富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「教会の一致の勧め」 コリントの信徒への手紙一、1章10~17節

2017-09-16 21:43:29 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句 「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべ

に加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

     聖霊降臨節第16主日  2017年9月17日(日) 午後5時~5時50分

     礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 392(主の強い御腕よ)

交読詩編  147(ハレルヤ。わたしたちの神は)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) コリントの信徒への手紙一、1章10~17節(p.299)

説  教   「教会の一致の勧め」  辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   441(信仰をもて)

聖餐式   

献 金    72(まごころもて)

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏  

            次週礼拝 9月24日(日)  午後5時~5時50分

             聖書  ヤコブ書2章8~13節

             説教   「隣人」

             讃美歌(21)441 445 24 交読詩編15篇 

   本日の聖書 コリントの信徒への手紙一、1章10-17節

 10さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。11わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。12あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。13キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。14クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。15だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。16もっともステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外にはだれにも授けた覚えはありません。17なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。

    本日の説教

パウロは、はじめのあいさつの後、コリントの信徒たちのゆえに神様に感謝しています。パウロは、礼儀正しく格調高く手紙を書き始め、教会に感謝しているのです。神様への賛美の後で、パウロはすぐに具体的な勧告に入ります。この手紙は、教義につての教えではなく、コリントの教会からの口頭や手紙で問い合わせのあった諸々の問題に答えている牧会的な手紙です。教会からの質問に答えるに先立って、パウロはまず自分が聞き知った教会内の不和について触れ、同時に彼の教会を立たせるための基本的態度を述べます。そのために相手にその非を気づかせ、教え諭します。パウロは、<兄弟たち>という呼びかけます。相手がたとえ挑戦的・敵対的であろうと、彼は信頼関係の中で諭します。それは<主イエス・キリストの名によって>なされます。したがってこの勧告は主イエス・キリストの勧告です。

 パウロはコリントの教会の争いを<クロエの家の人たち」から聞きました(1章11節)。<クロエ>は女性であり、彼女の奴隷か子供がコリントからエフェソに最近来たらしいこと以外は何もわかりません。クロエがコリント、あるいはパウロが手紙を書いたエフェソに住んでいたかはわかりません。しかし彼女の使者が仕事で二つの町を行き来しており、パウロにコリントの教会で起こりつつある騒動の情報をもたらしたと想像できます。

 コリントの分裂がはっきり組織された分派によるものと理解する必要はないようです。手紙全体を通して示されていることは、それらは始まったばかりの意見の相違であり、起ころうとしつつある議論です。クロエの家の人たちの報告によれば、コリントのキリスト者たちは別々の説教者や指導者の名前の下に結集し始めていました。

  コリントの教会では、<自分はパウロにつく>、<自分はアポロに>、<自分はケファに>、<自分はキリストにつく>、と言い者達がいました。<アポロ>という人物は、学識あるユダヤ人で、アレキサンドリア出身であり、深い聖書の素養があり、「イエスのことについては…正確に教えて」、とても熱心で雄弁家として初代教会の中でよく知られた説教者です。パウロがコリントを去った後、入れ代わりに来た教師です。パウロの同労者で、彼と対立した人ではありません。<ケファ>というのは、イエスの筆頭弟子の「ペトロ」のアラム語名です。彼が実際にコリントを訪ねたのか、それとも単に初期教会でよく知られた指導者としてコリントまで評判と本人の影響が伝わってきたにすぎないのかは明らかではありません。パウロは異邦人に宣教活動するために、ペトロやエルサレム教団との友好的な兄弟関係を大事にしていました。

 また<キリスト>を引き合いに出して自己の正当性を主張しようとする分派的な態度をとる者がいました。このような対立は、コリントの教会員相互の勝手な自己主張によるものです。パウロはコリントの教会の<仲間割れ>(11・18)の状態を、二つの痛烈な質問(13節)によって批判します。

 その一つは、「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」、より的確に訳すと「キリストは分割され、分配されたのか(原文訳)」という問いです。パウロは共同体の意見の相違は、キリストが商品か所有物が値切られような扱いを受ける、ばかげた状況を生み出したと指摘します。このようにキリストの一つの体は、利害の違う分派に断片化されたのです。

 もう一つは、「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」という質問です。信仰者はキリストの名によって洗礼されることによって、キリストの十字架と復活に共にあずかるのであり、教会はただイエスの名においてのみ、救われ、支えられています。この真実の下でささいな競争や違う説教者の好みなどまったくばかげています。分派の原因は、特定の指導者に対する個人的な忠誠や、人間崇拝によって生み出されたもののようです。パウロはこの人間介入が、信仰の本筋から離れさせることを心配して、3章21-22節で、「だれも人間を誇ってはなりません。…パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも、将来起こることも、一切はあなたがたもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」と注意を促しています。

 実際に洗礼という行為はそれ自体は、パウロにはわずかな意味しか持っていません。パウロはコリントで<クリスポ>や<ガイオ>、<ステファナ>のようなわずかな目立った指導者を除いて、何人の人々に洗礼を授けたか覚えていないと述べています。「もっともステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外にはだれにも授けた覚えはありません」とパウロは言います。

 <クリスポ>は使徒言行録18・8によれば、パウロの伝道説教によって一家をあげてキリスト教徒となった「会堂長」でした。<ガイオ>は、ローマ書16・23によれば、パウロとコリントの<教会全体が世話になっている>家の主人と書かれています。これはガイオが共同体の集会が出来るほどの大きさの家を持っていとことを意味しています。<ステファノの家の人たち>については、この手紙の終わりの挨拶のところで名が挙げられています(16・15)。<ステファナ>はアカイア州で最初に改宗した一家の長で、パウロが共同体に認めさせ、仕えるようにと選び出した指導者です。明らかにパウロはこれらの何人かの改宗者に洗礼を授けた後、続く人々の洗礼をこれらの著名な人々に委託しました。パウロは、自分がわずか数人のコリントの人に洗礼を授けなかったことを、むしろ神に感謝しています。もしもそうではなかったならば、クリスチャン同士の一致の基、洗礼さえも、コリントの教会をばらばらにする口実とされたことでしょう。

 パウロはキリストから委託されたのは洗礼を授けることではなく、「福音を告げ知らせる」ことであることを主張します。従って「洗礼を行うこと」は二次的な重要さでさり、教会は誰が洗礼を授けたかによって分裂すべきではありません。なぜなら教会の一致の重要な根拠は告げ知らされた福音にあるからです。恐らくコリントの人々は異なる家の教会共同体に分かれていたのかも知れません。

 キリストがパウロを遣わしたのは、「キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」と告げます。福音の宣言は「言葉の知恵によらないで」(文字通りには、言葉の知恵によらないで)成し遂げられるべきであります。コリントの教会の中には、福音の核心である十字架につけられたイエスを無視しがちになり、宗教的な人間の「知恵」に重きを置き、その解釈を誇示した者たちがいたと思われます。簡素な福音の告知であるべきものが、人間の知識や言葉の「知恵」によって語られるようになったのです。実際にパウロは言葉の知恵によって福音を巧みに示すことは、キリストの十字架を「空しく」すると確信しています(1・17b)。この十字架はユダヤ人にはつまずきであり、ギリシア人には愚かであろうが、民族の枠を超えて召された者には神の力、神の知恵であると、語っています(1・23-24)。パウロの宣教は知恵にあふれた言葉によらず、霊と力の証明によるものでした。それは人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。

 教会内で個人崇拝がある所は、どこでも、パウロの告発は的を射ていることになります。説教者のカリスマや功名心が十字架の福音より大きく現れ始めたら、何かが恐ろしく間違っていることになります。パウロの教会への勧めは、キリストにおける一致です。キリスト者は「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように」呼びかけられています。なぜならキリスト者である独自性は、「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」(エフェソ4・3-5)と定められているからです。

    

   

 9月8日の日、一人の姉妹の洗礼式が当教会でありましたが、その洗礼式と、その後の祝いの愛餐会には、他の複数の教会の姉妹たちや、牧師が参加してくださり、多くの方々に祝っていただきました。主イエスは「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(ルカ15・10)と言われていますが、この日は地上でも人々の間に大きな喜びがあったことを、感謝しました。「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」というみことばを味わいました。

 

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