ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

『すいとん』と          第10回文芸思潮エッセイ賞佳作

2015-04-30 15:28:32 | 投稿
 記憶という糸をたぐり寄せたとき、
その先端のすぐそばから、こんな出来事が蘇ってきました。

 もう60年も前のことになります。
あの人が、箸とお椀を持ったまま、
静かに涙を流した夕食どきのことです。

 貧しくても仲睦まじい家庭でした。
特に、黒ずんだ卓袱台を家族6人で囲む夕食は、
私にとっていつも幸せを感じる時間でした。

 確か4年生のときだったと思います。
私の通う小学校でも、この年から給食が始まり、
一度だけ食べた『すいとん』を母に何度もねだり、
ようやく作ってもらった日のことでした。

 嬉しくて、今まさに箸をつけようとしていた私の目の前で、
あの人の仕草が突然止まったのです。
「どうしたの。」
と、母に小声で尋ねながら、私はあの人をじっと見ていました。

 固く唇をかみ締め、涙を浮かべていました。
そして、箸もおかず、お椀もおかず、
目から涙がこぼれ、頬をつたい、流れ出したのです。
 家中に息を飲むような時間が流れました。

 あの人の涙など、それまで一度も見たことがありませんでした。
 私の横に座っていた母も涙を流し、割烹着で顔を覆いました。
二人の兄は正座していた膝に両拳を添えたままうつむき、
姉ももらい泣きを始めました。

 「何があったの、」
 私には、見当がつきませんでした。
ただ家族6人の全ての時間が止まり、
それでも柱時計の音だけは正確に聞こえていました。

 すいとんの入ったお椀を持ったまま、
流れ落ちる涙をぬぐおうともしないあの人。
 やがて、涙で声を詰まらせながら、
あの人の人生の第一歩を、私の小さな心に教えてくれました。



 大正7年、11歳のときのことだ。
俺は7人兄弟の長男で、
親父は酒と博打に明け暮れ、
母親が小料理屋の下働きをして持ってくるわずかなお金まで、
使い果たしてしまうような奴だった。

 俺は、少しでも母親を楽にしようと、
家を出ることにしたんだ。
 母は、東京に行って働くという俺に、真新しい草履と、
汽車賃だと言って、わずかばかりの小銭を握らせてくれた。

 俺は、もう二度とこの家には戻らない決心をし、
宇都宮から上野へと行った。

 親戚も頼る人もいない東京で、11歳の子どもが働ける所など、
なかなか見つかりはしなかった。
そのうち、母親からもらったお金は次第に減り、
毎晩上野のお山で野宿をした。
何日も水だけの日を過ごした。

 そして、とうとうお金が底をつき、
一食分そこそこしかなくなってしまった。
腹がへってへって目まいさえしてきた。

 俺は意を決して、有り金を全部出し、
「これで、何か食べさせて。」
と、食堂に入り頼んだ。
 これでもう何にも食えなくなると思うと、心細さだけになってしまった。
ただ、空腹に耐えられなかった。
その時の俺には、もう明日などどうでもよくなっていた。

 急に、おの勝手放題の父親や、口数が少なく黙々と体を動かす母親、
二つ年下の弟や4人の弟妹に会いたくなった。
俺は、食堂の椅子に腰掛けながら、半ベソをかいていた。

 そんな俺の前に、ゆげの上がった丼が置かれたのだ。
 「熱いからゆっくり、お食べ。」
と言う食堂の女将さんの声もそっちのけにして、
俺は夢中でそれを食べた。
肩で息をしながら、汁と団子を食べた。
途中からは涙も鼻水も一緒に泣きながら食べた。

 それが、初めて食べた『すいとん』だったのだ。

 俺のその姿があまりにも惨めだったのだろう。
テーブルに勢いよくすいとんを差し出してくれた女将さんが声をかけてくれた。
 涙をぬぐいながら「どこかで働きたい。」と見上げた俺に、
「つらくても辛抱できるなら。」と、その食堂で働くことを許してくれた。

 何年も修業をし、俺はそこで沢山の人に温かい料理を作った。
しかし、すいとんだけは特別なもので、
湯気のせいにしながら、いつも厨房で目頭をおさえた。



 あの人に話を聞いたその日から、
私はすいとんをねだらなくなりました。
 そして、給食ですいとんが出ても、どうしても箸が進まなくなりました。
すいとんを目の前にすると、11歳のあの人の辛さと、初めて見たあの人の涙が、
鮮やかに思い浮かび、
私は弾けてしないそうな悲しさで心がいっぱいになるのでした。

 時は流れ、今、『すいとん』は貧しい時代の代表的な食べ物として、
よく取り上げられます。
しかし、私にとってのそれは、
あの人が絶望の中から立ち上げるきっかけになった食べ物であり、
どんな献立よりも、心がざわつく料理なのであります。

 人は本当の苦しみや辛さを経験してこぞ、
真の優しさを自分のものにできると言います。
あの人の生涯、それはあの『すいとん』が物語るように、
私の想像を超えた辛さからのスタートでした。

 だからこぞ、あの人、私の父は幾つになっても
超えることのできない存在なのだと思うのです。





カタクリが咲いた ≪有珠善光寺カタクリの丘にて≫
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学力は 学ぶ力 

2015-04-24 22:02:22 | 教育
 今週、全国の小学校6年生と中学校3年生を対象に、
『全国学力・学習状況調査』が行われた。

 この調査は、今年度で9回目になるが、
「全国的に子供たちの学力状況を把握する」ことを目的としている。

 しかし、調査結果を都道府県別に公表することに加え、
市町村別や学校ごとの成績公開が取りざたされている。

 これを受け、調査結果に対し、関係諸機関や学校は、
「戦々恐々、一喜一憂状態にある。」
と、言ってもいい。

 そして、学校よっては、「今年こそ、いい成績を。」
と、事前に過去問に取り組むところまで出現しているとか。

 これでは、本来の目的から大きく逸脱するばかりか、
「テストへの傾向と対策が、学力の向上策」
と錯覚しているのではと、危惧してしまう。

 まさかとは思うが、
「把握された学力状況こそが、学力そのもの」などと、
勘違いしていないことを信じたい。

 どうか、学校現場では、調査結果に対して、
実施の目的に鑑みて、学力状況として冷静に客観視し、
自校の教育活動に対する、『成果と課題』と受け止めてほしい。
そして、そのデーターが生きる教育の創造に、
努力してほしいと願って止まない。

 さて、この調査にもある『学力』とは、何を指すのか考えてみたい。

 現学習指導要領は、平成14年からの指導要領に引き続き
「生きる力」を育むことを教育の理念としている。
そして、それをより一層育むことを推進するとしている。

 指導要領が理念とまでしている「生きる力」であるが、
それは、
「変化の激しいこれからの社会を生きる子供たちに」とって必要な、
『確かな学力』、『豊かな人間性』、『健康・体力』
の3つの要素からなる力」のことである。

 つまり、「生きる力」の3つの要素の1つが、『確かな学力』である。
これを、素直に『学力』と考えていいのだろうと思う。

 その内容を列記すると
  ・知識、技能
  ・思考力
  ・判断力
  ・表現力
  ・課題発見能力
  ・問題解決能力
  ・学び方
  ・学ぶ意欲
 の8つが『確かな学力』の中身である。

 私は、このような学力への考え方と内容について、いささかの異論もない。
「どうか、どの子にもこのような力が、しっかりと身に付くように。」
と、強く強く願っている。

 それは、学習指導要領にもあるように、
子供たちは、「変化の激しいこれからの社会を生きる」ことになるからである。

 私たちの多くは、6才で小学校に入学し、
中学校、高校、そして専門学校あるいは大学へと進み、
20才前後まで、一日平均6~8時間程度の学習時間を積み重ね、
成長期を過ごしてきた。
 この10余年の間に、その後を生きるための知識や技能、
そして必要な様々な能力を、自信の身に付けた。

 一昔前の社会は、その身に付けた知識や技能などの能力を生かし、
大人として長い人生を生きぬくことができた。
 だから、学校での教育は、そのためのものであった。

 しかし、時代は大きく変わったのである。
 技術革新の速度は、私のような凡人の想像をはるかに越えて進んでいる。
それまで獲得してきた知識や技能だけでは、
役に立たない、通用しない様々なものが数多く生まれている。
それに伴った多様な変化が、
生活のいたるところに押し寄せているのが、現代社会である。
 多くを説明しなくても、今日、それは容易に理解できるであろう。

 つまり、今までの知識や技能では、新しい変化に対応できないのである。
いわゆる『知識の腐食化』等が、物凄い速さで進行していると言える。

 だから、これからの社会にあっては、すべての人々に、
常に新しい知識や技能を習得する力が求められるのである。
 その力なくしては、時代に対応することはできない。
 常に技術革新に応じた新たな知識や技能の獲得が、
これからを生きる人々には、どうしても必要とされる。

 とりわけ、さらに変化が加速する時代を生きる子供たちには、
絶対に欠かすことのできない力となる。

 この進化する知識と技能、
いわば、次々と進む技術革新とそれに伴う様々な変化を吸収し、
多種多彩な新しさを獲得する資質や能力を、私は、今日の『学力』と捉える。
 それは、変化に対応する一人一人の『学ぶ力』と言ってもいい。

 先に上げた8つの『学力』内容は、
つまるところ、これからの新たな知識や技能等を『学ぶ力』、
それを示したものと考える。

 くり返しになるが、『全国学力・学習状況調査』が
全国の子供たちの『確かな学力』向上に、有効活用され、
激しく変化する社会における『学ぶ力』となるよう願っている。





  秋蒔き小麦の畑は みどり色 
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『初めての岐路』から

2015-04-17 22:22:26 | 恩師
 それは、私だけではなく、
3年5組全員にとって全く予期しない提案だった。

 中学生の時の出来事なので、その記憶には曖昧さがある。
5月末に校内弁論大会なるものが企画されていた。
連休明けだっただろうか、
ホームルームの時間に、学級で一人、その弁士を決めていた。

 私の学級は、2年生の時、次第次第に学級の雰囲気に落ち着きを無くし、
後半は、まさに今で言う学級崩壊状態だった。
子ども心に私は、その主な原因が担任の無気力な指導にあると思っていた。
だからだろうか、3年生進級時に、私の学級だけ担任が替わった。

 まだ、十分には子どもを把握していないはずの新担任M先生が、
中々決まる気配のない弁士の話し合いに、業を煮やしたのか、
突然、私の名を上げ、『やってみないか。』と言ったのである。
M先生が、私の何をもって、そんな推薦をしたのか、今もってわからない。

 当時の私は、決してみんなから注目されるような存在ではなかった。
ホームルームなどでも、意見を述べたりすることはなく、
崩壊していた学級にあっても、ただただ毎日そんな嫌な空気が、
頭上を通り抜けてくれることだけを願い、
物静かにうつむき息を殺し、過ごしていた。

 だから、主張したいことなども何もなかった。
ましてや、全校生徒の前に一人立って、
自分の想いを述べるなど、全くの想定外であった。
 私だけでなく、学級の誰一人として、私にそんな力があるなど、
考えてもいなかったはずである。

 担任が替わったとは言え、
まだまだ学級の雰囲気に変化のない時期だった。
何事にも、全員の腰が引けていた。
 だから、M先生の提案に
全員が「これ幸い。」とばかりに大きな拍手をした。

私は、今までに経験したことのない多くの視線の中で、
新しい担任と学級の全員に向かって、
「やりたくありません。」「無理です。」「できません。」
と、言う勇気がなく、弁士をすることになった。

 誰もがそうであるように、私の人生にも数々の岐路があった。
その岐路が、今日の私につながっているのだが、
その最初の分かれ道が、
この中学校3年生の校内弁論大会だったと私は思っている。

 2週間後の大会に向かって、オドオドする日々が始まった。

 一度だけ、M先生は何の心配事もないような、
そんな底抜けに明るい表情で、
「大丈夫だあ。言いたいことを言いたいだけ言えばいい。」
と、私の両肩を鷲づかみにして、励ましてくれた。
それっきり、声をかけてくれることはなかった。

 周りの友だちも、ただ面白そうに
「がんばれよ。」「しっかりね。」と、無責任だった。

 近所にいる大学生に相談してごらんと母に勧められ、訪ねてみた。
 「言い出しはなあ、
『何々について、私の考えを述べたいと思いますので、お聞き下さい。』
から始めるんだ。」
とだけ教えてくれた。
「その先は、本人が考えな。」と、突き放された。

 泣きたくなるような、悶々とした思いで、数日が過ぎた。
それでも私は、6年生の算数での、ちょっとした勉強の体験談を書き上げた。

 原稿は、誰にも見せなかった。

 母は、「大きな声で言うためには、練習だよ。」
「誰もいない所で、何回も大きな声で読む練習をすると、
いい声が出るようになるから。」と、教えてくれた。
私は、それを鵜呑みにした。

 学校から帰ると、一人、小学校の裏山に登った。
小高い山の頂上は、熊笹の平地が広がっていた。
 私は、誰もいないのを確かめては、大空に向かって原稿を読み上げた。
読むたびに、気になった箇所を何回も何回も直した。
そして、再び大空に声を張り上げた。

 テレビニュースで見た国会の代表質問の場面を思い浮かべ、
時々原稿用紙から目を離し、遠くを見たりする練習もした。

 原稿は、いつの間にか最初に書いたものとは、随分と違うものになった。
やがて、誰もいない山の上の原っぱで、
大声を張り上げて語る楽しさを、私は味わうようになった。

 そして、遂にその日が来た。

 3年生の各学級代表8名が次々に壇上に上った。
私は、5番目に演壇の前に立った。

 何故か舞台に上がるとそれまでの緊張から解放された。
あの熊笹の原っぱで、声を張り上げている気持ちよさを感じていた。
 時折、原稿に目を落としながら、私はマイクに声をぶつけていた。

 徐々に、沢山の真剣な顔を感じた。
いくつもの熱い視線が伝わってきた。
 全校生徒が並ぶ横に、長机の席があった。先生達がいた。
M先生が、私を見ながら、何度も何度も笑顔でうなずいていた。

 多くの生徒とM先生のそんな姿に、
演壇で語る私は、それまでに体験したことない熱いものが、
体中を駆け巡っていることに気づいた。
 今、この瞬間、私に向けられた期待に応えているんだと思った。
嬉しかった。
そして、何やら不動なものが、少しだけ心に芽生えた。

 無事、弁論を終え降壇した私は、それまでとは確かに違っていた。

 審査の結果、一位になった。
その後しばらくは、いろんな会場での大会によばれ、演壇に立った。
そのたびに、山の上の原っぱで練習をした。

 自己主張など全く無縁だった私が、機会に恵まれた。
そして、自分の想いを伝えることの楽しさを知った。

 あえて、かき分けてまで人前に出て、語ろうとは思わない。
しかし、声がかかると、夢中になって話し始めるのは、
あの岐路があったからなのだと思う。

 それにしても、
M先生の、『やってみないか。』が、そうさせてくれたのである。
感謝の一語と共に、
私にとって、教育活動の凄さをくり返しくり返し教えてくれる出来事である。





雪解け水が流れる 『春の小川』はサラサラ
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喰わず嫌い  『貝』編

2015-04-10 22:06:33 | あの頃
 物心ついた頃から、好き嫌いが多かった。
子どもの時から、よく「どうして嫌いなの?」と訊かれた。
 この質問をするほとんどの人は、好き嫌いと言うものを知らない。
だから、そうした愚問が平気で言えるのだと思う。

 嫌いな物について、
「こうこう、こう言う訳で嫌いなんです。」
「こんなことがあって、だから嫌いになった。」
等と言った、明確な根拠があって嫌いになっているのではない。、
おそらく好き嫌いのある多くの人は、そう思っているのでは。

 無理して、「臭いが嫌いだ。」「食感がどうも。」「味がいやだ。」等と言うものの、
そんなことより、「嫌いな物はただただ嫌いなのだ。」と、私は言いたい。

 しかし、私のような好き嫌いの多い者は、『わがまま』と刻印を押され、
いつもいつも、周りの人たちに、気を遣わせているのも確かなことである。

 それにしても、偏食もなく、何でも美味しく食べる人は、
栄養のバランスもよく健康的で、
どんな食べ物も嫌がらずに食べる、性格のいい人とされる。
その上、「あれが嫌、これが嫌い。」と言わず、
人に迷惑をかけない、扱いやすい人とまで言われたりもする。

 好き嫌いの多い人とそうでない人では、ずいぶんと違うものである。
 それでも私は、嫌いな食べ物を好きになることなどできず、
「健康志向に乏しく、偏屈で、人間性に多少難あり。」
と言った汚名を、嫌々でも受け入れてきた。

 ただし、何十年も前のことになるが、
ある番組で、料理人の方が調理方法を紹介しながら、
つぶやいたひと言だけは、ずうっと心に残っている。

 彼は、料理の手を忙しく動かしながら、
「好き嫌いのある人は、味覚が鋭いんですよ。
だから、その味の好き嫌いが分かるんです。
だけど、そうじゃない人は、
どれもこれもただ美味しいと思うだけなんですね。」
 私は、このつぶやきに一人小躍りした。
『わがまま者』の汚名返上への、応援歌のように聞こえ、密かに胸を張った。

 しかし、いかに味覚が鋭かろうが、
嫌いな食べ物は少ない方がいいに決まっている。

さて、水産物の中の貝類、農産物の中のきのこ類、
ここには共通点があると勝手に解釈している。
それは、それぞれの産物のマイナーな食品と言ったイメージなのだが、
だからと言うわけではないにしても、
一部の例外はあるものの、私はどちらも苦手にしている食べ物である。

今回は、『貝』について記す。


  その1 『帆立貝』

 当地には伊達漁港の他に、黄金や有珠にも漁港がある。
毎日のように魚介類が水揚げされていると思う。
 伊達周辺の噴火湾は、ホタテの養殖が盛んに行われており、
晴れた日の海原は、色取り取りの養殖用ブイで賑わっている。

 どうやら、春先がホタテの旬のようで、
3月以降、ご近所さんから貝殻のままのホタテを何枚も頂いている。

 今まで、貝殻付きのホタテなどキッチンに乗ったことがない我が家では、、
どうやって貝殻から身を取るのか、その格闘が何度も繰り返されている。
その上で、ネットでホタテ料理のレシピを検索し、
生食以外の調理法をさぐるのも日課になっている。
 だが、いずれにしても私がそれを口に運ぶことはない。

 実は、伊達がホタテ養殖の盛んな所であることは、移住する以前から知っていた。
 家内からは、
「伊達の人になるのだから、ホタテは食べられるようにならないと。」
と、言われていた。
言われるまでもなく、私もその気で、
移住前、首都圏で回転寿司店に行くたびに、
あえてホタテの握りに手を伸ばし、チャレンジしていた。

 「嫌いな物でも、慣れだよ。慣れれば、きっと食べられるようになる。」
私は、そう自分を励まし、挑戦を繰り返した。
それは、まさに慣れだった。
徐々にホタテへの抵抗感が薄れ、
この調子なら移住後、地元でホタテを勧められても、
「嫌いなので。」と言わずに済むと思っていた。

 移住してすぐのことだった。
 地元で人気の回転寿司店に行った。
さすが、どの握りも新鮮で、その上ネタの大きさが違っていた。
どれもこれも美味しく、私は上機嫌だった。
勢い込んでホタテを注文した。

「へえーい、ホタテ。」
と、カウンターの向こうから差し出されたホタテの大きさに、息を飲んだ。
首都圏の物とは、ゆうに倍の違いはあった。
 私は、「凄い。」と言いながら、口に運んだ。

 食べ慣れたホタテだったはずである。
その大きさからにじみ出たホタテの味は、
私が食べ慣れたホタテをはるかに超えていた。
 私は思わず、「これは無理。」と口走り、もう一貫を家内に差し出した。
家内は、「こんなに美味しいホタテ、初めて。」と明るかった。

 伊達のホタテは、どれも大きく、私は今も食べ慣れていない。


  その2  『北寄貝』
 
 幼い頃、貧しい暮らしをしていた。
だから、時々カレーライスの具が、肉ではなく、
当時は極めて安価なホッキだった。

 大好きなカレーライスが卓袱台にのり、笑顔で食べ始めたら、
肉ではなくホッキだった時のショックは、忘れることができない。
肉とはあまりにもかけ離れた味に、
私は失意のあまり、涙を浮かべたことさえある。

私は、ホッキの臭いにさえ敏感になると共に、
貧しさの象徴として、ホッキは心に刻まれた。
 遂には、熱を通したホッキの赤身を見ることさえ、
遠ざけるようになってしまった。

嫌いな食べ物に理由があるとしたら、
唯一、例外としてホッキだけは、明確にその訳を上げることができる。

 しかし、今や、ホッキ入りカレーは、
道内・苫小牧市のご当地名物グルメであり、美味しいと評判である。
それでも、私は「なんでホッキなの?」と、ただただ疑問を抱くだけだった。

 ところが、まだ1年も過ぎてはいないが、
回転寿司店で久しぶりの夕食を摂った時だ。
家内とめいめい好きなネタを注文し、
「美味しいね。」「うん、うまい。」と機嫌が良かった。

 テーブルの脇に、本日のおすすめと書かれた写真入りのカードがあった。
それは、活ホッキと書かれた黒い身をした握り鮨だった。

 貝類の中で、トリ貝の握りだけは好んで食べていた。
その黒い身に似ていた。
 もしかしたら、その味に似ているのではと、心が動いた。
私は、ホッキなのにも関わらず、注文した。

 待つ間もなく届いたホッキの黒い握り。
私は、その一貫に少しの醤油をつけ、一口で食べた。
ホッキ独特の甘みが、口いっぱいに広がった。
思わず、「これは、美味い。」と声が出た。

 熱を通した赤身のホッキは、今も食べようとは思わない。
だが、活ホッキのあの黒い身は寿司店にいくたびに、
好んで、注文するようになった。




明治初期に仙台藩亘理より移植された『サイカチ』 まもなく新緑に

 
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農民が奏でる音色

2015-04-03 22:17:15 | 北の大地
 『北海道農民管弦楽団』の存在を知ったのは、2年前のことだ。

 宮沢賢治没後80周年記念として、
この楽団が、震災後の東北・花巻市で演奏会を開催する。
そんな報道特集が、NHK「おはようにっぽん」で流れた。

 楽団は、「鍬で畑を耕し、音楽で心を耕す」をモットーにしていた。
その言葉を聞いただけで、宮沢賢治さんの臭いを強く感じた。

 楽団代表で指揮者の牧野時夫さんは、
賢治さんが農民芸術概論綱要で記した
『おれたちはみな農民である。ずいぶん忙しく、仕事もつらい。
もっと明るく、生き生きと生活する道を見付けたい。
芸術をもって、あの灰色の労働を燃やせ。』
の言葉に、勇気づけられた。
 そして、余市で農業に従事しながら、思いを共有する仲間と共に、
賢治さんが夢みた農民オーケストラを、今に蘇らせようと努力を続けている。

 楽団員は、北海道内各地の農家の他、
農業研究場研究員や農業改良普及員等々、
農業に関係のあるメンバー約80名で、
その活動は、農閑期のみに限られている。

 広い道内各地から集まっての週1回の練習。
その苦労を想像しただけで、楽団員の熱い思いが伝わってくる。

 報道特集では、当別町で農家を営む楽団最高齢の
第2バイオリン奏者・高橋幸治さんを追っていた。
高橋さんは、高校時代にバイオリンに夢中になっていたが、
その思いが忘れられず、
その上、賢治さんの音楽への熱い思いに共感し、
楽団に加わった。70才とか。

 彼は10年前にトラクターによる事故で、
左手の親指を複雑骨折した。
そのため、長時間の演奏では、指の動きが鈍くなるのだとか。
 1日に8時間の練習を彼は自身に課し、その克服に挑んでいた。
その姿を間近で見てる奥様は、インタビューに、
「皆さんに迷惑をかけないように、応援しています。」
と、穏やかな笑顔で応じた。
 高橋さんはこれまた素晴らしく晴れやかな顔をしてそれを聞いていた。
 花巻での演奏会では、無事最後まで演奏したとのことだった。

 きっと楽団員一人一人に、
高橋さん同様、一口では語り尽くせない、
それぞれのドラマがあるのだろうと思った。

 しかし、それにしても『農民管弦楽団』と言う名称には驚いた。
伊達に来てからは、「農家さん」という呼称はよく耳にする。
だが、「農民」は聞き慣れない。私にとっては歴史的用語と言ってもいい。
 偏見なのだろうか、都会的は雰囲気の『管弦楽団・オーケストラ』に
「農民」という冠がついている、
それだけで楽団スタッフと関係者の方々が傾ける、真の音楽への熱い魂を感じ、
私は勝手に物凄い熱を帯びていた。

 ところが、その楽団の年に1回だけの定期演奏会が、隣町・洞爺湖町で行われた。
2月22日(日)のことだった。
 私は、溜池山王のサントリーホールや池袋の芸術劇場大ホールにでも出かけるような、
そんな胸の高鳴りをつれて会場に向かった。
 中島がぽっかりと浮かぶ絶景・洞爺湖から
数十メートル離れた小高い傾斜地にある文化センターは、満席の人、人だった。

 頂いた演奏プログラムのごあいさつで、代表・牧野さんはこう述べていた。
 『農という人間の生命にとって最も重要な食の生産に携わる我々が、
なぜこのようなクラシック音楽などをやるのか?
またそのことにどんな意味があるのか?
と思われるかもしれません。
音楽は本来、労働とともにあって大地での感謝や喜びを表す手段だったはずです。
また、言葉や民族を超えて人々の心をつなぐ手段でもあります。
 <略> 農民が奏でる音色を聴いて下さった皆さん一人ひとりが、
平和な世界のための働き人となってくださることを願いつつ、
心をこめて演奏したいと思います。」

 鮮明な目的意識を持った素晴らしいメッセージに、
私はさらに勇気づけられ、開演を待った。

 リスト作曲/ミュラー=ベルグハウス編曲・ハンガリー狂詩曲第2番ハ短調
 ハイドン作曲・交響曲第94番「驚愕」ト長調
と続き、休憩の後、洞爺湖にちなんでの選曲だろう
 チャイコフスキー作曲・バレエ音楽「白鳥の湖」より抜粋
で、終演となった。

 素人の耳しか持たない私に、その演奏を論じることは無理だが、
演奏者一人一人が自分の持てる力を存分に発揮し、
しっかりとそれぞれが力強く、曲を奏でていたことだけは、
私にも感じることができた。
そして、遂に最後には、あの「白鳥の湖」の音色に、私は酔いしれていた。

 アンコール後の止まらない拍手の中で、
指揮者・牧野さんが、全ての力を出し切った、そんな後ろ姿が強く心に残った。
 私は、若干不自由な手ではあったが、精一杯の拍手を誰よりも長く送り続けた。
 今まで聴いたオーケストラの演奏とは、一味違う感動があった。

 そう、その会場の出入り口で、
家内の携帯電話が鳴った。息子から初孫誕生の知らせだった。
 私は、洞爺湖を見ながら、『白鳥の湖』を踊りたくなった。



冬を越えた近所のねぎ畑 まもなく収穫
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