弥勒菩薩が方便説法を理解しているというちょっと意外なことに気付きました。
そして私は弥勒菩薩を大変誤解していたことに対し、弥勒菩薩こそ釈迦佛の次に授記作佛されるべき実力の選れた判断力を持つ菩薩だと初めて見直したのでした。
そして、特に文殊師利とのコンビネーションによる調和した法華経の運営を今後、特別に任されているらしい弥勒が、どのように今までの既成概念だけによる菩薩の修行を釈迦の新しい戦法で組み立て直していくのかが見どころであり、その戦法とは恐らく今までの菩薩修行に欠けていた本来の佛と菩薩の関係の明確さ、或いは菩薩同士の重要な連携の在り方を見直すことにあったのではないかという想いをしていました。
そこでふと思いつくことがあるのですが、それは現代の人間社会の、例えば官と民のような考えの反転するような立場の間に取り交わされる委託契約の難解さというものについてなのです。
それは神と佛との間には元々、何らか提携協定がなされていたのではなく、釈迦が初めてこれをなし得た最初ではなかったか?という想いなのです。
それが現代の人間社会では委託契約、つまりもしかしてこれが釈迦の法といわれる、考えが異なる立場間に於ても契約によりて提携が成り立つというものではないかと思えるのです。
つまり、釈迦が法華経の真実を説き明かす以前までは、神が衆生を支配している最中へ佛は一方的に入り込んで救済を図ろうとしていて、実際には神と佛は別々な存在意義だったと考えられるのです。
それが、釈迦が法華経を解明することへ近づくことにより、神は次第に釈迦に応ずるようになり、釈迦佛と神の一部は共に衆生運営に関し協力し合う提携関係を約束したということです。
これは神が最初に創った衆生の生命の適切な運営に関し、神側が委託者となり、釈迦佛がそれを受託するといった契約関係が作り出されたと考えられるのです。
今、私たちが重要な約束に対し契約を行なうことによりお互いの権利と義務が移転し、そこに初めて契約効果が生じだすことと同じです。
これが例えば、国と民族の間に委託契約が成立しているとすれば、この場合の委託者は本来、民族、つまり国民が国に対し委託したということにより、国が国民を代表して、本来国民各々のなすべき行為を代理して国の運営を維持しているといえるのです。
ですから、釈迦佛は神の代理者ということになると思いますが、何を代理しているかと言えば、神はどういう存在であるかという説明義務であり、その説明としては、この衆生世界を神が最初に創った創造主の存在であるということです。
そして、何のために説明義務があるかといえば、神が最初に創造した状態へ戻さなければならないということだからです。
つまり、佛がなぜ存在すると言えば、今の状態が最初神が創った状態ではなくなっているからなのであり、その元の状態へ戻さなければ神の怒りはいつまでも終わらないからなのです。
また、神は創造主ではあっても、一旦壊されたものを元通りに治せる力や智恵はほぼ無いと考えられるのです。
よって、佛が神と委託契約を結ばないでいた頃は、衆生は日常、神の怒りに触れているままであり、いかに神の怒りを鎮めるための悩みや努力が精々神の創った状態へ衆生自らが戻ろうとしているかに過ぎなかったと考えられるのです。
そういう状態では精々、佛は一方的に神の怒りの世界へ入り込み、そこから衆生を慈悲で救済しようという佛の智慧を与えていたということでしょう。
つまり、弥勒菩薩が見て来た今までの衆生世界とは、このような委託契約以前のことであり、その状態では衆生の代表的な存在である菩薩などから、佛へ慈悲による救済手段を委託していたということになると思います。
つまり、その場合は神の怒りからこの世の衆生を救済できるのは唯一佛だけに絞るという委託契約でしょうね。
よって、弥勒菩薩の釈迦佛への不信感が生じた意味は、佛は衆生救済に関する菩薩から委託を受けている受託者であるはずであるのに、このたびの釈迦は佛として委託を受けている存在と異なるようであることと、実は釈迦が神側に対しても既に受託者となっているということだったからなのかもしれませんね。
⇒ 第12-1日号-vol-304-是の乘の-三界第一にして-序品第一-その12-七十二行-七十七行/
そして私は弥勒菩薩を大変誤解していたことに対し、弥勒菩薩こそ釈迦佛の次に授記作佛されるべき実力の選れた判断力を持つ菩薩だと初めて見直したのでした。
そして、特に文殊師利とのコンビネーションによる調和した法華経の運営を今後、特別に任されているらしい弥勒が、どのように今までの既成概念だけによる菩薩の修行を釈迦の新しい戦法で組み立て直していくのかが見どころであり、その戦法とは恐らく今までの菩薩修行に欠けていた本来の佛と菩薩の関係の明確さ、或いは菩薩同士の重要な連携の在り方を見直すことにあったのではないかという想いをしていました。
そこでふと思いつくことがあるのですが、それは現代の人間社会の、例えば官と民のような考えの反転するような立場の間に取り交わされる委託契約の難解さというものについてなのです。
それは神と佛との間には元々、何らか提携協定がなされていたのではなく、釈迦が初めてこれをなし得た最初ではなかったか?という想いなのです。
それが現代の人間社会では委託契約、つまりもしかしてこれが釈迦の法といわれる、考えが異なる立場間に於ても契約によりて提携が成り立つというものではないかと思えるのです。
つまり、釈迦が法華経の真実を説き明かす以前までは、神が衆生を支配している最中へ佛は一方的に入り込んで救済を図ろうとしていて、実際には神と佛は別々な存在意義だったと考えられるのです。
それが、釈迦が法華経を解明することへ近づくことにより、神は次第に釈迦に応ずるようになり、釈迦佛と神の一部は共に衆生運営に関し協力し合う提携関係を約束したということです。
これは神が最初に創った衆生の生命の適切な運営に関し、神側が委託者となり、釈迦佛がそれを受託するといった契約関係が作り出されたと考えられるのです。
今、私たちが重要な約束に対し契約を行なうことによりお互いの権利と義務が移転し、そこに初めて契約効果が生じだすことと同じです。
これが例えば、国と民族の間に委託契約が成立しているとすれば、この場合の委託者は本来、民族、つまり国民が国に対し委託したということにより、国が国民を代表して、本来国民各々のなすべき行為を代理して国の運営を維持しているといえるのです。
ですから、釈迦佛は神の代理者ということになると思いますが、何を代理しているかと言えば、神はどういう存在であるかという説明義務であり、その説明としては、この衆生世界を神が最初に創った創造主の存在であるということです。
そして、何のために説明義務があるかといえば、神が最初に創造した状態へ戻さなければならないということだからです。
つまり、佛がなぜ存在すると言えば、今の状態が最初神が創った状態ではなくなっているからなのであり、その元の状態へ戻さなければ神の怒りはいつまでも終わらないからなのです。
また、神は創造主ではあっても、一旦壊されたものを元通りに治せる力や智恵はほぼ無いと考えられるのです。
よって、佛が神と委託契約を結ばないでいた頃は、衆生は日常、神の怒りに触れているままであり、いかに神の怒りを鎮めるための悩みや努力が精々神の創った状態へ衆生自らが戻ろうとしているかに過ぎなかったと考えられるのです。
そういう状態では精々、佛は一方的に神の怒りの世界へ入り込み、そこから衆生を慈悲で救済しようという佛の智慧を与えていたということでしょう。
つまり、弥勒菩薩が見て来た今までの衆生世界とは、このような委託契約以前のことであり、その状態では衆生の代表的な存在である菩薩などから、佛へ慈悲による救済手段を委託していたということになると思います。
つまり、その場合は神の怒りからこの世の衆生を救済できるのは唯一佛だけに絞るという委託契約でしょうね。
よって、弥勒菩薩の釈迦佛への不信感が生じた意味は、佛は衆生救済に関する菩薩から委託を受けている受託者であるはずであるのに、このたびの釈迦は佛として委託を受けている存在と異なるようであることと、実は釈迦が神側に対しても既に受託者となっているということだったからなのかもしれませんね。
⇒ 第12-1日号-vol-304-是の乘の-三界第一にして-序品第一-その12-七十二行-七十七行/