↑ 支倉常長乗船のサン・ファン・バウティスタ号(再現)の船体のライトアップ(宮城県石巻市)
キリシタン史略年表 2018/2/15 辺見宗邦作成 下線は、主に東北地方に関する記事や、キリシタン茶人に関する事項
西暦 |
年号 |
出 来 事 |
政治・社会 |
1543 |
天文12
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ポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲を伝える。
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室町時代1336~157(戦国時代1467~1573) |
1549
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天文18
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8月15日、ザビエル、トルレス、フェルナンデスら鹿児島に上陸、領主島津貴久と会見し、布教の許可を得る。鹿児島と市来(いちき)でキリスト教を伝える。1年余り過ごす |
日本にカトリックのキリスト教伝来 |
1550
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天文19
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ザビエル平戸に行き、領主松浦隆信と会見。布教を許される。その後博多を経て、山口へ向かい、岩国から海路で堺に上陸。堺の日比屋了珪の家に滞在。 |
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1551
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天文20
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ザビエル上京、天皇にも将軍にも会うことはできず、堺から平戸へ もどり、山口再訪。領主大内義隆から宣教の許可を得る。ザビエルは、トルレスを山口に残し、領主大友宗麟の招きで大分に行き、布教の保護を受ける。ザビエルは11月半ば、インドのゴアに向かう。 |
(この頃キリシタンは700余名)
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1552 |
天文21 |
ザビエル、中国布教を目指すが熱病を患い、12月3日、マカオの南西上(シャン)川(チョワン)島で死去。ガーゴ来日、大友宗麟に会う。山口で最初の降誕祭が祝われる。 |
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1560
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永禄3
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ヴィレラ、将軍足利義輝に謁見、宣教の許可を得る 蛸薬師通室町に土地と建物を購入。後日この場所に京都の南蛮寺が建てられた。 |
尾張の桶狭間の合戦信長軍の勝利、今川義元の戦死。 |
1562 |
永禄5
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肥前(居城は長崎県大村市)の大村純忠、教会を建設 翌年6月、家臣26名と共にトルレスから洗礼を受けた。 日本で最初のキリシタン大名となった。長崎港を開港 |
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1563
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永禄6
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キリシタン大名の出現。近畿では結城山城守、高山飛騨守(右近の父)らの受洗。九州では大村純忠受洗 宣教師ルイス・フロイス来日。 |
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1564
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永禄7
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高山右近、日比屋了桂ら受洗。了桂の近所に千利休(当時42歳)の屋敷があり、了桂との交流が予想される |
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1567 |
永禄10 |
伊達政宗誕生 |
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1568 |
永禄11 |
信長、堺を直轄領とする。利休、信長の茶頭となる |
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1572 |
元亀2 |
支倉常長誕生 |
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1573 |
天正1 |
高山右近、高槻城主となる(21歳) |
安土・桃山時代1573~1603 |
1576 |
天正4 |
京都に三階建ての南蛮寺を建てる 長崎の有馬義貞、受洗 右近、オルガンティノを招き、復活祭を行う |
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1577 |
天正5 |
京都で南蛮寺建設 |
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1580 |
天正8 |
有馬晴信受洗。長崎・安土にセミナリオ(神学校)創立、キリシタンは約10万人となる。 |
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1582 |
天正10 |
天正少年遣欧使節、ローマへ出発、利休、秀吉の茶道頭となる
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本能寺の変、織田信長没(キリシタンは約10万人) |
1585 |
天正13 |
高山右近明石に移封。 高山右近の影響で、利休の弟子の蒲生氏郷、牧村兵部洗礼を受ける 明石教会建設 |
秀吉関白となる |
1587
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天正15
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秀吉、伴天連追放令発布、高山右近の所領を没収、追放。小西行長により小豆島にかくまわれる。細川ガラシャ受洗。官兵衛の勧めで大分の大名・大友義(よし)統(むね)、小早川秀(ひで)包(かね)が受洗。秀吉、九州平定。長崎没収 |
秀吉の九州役
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1588 |
天正16 |
京都・大坂の南蛮寺破却 |
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1590
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天正18
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天正の少年遣欧使節が長崎に帰国、蒲生氏郷が陸奥会津の城主となる黒田官兵衛の嫡男、黒田長政、洗礼を受ける、黒田官兵衛、豊前(ぶぜん)6郡を与えられる |
豊臣秀吉天下統一 |
1591
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天正19
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ヴァリニァーノ、少年遣欧使節とともに秀吉に謁見スペイン系ドミニコ会士ファン・コボ布教利休自害。千小庵、利休切腹後は会津の蒲生氏郷のもとに蟄居を命じられる。高山右近、前田利家の招きで金沢へ行く |
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1592 |
天正20 |
秀吉、京都伏見に隠居所として、伏見桃山城を築く |
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1594 |
文禄3 |
フランシスコ会士、京都四条堀川旧妙満寺跡地に諸天使の元后にささげられた教会、また翌年には聖アンナ病院、聖ヨゼフ病院を建設 小庵、赦されて京に戻り、二代目として千家を興す |
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1596
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慶長1
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サン・フェリッペ号事件。秀吉、フランシスコ会宣教師ら捕縛 |
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1597 |
慶長2 |
長崎西坂で26名が殉教 (日本26聖人) 1598(慶長3年)豊臣秀吉没 |
(この頃キリシタン30万人) |
1660
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慶長5
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家康、石田光成の軍を破る。 細川ガラシャ大坂の屋敷で没す 油小路通元誓願寺の地にイエズス会上京教会建立 |
関ヶ原の戦い |
1601
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慶長6
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邦人初の司祭、セバスチャン木村とルイス・ニアバラ叙階 官兵衛、博多に移り、後継ぎの長政52万石受ける。家康、宣教師の京・長崎居住許可 |
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1603 |
慶長8 |
徳川家康征夷大将軍 加藤清正、熊本で耶蘇教を禁教 |
江戸時代1603~1867(264年間) |
1605 |
慶長10 |
家康は大御所として実権をにぎり、将軍職を秀忠に譲る |
徳川秀忠征夷大将軍 |
1612 |
慶長17
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岡本大八事件。江戸幕府の家康と秀忠はキリシタン禁教令を領内に発布、京都の教会を破壊。 |
慶長の禁教令発布(領内) |
1613 |
慶長18 |
伊達政宗の遣欧使節、支倉常長ら出発する 家康・秀忠、禁教令を全国に広げる |
キリシタン禁教令発布、キリシタン弾圧(1613~1873年)260年続く。(キリシタン人口50万人) |
1614 |
慶長19 |
家康、宣教師および高山右近らマニラに追放(37名) |
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1615 |
慶長20 |
大阪夏の陣、大阪城落城。 高山右近、マニラで死亡 |
豊臣氏滅亡 |
1615
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元和1
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1月、常長、マドリードでスペイン国王と謁見9月、ローマで、法王、パウロ五世と謁見。 |
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1616 |
元和2 |
秀忠、禁教を強化、キリシタン禁令の高札を全国に設置 |
徳川家康没。 |
1618 |
元和4 |
キリシタン訴人への懸賞金の高札, 1626年(寛永3年)、1636年(寛永13年)と賞金増額、1674年(延宝2年)宣教師訴人へ銀500枚とする |
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1619 |
元和5 |
京都の大殉教 (65名火刑) 。長崎の教会すべて破壊 |
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1620 |
元和6 |
支倉常長帰国、仙台でキリシタン弾圧始まる |
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1622 |
元和8 |
長崎の大殉教(55名火刑) |
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1623 |
元和9 |
江戸の大殉教(宣教師を含む50名火刑) |
徳川家光征夷大将軍(1623~1651年) |
1626 |
寛永3 |
踏絵による取り調べ始まる |
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1633~1637 |
寛永10~14 |
トマス西、都のラザロと14人殉教 1636年(寛永13年)政宗死去 |
1633年、第1次鎖国令 |
1637 |
寛永14 |
天草・島原の乱発生 |
1636年、第4次鎖国令 |
1638 |
寛永15 |
島原の乱が幕府によって鎮圧される 宗門改め強化 |
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1639 |
寛永16 |
岩手県大籠で、数年間で300人以上の殉教始まる |
鎖国の完成 |
1657 |
明暦3 |
大村藩、郡崩れ。603名を召し捕らえ、翌年411名を斬首 |
徳川家綱1651~1680 |
1665 |
寛文5 |
幕府、一万石以上の藩領に宗門改役設置 |
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1669 |
寛文9 |
幕府により唐銅版の踏み絵20枚製作される |
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1682 |
天和2 |
諸国にキリシタン禁制の高札を建てる |
(元禄時代1688~1704) |
1790 |
寛政2 |
長崎浦上一番崩れ 村人が寺に石仏を寄進するのを拒否したことから発覚、19名が捕らえられる。後で釈放。 |
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1839 |
天保10 |
浦上二番崩れ 密告により、村の中心人物が捕えられる。後で釈放される。 |
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1853 |
宝暦3 |
米国使節ペリー来航、1854年再来航。下田で日米和親条約締結、翌年日英、日露和親条約締結 |
幕末 1853-1867 |
1858 |
安政5 |
日米修好通商条約締結、 幕府、踏み絵制廃止 |
鎖国終了 |
1861 |
文久1 |
ハリストス正教会司祭ニコライ来日。アメリカから改革派教会のバラ来日。 |
プロテスタン宣教開始。2009年(平成21年)に150周年記念 |
1864 |
元治1 |
長崎の大浦天主堂落成、翌年献堂式。 |
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1865
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慶応1
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パリー外国宣教会のプチジャン神父が長崎に来る、大浦天主堂内で浦上信徒名乗り出る(旧信徒の発見) |
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1867 |
慶応3 |
浦上四番崩れ始まる 寺との関係を絶縁する名簿提出を庄屋に提出したことで発覚。信徒68名が捕縛される。 |
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1868
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明治1
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明治新政府、五榜(ごぼう)(五箇条の禁止を5枚の板に記す)の高札を全国に掲示、キリシタン禁制を徹底 |
明治時代1868-1912 大政奉還・王政復古 |
1873 |
明治6
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キリシタン禁制の高札撤去、配流されていた浦上のキリシタン信徒釈放、故郷に帰る、キリスト教信者数1万5千人を数える。 |
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日本全国のキリシタンの数は総人口2,300万人の中、70万人とも75万人ともいわれており、3パーセントになります。
ローマ法王庁が認定した聖人 ①1597年に処刑されたパウロ三木ら「二六聖人」 ②1633~1637の殉教者、トマス西と15人福者認定 ③ 1617~1632の殉教者,205人を福者に認定。④ 1603~1639の全国の殉教者、ペトロ岐部(きべ)と18人。⑤2017年高山右近福者に認定
江戸時代に処刑さえたキリシタンの数は、日本全国で4000人~5000人と言われています。東北地方(6県)の殉教者数は990人、そのうち仙台藩は363人で一番多く、次が南部藩146人です。仙台藩に属していた岩手県藤沢町大籠では、1639年(寛永16年)頃数年間で309名が殉教。