その①の続き
訪問団一行が最も行きたかった場所はホータンだったそうだ。ここは西域史の中でも「于闐」と呼ばれた仏教王国の地、あの玄奘三蔵も644年、于闐に滞在している。11世紀始め、テュルク系のカラハン朝による支配を受けイスラム化が進み、現代の住民はムスリムのため往時の面影は全くない。ムスリムの侵攻者たちにより仏僧院やブッダの彫像は破壊された。ただ、イスラム化したといえ、この町に住む女子供は色彩の鮮やかな服装であり、ベールをつけていない。絶えず風の吹き、細かい砂が飛んでくるこの町の娘達は頭に皆マフラーを巻いていたそうだ。
ホータンの住民は老若男女問わず、歌や踊りを好み、突然民家を訪ねても、その場で一画を歓迎場にして果物を出したり、楽器を持った大勢の人々が集まってきたという。そして、皆で楽器を奏し、もてなしの為よりも自分たちのため、歌ったり踊ったりして楽しんでいたらしい。
中国の史書には西域諸国の中でもホータン人だけが顔立ちが違うと言う記述があり、住民を写した写真だけで明らかにコーカソイドの血が濃い。混血したにせよ、元はイラン系民族だったと思われる。もしかすると、仏教王国于闐もシルクロードの他のオアシス都市のように、以前はゾロアスター教が信仰されていたのだろうか?イラン在住の日本女性のブログ記事に、この国のゾロアスター教徒の老女の画像も載っており、その派手なピンクの衣装に驚く。日本ならこんな格好をすれば、淫乱婆呼ばわりされかねないが、件のお婆さんは「ゾロアスター教は喜びを大切にするから黒は身につけない」そうな。イラン人ゾロアスター教徒も歌や踊りを好むと言われる。
他の訪問地トルファンもまた仏教が栄えたところであり、ここはかつての高昌王国、玄奘三蔵も高昌王の歓迎を受けて、天竺に旅立っていった。『西域をゆく』には「高昌古城」の看板写真も載っており、これも漢字で書かれ、田舎駅の標識のようにそっけないもの。仏教遺跡など仏教徒や欧米人の数寄者でもない限り、見るに値しない廃墟であろう。
玄奘三蔵の時代の高昌王国の王族や主な住民は漢族系だったが、イラン系もおり、ゾロアスター教も流行ったこともあったそうだ。現代のトルファンの住民の7割ちかくはウイグル族で、残りは漢族が多いとか。ここでも、司馬遼太郎らの見たウイグルの女達は顔をさらし、ベールをまとっていない。
トルファンの東方50㎞地点にベセクリク千仏窟があり、窟寺内壁画の写真も紹介されていたが、無残なことに窟洞は殆ど破壊され、見る影もない。この地に侵攻したムスリムだけでなく、後生の外国人考古学者が荒らしたこともある。四角に切り取られた壁画も多く、これはほぼ後者だろうが、『西域をゆく』には目をくり抜かれた仏画や塗りつぶされた人物画の写真が紹介されていた。こちらはムスリムの行為なのは確実だ。目を潰すのは、偶像の目に睨まれると地獄に行くと考えているからである。日本人からすれば文化財破壊以外の何者でもない蛮行だが、回教徒は文化財などと思ってもいないのだ。
トルファンのブドウ畑の下で、鮮やかな民族衣装を着て踊るウイグル娘たちの写真も載っている。司馬曰く、「固有トルコ人とアーリア人の混血で、美人が多い」そうで、それが誇張でないのは写真からも分かる。ただ、一様に民族衣装をまとっている所から、これは訪問団への歓迎だろう。
訪問先のイリは古代から諸遊牧民の抗争の地でもあり、漢族の支配はなかなか及ばなかったが、清朝の18世紀にやっとこの地を征服、1762年、所謂“伊犁将軍”を派遣、統治する。その後も不安定な支配が続き、現地人は中華帝国に反抗的だった。19世紀半ば以降は清朝の支配に対し、東トルキスタンのムスリムによる叛乱が続出、それに乗じロシアがこの地に侵攻、1871年、イリ地方を占領するイリ事件も起きている。露清間の紛争はその十年後、ロシアとの間でイリ条約が締結され、これは清朝有利に国境の画定がなされ、現代に至るイリの支配が確定した。
司馬はイリを訪問した感想を以下のように書いており、冷戦時代の中ソ対立の構図が浮かび上がる。
-新中国がこの町へ我々外国人を入れたのは、少数民族対策によほど自信を得た証拠であるとも思えるが、ともかくも些末な事件まで入れると、ソ連側の国境侵犯やスパイの潜入は絶えないという。新疆ウイグル自治区は全体に天嶮に囲まれているが、ただ一ヶ所、この地域だけがソ連に対して開口している。イリ川はソ連領に向かって流れており、その流域は平坦で、ソ連がその気になれば一時間で戦車師団がこの町に殺到することが出来る。中国はこの仮定の恐怖に対し、民兵訓練を強化することで対処しているが…
その③に続く
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訪問団一行が最も行きたかった場所はホータンだったそうだ。ここは西域史の中でも「于闐」と呼ばれた仏教王国の地、あの玄奘三蔵も644年、于闐に滞在している。11世紀始め、テュルク系のカラハン朝による支配を受けイスラム化が進み、現代の住民はムスリムのため往時の面影は全くない。ムスリムの侵攻者たちにより仏僧院やブッダの彫像は破壊された。ただ、イスラム化したといえ、この町に住む女子供は色彩の鮮やかな服装であり、ベールをつけていない。絶えず風の吹き、細かい砂が飛んでくるこの町の娘達は頭に皆マフラーを巻いていたそうだ。
ホータンの住民は老若男女問わず、歌や踊りを好み、突然民家を訪ねても、その場で一画を歓迎場にして果物を出したり、楽器を持った大勢の人々が集まってきたという。そして、皆で楽器を奏し、もてなしの為よりも自分たちのため、歌ったり踊ったりして楽しんでいたらしい。
中国の史書には西域諸国の中でもホータン人だけが顔立ちが違うと言う記述があり、住民を写した写真だけで明らかにコーカソイドの血が濃い。混血したにせよ、元はイラン系民族だったと思われる。もしかすると、仏教王国于闐もシルクロードの他のオアシス都市のように、以前はゾロアスター教が信仰されていたのだろうか?イラン在住の日本女性のブログ記事に、この国のゾロアスター教徒の老女の画像も載っており、その派手なピンクの衣装に驚く。日本ならこんな格好をすれば、淫乱婆呼ばわりされかねないが、件のお婆さんは「ゾロアスター教は喜びを大切にするから黒は身につけない」そうな。イラン人ゾロアスター教徒も歌や踊りを好むと言われる。
他の訪問地トルファンもまた仏教が栄えたところであり、ここはかつての高昌王国、玄奘三蔵も高昌王の歓迎を受けて、天竺に旅立っていった。『西域をゆく』には「高昌古城」の看板写真も載っており、これも漢字で書かれ、田舎駅の標識のようにそっけないもの。仏教遺跡など仏教徒や欧米人の数寄者でもない限り、見るに値しない廃墟であろう。
玄奘三蔵の時代の高昌王国の王族や主な住民は漢族系だったが、イラン系もおり、ゾロアスター教も流行ったこともあったそうだ。現代のトルファンの住民の7割ちかくはウイグル族で、残りは漢族が多いとか。ここでも、司馬遼太郎らの見たウイグルの女達は顔をさらし、ベールをまとっていない。
トルファンの東方50㎞地点にベセクリク千仏窟があり、窟寺内壁画の写真も紹介されていたが、無残なことに窟洞は殆ど破壊され、見る影もない。この地に侵攻したムスリムだけでなく、後生の外国人考古学者が荒らしたこともある。四角に切り取られた壁画も多く、これはほぼ後者だろうが、『西域をゆく』には目をくり抜かれた仏画や塗りつぶされた人物画の写真が紹介されていた。こちらはムスリムの行為なのは確実だ。目を潰すのは、偶像の目に睨まれると地獄に行くと考えているからである。日本人からすれば文化財破壊以外の何者でもない蛮行だが、回教徒は文化財などと思ってもいないのだ。
トルファンのブドウ畑の下で、鮮やかな民族衣装を着て踊るウイグル娘たちの写真も載っている。司馬曰く、「固有トルコ人とアーリア人の混血で、美人が多い」そうで、それが誇張でないのは写真からも分かる。ただ、一様に民族衣装をまとっている所から、これは訪問団への歓迎だろう。
訪問先のイリは古代から諸遊牧民の抗争の地でもあり、漢族の支配はなかなか及ばなかったが、清朝の18世紀にやっとこの地を征服、1762年、所謂“伊犁将軍”を派遣、統治する。その後も不安定な支配が続き、現地人は中華帝国に反抗的だった。19世紀半ば以降は清朝の支配に対し、東トルキスタンのムスリムによる叛乱が続出、それに乗じロシアがこの地に侵攻、1871年、イリ地方を占領するイリ事件も起きている。露清間の紛争はその十年後、ロシアとの間でイリ条約が締結され、これは清朝有利に国境の画定がなされ、現代に至るイリの支配が確定した。
司馬はイリを訪問した感想を以下のように書いており、冷戦時代の中ソ対立の構図が浮かび上がる。
-新中国がこの町へ我々外国人を入れたのは、少数民族対策によほど自信を得た証拠であるとも思えるが、ともかくも些末な事件まで入れると、ソ連側の国境侵犯やスパイの潜入は絶えないという。新疆ウイグル自治区は全体に天嶮に囲まれているが、ただ一ヶ所、この地域だけがソ連に対して開口している。イリ川はソ連領に向かって流れており、その流域は平坦で、ソ連がその気になれば一時間で戦車師団がこの町に殺到することが出来る。中国はこの仮定の恐怖に対し、民兵訓練を強化することで対処しているが…
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アーリア人とトルコ人との混血で、美人が多いという点に関しては、混血には美人が多いという、小生の感性と似ている。東欧に美人が多いのも、その混血のせいだと思う。ただし、混血しなかったから美しいという理論もある:コロンビアが美人国というのは、同国の支配階級の白人は、スペイン人の血を守り、混血しなかったから美しいと言われている。他方、小生のような東欧専門家は、ハンガリー人、ルーマニア人、ブルガリア人など、混血が多い国の女性に魅力を感じる!もっとも、ロシア、ベラルーシ、ポーランド女性の美しさは、やはり、「混血が少ないから、純粋の白人だから」と言われている!
さて、小生が注目したのは、司馬遼太郎が、民族衣装を「外国人歓迎のため」と見ていることに関して。確かに、作業着なら既に人民服もあったかも知れないが、当時の中国は未だに「世界の工場」と言うほどの生産力が無く、中央アジアに近い僻地の少数民族にも、工業製品である既製服を普及させるほどの、既製服の供給力が無く、現地の少数民族は、昔ながらの手製の民族衣装で日常生活をしていた可能性の方が高いのではないか?
小生の経験では、60年代末~70年代初頭、ブルガリア南部ロドーピ山岳地方のポマック(ブル語を話す、ムスリム)達の村では、成人も、子供も、皆が普段オスマン時代のトルコ人と同じ服装をしていた!!すなわち、安価な既製服が未だに少なく、地方の村々では、伝統的衣服が未だに使われていたのです。(70年代後半からは、都会と同じ普通の既製服、現代服が普及し、民族衣装は消えた。)
恐らく、中国の田舎でも、同じことが言えるのでは?NHKの少し昔の雲南取材番組などでも、民族衣装を普通に日常の中で着ているし、最近のように良質のジャンパーとか、ズボン、背広などが安価に供給され、しかも、少数民族にも貨幣経済が普及しないと、現代服には成らないということだと思う。テレビの普及で、現代ファッションに慣れないと、着ようとは思わないだろうし。
基本的に、民族衣装(オスマン時代の服装)を着ていたのは、女性で、男達は、現代服が多かったと思う。女性の場合、宗教(ムスリム)のせいか、皆頭に色とりどりの美しいスカーフをかぶっていた。
男性の服装は、現代化しやすいけど、女性の場合、ファッション性というか、美しく装うという視点からも、社会主義時代のダサイ新しい服装には、なかなかなじめなかったという側面もあろう。カラフルで美しい、昔からのファッションを捨てがたかったという理由も、伝統服が長く生き残っていた、ということかもしれない。男性中心のムスリム社会だから、男性達が、女性の服装の変化を嫌ったと言うことも考えられる。
しかし、基本的には、社会主義時代に、美しい女性用ファッションが登場しなかったこと、特に田舎には美しい新しい洋服などが普及しなかったことが、こういう伝統服への固執を生んだと思う。
70年代後半に、同じ村で現代服に替わって、村人の衣装、表情も一変したのには、小生が最近書いた、「同化政策」の影響もあると思うが、やはり田舎まで現代服、既製服のファッションが、テレビの普及と共に広まった、伝統からの脱却が行われた、ということだと思う。
美人の基準とは個人の感性や好み、時代によっても左右されますし、純血にちかくても、彫りが深すぎてキツイ顔立ちのアーリア系イラン美人よりトルコ美人の方が私は好みです。たぶんトルコには、元はアジア系という感傷的な思いもあるはず。
南米の美人国はコスタリカ、コロンビア、チリの3か国が有名で、これも混血度の低い白人系住民が多い国。南米でも私は混血の多い、ブラジル美人の方が好きですね。日本人も基本的には混血民族だし、中国はもっとすごいのではないでしょうか?“純血の漢民族”など、漢族でも考えないのでは?
民族衣装についての室長さんの御指摘には、ハッとさせられました。「外国人歓迎のため」と見たのは私ですが、仰るとおり当時の中国は未だ「世界の工場」に程遠い時代でした。たとえ僻地の少数民族にも人民服を供給できる生産力があったとしても、あの格好はダサすぎる。機能的でも男はさておき、女なら着たいとは思えないでしょう。日本女性も明治以降しばらくは着物姿でしたね。
それにしても、60年代末~70年代初頭に至っても、ブルの僻地の村ではオスマン時代のトルコ人と同じ服装をしていたのですか!共産圏と言えば一律に皆同じ服装のイメージがあったのに、モノをいうのは供給力だった。
インド女性も殆どはサリーですが、一部にせよ上層部にはスーツを着るバリバリのワーキングマザーもいます。日本の着物と同じくサリーは外国人に評判がよいし、男心にも受けるので、ブランドスーツを買える財力があっても、TPOに合わせてサリーをまとったりする。こちらも男優位社会なので、洋服は簡単に許されないのかも。
イランも革命前の上層部女性は西欧風のファッションが人気でした。ミニスカートは結構中東でも受けており、スカートから除く足を保守派は「地獄の炎の薪になる」と非難していたとか。男の身勝手が民族衣装を存続させた背景もあると思います。
もう少し小生の推理を加えてみると、ブルガリア共産党は、初期においては、もちろん自信満々で、短期間に重工業化を完成して、発展した社会主義国になり、生産力を急増させ、豊かになって、更に誰もが欲しいだけ物質を手に入れられる「共産主義:理想郷」を早く手に入れようと、そういう風に、まず工業化にばかり目がいっていて、少数民族問題などほったらかしで、故に、ロドーピ山中の谷間にあるポマック達のサルニーツァ村など、謂わば誰も関心を抱かずに、放置されていた。そこに、この村の辺にあるドスパット湖に釣りをしに我々日本人が勝手に出かけて、首都の人々とは違い、美しい民族衣装を普段から身につけているポマック(ブル語を話すムスリム、文化的にはオスマントルコ時代のまま)達を間近に見るという「奇跡」が起きたのだと思う。
もっとも、小生は、他の村でも、南部の山間部で、同じような衣装で働く人々を見たし、小生のブル語教師によれば、彼らもポマックだった。
彼らが70年代半ばを過ぎると、現代服に変化したのは、こういう僻地にまで徐々に社会主義教育が普及して、「同化政策」が強化されたこと、同じ頃僻地の田舎にまで電気と白黒テレビが普及したこと、など現代文明化がようやく、山村の僻地にまで及んで、人々が民族衣装を伝統行事以外に使わなくなっていったのだと思う。
電気とテレビの普及が、中国の農村などでも、人々の意識を、中世から近代、現代へと変えていった原動力ではないかと思う。
一般的に人類はアフリカ起源とされていますが、中国では北京原人が中国人の先祖の一つだと考えています。まだすべての人類がアフリカ起源と言い切れないそうですが、中国が固執するのは別の理由があるのでは?と思えます。
以前中国のネット小説を見ていたら、日本人があの国を侵略する意図で「日本人の祖先は北京原人」と発表する場面があり、苦笑するしかありませんでした。日本人には思いつかない発想です(笑)。
共産主義の本家ソ連も、まず工業化を優先させましたね。ソ連の少数民族問題への対処はブルとは違うでしょうけど、ブルでの「同化政策」の遅れが少数民族の伝統を温存することになったのでしょうか。もし、室長さんが70年代半ば以降のドスパット湖に釣りに出かけられたならば、民族衣装ではなく現代服を着ていたポマックたちを見かけたかも。
「同化政策」の果てが、ポマックへのトルコ語禁止や“創氏改名”ですね。社会主義時代のブルに比べると、戦前の日本など手ぬるいとしか言いようがない。
途上国でも電気とテレビの普及が社会に及ぼす影響は、相当なものがあるのでしょう。中国の漢族の農村はともかく、少数民族側の変化が気がかりです。中共政府が盛んにネット規制をしているのも、反体制主義への恐怖もあると思います。それへのガス抜きのため、反日を煽っているのではないでしょうか?
確かに北京原人がいましたね。ひょっとすると、人類の起源は中国と言い出しかねません。世界に冠たる中華という訳ですか。毛沢東は欧米人などは未だ猿から人への進化の過程にあると誹っていたとか。
「日本人の祖先は北京原人」には、私も吹きました。日本人は徐副の子孫と半ば本気で信じているかもしれませんが。
えーと、少し誤解なされているようです。1回目のコメント、その続でも、小生は自分自身で、70年代後半に再び同じサルニツァ村に行ってみたら、女性の民族衣装も消えて、普通の現代服になっていたことを確認して、書いています。小生の書き方が、曖昧だったでしょうか。ポマック達の衣装が、70年代初頭までは民族衣装、70年代後半は現代服になったと目撃し、確認したのは、小生自身なのですが。
60年代に釣りに出かけたときは、他の日本人と一緒に釣りに行ったのですが、その後70年代には、自分の車で行きました。サルニツァ村は、ドスパット湖畔にある代表的なポマック村落の一つです。
また、ポマック達は、普段の生活でトルコ語は使っていないというのが小生の知識です。トルコ語を話しているなら純粋のトルコ系となって、ブル語を話すポマックではない。
まあ、オスマン時代末期には、ブル人でもトルコ語をしゃべれるのが普通だったから、多言語の場合は多いし、ムスリムですから、ポマックもある程度のトルコ語は知っていると思うけど、日常語はブル語だといわれています。改名運動は、もちろんポマックにも強制されたし、現地研究した人によれば、80年代末には苦しい時期もあったらしい。
しかし、彼らは基本的には、受動的で、抗議活動とかしなかったし、トルコ系でもないから、トルコに移住もしなかった。
最近はインターネットで中東のムスリム社会とも交信して、湾岸諸国から資金援助を得て、アラビア語を学びつつ、コーランを勉強したりもしている、とブルの新聞で読みました。
ともかく、小生が言いたいことは、電気とテレビが伝統社会を破壊し、タイムスリップしたようなオスマン時代の服装があったのに、数年後には、夢のように消えていた、ということ。
どうも勘違いしてコメントしたようで、失礼致しました。ポマックの服装に関しては70年代後半は現代服に変わったと思え、「70年代半ば以降のドスパット湖に釣りに出かけられたならば、民族衣装ではなく現代服を着ていたポマックたちを見かけたかも…」と先にコメントしました。
オスマン時代末期のブル人でも、トルコ語をしゃべれるのが普通だったのですか!そのような多言語社会は日本人の想像を超えます。改名を強要され、トルコに亡命した重量挙げ選手スレイマノグルがいたのを憶えていますが、こちらはポマックではなくトルコ系ですよね?トルコ系とポマックを同じに見ていたようで、これはとんだ誤解でした。
ポマックで検索したら、「ポマク」の名称でwikiにも載っていました。ムスリムでも、ブルのトルコ系住民やその他のムスリムと交じり合わないそうですね。ブルのムスリムも一枚岩ではなかったようで、改めて複雑な民族問題が伺えました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%9E%E3%82%AF
バルカン半島における民族は、各盆地などの狭い地域において、孤立して生活してきた長い歴史があるので、ブルガリアのスモリャン県、パザルジック県南部、ブラゴーエフグラット県東南部の山岳地帯にほぼ限定して暮らしているポマック達は、これまで宗教、生活慣習などで近しいトルコ系とも、居住地が離れていて、あまり交流はないようです。
最近は、同じ宗教と言うことで、ポマックがトルコ系と結婚する場合もあると、新聞で読みましたが、恐らく少ないのでしょう。
ともかく、60年代末(1回目)と70年代初頭(2回目)に、小生が行ったとき、サルニツァ村では、女性がカラフルな民族衣装で、オスマン時代そのままの風俗で、度肝を抜かれました。70年代後半にもう一度(3回目)行ってみたら、昔より人口も減り、村が寂れていて、現代服ばかり。多くの村人が、都会に出て働くようになったからでしょう。
貴兄のおかげで今回、wikiの記述で、トルコ領内にもポマックがいると知り、不思議な気持ちですが、オスマン時代には、一つの国境無しの領域ですから、現代のトルコ領地域にも移住したのでしょうし、ギリシャ領には現在も残っている。
バルカン半島では、オスマン時代本当に、多言語社会でしたから、ブル人の多くが、トルコ語、ルーマニア語、ギリシャ語などを話せたようです。特に商人達は、商用語がギリシャ語で、商売のために帳簿とか、或いは手紙での連絡には、ギリシャ語を使っていて、故に、セルビア人、ブル人の商人達も、ロシア、東欧、西欧では、ギリシャ人として扱われていたのです(ブル人の商館もセルビア人の商館も「ギリシャ商館」と呼ばれた)。もちろんこれは、オスマン帝国での人種の分類が、キリスト教徒=ギリシャ正教徒=ギリシャ人ということで、セルビア人も、ブルガリア人も、アルバニア人も、キリスト教徒として区別無しだったし、正教の教会での言語も、普通は、ギリシャ人僧侶のいる教会では、ギリシャ語で説教とか典礼が行われたのです。アルメニア教会は、別の分類ですが。
オスマン帝国時代末期、ブル人商人は、イスタンブール、小アジア、北アフリカなど各地に支店を構えて、特産の絨毯、バラ油などを売りまくっていたので、独立後商圏が狭まり、バルカン山脈中の盆地にあった本拠地(本店)の所在小都市は、昔より貧乏となり、人口も激減しました。
オスマン軍に軍服、ナイフ、ベルトなどを供給していたブルの軍需関連企業も倒産しました。手工業時代の、繁栄していた企業の多くが独立後には倒産したというのも、バルカンの民族主義の不思議な結末でした。
もちろん、その後、西欧の産業革命の余波で、若干の軽工業が起こるのですが、それでもバルカン半島は第二次大戦までに、大きく工業化されることはありませんでした。