いとうな日々

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橋本元首相が死去

2006-07-01 | ニュース
元首相の橋本竜太郎(はしもと・りゅうたろう)氏が1日午後2時、多臓器不全と敗血症性ショックのため、東京都新宿区の国立国際医療センターで死去した。68歳だった。

橋本氏は1937年7月、東京都渋谷区で、厚相などを歴任した竜伍氏の長男として生まれた。高知県知事の大二郎氏は異母弟。衆院議員の岳(がく)氏は二男。

竜伍氏の死去を受け、63年11月に衆院旧岡山2区から26歳で初当選。以来、連続14回当選した。厚相、運輸相、蔵相、通産相、自民党政調会長、幹事長などを歴任。96年1月、自民、社会、さきがけの3党連立政権の村山富市首相(当時)の辞意表明を受け、第82代、53人目の首相に就任した。

橋本内閣は、行政、財政、経済、金融システム、社会保障、教育の「6大構造改革」を提唱。98年6月に中央省庁改革基本法を成立させ、現在の1府12省庁体制の基盤を作るなど、改革の方向づけや、省庁再編で功績を残した。97年4月には、消費税率を3%から5%に引き上げた。

しかし、97年9月の第2次橋本改造内閣発足の際、ロッキード事件で有罪が確定した佐藤孝行氏を総務庁長官に起用して世論の批判を招き、内閣支持率が低下した。98年7月の参院選で、経済政策に関する自らの発言の乱れもあって惨敗し、退陣に追い込まれた。

2000年5月の小渕元首相の死去を受け、小渕派を継承し橋本派会長に就任。01年4月の党総裁選では、再登板を狙って立候補したが、小泉首相に敗れた。

02年3月、心臓の弁がうまく機能しない「急性僧帽弁閉鎖不全症」で手術を受けてからは、健康面の衰えも目立つようになった。04年7月、日本歯科医師会(日歯)側から橋本派への1億円ヤミ献金事件の責任をとり、同派会長を辞任。05年8月公示の衆院選には立候補しなかった。

06年3月に政財界の対中国関連7団体を率いて訪中し、小泉首相の靖国神社参拝をきっかけに悪化した日中関係の改善を求めるなど、引退後も外交面などで活躍した。
(読売新聞)
◆ 小泉構造改革の先駆者 橋本元首相評伝

近年、橋本龍太郎氏ほど毀誉褒貶(きよほうへん)の激しかった政治家はいないだろう。【〔「毀・貶」はそしる、「誉・褒」はほめる意〕悪口をいうこととほめること。世間の評判。】

26歳で衆院議員に初当選した、いわゆる2世議員の走りである。

父の龍伍氏は吉田茂首相を支えた「吉田十三人衆」の1人で、足が不自由だったこともあり、生涯を社会保障政策に取り組んだ政治家だった。橋本氏は、「父には、政治は弱い人間を助けるためにある、と教えられた」と常々語っていた。

橋本氏が次代を担うエースに躍り出たきっかけは、昭和63年から平成元年にかけて吹き荒れたリクルート事件だ。党内実力者が相次いで疑惑にさらされ、橋本氏は表舞台に上がる。

しかし、その後、女性スキャンダルなどで2度チャンスを逃す。そのころ、橋本氏の私邸で明け方近くまで話し込んでいたとき、ポツリと漏らしたことがあった。

「僕は、総理・総裁になれないよ」

竹下登元首相(故人)が「怒る、威張る、拗(す)ねる」と評したように、政治家として畏敬(いけい)されても仲間を作れない性格が災いしたともいえる。

平成8年に首相の座に就いた橋本氏の最大の功績は、行政改革だ。特に内閣府の下に経済財政諮問会議を創設、首相権限を強化した。小泉構造改革の先駆者であり、小泉純一郎首相は橋本氏が強化した権限を存分に活用し、内閣や与党に指導力を発揮したといえる。クリントン米政権との間で沖縄県の悲願だった普天間飛行場の返還に合意したのも特筆すべきだ。

しかし、消費税引き上げ、特別減税廃止などで景気が悪化。10年の参院選大敗で、退陣に追い込まれた。13年の総裁選で、再登板を目指したが小泉首相に惨敗。その後、日本歯科医師連盟からの闇献金事件が発覚し、派閥会長を辞任、先の郵政解散による総選挙で政界を引退する。

父・龍伍氏の影響もあり、自民党内の社会、労働部会を中心に地歩を固め、厚生族のドンと言われたが、力の源泉となった日本医師会や日本歯科医師会との関係が、最後に政界からの引退に追い込んだ。

日歯連事件といい、今春の日中友好7団体の代表団を団長として訪中し、靖国参拝問題で中国側の主張を聞くだけに終わった印象を内外に与えるなど、政治家としての晩節は決して褒められたものとはいえないのが残念だ。

(産経新聞 編集総務兼電波企画室長局次長 奥村茂)

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