トーキング・マイノリティ

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宗教に救いを求める人々

2006-09-21 21:29:09 | 読書/ノンフィクション
 私がよく利用する仙台市公立図書館がある。その図書館に行く際、必ず通る道に「真光(まひかり)」の宗教施設があり、平日は知らぬが、土日となれば信者 たちが多数訪れる。信者たちを見ると若い人は見かけないが中高年の方が目に付く。何故この宗教に入信したかは不明だが、様々悩みがあったのだろう。

 私自身は憶えてないが、私が1歳にならない頃病気で50日ほど入院したことがある。その時、入院先の病院で私の世話をしていた母に盛んに声を掛けてきたのが創価学会員だった。母は「拝んだところで子供の病気が治るものでもない」 ときっぱり断わるが、断わられても結構女信者は勧誘したそうだ。母はそれ以降学会に嫌悪と不信の念しか持てなくなったが、私の職場の上司にも似た経験があ るそうだ。上司の祖母は学会員だが、息子は入会しなかった。祖母は孫である上司が子供の頃病気をした時、信心が足りないから孫が病気になったと上司の父に 当たる息子を責めたという。信心すれば病気が治るなどの脅し文句にちかい勧誘で改宗を迫るのは、カルトの常套手段だ。

 人は何故宗教を必要とするのだろう?仏教学者のひろさちやさんは「宗教練習問題」(新 潮文庫)で、動物と違い人間だけが死の恐怖に怯えており、死への恐怖を克服するために宗教を必要とすると書いている。人間が死を怖がるのは、死後の自分に 対する不安が原因であり、宗教は死後の幸福を約束してくれるものだそうだ。「神や仏を信じていれば、死後に天国や極楽浄土に往ける」と教える訳だ。

 一方、古代ギリシアの哲学者エピクロス(前341-前271)は、死についてこう言っている。
そ れゆえに死は、諸々の悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、実は我々にとって何ものでもないのである。何故かといえば、我々が存する限り死は 現に存せず、死が現に存する時には、もはや我々は存しないからである。そこで死は、生きているものにも、既に死んだものにも関わりがない。何故なら生きて いるもののところには、死は現に存しないのであり、他方死んだものは存しないからである

 さすが、哲学者は発想が面白い。死を点として捉えており、それは一瞬の出来事で、その一瞬の前には「死」はない。そして死んでしまえば、やはり「死」はない。だから「死」はどこにもない。シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」にも、こんな台詞がある。
臆病者は本当に死ぬまでに幾たびも死ぬが、勇者は一度しか死を経験しない
 エピクロスの哲学やシーザーの台詞に共感する人には宗教は不要だと、ひろさちやさんは言う。宗教はそのような哲学に安心できない人のためにある、と。

  凡夫には到底エピクロスやシーザーのような偉人のように思考し、行動することなど出来ない。凡人は弱いもの。挫折、失恋、家庭不和、病魔、貧困、離別…様 々な苦難や試練に遭遇すれば、何かにすがりたくなるのが人情。こんなことを書いている私も8年近く前、どん底状態だった。公私共に八方ふさがりのうえ、突 然の父の死。悪いことは重なるというが、徹底して打ちのめされた最悪の時期。
 そんな時、どうしたものかよく読んだのが瀬戸内寂聴さんやひろさち やさんの仏教関連の本だった。以前から中東に関心があったので、イスラムやゾロアスター教に関する本は見ていたが、この時ばかりは読む気になれなかった。 おそらく無意識のうちに心に癒しと平安を求めていたのだろう。私がインドに関心を持ったのも、生前父が勧めた本を読んだのがきっかけだった。

 歴史もそうだが、宗教も一つのものばかりではなく他宗教も学ぶことにより、その違いと特徴が鮮明に浮かび上がる。イスラムはやはり沙漠の宗教だと違和感が強まったが、ゾロアスター教は共通する面もあり(大乗仏教自体がその影響下で出来たもの)好感を持った。
 釈迦の教えで私が一番気に入ったのは「自灯明法灯明」「犀の角の如く、ただ一人歩め」だ。そして、日本語となった仏教用語が数多くあったのも知った。私はどうも生来のへそ曲がりなのか、究極の形式主義である集団礼拝は性に合わない。

 ある程度宗教知識があると、現世利益を謳ったいかがわしいインチキ宗教を見抜く目も養われる。仏教の基本思想に「諸行無常」 があるが、「永遠の勝利をめざす」をモットーとする集団などは、これだけでもいかに仏教を装ったデタラメな教えか分かる。学会など特に家族ぐるみの入信を 目的化する手法に長けており、親子の情まで利用する。例えば早く父を亡くし、女手一つで育てられた人物が信者となれば、その母を讃えるなど、新たな信者の 心理を巧みに捕えるように。母子家庭で育った人は特に母親に対する愛情が深いものだが、それでももし釈迦なら親子の情を断ち切っての出家を勧めただろう。 釈迦自身も家出して家族を捨てたのだから。イエスも母と兄弟が会いにやってきても家族に会おうともせず、「私の母、私の兄弟とは、神の言葉を聞いて行なう 人たちのことである」と言っている。ムハンマドさえ叔父アブー・ラハブに、「お前の祖父は天国にいるのか、地獄にいるか」と問われ、少し間をおいてから「イスラムの教えを知らない祖父は地獄にいる」と答えたのだ。早く両親を亡くした彼を養育したのが祖父にも係らず。激怒した叔父は部族の保護取り消し、つまり事実上の追放を行う。

 今も昔も人間に不幸が絶えないように、宗教に救いを求める人は今後も途絶えることがないだろう。せめて、怪しげなカルトに騙されないようにしたい。

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2 コメント

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Unknown (神戸牛)
2006-09-30 12:05:00
エピクロスの言説は初めて知りましたが、コロンブスの卵のような感銘を受けるとともに死(の恐怖)からの救済と感じました。心の強さ弱さというより、人それぞれの信じられない概念、受け入れられる概念の違いではないでしょうか。
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救済 (mugi)
2006-10-01 23:16:08
>神戸牛さん

なるほど、死(の恐怖)からの救済と解釈されましたか。

私のような凡人にはいかに死が避けられないにせよ、簡単に受け入れられない概念ですね。
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