建築と福祉と宗教

建築士から介護ヘルパーへ急転身。転身したからこそ知った新しい社会。同じ地域で建築士の30年間、私の知らない世界。

【国家資格保有者と非営利性】

2015-08-30 23:05:08 | 生活・経済

国家資格者という一つの職業認定はどのようなものか、実際はその国家資格者になった人しか知らないと思います。
ですから、国家資格者業界はとても閉鎖的な労働世界のイメージが通常といえるでしょう。


一般の人たちから見て、国家資格を職業として働く人たちはその資格業務の内容が閉鎖的で分かりにくいので、その経営や勤務上は国家公務員と同じように国などから公的な運営補助資金をもらって活動しているのが当然と思えるのが普通でしょう。

しかし、国家資格をどう活用するかといえば、ただ各種労働業界に適合する国家法律を適切に適用させるための、その指導員、あるいは監理者的立場として自主的に率先して当てはめていく任務の働きをすることであって、管轄官庁とはタイアップをして、ごく民間主体において法律を動かしていこうとする完全な民営システムになっているのです。(注;民営化ではありません)
たとえば、もし無償で働く私服の警察官や刑事が存在するとすれば、国家資格事業者とほぼその働きは同じなのです。

つまり、国家資格者とは非営利組織としてのNPO法人やボランティア団体での活動がいうまでもなくそのまま最も当てはまる職業性質なのです。
ですから、非営利的働きを知らず、営利事業のみ専用にこだわる国家資格事業者が経営組織を運営しているならば、それは単に国家へコネを持ちたがる協力者的な通常の経営会社に過ぎないのです。

営利を稼ぐための国家の資格ではなく、稼ぐことを教えている国家資格受験のスクールはないということを知ってください。
現代において、全国や世界中に非営利の組織が大いに暮らしと経済に参入して活躍していることを全く考えに入れずに営利企業だけが経済と思っていたら、まったく総合視野の判断を見失っているに違いないのです。

「はかなくも感動の再会シーン:巡り合いそしてまた別れ」・・妙音菩薩品第二十四【第8月】

2015-08-24 22:29:12 | 生活・経済
   
今は恐らくすでに善男子に生まれ変わっているかつての淨徳夫人の妙音菩薩は、今まさに、娑婆世界に居る薬王菩薩・薬上菩薩の親として、そして華徳菩薩の妻として再会を果たしに行く愛ある感動シーンなのでしょうか?
                                                        
しかし、それにしても妙音菩薩は金剛力士のように広大で力強く、誰よりも男っぽく成り過ぎたかのようでもあり、その上にも青蓮華の葉っぱのような初々しいすがすがしさも尚もまた残しつつも、それにかつての多くの眷属集団まで引き連れたままに、さっそうと娑婆世界へ来詣したのでした。
                                                      
しかしながら、このしばらくぶりの巡り会わせは一体何を目的としているのかは実はこの妙音菩薩自身、そしてそれを待ち受ける薬王菩薩や華徳菩薩すらも何も知る由もなく、ただ妙音を呼び寄せた釈迦牟尼佛のみが知っているのでしょう。
かつての家族の絆や縁すら知らない、その知らずに勇猛な縁を釈迦が戻してあげようとしているように思えます。

そのように大切な縁もその当事者の自分たちの縁だけではその大事な意味を成し得ず、また気付くことすらない過去世の現実は、勇猛さで勝ち取る連帯と共同の力がまさに佛のみ知ることを意味しているのでしょうか?
   
⇒ HP本日のブログへリンク:第8-24日-菩薩の目は廣大の青蓮華の葉-妙音菩薩品第二十四-四十三行-四十七行/


「釈迦の姨母驕曇弥は一体いつ授記されていたのか?」・・勧持品第十三【第四月の1】

2015-08-13 11:12:37 | 仏法
姨母驕曇弥および羅候羅母耶輸陀羅の両者とも釈迦へ不満を交えた不公平を感じているような催促を講じたことに対して、釈迦は、忙しいのにしょうがないという感じで、とりあえず授記を与えているように思えませんでしょうか?
                                         
ここでは、釈迦の親族の姨母らへ対する嫌味な気持が表現されていると仮定しますと、それを裏付けるいくつかの複雑な原因が考えられます。
それがまず表われているのは、釈迦が驕曇弥に対し、なぜ憂い無い顔をして如來を見るのか、と疑問を示しているところですね。
そして、釈迦は驕曇弥に対しては、すでに驕曇弥も含めて一切の声聞に対し総じて授記した時に同時に与えているはずであると言いました。
                                       
実は、この釈迦の言い方が驕曇弥への心がけ作りなどに対する方便であると考えると、判断は異なってくるかもしれませんが、ただ素直に釈迦は驕曇弥の態度に疑問を感じ、驕曇弥は明かに不公平な妄想を起こして勘違いをしているのが本来とすれば、驕曇弥は確かに授記を過去すでに受けているはずなのでしょう。
                                     
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その場合、お互いが不信感を懐いたままに勘違いが解決されず、気持ちが曖昧な状態でしか成り得てないと考えられますね。
そのせいか、いつもなら釈迦は授記を授けた後に念のためか心地よく、その内容を明かにしておこうと偈を用いて繰り返しているのですが、今回の驕曇弥と耶輸陀羅の授記に関しては言い渡した切りその後に偈は説かれていないのです。
おそらく、それだけでも曖昧な授記の言い渡しだったように思えるのです。
                                         
それでは、今ここでどういう行き違いが起きたのかをもう一度じっくり探ってみることにしましょう。
                                          
それではまず、釈迦は驕曇弥にはすでに授記は済ましているのが事実かということについて調べてみましょう。
ここで、釈迦は驕曇弥については、総じて一切の声聞に皆すでに授記すると説いていたと言っていますね。
                                       
この一切の声聞というのは、序品第一の最初のほうを調べますと、「佛、・・・大比丘衆萬二千人と倶なりき。皆是れ阿羅漢なり。諸漏已に盡くして復煩悩なく、・・・・是の如き衆に知識せられたる大阿羅漢等なり。
復學・無學の二千人あり。摩訶波闍波提比丘尼、眷属六千人と倶なり。羅候羅の母耶輸陀羅比丘尼、亦眷属と倶なり。菩薩摩訶薩八萬人あり。」とある所です。
                                        
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この序品の部分は重要な意味を含んでいまして、まず釈迦は王舍城で一時、大比丘といわれる一万二千人と共に過ごしていたということで、それらは皆阿羅漢、つまり他人から尊敬や奉仕を受けるに値する地位を持つ者たちばかりであり、その阿羅漢の中でも最初に特に名前を紹介されている阿若驕陳如・摩訶迦葉をはじめ、富楼那・阿難・羅候羅など著名な者たちは阿羅漢の中でも特に大阿羅漢であり、煩悩をすべて解決し終えている修行上達者であるということです。
                                       
また、それに対し通常の阿羅漢としての學・無學の二千人が内訳に居るということですが、この學・無學とは声聞の階級のことだと思います。
とりあえず、全体の一万二千人からこの声聞階級、つまり通常の阿羅漢の数を差し引くと残り一万人ですね。
                                        
更にそれに対し、全体の中では摩訶波闍波提比丘尼が六千人の通常の阿羅漢の眷属と伴っており、そして、羅候羅の母耶輸陀羅比丘尼も数は記されてませんが眷属と伴っているということです。
ですから、全体の残り一万人から摩訶波闍波提比丘尼つまり驕陳如の眷属数六千人を差し引きますと、更に全体の残りは四千人となります。
おそらくこの四千人が羅候羅の母耶輸陀羅の眷属数になるのではないでしょうか。
                                           
なお、菩薩摩訶薩八萬人あり、については釈迦と実際に過ごしている最初の全体の阿羅漢比丘衆一万二千人とは別枠の八萬人と考えられます。
                                          
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ところで、本題に戻りまして、驕曇弥に対して総じて授記を済ませていたということについて、それはどこに記されているかということになりますね。
また、耶輸陀羅の場合も同様と考えて、同じく調べてみましょう。
そこで、集団で授記されている所は、とりあえずは五百弟子受記品第八と授學無學人記品第九の二つです。
                                        
それではまず、五百人弟子受記品に登場するのは、富樓那彌多羅尼子と釈迦の最初の弟子驕陳如(きょうじんにょ)比丘ですね。
富楼那は漸漸に菩薩道を具足して、無量阿僧祇劫の後に法明如來として成佛し、劫を寶明、国を善淨と名け、その佛の寿命は無量阿僧祇劫であるということで、その寿命の長さは耶輸陀羅へ授けた授記の寿命と同じであり、また、耶輸陀羅の国の名の善国とはもしかしてこの富楼那の善淨国と同じ国に住むことになることを示唆しているのかもしれず、おそらく、耶輸陀羅はこの五百弟子受記品の集団の中で授記されているのではないかとも思えます。
                                         
それでは、この五百弟子受記品の中での集団授記はといえば、驕陳如が受けた普明如來という一號にして皆同じというものでしょうか?
驕陳如とは釈迦の最初の弟子だったですね。その点は羅候羅の母耶輸陀羅とは釈迦の妻でもあるのでしょうから、最も側近の関係同士を組ませたと考えられるのでしょうか?
                                     
そして、普明如來はその佛の住む国が記されていませんが、おそらく法明如來の住む善淨国に一緒に法喜食の佛として住むのでしょうか?
なお、富楼那の法明如來とは法喜食と考えられますが、それは法師の修行と関係しているのでしょうし、耶輸陀羅が成佛するまでは大法師となってようやく佛道を具足することに当てはまると思えます。
                                           
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それでは次に、授學無學人記品を見てみましょう。
ここでの阿難や羅候羅は釈迦とは血を分けた最も近い親族ですが、どういうわけか、學・無學の二千人と伴っています。この學・無學の二千人とはおそらく序品第一に紹介されているそのまま二千人のことでしょう。
                                           
この學・無學人とは、ある意味では釈迦と従兄弟の阿難が若い頃に羅候羅と共に釈迦から分派していた特定の声聞集団なのではないでしょうか。
                                           
この二千人は共に一號にして寶相如來となると授記されていますが、寶相とは宝の相ということでしょうね。
もしかしてここで、姨母驕曇弥は共に授記されていたのかと考えますと、一応、驕曇弥も一旦は耶輸陀羅と同じく大法師と成って漸漸に菩薩道を具してから成佛するとありますから、どうも大法師と宝相の阿難たちの率いる声聞集団とは異なる考えではないかと思えます。
                                        
ところで、序品の摩訶波闍波提比丘尼(姨母驕曇弥)の眷属六千人とはこの品では學・無學の比丘尼六千人のことのようですが、これら六千人の声聞比丘尼も将来、驕曇弥と共に法師と成って菩薩道を具し作佛するとありますが、これらは阿難たちの声聞集団とはまた別々の考え方の声聞集団だと考えられます。
                                         
また、阿難たちと姨母らは歳層が違うでしょうし、一歩先を進んだ釈迦の教えを引き継ぐ立場は姨母らの方が優先的にまた模範的に与えられているかもしれません。
このような理屈から、姨母驕曇弥への授記は声聞二千人と一緒の授記ではなく、やはり耶輸陀羅と共に富楼那の法明如來のほうに着いて行くべきの普明如來ということになるのではないでしょうか。
                                         
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なお、富楼那の法明如來への成佛は無量阿僧祇劫の後ですから、ずいぶんと遥か先のことであります。
そして、驕曇弥や耶輸陀羅はいつ頃作佛できるかははっきりとは示されていませんが、漸漸に、或いは漸(ようや)く菩薩道を具した後、となっていますから、やはりかなりの劫が過ぎ去った後という意味なのでしょう。
                               
これに対し、阿難と羅候羅は來世には作佛できるとあります。
このように世代が下の阿難たちが先に成佛できるということは、どういう意味かまだ全く不明なのですが、たとえば姨母らの女性陣は罪障があって、その分だいぶ遅いという意味なのでしょうか。また、この点からも富楼那はやはり女人ではないかという推測も立ちやすいのではないでしょうか?
 
 
⇒ 関連ブログ・・「女人の罪障とは感性の違い?」
 
⇒ 本日のHPブログ:第4-13日号-独我が名を説きたまわず-勧持品第十三-二十一行-二十七行/
 

「如来の使いと法師の違い」・・法師品第十【第四月】

2015-08-09 23:56:04 | 仏法
この法師品第十の薬王菩薩への説法は、人間界としての法師の役割りを説いているのではないでしょうか。
この品の最初にどんな六道の衆生であっても心得さえあれば簡単に成佛ができることを釈迦は説いていましたね。
   
しかし、それに対し釈迦は六道の中でも唯一人間として生まれてくる尊さについても同時に説いているのです。
それは、人間こそ六道四生への哀れみの心が唯一ある生き物だからということなのです。
   
ところで、衆生への哀れみがあるから人間として生まれてくるということは一体どういう意味があるのでしょうね?
   
実に、このことをじっくり考えてみると、素晴らしい発想に巡り会えるということにお気づきでしょうか?
   
それでは、この世の衆生を救済したいと愍れむ人は、どうしてせっかくの清淨の業報を捨てることになるのでしょう?
また、その人がもし菩薩や佛としてこの世へ現われることができるなら、どうしてそのまま菩薩や佛の立場として衆生を救済せず、わざわざあえて人間として生まれて来て、人間の立場として救済しなければならないのでしょう?
   
そのように矛盾する疑問解明がこの法師品に詰まっているのであります。
その解明となる大きなヒントは、どうやらズバリ、如來と佛の違いにあるように思えるのです。
   
つまり、如來や菩薩になれるのは人間だけでしたね。
ですから、六道四生は皆成佛はできるのでしょうが、如來や菩薩になれるのはその中でも唯一人間だけだということが重要な鍵になっているのではないでしょうか?
   
なお、釈迦はただ一人へ法華経を説いてあげている人は如來の使いであり、如來の佛事の代理をしている人であるといって一旦は尊重させておきながら、次に薬王菩薩に対しては、多くの人へ広く説くことが必要であると説いている、この意味不明な矛盾のある疑問もまた、人間だけが成れる如來そのものが一体どういうものであるのかの性質や特徴に対する重要な意味を含んでいるようなのです。
 
⇒ HPブログへリンク;第4-10日-廣く人の為に説かんをや-法師品第十-二十一行-二十六行/ 

『摩訶迦葉という釈迦の直弟子』・・受記品第六【第四月目】

2015-08-05 16:56:08 | 仏法
釈迦の大弟子摩訶迦葉とは、その名を梵語ではマハーカッサパというそうです。
彼は、王舍城の近くの村の裕福なバラモン信者の息子として生まれ、結婚もしましたが、世俗を離れる思いが強く、妻と共に釈迦の元へ弟子に入ったそうです。
そして迦葉は、衣食住に貪りを捨てる「頭陀行(ずだぎょう)」を実践し、頭陀第一と釈迦から称されたそうです。
                                            
なお、迦葉は釈迦よりも三歳年上で、釈迦教団の大番頭的な存在だったそうです。
釈迦が亡くなった時、迦葉は遠くに居て、一緒には居なかったらしいですが、急遽、駆けつけ、葬儀は迦葉が執行したそうです。
迦葉は次第に教団を統括する立場になったということですが、釈迦の死後、すぐに釈迦の悪口をいう者などが現われだす最中、長老比丘を集めて第一結集を主催したのも迦葉だったといわれています。
                                        
そういう責任感の強い迦葉を、釈迦はこの品ではとてもおだてて褒めているように思えますが、釈迦は迦葉の裕福な生まれによる甘えや得策、そしてバラモン教に対する執着が抜けきれないところをよく見抜いて、いかに迦葉へ本来の正しい佛法に対し本腰でヤル気を出させて護持していくようになるよう上手く方便で説いて誘導していたと考えられます。
                                     
釈迦は誰に対しても大乗佛教の正しさを新しい試みを持って力説で説いてきたのでしょうが、なかなか本格的な佛教初代目くらいの弟子たちへの修行の仕込みだけに、しっかりとした理解を把握できる弟子は一人も居なかったのでしょう。
                                      
釈迦は、筆頭弟子の迦葉が未來世に成佛するというその光明如來はどういうものかについて、端的に偈頌を用いて知らせているのは、諸佛の大乗経典ということについて、釈迦だけの説く大乗という感覚より、過去諸佛のすべてが貴重に運用してきた大乗の大切さを迦葉へ言いたいのではないかと思います。
                                        
また、その国に如來と共に住む声聞衆は、無漏の最後身と法王の子が混在するということでしょうか? どうやら、無漏の最後身であるとともに法王の子でもある両方である身、或いは同等に大切にすることが大事であることが正解と思えます。

⇒HPブログへリンク;第4-6日-無漏の後身-法王の子なる-授記品第六-十八行-二十六行/


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