんな程度。
さてさて、どこへ行きたい?』

 そんな思いから、もう一度行きたい地として、
「長崎」、「槍ヶ岳」、「盛岡」について記した。
 その続きだ。


 <4>
 実に月日の流れは早い。
「是非、行ってみてください。」
 同じ勤務校の先生に、強く勧められ、その気になった。 
夏休みの休暇を利用し、行くことにした。
 もう20年も前のことになる。

 私が、沖縄旅行を決めると、その先生は、
「どうせなら『イリオモテ島』まで行ってくるといいです」。
 そう言って、沖縄の観光パンフレットを、
何枚も渡してくれた。

 ここでも、私はその熱い思いを受け入れ、
旅行計画に『イリオモテ島』観光を入れた。
 確か3泊か4泊の旅行だった。

 羽田から那覇、そして石垣島まで一気に飛んだ。
機内で、「沖縄そば」店を紹介した記事をみた。
 石垣島に着いたら、まずはその店へと決めた。

 空港からタクシーで、直行した。
店内は、地元の人か観光客か、大勢で賑わっていた。
 でも、すぐに注文のそばがきた。

 初めて食べた。
美味しいと思う人もいるのだろう。
 だが、私の口には合わなかった。
無理して、完食した。

 ここからしばらくは、後々の笑い話が続く。

 ホテルに着いた。
「沖縄そばを食べてきました。イマイチでした。」
 挨拶替わりに、そんなことを話した。

 店の名を訊かれたので、それを教えると
「あそこは、観光客めあて、
もっと美味しい店がありますよ。」

 その夜、家内と二人で、
フロント係が勧めてくれた店で夕食にした。

 シメは沖縄そばに再チャレンジと決め、
地元のビールを飲みながら、
沖縄宮廷料理と称すメニューから何品かをオーダーした。

 どれも高級そうな皿に盛られていた。
沖縄豆腐を発酵させたという品が届いた。
 高価だったが、思い切って注文した。

 それが独特の臭いだった。
それだけで、私は箸さえ付けられなかった。
 一気に、酔いまで覚めてしまった。

 それから先は、シメだけを楽しみに待った。
その沖縄そばだが、
到着してすぐに口にしたものより、
もっともっと強烈だった。

 その強烈さが、美味しさなのだろうが、
私の口にはダメだった。
 二口三口までで、もう箸が進まなかった。
その夜は、空腹のまま寝ることになった。

 さて、翌日は『イリオモテ島』へ行く。
石垣島の港から高速船に乗り込んで、出発を待った。

 ここで、私は、とんでもない無知を露呈してしまった。
恥ずかしくて、筆が進まないが、思い切って書く。

 船内の席に着いて、前方にあった行く先掲示を見た。
そこには、『西表島』と表記されていた。

 私は、それを『イリオモテジマ』とは読めず、
『ニシオモテジマ』と読んだ。

 この旅行計画を立てる時、
同僚の先生から頂いたパンフレットにも、
『西表島』があった。

 私は、それも『ニシオモテジマ』と読み、
『イリオモテジマ』とは別の観光地と思い込んでいた。

 だから、隣の席に座った家内に言った。
「おい、これはニシオモテジマ行きだよ。
イリオモテジマ行きじゃない。
・・・、間違えだ。乗り換えよう。」

 家内は、あきれ顔でそっと教えてくれた。
「ニシオモテって書いて、イリオモテって言うのよ。」

 いくら家内と言えども、顔から火が出るほどだった。
「恥ずかしい!」
 パンフレットの猫の写真を見て、
『イリオモテヤマネコ』の他に、『ニシオモテヤマネコ』がいると、
思っていた。
 その誤解が解けた。
幸い、その恥は、家内止まりで終わった。

 いよいよ、西表島に着いた。
ここは、それまで重ねてきた失態を一蹴してくれた。
 素晴らしい時間が待っていた。

 まずは、乗り込んだ観光バスのガイドが、楽しかった。
そのバスは、ワンマンだったので、
ドライバーがガイド役を兼ねていた。

 発車してすぐ、沖縄言葉と言うのだろうか、
沖縄の抑揚で話し始めた。

 まもなく、信号機で止まった。
島で唯一の信号機だと言う。
 「交通量が多い訳でもないのに、なぜ信号がある?
わかりますか。
・・・、あのね、大きくなって島から出ていく子ども達が、
困らないためにあるん。」

 私はこのひと言で、ガイドに興味津々になった。
次から次、その言葉に惹きつけられ、
時には手を叩いて大笑いした。

 「西表山猫はなかなか見ることができません。
バスの中から、あれはと思うのは、みんな西表野良猫さ・・。」

 「この海岸には、海流の関係で鰹が沢山打ち上げられるんです。
その多さに、猫まで鰹をまたいで歩くんだ。」

 名ガイドの言葉は、20年が過ぎてもしっかりと記憶にある。
今も、笑いがこみ上げる。

 さて、西表島観光で、一番の素晴らしさは『水牛車』だ。
観光バスを一時降車し、由布島にある亜熱帯植物園へ行く。
 由布島までは、浅瀬の砂浜が続いている。
その島から島までを『水牛車』で渡るのだ。

 水牛の曳く荷車に、20人程度が乗る。
その水牛を、車の最前列で導く方がいた。
 その方が、30分程の行程の途中で、
三線を弾きながら沖縄民謡を一節聴かせてくれた。

 海の色だけの視界の中を、
人の歩速よりもずっと遅い水牛車に揺られる。
 頬をなでる海風がいい。
そして、三線に男性のしわ枯れ声の沖縄民謡が流れる。
 そこには、南国・西表の時間が、ゆったりと流れていた。

 私は水牛車に身をまかせ、
西表島の素敵な空気を、全身で感じていた。

 ああ、かなうなら、もう一度あの海で水牛車に揺られたい。
そして、三線の音色とあのしわ枯れた旋律に耳を傾けたい。
 きっと至福の時だろう。


 <5>
 30歳代に勤務した学校の先生に、
山梨県石和町出身の女性がいた。
 懇親会の席で、ふる里自慢で盛り上がった。

 私は、ババガレイの煮付けの美味しさを語った。
その味を伝えきれず、苦労した。

 「山梨は、ホウトウが美味しいって、自慢するけど、
本当は、もっと自慢したいことがあるの。」
 彼女は、控え目に語り始めた。

 それは、桃の満開のことだった。
山梨の特産品の桃だが、
5月の連休辺りに、一斉に開花すると言う。

 言われると、桃は木になる。その上、桃は実なのだ。
花を咲かせるのは当然のことだ。
 しかし、特産品の桃、その桃の木が一斉に花を咲かせる。
説明を受けて、少しは納得したが、
その凄さが伝わってこない。

 「石和の小高い丘の上から見下ろすと、
見渡す限り、みんなピンクピンク。
 ピンクピンク、それだけ。
すごく綺麗。」

 彼女は、何度もそうくり返した。
「見渡す限り、みんなピンクピンク。」
うっとりとした表情で、前方を指さし、
腕をあっちへこっちへと振った。

 「なら、そのピンクピンクを見に行こう。」
幹事になると名乗りでる先生がいて、
4月末の土日で、有志を募った。
 私も参加を決めた。

 マイカー3台に分乗し、
首都高から中央道で、夕方石和に着いた。
 宿を石和温泉にとり、
翌日、彼女の案内で、小高い丘の上に車を止めた。

 運良く、青空が広がっていた。
明るい日差しの下に広がる甲府盆地のその一帯は、
「ピンクピンク。」
見事に、それだった。

 車から降り、それを見下ろす一人一人が、
言葉のないまま、そのまま立ちつくした。

 すぐそばの桃の木々も、右も左も、はるか遠方の木々も、
みんなピンク色なのだ。
 そのピンクの合間を、路線バスがゆっくりと滑っていった。
「綺麗だ。」「凄い。」
 発する言葉は、それのくり返し。
帰りの車内も、その言葉だけだった。

 桃は一斉に咲き、数日で散るらしい。
だから、満開の「ピンクピンク」を見られるのは、
ラッキーなんだとか。

 しかし、今、思う。
桃の生産地周辺の方々は、
毎年、あの美しさに恵まれるのだ。
 若干羨ましい。

 もう一度、幸運に恵まれて、
あの「ピンクピンク」に、我を忘れてみたいのだが・・。





    秋 色 の 東 山
 
   ≪次回のブロク更新予定は、11月17日(土)です≫
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする