家にあるサボテンを2本切って、4月頃持って来て山に植えたものです。
花がもうすぐすると咲き始めます。
“真の自分”しか、この世には“無い”のです。
たった“ひとつ”の存在です。
「何を戯けたことを言うか!」という「思考自我」が邪間
するかぎり、永遠に“真の自分”は闇の中ということです。
「思考自我」は過去で幻想です。それは私(思考)を自分と
信じているものです。
この現実世界では必要時には私(思考)を使い、必要無い時が
ほとんどですから忘れ去って置けばいいのです。
それが只、淡々とやるということですね。
もちろん、このブログを書くときは私(思考)を使っている
のです。書き終わったら思考は必要ありませんので、
“今”やることを只、淡々とやっていくだけで、
他は何もありませんね。
これが、身体が自然と一体となっているということです。
この状態が動植物という純粋なもので、人間だけが思考と
いう機能を与えられているのですから、必要なときだけ
使うのです。それにはどこにも間違いはありません。
しかし幻想の「思考自我」がひとり歩きしたら、必ず
問題が起こる様になっているのです。
この頭の中で勝手に妄想する「思考癖」を、
消し去るのが弛まぬ“只なる実践”の持続です。
花がもうすぐすると咲き始めます。
“真の自分”しか、この世には“無い”のです。
たった“ひとつ”の存在です。
「何を戯けたことを言うか!」という「思考自我」が邪間
するかぎり、永遠に“真の自分”は闇の中ということです。
「思考自我」は過去で幻想です。それは私(思考)を自分と
信じているものです。
この現実世界では必要時には私(思考)を使い、必要無い時が
ほとんどですから忘れ去って置けばいいのです。
それが只、淡々とやるということですね。
もちろん、このブログを書くときは私(思考)を使っている
のです。書き終わったら思考は必要ありませんので、
“今”やることを只、淡々とやっていくだけで、
他は何もありませんね。
これが、身体が自然と一体となっているということです。
この状態が動植物という純粋なもので、人間だけが思考と
いう機能を与えられているのですから、必要なときだけ
使うのです。それにはどこにも間違いはありません。
しかし幻想の「思考自我」がひとり歩きしたら、必ず
問題が起こる様になっているのです。
この頭の中で勝手に妄想する「思考癖」を、
消し去るのが弛まぬ“只なる実践”の持続です。