富谷教会ホームページ・礼拝説教

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 キリシタン史略年表

2018-02-06 15:52:09 | キリスト教

↑ 支倉常長乗船のサン・ファン・バウティスタ号(再現)の船体のライトアップ(宮城県石巻市)

                   キリシタン史略年表     2018/2/15  辺見宗邦作成    下線は、主に東北地方に関する記事や、キリシタン茶人に関する事項     

西暦

年号

  出  来  事

政治・社会

1543 

 

天文12

 

 

ポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲を伝える。

 

室町時代1336~157(戦国時代1467~1573)

 

1549

 

 

天文18 

 

8月15日、ザビエル、トルレス、フェルナンデスら鹿児島に上陸、領主島津貴久と会見し、布教の許可を得る。鹿児島と市来(いちき)でキリスト教を伝える。1年余り過ごす

日本にカトリックのキリスト教伝来

 

1550

 

 

天文19 

 

ザビエル平戸に行き、領主松浦隆信と会見。布教を許される。その後博多を経て、山口へ向かい、岩国から海路で堺に上陸。堺の日比屋了珪の家に滞在。

 

 

1551

       

天文20

 

ザビエル上京、天皇にも将軍にも会うことはできず、堺から平戸へ もどり、山口再訪。領主大内義隆から宣教の許可を得る。ザビエルは、トルレスを山口に残し、領主大友宗麟の招きで大分に行き、布教の保護を受ける。ザビエルは11月半ば、インドのゴアに向かう。

 (この頃キリシタンは700余名)

 

1552

天文21 

ザビエル、中国布教を目指すが熱病を患い、12月3日、マカオの南西上(シャン)川(チョワン)島で死去。ガーゴ来日、大友宗麟に会う。山口で最初の降誕祭が祝われる。

   

 

1560

 

 

永禄3

 

ヴィレラ、将軍足利義輝に謁見、宣教の許可を得る   蛸薬師通室町に土地と建物を購入。後日この場所に京都の南蛮寺が建てられた。

尾張の桶狭間の合戦信長軍の勝利、今川義元の戦死。

1562 

 

永禄5

 

肥前(居城は長崎県大村市)の大村純忠、教会を建設    翌年6月、家臣26名と共にトルレスから洗礼を受けた。 日本で最初のキリシタン大名となった。長崎港を開港

 

1563

 

永禄6

 

キリシタン大名の出現。近畿では結城山城守、高山飛騨守(右近の父)らの受洗。九州では大村純忠受洗 宣教師ルイス・フロイス来日。

 

 

1564

 

永禄7

 

高山右近、日比屋了桂ら受洗了桂の近所に千利休(当時42歳)の屋敷があり、了桂との交流が予想される

 

1567

永禄10

伊達政宗誕生

 

1568

永禄11

信長、堺を直轄領とする。利休、信長の茶頭となる

 

1572

元亀2

支倉常長誕生

 

1573

天正1

高山右近、高槻城主となる(21歳)

 安土・桃山時代1573~1603

1576

天正4

京都に三階建ての南蛮寺を建てる 長崎の有馬義貞、受洗 右近、オルガンティノを招き、復活祭を行う

 

1577

天正5

京都で南蛮寺建設

 

 

1580

天正8

有馬晴信受洗。長崎・安土にセミナリオ(神学校)創立、キリシタンは約10万人となる。

 

1582

天正10

 

天正少年遣欧使節、ローマへ出発利休、秀吉の茶道頭となる

 

本能寺の変、織田信長没(キリシタンは約10万人

1585

天正13

高山右近明石に移封。 高山右近の影響で、利休の弟子の蒲生氏郷、牧村兵部洗礼を受ける 明石教会建設

 秀吉関白となる

1587

 

天正15

 

秀吉、伴天連追放令発布、高山右近の所領を没収、追放。小西行長により小豆島にかくまわれる。細川ガラシャ受洗。官兵衛の勧めで大分の大名・大友義(よし)統(むね)、小早川秀(ひで)包(かね)が受洗。秀吉、九州平定。長崎没収

 

秀吉の九州役

 

1588

天正16

京都・大坂の南蛮寺破却

 

 

1590

 

 

天正18

 

天正の少年遣欧使節が長崎に帰国、蒲生氏郷が陸奥会津の城主となる黒田官兵衛の嫡男、黒田長政、洗礼を受ける、黒田官兵衛、豊前(ぶぜん)6郡を与えられる

 豊臣秀吉天下統一

 

1591

 

 

 

天正19

 

 

ヴァリニァーノ、少年遣欧使節とともに秀吉に謁見スペイン系ドミニコ会士ファン・コボ布教利休自害。千小庵、利休切腹後は会津の蒲生氏郷のもとに蟄居を命じられる。高山右近、前田利家の招きで金沢へ行く

 

1592

天正20

秀吉、京都伏見に隠居所として、伏見桃山城を築く

 

1594

文禄3

フランシスコ会士、京都四条堀川旧妙満寺跡地に諸天使の元后にささげられた教会、また翌年には聖アンナ病院、聖ヨゼフ病院を建設    小庵、赦されて京に戻り、二代目として千家を興す

 

1596

 

慶長1

 

サン・フェリッペ号事件。秀吉、フランシスコ会宣教師ら捕縛

 

      

1597

慶長2

長崎西坂で26名が殉教 (日本26聖人)  1598(慶長3年)豊臣秀吉没

この頃キリシタン30万人

1660

 

慶長5

 

家康、石田光成の軍を破る。 細川ガラシャ大坂の屋敷で没す   油小路通元誓願寺の地にイエズス会上京教会建立

関ヶ原の戦い

1601

 

慶長6

 

邦人初の司祭、セバスチャン木村とルイス・ニアバラ叙階 官兵衛、博多に移り、後継ぎの長政52万石受ける。家康、宣教師の京・長崎居住許可

 

 

1603

慶長8

徳川家康征夷大将軍 加藤清正、熊本で耶蘇教を禁教

江戸時代1603~1867(264年間)

1605

慶長10

家康は大御所として実権をにぎり、将軍職を秀忠に譲る

徳川秀忠征夷大将軍

1612

 

慶長17

 

岡本大八事件。江戸幕府の家康と秀忠はキリシタン禁教令を領内に発布、京都の教会を破壊。

慶長の禁教令発布(領内)

1613

慶長18

伊達政宗の遣欧使節、支倉常長ら出発する

家康・秀忠、禁教令を全国に広げる

キリシタン禁教令発布、キリシタン弾圧(1613~1873年)260年続く。(キリシタン人口50万人)

1614

慶長19

家康、宣教師および高山右近らマニラに追放(37名) 

 

1615

慶長20

大阪夏の陣、大阪城落城。 高山右近、マニラで死亡

豊臣氏滅亡

1615

 

元和1

 

1月、常長、マドリードでスペイン国王と謁見9月、ローマで、法王、パウロ五世と謁見

 

1616

元和2

秀忠、禁教を強化、キリシタン禁令の高札を全国に設置

徳川家康没。

1618

元和4

キリシタン訴人への懸賞金の高札, 1626年(寛永3年)、1636年(寛永13年)と賞金増額、1674年(延宝2年)宣教師訴人へ銀500枚とする

 

1619 

 元和5

京都の大殉教 (65名火刑) 。長崎の教会すべて破壊

 

1620

元和6

支倉常長帰国、仙台でキリシタン弾圧始まる

 

1622

元和8

長崎の大殉教(55名火刑)  

 

1623

元和9

江戸の大殉教(宣教師を含む50名火刑)

徳川家光征夷大将軍(1623~1651年)

1626

寛永3

踏絵による取り調べ始まる

 

1633~1637

寛永10~14

トマス西、都のラザロと14人殉教                1636年(寛永13年)政宗死去

1633年、第1次鎖国令

1637

寛永14

天草・島原の乱発生

1636年、第4次鎖国令

1638

寛永15

島原の乱が幕府によって鎮圧される  宗門改め強化

 

1639

寛永16

岩手県大籠で、数年間で300人以上の殉教始まる

鎖国の完成

1657

明暦3

大村藩、郡崩れ。603名を召し捕らえ、翌年411名を斬首

徳川家綱1651~1680

1665

寛文5

幕府、一万石以上の藩領に宗門改役設置

 

1669

寛文9

幕府により唐銅版の踏み絵20枚製作される

 

1682

天和2

諸国にキリシタン禁制の高札を建てる

 (元禄時代1688~1704)

1790

寛政2

長崎浦上一番崩れ 村人が寺に石仏を寄進するのを拒否したことから発覚、19名が捕らえられる。後で釈放。

 

1839

天保10

浦上二番崩れ 密告により、村の中心人物が捕えられる。後で釈放される。

 

1853

宝暦3

米国使節ペリー来航、1854年再来航。下田で日米和親条約締結、翌年日英、日露和親条約締結

幕末 1853-1867

1858

安政5

日米修好通商条約締結、 幕府、踏み絵制廃止

鎖国終了

1861

文久1

ハリストス正教会司祭ニコライ来日。アメリカから改革派教会のバラ来日。

プロテスタン宣教開始。2009年(平成21年)に150周年記念

1864

元治1

長崎の大浦天主堂落成、翌年献堂式。

 

1865

 

慶応1

 

パリー外国宣教会のプチジャン神父が長崎に来る、大浦天主堂内で浦上信徒名乗り出る(旧信徒の発見)

 

1867

慶応3

浦上四番崩れ始まる 寺との関係を絶縁する名簿提出を庄屋に提出したことで発覚。信徒68名が捕縛される。

 

 

1868

 

 

明治1

 

明治新政府、五榜(ごぼう)(五箇条の禁止を5枚の板に記す)の高札を全国に掲示、キリシタン禁制を徹底

明治時代1868-1912 大政奉還・王政復古 

1873        

明治6

 

キリシタン禁制の高札撤去、配流されていた浦上のキリシタン信徒釈放、故郷に帰る、キリスト教信者数1万5千人を数える。

 

 日本全国のキリシタンの数は総人口2,300万人の中、70万人とも75万人ともいわれており、3パーセントになります。

 ローマ法王庁が認定した聖人 ①1597年に処刑されたパウロ三木ら「二六聖人」 ②1633~1637の殉教者、トマス西と15人福者認定 ③ 1617~1632の殉教者,205人を福者に認定。④ 1603~1639の全国の殉教者、ペトロ岐部(きべ)と18人。⑤2017年高山右近福者に認定

 江戸時代に処刑さえたキリシタンの数は、日本全国で4000人~5000人と言われています。東北地方(6県)の殉教者数は990人、そのうち仙台藩は363人で一番多く、次が南部藩146人です。仙台藩に属していた岩手県藤沢町大籠では、1639年(寛永16年)頃数年間で309名が殉教。

                

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