ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

猛暑への備え あれこれ

2024-04-27 10:17:11 | あの頃
 ① 自宅に初めてエアコンを設置したのは、
30歳代になってすぐだった。

 それまで賃貸の団地住まいだったが、
近くにやや広い分譲の団地が販売された。
 家族が4人になったこともあり、
思い切って購入することにした。

 そこへ移るときに、
LDKの部屋だけエアコンを付けた。
  
 その後、近隣の地域を2度転居したが、
エアコンのある部屋は、1室から2室に増えた。
 当たり前のように、夏の生活必需品になっていた。

 ② ところが、首都圏での最後の夏のことだ。
その年、あの3,11があった。
 大地震、大津波、そして原発事故と続いた。

 住んでいた千葉市の海浜地区は、
方々で液状化現象が発生した。
 電柱が軒並み傾いた。
戸建住宅の中には大きく家屋が傾斜し、
住めなくなった家庭もあった。

 その上、首都圏は原発の影響で電力不足になった。
計画停電が実施された。
 道を挟んだ隣の住宅街一帯が停電になり、
真っ暗闇という事態が何日も続いた。

 ニュースはしきりに節電を呼びかけた。
当時、30階建てマンションの9階で暮らしていた。
 高層階の方々はともかく、
私たち2人は節電のためエレベーターの使用をひかえた。

 60歳を過ぎたばかりだったが、
9階までの上りは息が切れた。
 階が増すにつれ、足がどんどん重くなった。
それでも、あの惨事を思い浮かべ、
「これくらいは!」と頑張った。

 やがて夏が迫り、
夜になっても昼間の暑さが解消しなくなった。
 当然、自宅でもエアコンの出番だった。

 しかし、計画節電は終了したものの、
相変わらず電力事情は、改善されていなかった。
 「エアコンは、28度に設定して使用してください」
そんなアナウンスがくり返されていた。

 私は、エアコン使用をためらった。 
9階住まいだ。
 窓を開け放っていても、空き巣の心配はなかった。
深夜も開けたままでよかった。
 ならばと、
「どこまでエアコンを使わないでいられるか、
やってみないか!?」
 家内に提案してみた。

 真夏、最高潮の暑さが続いたが、
それでも、窓を開けていれば、
寝苦しさも耐えられた。
 
 扇風機にうちわ、それにかき氷で、
エアコンを使うことなく夏を乗りきった。

 ③ その年の秋、
伊達の我が家は、基本設計が終わり、
諸費用等の提案があった。
 正式な工事契約の前に業者さんとの話し合いが必要になった。

 家内と一緒に伊達まで来た。
そして、建設会社の担当者2人と対面した。
 2人と会うのは3度目だった。
気心も分かり、遠慮なく相談ができた。

 その席で、エアコン設置が話題になった。
私達は、伊達の暑さについて経験がなかった。
 2人の意見を参考に決めようと思った。

 ところが、2人の考えは割れた。
私達と同世代の上司は、
「このくらいの暑さ、エアコンは要りません。
我慢できますよ」と。
 そして、現場を取り仕切る若手は、
「これから先を考えると、行く行くは必要になります。
付けて置いた方がいいかと思います」。

 脳裏に浮かんだのは、今年の夏の経験だった。
東京のあの暑さを、エアコンなしで乗り切った。
 「このくらいの暑さ・・・我慢できますよ」 
同世代の意見に心が傾いた。

 基本設計にあった2台のエアコン設置は、
削除となった。
 
 ④ それから11年が過ぎ、
昨年の夏だ。
 日本だけじゃない、世界中が凄い暑さだった。
温暖化を越え、沸騰化とまで言われ、
それを伊達でも実感した。

 突然、エアコンの設置について、
「行く行くは必要になります」。
 建設会社若手の言葉が蘇った。
でも、急のエアコン設置は無理に違いなかった。

 せめて新しい扇風機でもと、家電量販店へ出向いた。
「今日、ようやく店に届いた人気の品です」
 店員さんのセールスについのせられ、
高価な一機を購入した。

 しかし、それとて猛暑をしのぐまでには至らなかった。
期待が外れた。
 「絶対に、来年の夏までにはエアコンを付けよう」
そう思いながら、
高価な扇風機の風に涼をすがり、夏を越えた。
 
 ⑤ 年明けてすぐ、
自治会の会館の冷房化が、役員会の話題に上った。
 「早く発注しないと夏に間に合わないのでは」
そんな意見が飛び出した。
 「きっと、値段も上がっているはず」
と言う意見も・・・。
 早々担当を決め、見積もりをとった。

 店によって、対応に開きがあったが、
設置工事も値段も、心配には及ばなかった。
 発注すると、すぐに工事日決まり、
あっという間に、取り付けが完了した。

 「ならば」と、我が家も夏を待たずに設置をと、
再び家電量販店へ行った。
 タイミングよく、エアコンの大セールをしていた。
通常の日より、数万円安い値がついていた。
 設置は、家を建てた業者に頼んだ。

 高密度高断熱の寒冷地仕様の家である。
きっと、室内の冷気もさほど戸外へ流失しないのでは・・・。
 期待しながら、今夏の猛暑を待つことに・・・・・。




     枝先まで 満開 
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4 月 の 学 校 風 景 よ り

2024-04-13 12:37:25 | あの頃
 4月ももう第2週である。
朝のジョギング中に、
交通安全の黄色いカバーをかけたランドセル姿を見た。
 小学校に入学したばかりの1年生である。

 ある子は、途中までだろうけどお母さんが付き添っていた。
兄弟なのか近所の子なのか、上級生と一緒の子もいた。
 1人で登校する1年生はいない。
それだけでホッとするのは、私だけだろうか。
 
 朝食を摂りながら、家内とかわした
学校の4月にまつわる話題から2つ。

 
  ≪その1≫
 私の小学校では、入学式の進行役は副校長(教頭)先生だった。
「ただ今より、新1年生が入場します。
皆様、拍手でお迎えください」

 すると、『1年生になったら』のピアノと、
大きな手拍子の中を、
先生方の誘導で、式場の前方に並ぶ椅子席へと、
緊張したピカピカの1年生が入場を始める。

 並んだ列の順に椅子に座ると、すぐに式は始まる。
初めて体育館に入った子ばかりだが、
キョロキョロする間などない。
 式は次々と進んでいく。

 『開式の辞』『礼』そして『国歌斉唱』。
続いて『校長先生のお話』。
 私の出番である。

 入学式での私の話は、毎年ほとんど同じパターンだ。
第一声は、
「1年生の皆さん、H小学校へのご入学、
おめでとうございます」
である。
 すると稀に、やや遅れて「ありがとうございます」と、
バラバラに声が返ってくることがある。

 でも、ほとんどの年は無反応。
無言でジッと私を見たまま。
 そこで、「あれ、なんか変だよ。
私は、おめでとうございますって言いましたよ。
 さて皆さんは、なんて言えばいいのかな?」
ソフトな声で訊く。
 
 「ありがとうございます!」
そうつぶやく子が1人2人と出てくる。
 「そうだね。ありがとうございますって言うんだよね。
いいー!?
 できるかな!?
じゃ、やり直しますよ」。

 子ども達がうなづくのを確かめてから、
再び「1年生の皆さん、ご入学おめでとうございます!」
と、一礼する。
 今度は、一斉に「ありがとうございます」と大きな声だ。
式場は一気にアットホームな雰囲気に変わる。

 次に、お客様やお家の方、6年生のお兄さんやお姉さんが、
皆さんの入学を祝って、式場にいることを伝える。

 そして、おもむろに上着の内ポケットから、
1枚の紙を取り出しながら言う。
 「これから、『ぞうさんぞうさんお鼻が長いのね』の
歌詞を作ったまどみちおさんの詩を読みます」。
 すると、1年生は不安そうな表情で、その詩を聞く。

     チョウチョウ
           まど・みちお

  チョウチョウは
  ねむる とき
  はねを たたんで ねむります

  だれの じゃまにも ならない
  あんなに 小さな 虫なのに
  それが また はんぶんに なって
  そっと…

  だれだって それを見ますと
  せかいじゅうに
  しーっ!
  と めくばせ したくなります

  どんなに かすかな もの音でも
  チョウチョウの ねむりを
  やぶりはしないかと…

 静かにゆっくりと詩を読んだ後は、できるだけ短く、
「半分になって眠るチョウチョウも、
それを見て、世界中にしーっと目配せするまどさんも、
なんて優しいんでしょうね。
 すごいね。
さあ、みなさんもそんな優しい子になれるといいなあって、
私は願っています」。

 その後、式場後方席の保護者へ、
祝意を伝え、私の話を終えるのだが、
入学式ではいつもこの詩を読んだ。
 緊張した1年生の中に、明るい表情になる子がいる。
「それでいい」と納得していた。


  ≪その2≫
 東京に限ったことではないようだが、
不思議と入学式から数日の内に、必ず雨が降った。

 まだ慣れてないランドセルを背負い、
これまた、慣れない通学路を学校へ向かうのだ。
 それだけでも大変なのに、雨である。

 雨がっぱを着る子もいれば、
大きな雨傘をさし、
時には強い風に見舞われる。

 当地では、
そんな朝は学校近くまで、車で送る保護者を見かける。
 しかし、私が勤務した小学校は、
どこでもそんなことを黙認しなかった。

 だから、入学したばかりの1年生にとって、
この雨は、最初の大きな試練なのだ。

 毎年、どの子も上級生の助けを借りながら、
なんとか無事に登校してくる。
 でも、担任にとって、気が気でない朝である。

 学校に着いてからも心配だ。
傘の置き場を覚えているだろうか。
 雨がっぱの掛け方も場所も分かるだろうか・・。
 
 だから、いつもは教室で子どもを迎えるが、
この日だけは児童用昇降口で、
担任は1年生を迎えるのである。
 
 初めて雨の中を登校した1年生は、
玄関で担任を見て、ホッとした表情を浮かべる。
 こんな機会があったから、距離が近づく子もいる。

 さて、退職する3年前であった。
S区教委の雇用制度が変わり、
私の学校の主事さん3人が、
一気に民間会社からの派遣になった。

 3人の主な仕事は、校舎内外の清掃、来客の応対、
簡単な破損修理などだった。
 勤務する前に、
2週間ほど学校勤務の研修を受けてきたが、
 男性1人女性2人は、
共に学校は初めての仕事場だった。

 それでも、初日の4月1日から、
細々とした仕事を精力的に行った。
 その様子を見て一番安堵したのは、
副校長先生だった。

 やはり、その年も入学式から数日して、
雨の朝になった。
 2人の1年担任は、
やっぱり昇降口で、登校する新1年生を待った。

 いつもは校門で子どもを迎える私も、
この日だけは、
人手が必要だろうと昇降口にいることにした。

 校門を抜け、登校する子ども達が現れた。
どの子も傘をさし、1年生にあわせ、
ゆっくりとした足どりで近づいて来た。

 それを見た主事の3人が、
乾いたタオルの入った段ボール箱を持って、
昇降口に現れた。
 そして、担任と私からやや離れた後ろに控えた。
初めてのことだった。
 何が始まるのか、分からなかった。
 
 担任は、傘の置き場を教えカッパを脱ぐ手助けをし、
私も同じように慌ただしく1年生の世話をした。

 合間に、後方の3人を見た。
傘を置いたり、カッパを脱いだりした1年生を
呼び止めていた。
 そして、
「冷たかったでしょう。大変だったね」
と言いながら、
雨で濡れた頭や肩を、タオルで拭いていた。

 黙ったまま、拭かれる1年生に
「ありがとうございます!っていいな」
と、助言する高学年の声が聞こえた。
 
 時には、「ボクも拭いて」と、
ねだる2年生3年生もいた。
 どの子も嬉しそうに教室に向かっていた。
長い教職だが、初めて見る雨の日の光景だった。
   
 以来、退職までの3年間、
雨の日には必ず、昇降口で濡れた子どもの体を、
3人は「冷たかったね。大変だったね」
と言いながら、タオルで拭いていた。

 いい学校で退職を迎えたと今も想う。




    お気に入りの散歩道8 もう春
                  ※次回のブログ更新予定は 4月27日(土)です
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こんな卒業式がありました

2024-03-30 10:57:45 | あの頃
 校長にとっての最大のイベントは、
『卒業式』と言ってもいいかも知れない。
 卒業証書には、学校の名と共に校長名がある。

 私は、校長として12回の卒業式を経験した。
1人1人に私の名がある卒業証書を手渡した。

 式では、いつも横に証書補助係の先生がついた。
そして、舞台の袖幕には、
授与の瞬間を撮影するために依頼したカメラマンが、
隠れていた。

 私は、どの子にも証書を渡す時、
小さな声で「おめでとう」と言った。
 その声を聞いても、緊張のあまり無反応の子もいたが、
多くの子は「ありがとうございます」と口を動かし、
笑顔を返してくれた。
 その一瞬にカメラシャッターは切られるが、
表情が輝いていて、どの子もたまらなく素晴らしいのだ。

 一番間近でそれを目の当たりに、
これからの歩む道が、「幸多いもので」と
祈らずにはいられなかった。

 さて、ある年、証書補助係として私の横に立ったのは、
若手のM先生だった。

 私の小学校では証書補助係は、
過去に卒業生を担任した先生の中からと決めていた。

 その年は、いつかはその役をと望んでいた
3・4年で担任をしたM先生が務めることになった。
 
 卒業式の朝、
M先生は和服に袴姿で、校長室へ挨拶にきた。
 「校長先生、私、子ども以上に緊張してます。
よろしくお願いします」。
   
 生真面目なM先生を少しでも楽にしてあげようと、
私は明るく励ました。
 「証書補助の仕事は、
子どもの名前と証書の名前が同じかを確認して、
私に渡すだけ。
 難しいことではないよ。
練習通りにやりましょう」。

 「そうですね。
わかりました。
 練習通りに頑張ります!」
M先生は、いつもと変わらない明るい表情で、
職員室へ戻っていた。

 卒業式は,予定通りの時刻に始まった。
卒業生が入場し、「開式の辞」、続いて「国歌斉唱」があった。

 そして「卒業証書授与」へと・・・。
最初に、私が舞台に上がり、演壇の前に立つ。
 少し間をあけて、左やや後方の横にM先生が静かに立った。
次に、1組の出席番号1番の子が呼ばれ、
私の前へと進む。
     
 M先生が、スッとその子の卒業証書を私の前を置く。
それをかざし、証書を読み上げて授与した。
 練習通りだった。

 次の子からは読み上げずに、
M先生が私の前に置いた証書を差し出し、
「おめでとう」と言って渡した。

 1人1人にゆっくりと時間をかけ授与するように、
心がけた。
 全てが順調に進んでいるように思った。

 ところが、1組も後半の子まで進行した頃だ。
式場内の雰囲気に変化を直感した。

 私の前に立った女の子が、
授与前にすでに目を赤くしていた。
 私が「おめでとう」を言って証書を渡しても、
涙をこらえながら受け取った。

 次の子も同じように涙を浮かべていた。
証書を受け取り、やっと笑みをつくった。
  
 やや違和感を感じ、式場後方の保護者席を凝視した。
数人の母親が、ハンカチで目元を押さえていた。

 不思議だった。
式は、まだ始まったばかりである。
 涙にはまだ早い時間帯だ。

 その直後、私の左横でも異変が・・・。
しきりに涙をすする音が聞こえてきた。
 
 次の子が私の前へ進む少しの間を盗んで、
さっとM先生を見た。
 M先生はあふれる涙をこらえながら、
頬をつたう涙をそっと手で拭うところだった。

 M先生のその姿に、授与を待つ卒業生も保護者も、
きっともらい泣きしているに違いない。
 そう理解した。 
それまでに経験のない式の展開に、内心驚いた。

 そんな中でも、担任による授与者の呼名は粛々と続いた。
緊張の面持ちで私の前に立つ子、
真っ赤な目で私にもM先生にも視線を向ける子と続いた。

 証書授与を続けながら、
M先生と子ども達の絆に、私は胸が熱くなった。

 もう一度、急いでM先生を見た。
その時、M先生は大きく深呼吸をし、
再び、頬の涙を手で拭った。
 涙をこらえ、しっかりと証書補助をしようとする意志が
伝わってきた。

 私は迷った。
燕尾服のポケットにはハンカチがあった。
 そっとM先生の前にハンカチを置いてあげようか。
でも、それが余計に涙を誘うことになるのでは・・。
 いやいや、壇上で見て見ぬふりはできない・・・。
それよりも粛々と式を続けるには・・・・。

 この場での迷いは、許されなかった。 
即断が求められた。
 誰にも気づかないよう、演壇の隅に私のハンカチを置いた。
「さあ、涙を拭いて、しっかり!!」
 そんなメッセージを込めた。
 
 M先生は、ゆっくりとそのハンカチを手にした。 
時々それで涙を押さえ、証書補助を務めた。
 授与は最後の子まで進み、私とM先生は降壇した。

 卒業生も下校したその日の午後、
M先生はまだ涙目のまま、
それでもいつもの明るい表情で校長室に来た。

 「このハンカチのお陰で、最後まで証書補助ができました。
ありがとうございました。
 洗ってからお返ししようと思います。
それでいいですか?」

 私は、ニコニコ顔で言った。
「そのハンカチは、記念に差し上げます。
 それよりも、まさか証書補助の補助をすることになるとは・・、
夢にも思わなかったよ。
 でも、生涯忘れられない卒業式になりましたよ」。
M先生は、ちょっと照れたように一礼し、
校長室を後にした。 
  



    お気に入りの散歩道7  そこまで春  
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衝  動  買  い

2024-01-13 11:46:00 | あの頃
 どうやら、『事前の計画がなく、来店してから衝動的に
買いたいという意志が働き購入すること』を、
衝動買いと言うらしい。
 
 振り返ると、そんなスタイルの買い方がなんと多かったことか。
自分自身のことだが、無計画性といい加減さといい、
改めて驚くばかり。
 しかし、結果は失敗もあったが、それで良かったことも多い。
その中から 2つ・・・。


 ① 息子2人が大学生になり自宅を離れた。
家内と愛猫との暮らしが2年目を迎えた夏休み、
二男が1週間ほど帰ってきた。

 久しぶりに3人で買い物をと、
駅前の大型スーパーへ向かった。
 その途中に、近くで建設中の高層マンションの、
モデルルームが公開されていた。
 そのマンションの販売を目的にしているところだ。

 ふと、その日の朝刊にあったチラシを思い出した。
そこに『最終販売』の文字が躍っていた。
 2棟の30階建てが、すごい勢いで売れていると言うのだ。

 それだけの動機だったが、突然興味が湧いた。
「そんなに人気があるマンションがどんな造りなのか」
 モデルルームを覗いてみたくなった。

 家内と二男は、私の誘いにあきれ顔だったが、
「ちょっとだけ」と言う後ろを付いてきてくれた。

 入店すると、待ち構えていた販売員がすぐに応対した。
スーツ姿の男性だった。
 控え目でていねいな感じに好感が持てた。
 
 私は、正直に言った。
「買い物に行く途中、たまたまここが目に入ったので、
どんな感じか見たかっただけです」
 すると彼は「どうぞ、遠慮なくご覧下さい」と、
先頭になって私たちを、2つのモデルルームに案内してくれた。

 その1つが、マンションの角を活用した
モダンな間取りだった。
 居間の片面が広いガラス窓で、眺めのいい南向きだった。
3LDKの配置も工夫されていた。
 そのお洒落な造りに、
私はすっかり魅了されてしまった。

 「最近のマンションは、こんな素敵なんですね」
私の驚きに彼は静かな口調で応じた。
 「ご覧頂いたもう1つのモデルルームに比べると、
こちらはずっとずっとお買い得かと思います。
 でも、この物件は1階から20階までに1室ずつで、
残りの3室も抽選になるかと思います」

 買う気など全くなかったはずだ。
家内と新居を話題にしたこともなかった。
 ただペットを飼えない団地で、
愛猫と居ることだけは気がかりだった。
 だから、突然訊いた。
「このマンションでは犬や猫を飼うことができますか」
 家内は、ビックリした顔をした。
「はい、ペット登録をして頂くとご一緒に暮らせます」。

 そこから先は、応接セットのある部屋へ通され、
価格や契約手続きの説明を聞いた。
 そして、印鑑がないのに仮契約書にサインまでして店を出た。

 さて、これには後日談がある。
契約から1年後に、マンションは完成し入居した。
 その翌年、大学を卒業した二男は、
そのマンションを販売した不動産会社へ入社した。

 大手不動産だが、社内でたまたま、
モデルルームのあの販売員男性と一緒に、
仕事をすることになった。
 彼は言った。
「あんなに簡単に売れたお客さんには,
今までに出会ったことないよ」と。

 
 ② 次は、マンション購入とは、
比較にならない買い物である。
 当地で暮らし始めて数年が過ぎた時のことだ。
 
 年齢からなのか、
睡眠に不満を感じるようになった。
 思い切ってベッドを変えてみようかと考えていた。

 当地には、老舗の家具店がある。
新聞にチラシが入ってきた。
 ベッドのセールの案内だった。

 急いで買わなくてもいいが、
快眠できそうならと行ってみた。
 
 まんまとベテラン店員さんのセールスに、
その気になってしまった。
 きっといい眠りが待っていると期待した。

 「いいベッドには、あわせてもう1つが必要です。
それは、羽毛の掛け布団ですよ」
 店員さんは自信満々に言った。

 これまた当地には、老舗の寝具店がある。
それに、羽毛布団なら通販でも買える。
 そう思っていた矢先だ。
「当店でも数は少ないのですが、売っています。
いかがですか?」
 ビニールケースに入った布団を2点、
棚から下ろしてくれた。
 
 売れ残り品のようで、ほこりも一緒に降りてきた。
その1つの値札を見た。
 10数万円が2万数千円に訂正されていた。
 
 「2枚お買い上げならば、4万円丁度にします」
「じゃ、それも!」
 思わず言ってしまった。

 翌日、ベットと羽毛布団が届いた。
ベットを置き、羽毛布団をその上に広げてみた。
 意外だった。
今まで使っていた羽毛布団に比べ、
はるかに厚みがあったのだ。

 数日、その布団で寝てみた。
見た目の印象からか、重みを感じ心地良くなかった。
 やはり売れ残った粗悪品を買わされたかと悔いた。

 快適なベットでの睡眠のためにと、
今までの薄くて軽い羽毛布団に切り替えた。
 よく眠れた。

 それにしても、
あの厚手の羽毛布団が目障りになった。
 目にするたびに、すぐに不快感が蘇った。

 1年半前になるだろうか。
当地に2件目のリサイクルショップが開店した。
 開店記念に高額買取セールをしていた。

 「この機会に思い切って!」
あの羽毛布団を買取ってもらおうと、
勇んで、お店に持ち込んだ。
 しかし、「残念!」
1度でも使用した布団は「買い取れない」と、
断られてしまった。

 落胆した。 
「粗大ゴミにするしかないか!」
 すると、急に4万円の羽毛布団がかわいそうになった。
「なら、もう1度使ってみよう!」

 ところが、使い続けると「意外や意外」、
そん色のない軽さだった。
 その上、厚みの分だけ動きが少なく、
ゆったり感があった。
 
 羽毛だから、当然季節によって快適さが違う。
冬の今は、目覚めてからもいつまでも、
ぬくぬくとその布団に包まれていたくなる。
 そして、時々ふと思い出して苦笑いをする始末だ。




       雪景 有珠善光寺
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晩秋に想いを馳せて

2023-11-18 12:52:34 | あの頃
 1週間前、目覚めてすぐ初雪が舞った。
見る見る間に、花壇じまいを済ませた庭が雪化粧した。
 冬へと季節が変わるその時を、
窓辺からしばらく見ていた。

 年々、冬到来と共に暗い気持ちが倍加する。
北海道では温暖といわれる当地だが、
それでも冬は、寒さで行動が規制される。

 年齢と共に体力が衰える。
だから、今のうちにやれることをと思う。
 しかし、春までのこれから4ヶ月は、それをさせてくれない。

 さて、今年の秋はあっという間だった。
ふと過ぎゆく晩秋に想いを馳せた。
 少しだけ私を温めてくれた。


  ① ナメコと豆腐の味噌汁 

 伊達に移住した最初の秋を
年賀状に添えた詩『微笑』の一節で、こう表した。

 落葉キノコは唐松林にしかない
 その唐松は針葉樹なのに
 橙色に染まり落葉する
 道は細い橙色におおわれ
 風までがその色に舞う
 そこまで来ている白い季節の前で
 私が見た
 北国の深秋の一色

 多くの人は唐松の紅葉を「黄金色」と言葉にするようだが、
私には橙色に見えた。
 その美しさを知る少し前だが、
家内と一緒にゴルフをした。

 ラウンド中にコース整備員が、
作業車で私たちのカートに寄ってきた。
 大きな両手に山盛りのキノコをのせて差し出し、
「食べるかい」と笑顔で言った。

 プレー中の予想外のことに驚きながらも、
笑顔で応じた。
 「すみません。頂きます」。
「そっかい。そこの唐松のところにあったんだ、
じゃ、みんなあげるわ」。
 整備員は、車にあった残りのキノコも、
カートの前カゴに入れ、足早に去っていった。
 見ると、コースの周りは唐松で囲まれていた。

 そのキノコが、高価な落葉キノコだと知ったのは、
ラウンドを終えてからだった。
 帰宅後、家内がネットで調べて味噌汁にした。

 私は、椎茸以外のキノコは、口にしなかった。
だから、大量のきのこ汁を見ても箸を付ける気にならなかった。
 それに対し、目の前の家内は、
「美味しい、美味しい」を連発し、
2度3度とおかわりをし私を驚かせた。
 そして、珍しいことに、
私に「食べてごらん」と何度も勧めた。

 嫌なら残すことを条件に、
お椀の味噌汁をすすり、落葉キノコも食べてみた。
 半信半疑だったが、残さなかった。

 翌朝も、その味噌汁が食卓に出てきた。
何も言わず、一杯だけ食べた。
 決して感想は言わなかった。
本当はいい味だと認めていた。

 その時から、徐々にキノコ類との距離が縮まった。
そして10年以上が過ぎた。
 最近の夕食では、当然のように「ナメコと豆腐の味噌汁」が出てくる。
私は、キノコ嫌いだったことをすっかり忘れ、
表情を変えることもなくお椀に口を付ける。


  ② こがらし

 先日、「東京地方に木枯らし1号が吹きました」と、
テレビの女子アナが言っていた。
 晩秋から初冬の間に吹く強い北風を木枯らしと言うようだが、
「木枯らし」と聞いて、学芸会の『かがし焼きどんど』を思い出した。

 教員になって3年目、初めて学芸会があった。
5年生が劇『かがし焼きどんど』を演じた。
 その劇を見て、学芸会の素晴らしさに胸が熱くなった。

 高学年を担任したら、いつか私もこの劇に取り組んでみたいと、
早速台本を譲って貰った。
 原作も脚本も作者不明だと知った。

 数年後、5年生を担任した。
ちょうど学芸会があった。
 学年は2学級で、キャスティングの人数も丁度よかったので、
もう1人の担任S先生に台本を見せた。

 劇は、主役の「かがし」と「こがらし達」とのやりとりが中心で、
伝統行事「かがし焼きどんど」で幕が閉じる展開だ。 

 終始、主役である「かがし」が劇の中心にいた。
「かがし」の演技力が劇の出来不出来を左右した。
 1人の子どもへの負担が大きい劇は、
当時も今も学芸会で敬遠される。
 それでも私はこの劇に惹かれた。

 山に置き忘れられた「かがし」と「こがらし達」の心温まるやりとり、
そして、1年間の役目を終え、
村人に見守られながら燃える「かがし」の宿命、
その温かくも悲しい劇に、子ども達と一緒に取り組みたかった。

 S先生は、私の想いに同意してくれたが、
すぐに「かがし」を演じられる子を心配した。
 やはりそこがこの劇のポイントだと確信した。

 早速、2つの学級から主役候補を数人あげた。
そして、その子らに台本を渡し、
「かがし」をやってみないかと打診した。

 数日後の返事は、どの子も尻込みするものだった。
台詞の多さがその理由だった。
 ただ1人、「すぐには覚えられないけど、
練習中にはきっとできるようなると思う。
 かがしをやってみたい」と名乗りでた子がいた。

 村の子供らが山に置き忘れたかがしを、
こがらし達は、かがしの願い通り元の畑に戻すことにする。
 しかし、畑に戻ったかがしは、焼かれる運命だと知る。
戻すのをためらうこがらし達に、
仲間と一緒に焼かれる道を選択するかがし。
 そして、「かがし焼きどんど」の日、
遠くから真っ赤に燃え上がるかがしを見つめるこがらし達。
 そこで、劇は終った。

 幕が降りたその時、見事に演じきったかがしは、
私と一緒に舞台袖にいた。
 一瞬暗転になった会場が明るくなると、
かがしは私に訊いた。

 「先生、山に置き忘れられたままでいるよりも、
一緒に焼かれて、かがしはそれでよかったんですよね!」。

 「そんなことに迷いながら、この子は沢山の台詞を覚え、
演じていたのか!」。
 私は驚きながら、そして迷いながらこう応じた。
「だから、この劇をやったんじゃないの」。

 遠い昔のことだ。
でも、今もそう思っている。




   ご 近 所 の 柿 ~2階の窓から  
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