ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

美味しさがしみる

2014-12-30 22:45:37 | 北の湘南・伊達
 11月初旬のことだ。
 伊達市青年会議所創立45周年記念として、トークライブがあった。
 そのトークメンバー3人の中に、伊達・菊谷市長さんがおり、興味をもった。

 会場は、用意された300余席に空席がない程で、
青年会議所の催しとあってか、若年層の参加も多く私を驚かせた。

 トークテーマは、『人口減少問題と伊達市の20年後』となっていた。

 テレビの報道番組などでも顔馴染みの、
日本総合研究所主席・藻谷浩介氏と
観光カリスマ・山田桂一郎氏が
主導する形でトークは展開した。

 お二人の話は、ところどころに全国的視点がちりばめられ、
伊達市や他の地方都市の実情比較がありと、
私の興味を満たしてくれた。

 このトークライブを通して、強く私を惹きつけたのは、
他でもない菊谷市長さんのある一言だった。

 ご存じの方も多いと思うが、
藻谷氏はいわゆる『里山資本主義』を唱え、
安心のネットワークとお金が地域内を循環することの重要性を説いている。

 このトークでも、随所にその主張があった。
こと伊達についても、その1例として
観光物産館で売れている地元農家産の野菜を、もっと高い値で売ってはどうかと発言した。

 観光物産館に、伊達野菜を買いに来る旅行者は、
伊達の美味しい野菜を求めて来る。
新鮮で美味しければ、多少高くても買ってくれる。
だからもっと高値で売ればいい。
高く売れれば、その分だけ地元・伊達は潤うことになる。
私は、彼の話をそんな風に理解し、大いに納得した。

 そんな藻谷氏の提案について、菊谷市長さんに意見が求められた。

 それまで藻谷氏と山田氏の話に耳を傾けていた市長さんが静かな口調で、
「だけど高く売れば、ぼったくりになると、農家さんは思うんですよ。
安くて新鮮で安心な野菜を食べてもらいたいと、農家さんは頑張っているんです。」と。

 記録をしっかりと取っていた訳ではないが、そんな風に市長さんは話されたように思う。

 私は、一瞬頭を殴られたような衝撃を覚えた。
農業という物作りに従事する方々の心情を、改めて教えられた。
そして、そんな農家さんの思いに、
気づきもしない私の軽薄さと鈍感さが恥ずかしかった。

 トークライブの翌日、観光物産館に行った。
なんとはなく真新しい気持ちだった。

 我が家の食卓にのる野菜類の多くは、ここで買い求めた。
生野菜嫌いの私を改めさせてくれたのも、ここの野菜だった、
いつも新鮮で安い野菜が、豊富に並んでいる。

 市長さんの言葉が、まだ耳に残っていた。

 物産館の野菜売場は、約80戸の農家さんが
それぞれ農家ごとに割り当てられた陳列棚に作物を並べている。
その棚には農園名と農家さんの顔写真、
そして『こだわりポイント』と題するコメントが掲示されている。

 それまで、そのコメントに私は気を止めていなかった。

 この日初めて、出入口近くの棚のコメントを読んでみた。
 
 “伊達市は北の湘南と呼ばれております。
その温暖な気候の中、私達農家が心を込めて作った野菜を販売いたします。
どの野菜も新鮮で安心、そして低価格です。
子供さんからお年寄りの方まで沢山食べて下さい。”

 いつも素通りしていた所に、こんな素敵な思いが記されていた。

 この棚だけでなく、隣にもその隣にも作り手の真心があった。

 “農家を始めて50数年 食べて喜ばれる完熟野菜 
農産物を減農薬で栽培 安心増量販売”

 “出来るだけ農薬・肥料を抑え、有機肥料中心に使用して
「おいしくなぁれ」と願いながら、毎日花や野菜を育てています。
伊達の素晴らしい気候に合った農業を続けて行こうと思っています。”

 “食卓に微笑みが出るような、
そんな一品一品が美味しくできるように心がけております。”

 心を打つ一文が続いていた。

 こんなコメントの棚も
 “私は農家ではありません。脱サラをして趣味で野菜を作り山菜採りしています。
できる限り農薬に頼らず、有機肥料を使い安全安心な野菜作りに頑張っています。
見た目はアマチュアの作った野菜です。”
この方の作った漬け物のファンは少なくない。
「きっとこんなシャイな人柄が、あの味になるのだ」
と、思わず呟いていた。

 そして、ついにこんなメッセージが
 “ミネラルたっぷりの水産肥料を長年使用した土づくりにより、
安全はもちろん、人工的でない本物の味を追求して栽培をしています。
これから冬まで長い期間、伊達の旬をお届けします。”

 私は、野菜作りへの熱い思いとその思いの深さ、
ねばり強さと力強さを、生きたコメントの言葉の力から感じることができた。

 今、私の暮らしのすぐそばには、広大な畑が続いている。
ジョギングのコースや散歩道は、畑のすぐ横にある。
新鮮な野菜に恵まれた生活をしている。
 それなのに、その野菜一つ一つに、
農家さんのこんなにも真っ直ぐな思いがあることに気づかずにいた。
市長さんの言葉と『こだわりポイント』から、私は学んだ。

 「今年の枝豆は格別だ。」
「アスパラはLサイズが一番美味しい。」
と、軽口を叩いていた。

 それはそれとして、
早朝の畑道をジョギングすると、
春から秋までは、トラクターのエンジン音がすでに轟いていた。
あれは「朝採りの美味しい野菜を。」と言う思いからのものだと実感した。
今度からは、「ご苦労さま。」に加えて、「ありがとうございます。」と挨拶することにする。

 今、伊達は冬野菜が出回っている。
ほうれん草に甘みが加わり特に美味しい。
それにしても、私には昨年より美味しさが心にしみる。
 




 庭先から見た 朝焼け 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『子どもを見る目』

2014-12-25 12:10:33 | 教育
 いい教師の条件は何かと問われたら、いくつもあるように思う。
教師としての強い使命感や、多種多彩な教育技術の習得などもそうであるが、
私は、『教材を見る目』と『子どもを見る目』の2つの力を挙げたい。

 特に、私は『子どもを見る目』を重視してきた。
 『子どもを見る目』とは、
子ども理解(幼児理解・児童理解・生徒理解)のことである。
子どもに限らず人間は誰でも、
自分を理解してくれる人、
言い換えると、自分を分かってくれる人の存在を求めている。
そんな存在があれば、
人は勇気をもって、自分の持てる力を存分に発揮することができるのである。

 よって、教師には、一人一人の子どもを理解することが求められており、
その子を理解する教師の存在が、その子の持てる力を発揮させることになる。
つまりは、子どもの成長のエネルギー源は、子ども理解にあると言っていい。

だから、先人は
『教育は子ども理解に始まり、子ども理解に終わる。』
と、言う言葉を残したのではなかろうか。

 一口に、子どもを理解する目と言っても、
その目をどのように鍛え、高めていけばいいのか。
それは簡単なことではない。

 教師の一方的な思い込みで子どもを見ることや、
決めつけは、あってはならないことである。

子どもを見る目には、客観性が求められる。
そして、子どものあるがまま、ありのままを理解することなのである。

 一人一人の子どもを理解する手法として、
教師が作った設問やアンケートに、子どもが答える方法がある。
確かに一人一人の子どもが回答しているのだから、
そこには偽りはないように思う。
しかし、それは、子どもの全てに対する理解ではない。
教師が求める問いに対するものであって、
子どものある側面の理解だけなのである。
このことは、教師が用意したチェックリストによる子どもの行動観察も同様である。

 私の言う子ども理解とは、その子の全てを理解することをさす。

 私は、若い頃にKJ法による、
子どもの行動観察と子ども理解を試みたことがある。

 ある一人の子の行動を観察し、
その子の10日分の行動特徴を全てカード化し、その子の理解へと迫った。

 膨大な行動のカードができ、それを構造化して、
一人の子の行動特徴と特性のおおよそをつかむことができた。
しかし、そこまでのデータ集積と分析には予想を超える時間が必要だった。
この方法による子どもの理解は、
多忙を極める学校には馴染まないものであった。

 この試みを通して、私は子どもの行動観察が、
その子を理解する大きな手掛かりになることを知った。

 子どもに限らず、人間の行動とは、
その人の内面の全てではないが、その一部が表出したものである。
だから、子どもへの細やかで小まめな行動観察の継続が、
その子の理解につながると言える。
子どもの行動の集積が、その行動の真意(内面)を明らかにし、
その子の理解へと結びつくのである。

 私は、日々の子どもの行動をできうる限り記録することを勧めたい。
そのためには、一人一人の子どもの行動をしっかりと見る必要がある。

 今や学校もICT時代である。
職員室のマイデスクに個人用PCがある学校も少なくない。
きっと一人一人の行動を記録するプログラムもあると思う。
その日その時、心に留まったその子の行動を手軽に記録できるであろう。
その記録の積み重ねが、その子を理解する力になるのである。

 担任時代、私は白紙座席表を使った。
毎日、退勤前に教室へ戻り、20分間と決めて白紙座席表に向かった。
その日1日を振り返り、
心に留まった子どもの行動を、その子の白紙の欄に短く記録した。
行動の意味や解釈などは書かず、行動のみを記した。

 ところが、毎日必ず、子どもの行動が思い出せない子がいた。
白紙座席表への記録は、それが一目で分かった。
この記録を始めたころ、私は記録できない子の多さに驚いた。
そして、翌日はその子の記録ができるよう、
特にその子をよく見るようにした。
これが、私の『子どもを見る目』を育ててくれた。

 行動記録の継続は、時として、
ある一人の子の行動の意味を明確にすることがあった。
今まで記録してきた行動の積み重ねが、
その関連性を明らかにし、内面の理解へと導いたのである。
子どもの理解が進んだ瞬間と言える。

 私が毎日の記録を20分に限ったのは、
むやみに時間をかけると、書けない子の行動を無理矢理生み出すことになり、
その行動はさほど意味を持たないことが分かったからである。

 さて、行動観察の記録とともに、上げておきたいことがもう1つある。

 作家・司馬遼太郎氏は、『21世紀に生きる君たちへ』と言う一文を残している。
その中で、やさしさについて、人間は訓練によってそれを身につけると説いている。
ある人を見て、かわいそうにと思う。辛かっただろうと思う。素晴らしいと思う。
そんな思いの積み重ねが、やさしさを人の心に育てると、彼は言っていたように思った。

 子ども理解も同じようなことが言える。
まずは子どもの行動をしっかりと見ることであるが、
次に、司馬さんが説くように、
喜怒哀楽を伴った共感をもって、その行動を見ることが重要なのである。
そのことが、子どもを見る私たちの感性を育てることになる。
この私たちの子どもを見る豊かな感性が、子ども理解には欠かせないのである。

 なお、付け加えるなら、
最近、学校はさらに多忙に多忙が重なり、職員室での会話も少なくなっている。
しかし、職員室での同学年の先生や、同僚、先輩あるいは校長・副校長等々とかわす、
子どもについての会話から、
一人では気づかなかった子どもの姿が理解できることがしばしばある。
私は、そんな子どものことを語り合える職員室であることが、
子ども理解には重要だと思っている。




近所のねぎ畑 このまま春を待つ ひときわ美味しいねぎになる
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母川回帰

2014-12-17 20:37:30 | 北の湘南・伊達
 伊達に、移り住んで2年半になる。
一番のお気に入りは、この土地の風景だろう。

 町の南には、海・噴火湾がある。
その海岸から徐々に徐々に扇状地の斜面が広がり、
『コンパクトシティー』と言える市街地を形成している。

 背後は、北西に、今も噴煙を上げている有珠山と昭和新山を望みながら
丘陵性の台地が広がっている。
北東は、紋別岳や稀府岳などが連なる東山が、
噴火湾に向かってなだらかな裾野を伸ばしている。

 この景観が四季折々に色模様を変え、
また、その日その日、日の出から日の入りまで
様々な表情を楽しませてくれる。

 初めてこの町を訪ねた時、
強く印象に残ったのが、この美しい眺望であったが、
それと共に、もう一つ、
川の流れがつくる静かな水の音であった。

 車と人が行き交う町中を流れる川、
そこから聞こえる水音。
何故か、懐かしさを覚えるその音色だけで、
この町が、私を惹きつけるのに十分だった。

 移り住んでみると、
いたるところで水の流れる音がした。
日頃、散歩やジョギングを楽しむ近くの散策路でも、
いつも小川のせせらぎが聞こえた。

 特に、雪解け水をたたえた春の川のせせらぎは、にぎやかで、
自然が織りなす、これからの躍動の日々を予告しているようで、
水の音を聞くだけで、心が弾んだ。

 また、秋には、
小川の脇に自生したクレソンを摘み取る人々と、
流れの水音が、瑞々しさを演出し、
そのマッチングに、一瞬、時を止め、私を見入らせた。

 そんな暮らしのすぐそばで、季節の水音を奏でる伊達の川に、
『鮭が遡上する』ことを知ったのは、つい最近のことだった。

 「今年も気門別川に鮭が帰ってきた。」
と、聞き、散歩がてら家内と行ってみた。

 小学校付近のえん堤に阻まれ、その上流に鮭を見ることはなかった。
しかし、えん堤の下には、鮭が群れをつくっていた。
時には、尾ビレを川面に激しくたたきつけ、なんとかえん堤を越えようと、
激しく動き回り、チャレンジを繰り返していた。
どの鮭も、上流へ上流へと泳ごうとするエネルギーが、波打つ川面にあった。

 「すごい。すごい。」
と、言いながら、ゆっくりと川にそって下流へ行った。
しばらく進んだその先で、私の足は止まった。

そこには、おびただしい数の
黄色や白濁したホッチャレ(鮭の死骸)が、浮かんでいた。

 『母川回帰』と言うのだが、
鮭は、5センチ程の稚魚が川を下り、
3~4年間北太平洋を回遊して、70~80センチに成長する。
そして、生まれた川に戻ってくる。
体内方位磁石と川の匂いの記憶が、それを手助けしていると言う。

 ただただ、そのすごさに脱帽であるが、
気門別川を遡上する鮭は、この川の上流で、放流されたものなのだろう。
長い長い旅路を生き抜いた末に、たどりついた故郷の川である。
残念ながら、えん堤に阻まれ、
産卵場所までたどり着けず、息絶えたホッチャレの長い列。

 私は、その多さに息を飲んだ。何も言葉が無かった。
かすかに聞こえる気門別川の清らかな流れの音。
その透明な響きとは裏腹に、自然が教える冷酷な命の終焉。
そして、「どんなことからも目を背けるな。」
と、私に強さを求める川。

 しばらくの時をじっと立ち尽くした私だった。

 どれだけの時間を必要としたのだろうか。
 自然は私たちにたくさんの美しさを届けてくれる。
しかし、長々と連なるホッチャレから、
私は、生命のはかなさとともに、
懸命に生き抜いた鮭の強さと誇りを、
しっかりと受け取ることができた。

 気門別川に向かい、小さく合掌し、
「来年も、必ず遡上する鮭とその命の末路を見にくる。」と誓った。
そして
「母川回帰などまだまだ無縁。それより俺は北の大海原さ。」と、川を後にした。

 ちなみに、母川回帰する鮭の多くは、
川に入る前に海の定置網にかかり、私たちの食卓にのぼる。
運良く生まれた川に上った鮭のほとんどは、
人工ふ化用の捕獲場で産卵前に捕まってしまう。
川で捕まらなかった鮭や、
捕獲場がなく、えん堤にも阻まれなかった鮭は、
川の上流で自然産卵をし、
産卵後1~2週間で死を迎える。
ホッチャレは、
他の動物たちの貴重な食料となり、
川の豊かさに貢献する。




伊達の雪原 右奥は有珠山



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いつも 未熟なまま

2014-12-10 10:50:22 | 心残り
 中学2年になってから、毎朝、Rチャンが迎えに来てくれた。
帰りも一緒で、我が家の玄関先で別れた。
 私にとって、初めてできた特定の友だちだった。

 Rチャンは、物静かで口数も少なかった。
登下校の道々、さほど多くの言葉を交わした覚えはない。
それでも、Rチャンの何とはなくの、おだやかさが心地よく、
私は一緒にいる時間が好きだった。

 1学期末の定期試験の時だったと思う。
私は自分の勉強不足を棚に上げ、
試験のできの悪さに、イライラした気持ちで学校を出た。
通学路を少し外れた所に小さな沼があった。
私は無言でその沼に向かった。

 平らな小石を拾い、沼辺から水面めがけ水切り投げをした。
石は1回だけ水面を跳ね、沼に沈んだ。
2度3度と繰り返した。何度やっても1回だけしか石は跳ねなかった。

 Rチャンは、だまって私の後をついてきて見ていた。
しばらくして、カバンを置き、水切り投げをした。
同じように何故か石は1回しか水面を跳ねなかった。
何回も何回も同じだった。

 私は、すっかり試験の不出来を忘れてしまった。
そして、二人そろって、1回しか跳ねないことに
可笑しさがこみ上げ、大笑いをした。

 夏の終わりだったと思う。
Rチャンの家に事件がおきた。

 会社勤めをしていたRチャンのお父さんが、
病気で大きな病院に入院した。

 数日して、10歳年上の兄が、どこから聞いてきたのか、
『Rチャンのお父さんは、ガンで後1ヶ月の命だ。』
と、母と小声で話していた。
私は、胸がドキドキした。

 Rチャンのお父さんは、
入院から3ヶ月後に息をひきとった。

 母に「一緒にいってあげるから。」と、言われ、
私はお通夜にも、そして学校を早退して告別式にも行った。

 二日ともRチャンがすごく遠くに感じた。
特に告別式は風の強い日で、
Rチャンはお父さんの遺影を抱いて、人混みの前に立っていた。
私は、沢山の大人たちの後ろの方にいた。
Rチャンが、やけに小さく見えた。
すごく可哀想で、唇をかみしめ必死で涙をこらえた。
横にいた母に、
「近くに行って、顔を見せてあげたら。」
と、背中を押されたが、一歩も動けなかった。

 小学3年の妹が、Rチャンにぴったりと寄り添っていた。
私は、
「せめて、この強い風だけでも弱まってくれ。」
と、精一杯願った。

 それから数日した朝、
Rチャンは、いつもと同じように私を迎えに来てくれた。

 その日、珍しく、母が玄関先まで出て、Rチャンに
「いろいろと大変だったね。」
と、声をかけた。
Rチャンは、深々と頭を下げ、はっきりとした声で、
「いろいろと、ありがとうございました。」
と、言った。
Rチャンに比べ、私はなんて子どもなんだろうと思った。

 学校までの道々、私は何も言えなかった。
ただ、ややうつむき加減で、並んで歩いた。

 突然、Rちゃんが、
 「ガンだったんだ。知らなかったんだ。」
 兄と母の会話を思い出した。

 「知っていたら、もっともっとお見舞いに行ったのに。」
 Rちゃんの言葉で、心が痛さを感じた。

 「もっと、話を聞きたかった。」

 しばらくして
 「父さんのこと、俺、なんにも知らないんだよ。」

 肩を並べて歩くのがようやくだった。

 「知っていた人、いっぱいいたのに。誰か教えてくれたって…。」
つぶやくような声だった。
 目まいがする程のつらさが私を襲った。

Rチャンを慰めたり、励ましたり、言い訳したり、
私には、どんな言葉もなかった。
 ただ、決してRチャンから離れず並んで歩こう、それだけを思った。

 Rチャンは、もう何も言わなかった。
 私は、次第次第に間近になった学校を見ながら、自分を責めた。
 兄と母のひそひそ話から、誰にも話してはいけないと思った。
だた、それしか考えなかった自分を責めた。

 「知っていたら、もっとお見舞いに…」
 「話が聞きたかった…」
の、声がくり返しくり返し私の心を襲った。

 足下も、すぐそこの学校の玄関も涙で潤んだ。
 「Rチャン、ちょっと先に。」
と、私は小走りで、玄関から階段へ曲がった。
声をたてて泣きたかった。

 3月末、Rチャンは、お母さんの実家がある遠い田舎へと旅だった。
 もう二度と会えないだろうと思った。
 列車に乗り込むRチャンを見送りに行った。

 妹の手をしっかりとひいていたRチャン。
人との別れの悲しさを初めて知った。
 私は、そんな胸の内を知られるのが恥ずかしくて、
見送りにきた人たちの後ろの方にいた。

 Rチャンは、私を見つけて、ニコッと微笑んでくれた。
 「Rチャン、本当はお父さんのこと知っていたのに、ごめんね。」
と、言いたかった。
それなのに、ついニコッと私も微笑んだ。




とうとう 散策路も 雪化粧
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心のうち

2014-12-02 20:46:46 | 出会い
 私が、N君を知ったのは、もう30年も前のことになる。
 トータルしても10回程度であるが、
6年生だった彼の学習の様子を見た。
 その年、私は1年間、現任校を離れて研修する機会に恵まれた。
 月1回程度、彼の学校に出向いた。

 初めて教室に入った日、すぐにN君が分かった。
彼は、国語の教科書を左ほほに触れる程近づけ、
左眼だけで物語を読んでいた。
音読の順番がくると、他の子と変わりなく読み上げていた。

 彼は、両眼とも不自由だった。
右眼は、明暗が分かる程度、
そして、左眼はわずかに視力はあるものの、
私たちの半分程の視界しかないとのことだった。
専門医からは、彼の眼は進行性のもので、
両眼とも、やがて光りを失うことになると聞かされていた。

 まだ『ノーマライゼーション』という言葉も普及していない時代だったが、
私は視力に限らず障害をもった子が、
通常の学級で学んでいくためには、
どんな援助が求められるのか、
そして何がどのようにハードルになっているのか等々を知りたかった。

 6年生の中でも体の大きかった彼だったが、
担任と級友の配慮だったのだろう、最前列に席をとっていた。
時々自前のルーペを取り出し、板書の文字を読み、
これまたノートに左ほほをなぞるようにしながら、
その文字を書き写す姿を、
あれから長い年月が過ぎた今でも、鮮明に思い出すことができる。

 彼は、学校生活のほとんどの場面で、
他の子と何の遜色もなく学習活動に参加していた。
家庭科のミシン操作も調理実習も、
多少は先生や友達の援助を必要としたものの、
学習を終えた時の彼の表情は明るく満たされたものだった。

 しかし、唯一体育だけは時折トラブルに見舞われた。

 跳び箱で開脚跳びをしていたときだった。
彼は、自分で安全を確認してスタートすることができないので、
後ろで順番を待っている子に合図をしてもらい走り出していた。
スタートから歩数を数えているのだろう
うまく踏み切り板で足を揃えてジャンプをし、
跳び箱にしっかりと両手をつき、開脚跳びをした。

 ところが、何回目かのスタートを切った時だった。
前の子が跳び箱に足を引っかけてしまい、
数センチ跳び箱が斜めになってしまった。
それに気づかず、後ろの子が彼にスタート合図をした。
 彼は、うまく手をつくことができず、跳び箱に胸を打ってしまった。

幸いケガはなかったが、彼は二度と跳び箱には挑戦せず、
体育館の片隅に座り、両膝を抱えて小さく丸まっていた。

 しかし、次の時間は算数だった。
体操着から着替えた彼は、
跳び箱のトラブルなど全くなかったかのように、
しっかりと背筋を伸ばして席に着き、
教科書をほほにつけ、時々ルーペを取り出し、
挙手をしたりと、いつもと変わりなかった。

 こんなこともあった。
 彼は、後ろの子に合図をしてもらいながら長縄跳びをしていた。
その跳び方は、まったく他の子と変わりなかった。

ところが、隣で同じように長縄跳びをしていたグループが
目標を達成したのだろう、歓声を上げた。

彼が跳んでいた長縄が床を叩く音がかき消されてしまった。
彼は、長縄を引っかけてしまった。
一度目はよかった。そんなことが二度三度と繰り返された。

彼はグループから離れ、
体育館の隅に行き、背を丸くして座り込み、動かなかった。

 でも、次の時間、いつもと何も変わりなく
明るく学習活動に参加する彼がいた。

 担任も級友も、彼のそんな態度を熟知していたのだろう
特別なこととはせず、何の違和感もなく彼といた。

 ただ私は、体育館で背を丸めてふさぎ込んでいる姿と
教室に戻っての振る舞いの違いに驚き、
彼のその心のうちに興味を持った。
しかし、それを探るすべを私は持っていなかった。

 彼とは、何回か言葉を交わす機会もあった。
私に限らず誰に対してもていねいな言葉遣いだった。
 私の問いに、口癖のように「普通です。」を返した。
そして、「頑張ります。そうしてれば、できることがふえますから。」とも。
印象に残ったのは、
「今、やりたいことですか。そうですね。漢字を沢山覚えたいです。」だった。

 私は、彼の学習の様子を知る機会をいただき、
「障害の程度によって学習の困難度は確かに違う。
しかし、それだけではなく、
その子本人の内面、特に意欲や特性によっても
困難度に大きな違いがあるのではないだろうか」
と、考えるようになった。

 そんな1年の研修から、確か7年が過ぎた頃だったと思う。

 出張帰りに地下鉄のホームにいると、
カチカチとホームの床を叩く音が聞こえた。
10メートル程先から、
長い白杖を動かしながら、長身の青年が近づいてきた。
思わず見上げたその顔に見覚えがあった。
180センチは優に超えているN君だった。

 彼は私の横を素通りして、乗り換え駅に向かった。
 私は、しばらく彼の後ろ姿を追ったが、
そのまま見送ることができず、
予定を変更して彼の後を追った。

彼は、白杖を忙しく突きながら、慣れた足取りだった。
多くの人々が行き交う駅通路で、
私が後を追っているなど、気づくはずもなかった。

 違う路線の電車に乗り換えると、彼は席を譲られた。
私ははす向かいの席を陣取り、彼の顔を見た。
表情には、6年生の面影を残していたが、
知的な若者だと感じた。
白杖を持っての歩行から、もう光りを失っているのだと思った。
その時、「漢字をたくさん覚えたい。」の言葉がよぎった。

 もう文字は点字に違いない。
 
 小学校を卒業した後、
それこそ多感な少年期をすごし、
今をむかえた7年の歳月であったことだろう。
揺れる電車の中、彼を見ながら、私はその歩みを想像してみた。

 漢字から点字への転機。
多感な少年の、そのさまよいと戸惑いはどれだけだったことか。
それは私の想像をはるかに越え、あまりにも難しすぎた。

 しかし、跳び箱で胸を打った時のように、
長縄跳びで何度も足を取られたときのように、
体育館の隅で膝を抱えた後、
何もなかったかのごとく日常に戻った彼。
彼は同じようにして、点字への切り換えも、
そして光りを無くしたことも超えたのだと思った。

そして、私は、N君の心のうちを想像できないまま、
ただ胸を詰まらせた。

 彼は、ゆれる電車に身を任せ、3駅目で席を立った。
私は、少し時間をおいてからホームに降り、
彼とは反対の階段に向かった。

 以来、彼に会う機会はない。
 もう40歳を超えていると思う。
きっと今もすっくと立ち上げり、
何事もなかったかのように毎日を送っているように思う。

 今、改めて見習いたいと思っている。




とうとう寒波到来 我が庭も初冠雪



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする