うろ覚えライフ。

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大正テレビ寄席 ..(2)

2015年10月18日 | 芸能ログ

○落語家の橘家円蔵さん死去 ナンセンスギャグの連発で人気

 

  黒縁眼鏡がトレードマークだった落語家の八代目橘家円蔵(たちばなや・えんぞう、本名・大山武雄=おおやま・たけお)さんが7日、心室細動のため死去した。81歳。葬儀・告別式は近親者で行った。

 昭和9年、東京都生まれ。27年に七代目橘家円蔵に入門。40年、真打ちに昇進し、五代目月の家円鏡となり、「ヨイショの円鏡」の名で親しまれた。下町の語り口やナンセンスギャグの連発で人気を呼び、ラジオやテレビCMなどでも活躍。「うちのセツコが…」のギャグが大当たりとなった。57年に八代目橘家円蔵を襲名し、落語協会相談役も務めた。

 

○訃報:橘家円蔵さん81歳=独自の演出、「落語四天王」

 

  ナンセンスなギャグとトレードマークの黒縁めがねで、お茶の間の人気を博した落語家の橘家円蔵(たちばなや・えんぞう、本名・大山武雄=おおやま・たけお)さんが7日午前3時半、心室細動のため死去した。81歳。葬儀は近親者で営んだ。

 1952年、月(つき)の家(や)円鏡(えんきょう)(七代目円蔵)に入門して竹蔵。55年二つ目に昇進し、升蔵(ますぞう)を名乗った。前座時代には大師匠である昭和の名人、八代目桂文楽の内弟子もつとめた。65年に真打ち昇進して、師匠の前名である月の家円鏡を襲名。古典落語に独自の演出を施した高座で売れっ子となり、古今亭志ん朝、立川(たてかわ)談志、三遊亭円楽とともに、若手真打ちとして「四天王」と呼ばれ、「死神」「らくだ」などを得意とした。

 当意即妙のナンセンスギャグで一躍、マスコミの寵児(ちょうじ)となり、「お笑い頭の体操」「やじうま寄席」などのテレビ番組で活躍。「ヨイショ」の掛け声や、内弟子修業中に知り合った夫人の名前にちなんで「セツコが……」とぼやくギャグが大当たり。出演した焼き肉のたれのCMなどで知名度は全国区となった。

 円鏡で売れっ子になり、82年に大名跡である円蔵の八代目を襲名。「円鏡時代の芸は畳みかける勢いがあってシャープだった。円蔵襲名後は、古典の人情噺も積極的に手掛けて、『鼠穴(ねずみあな)』は人間の哀れを感じさせて、とてもよかった」と演芸評論家の京須偕充(きょうす・ともみつ)さんは振り返った。

 2010年6月に節子夫人を亡くしてからは、体調を崩して高座から遠のき、12年9月下席の浅草演芸ホールが最後の高座となった。同じ落語協会に所属する三遊亭円歌さんは「あの人は舞台も楽屋も同じ。客席が沸いた余韻で、明るい顔で楽屋に戻り、今度は楽屋を笑わせてました」と惜しんだ。

 73年放送演芸大賞。落語協会相談役。

 

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 この私の拙ブログ、「生きたまま極楽!」の2013年4月の記事に、タイトル「大正テレビ寄席」というのがあって、そちらで、昔々の昭和の大人気演芸番組、「大正テレビ寄席」については、僕の思いを一度書き込んでいるので、ここの分の記事は、いわばその続編みたいなものになるので、ココの記事タイトルを「大正テレビ寄席..2」、としました。

 前回は、昭和の日曜正午に長期に渡って放送され続けた、当時の大人気爆笑演芸番組、「大正テレビ寄席」の総合MCを最初から最後まで勤めて来られた、ウクレレ漫談で一世を風靡した牧伸二さんの訃報に際して、訃報ニュースのペーストと共に、懐かしい牧伸二さんの僕の思いを書き込んだ記事だった。牧伸二さんといえば、僕らの世代に取っては、何といっても「大正テレビ寄席」だし。

 僕は、小学校・中学校時代は、学校の勉強ほとんど全くしない、漫画が全てというような、漫画中毒みたいな漫画漬けな子供生活だったけど、実はTVっ子でもあった。子供時代の僕の人生の第一番が漫画なら、第二番目がTV番組だった。子供時代は前半がヒーローもの子供向けドラマ、中期が「ウルトラマン」、後期は何だろう?青春ドラマと歌謡番組かな。そして子供時代全部を通して大好きだったのが、当時のお笑い番組。演芸番組も舞台劇コメディー番組も、お笑いベースのコメディードラマも、お笑いものは全部大好きだった。ああ、漫画ほど熱狂しなかったが、アニメもよく見ていた。

 1963年から始まった、大正製薬一社提供の演芸番組、「大正テレビ寄席」は僕の子供時代、毎週日曜日の正午からやっていて、お笑い番組大好きな子供だった僕は毎週楽しみにして見ていた。落語と漫才が中心で、だんだん一人漫談やトリオ漫才、コントなどが増えて行った。中にはドリフターズやドンキーカルテットのようなコミックバンドも出て来た。この「大正テレビ寄席」から、コント55号を代表格とする、昭和の錚々たる爆笑スターが幾人も出て来た。

 小学生の僕は、漫才とコントとコミックバンドが大好きで、落語は好きな落語家とそうでもない人と分かれた。やはり小学生で、難しい落語は解らないから面白くなく、子供に届くシンプルな笑いがウケた。お笑いの総合的な人気とは今も昔も、子供ウケする笑いで(僕の個人的な思いではありますが…)、あの時代から子供にもウケる演芸家が大衆人気が高かった。だから落語家さんもくだいた古典落語の話をしながらも、子供ウケするシンプルなギャグを頻繁に差し込む人が、人気があった。僕もそういう、くだけた落語家さんが好きだった。漫才も、コロンビアトップ・ライトとか政治の話を入れる人のは、難しくて解らず、面白くなかった。

 当時、僕は、月の家円鏡さんは面白くて好きな落語家さんの一人だった。月の家円鏡さん、後の橘家円蔵(圓蔵)さんですが、落語家の名跡“月の家円鏡(圓鏡)”を継いだのが、というか月の家円鏡を襲名したのが1965年ということですから、僕は最初から月の家円鏡さんで覚えてたから大正テレビ寄席には途中から出てたのかな?まあ、あの当時の超人気お笑い番組、「大正テレビ寄席」には次から次と漫才、漫談、落語、コント、コミックバンドの、お笑いの人がイロイロいっぱい多種多様、出てましたから。あの時代では「大正テレビ寄席」出るのは、お笑いやってる人の一つのステイタスだったんじゃないかなあ。お笑いジャンルで売れてる有名人、って。お笑いスター、かな。

 僕は高校生くらいになってから、お笑い番組はあんまり見なくなったかなあ。「俺たちひょうきん族」まで、お笑い番組って見てないなあ。だからコント55号まで見ていた萩本欽一さんも、「欽ドコ」とか欽ちゃん単独でやってたバラエティーは、ほとんど見てないなあ。萩本欽一最盛期、僕はTV持たなかったからなあ。だからドリフターズも後半は見てない。「カトちゃんケンちゃん」とかも見てないなあ。「俺たちひょうきん族」は大好きな番組だったけど、ちゃんと見出したのは帰郷して以降だな。86年以降。

 僕がTVで見ていたのは月の家円鏡さんの時代で、いつの間にか橘家円蔵(圓蔵)さんに名前が変わっていて、橘家円蔵さんに名前が変わった情報は雑誌かラジオで知っていたけど、演芸番組とかTVで橘家円蔵さんを見たのは、覚えがないなあ。小学生時代に見ていた演芸番組での月の家円鏡さんは、面白くて見る度に爆笑していた。“昭和の爆笑王”林家三平さんの「♪よ~し~こさあ~ん、こっち向いて~」のヨシコに対抗して、月の家円鏡さんの「おい、セツコ」だったね。懐かしい。

 橘家円蔵さん、僕に取っては月の家円鏡さんも、81歳の年齢になられていたんだなあ。僕の子供時代、何も考えずに無邪気にただ爆笑する時間をくださって、どうもありがとうございました。ご冥福をお祈り致します。ここのブログも、すっかり訃報ブログになってしまった感だけど、僕の子供時代、少年時代、青年時代、楽しませてもらったり影響受けたりした、昭和の有名人が一人、また一人と現世を退場して、居なくなってしまうのは、いつもいつも寂しいものですね。

 ※(2013-4/29)大正テレビ寄席


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